4. 知性の回転
聖フィロソフィー学園の教師達は、基本的に放任主義である。この学園の自習時間の多さが、それを物語っている。どのクラスも、日にまともな授業がある時間は一時間あるかないかであり、生徒達は学園にいるほとんどの時間を、自習に費やす。それも教室に留まらずに、中庭や図書室など、自由に好きな場所で、勝手に勉強している。
そんな学園の教師だから、生徒達が何か問題を起こしても、基本的に放置する。生徒達が自ら考え、行動することで、己の哲学を育て上げていく――それが教育方針だからだ。
とは言え、さすがに「学園中に『Who Done It?』とスタンプされる」という珍事に対しては、一部の教師が行動を起こした。
「でも、全員ではないところは、さすがですね」
と、西田教諭がアナクサゴラス教諭に言った。
「そうだな」
カウボーイハットを被り、カウボーイのような格好をしたアナクサゴラスが、モップを新体操のクラブ(棒)のようにグルグル回転させながら答えた。ちなみにカウボーイのような格好であるが、アナクサゴラスは女性である。強いカウガールのように、頼りがいのあるアネゴの空気を発している。
一方の西田は、和服姿だった。手には、モップではなく雑巾を持っている。頭に大きなリボンを着け、雑巾を手にしたその姿は、大正時代のお屋敷に住み込みで働く、若いお手伝いさんのようだった。たすきで袖を捲り上げた姿が、非常に様になっている。
昇降口の前に置いたバケツに、西田は雑巾を入れた。ちゃぷちゃぷと水音を立て、雑巾を濡らす。
「掃除は用務員がやりますから、私達がやる必要はないという意見も、納得はできますが……」
「ま、どうせあたしは暇だからな」
びゅんびゅんと風切り音を立てながら、アナクサゴラスがモップを振り回す。その横で、西田は雑巾を絞った。
「それじゃあアナクサゴラス先生は、廊下を頼みます。私はここを拭きますから」
と、西田は目の前のガラス戸を指差した。「Who Done It?」のスタンプは、既にところどころ擦れている。イエス以外にも、誰かが触ったのだろう。
「水で落ちればいいけどな」
モップでバケツの水をばしゃばしゃ言わせながら、アナクサゴラスが言った。
「落ちると思いますよ。――ほら」
試しにひと拭き。雑巾が通った場所のスタンプは、簡単に滲んだ。二、三往復もすれば、跡形もなく消えた。
「水性インクですね。良かった」
「ふぅん」
アナクサゴラスはモップを持ち上げて、ヘッドの布を手で絞った。
「ところで、これはなんて書いてあるんだ?」
「え?」
西田は戸を拭いていた手を止め、アナクサゴラスを振り返った。アナクサゴラスは慌てて両手とモップを振り、
「いや、『Who』も『done』も『it』も知ってるぞ? だが、『Who done it』というのは……文法的に正しいのか?」
「正しくは、『Who has done it』ですね」西田は再び戸を拭き始めた。「でも慣習的に、『has』を略しているんです。直訳すると『誰がそれをやったのか?』となります」
「誰がそれをやったのか……つまり、『犯人は誰か?』ってことだな?」
「ええ」
「先生方は、どう見ますか?」
「そうだな……って、おぉうっ!?」
第三者が突然現れ、アナクサゴラスはモップを取り落とした。がしゃん、と思いのほか大きな音がした。
西田も驚き、振り返る。背後には、意味不明な数式や化学式がプリントされた服を着て、金髪をハーフアップにした少女が立っていた。
「お前、ソーカルだっけ?」
「はい。現代組のソーカルです、アナクサゴラス先生」
にこりと笑って、ソーカルはお辞儀した。
「で、犯人は誰でしょう? どうしてこんなことをしたんでしょう?」
「はん」アナクサゴラスはモップを拾い上げ、鼻で笑った。「意味なんてないんじゃないのか?」
「そうでしょうか? 犯人は学園中にスタンプを押し歩いたのですよ? 意図もなくするはずありません」
「いや、どうかな。押し歩いたとは限らない」
「と、言いますと?」
そこでアナクサゴラスは、ぶんぶんとモップを回した。水しぶきが辺りに飛び散る。
「アナクサゴラス先生、止めてください」
と西田が腕で顔を覆った。しかしアナクサゴラスは止める様子なく、モップを回したままソーカルに言った。
「いいか、全ては知性の与えた回転運動で説明がつく」
「ふむふむ」
とソーカルは頷いた。にこやかな笑みを浮かべる。
「つまり犯人は、歯車を使ったんだ。歯車の歯に、『Who Done It?』と彫り、そこにインクをつけて、転がした。こうすれば、歯車が勝手にスタンプを押してくれる」
「なるほど、つまり回転のエネルギーが虚数時間でゲージ変換可能だから、光速の因子でインフレーションを起こしたんですね」
「うん?」アナクサゴラスはモップの回転を止めた。「うん、まあ、そんな感じかもしれない」
「それは変です」
異を唱えたのは、西田だった。
「どこが変なんだ?」
「もし歯車を転がしたのなら、壁にまでスタンプが押されているのはおかしいです。机の上や階段なら、わかりますが」
あ、そっか。アナクサゴラスはあっさりと、自分の間違いを認めた。
「すまんな、ソーカル。あたしにゃわからん!」
「そうですか」ソーカルは、にこにこと笑みを絶やさなかった。「それじゃ、西田先生は?」
「私は、そうですね……」
西田は、考え始めた。
左手を右ひじにあてがい、右手をあごに当てる。俯き加減で、目を閉じた。
「学園中にスタンプを押した人物は誰か、何故押したのか、その答えは……」
西田は、考え始めた。
「まずい!」
アナクサゴラスが慌てた。
西田は、一度思索を始めると、周りが一切見えなくなる。
それだけではない。周りの物をことごとく薙ぎ倒しながら、歩き続ける。
彼女が歩いた後には何も残らず、彼女が通った道は「哲学の道」と呼ばれる。
「ソーカル、余計なことを言うな!」アナクサゴラスは、持っていたモップをソーカルに押し付けた。「あたしは放送室行って来る! お前は掃除をするか、そのモップを用具室に戻しておいてくれ!」
西田が歩き出した。アナクサゴラスが走り出した。
取り残されたソーカルは、一人にこにこ笑っていた。




