2. パラダイムシフト
始業時間を過ぎる頃には、学園に突如現れたスタンプは、ほとんど全ての生徒、教員の知るところとなった。正門にも昇降口にも階段にも廊下にも、それどころか各組の教室の入り口や床や壁にもスタンプが押されまくっているのだから、知って当然である。知らないのは遅刻者と欠席者のみだ。
いや、遅刻者の中にも、事態を知っている人間がいるくらいである。
遅刻常習犯のデカルトにしては、今日の登校は早かった。なんと、始業時間には目を覚ましたのだ!
朝食を食べ、家を飛び出し、電車に乗る。学園の最寄り駅に着いた頃に、同じ図書委員であるフィルから、メールが届いた。
『学園中に、変なスタンプが押されてる!』
「変なスタンプ?」
メールを見ながら、デカルトは早足で歩いた。ひらひら揺れるミニスカートに、風に動じない分厚いコート。ツインテールをなびかせ、桃色のマフラーの中で鼻をすすりながら、デカルトはメールに返信する。
『おはよう。変なスタンプって、どんなスタンプ?』
しかしフィルからの返信が届く前に、デカルトは学園に着いた。正門に近付いたところで、思わず足を止める。
「……Who Done It?(フーダニット?)」
ミステリが好きなデカルトは、そのフレーズに馴染みがあった。ミステリの最も基本となる要素。『犯人は誰か?』
ブー、ブー、とケータイが震える。開くと、フィルからのメールを受信していた。
『Who Done It?って書いてある。デカルト、こういうの好きじゃないか?』
確かにミステリは好きだけど……。
返信する気になれず、デカルトはそのままケータイを閉じた。学園に入り、第一校舎を目指す。
「うわ、なにこれ」
第一校舎の昇降口を見て、思わずデカルトは呟いた。これが、フィルの言っていた変なスタンプか。
校舎に入ると、ホールで立ち話している二人の生徒がいた。デカルトの知らない生徒だ。
一人は、妙な数式や化学式らしきものがプリントされたワンピースを着た少女である。にこにこと微笑む顔は、とても愛想が良かった。ハーフアップにした金髪が、活発な印象を与えている。
「クーンちゃんはこの事態、どう見る?」
数式プリントの少女が、もう一人の少女に尋ねる。だぼだぼの白いワイシャツに、足まで届く長い髪をした少女だ。クーンと呼ばれた彼女は、口の端を少し上げて笑った。
「簡単だよ、ソーカルちゃん。これはパラダイムシフトさ。科学の歴史は、決して連続的じゃない……あるとき突然、ほんの些細なきっかけで、飛躍的に進歩する。哲学だって同じさ」
やれやれ、とクーンは肩をすくめて見せた。
「全く新しく生まれ変わった校舎で、私達は全く新しい哲学を得るのさ」
どこが「全く新しく」なのだろう、とデカルトは思った。単に赤いスタンプが押されただけではないか。
「犯人はおそらく校長。私達の哲学を一新しようとしたんだね」
「なるほど」とソーカルと呼ばれた少女がしたり顔で頷いた。「エントロピーが指数関数的にサインカーブを描いてシータが二十ケルビンになったわけだね」
「そうさ」
あの数式プリントの人は、いまなんて言ったんだろう。デカルトは若干顔を引きつらせた。どうやったら二人にバレずに、階段まで行けるだろうか。
しかしデカルトの考察は、一瞬にして無駄に終わった。数式プリントの少女ソーカルが、こちらを見たのだ。
「あなたはどう見る? 一人でスタンプを押して回った犯人の意図は、何だと思う?」
「え、えーっと……」
だぼだぼの白いワイシャツ少女クーンも、こちらを見ていた。逃げたい、とデカルトは思った。
「わ、わたし、いま登校したばかりだから、なんとも……」
「なら、急いで教室に行った方が良いよ」とクーン。「学園中に押してあるから。たぶん、あなたの机とかにも」
「昇降口だけじゃないの?」
「だけじゃないさ」クーンは肩をすくめた。「そこら中に押してあるよ」
確かに、フィルからのメールにも書いてあった。「学園中に」と。
「わかった、ありがとう」
デカルトは二人の横を通り過ぎ、階段を上り始めた。
「あ、ちょっと待って」
ソーカルがデカルトを呼び止めた。なに、と振り向く。
「あなた、クラスと名前は?」
「え? 近代組のデカルト、だけど」
「ああ、あなたがあの有名な」ソーカルは人当たりの良い笑みを浮かべた。「我思う、故に我あり、だっけ?」
デカルトは目を丸くした。
「どうして知ってるの?」
「有名だから。ね?」
ソーカルはクーンに同意を求めたが、クーンは「さぁ?」と肩をすくめただけだった。
「ちなみに、あたしは現代組のソーカル。こっちは同じクラスのクーン。よろしく」
「え? う、うん……」
よくわからなかったが、友達認定されたらしい。デカルトも「よろしく」と頭を下げると、二階の教室へ向かった。
階段を上ると、確かに至るところにスタンプがあることに気付いた。階段にも押されていたし、二階の廊下にも、近代組の教室の入り口にも押されている。
教室に入ると、中には生徒が三人しかいなかった。ガラガラの教室は、聖フィロソフィー学園のいつもの光景だ。全員の机の上に、スタンプが押されていることを除けば、であるが。
教室内の同級生達は、教卓の前に集まって議論していた。
「おはよう、デカルト」
デカルトの入室に最初に気付いたカントが、無表情に言った。赤いフレームに、薄く赤が着色された色眼鏡をかけている。長袖のシャツにハーフパンツ、黒のタイツという格好。腰のベルトから、ストップウォッチと懐中時計をぶら下げていた。
「おはよう、カントちゃん」と言ってから、デカルトは他の二人も見た。「それに、ライプニッツちゃんと、スピノザちゃん」
「おはよう~」
茶髪を三つ編みにしたライプニッツが、こちらに歩いてくる。が、足元の教壇に気付かなかったらしい。足を引っ掛け、思い切り顔面から倒れた。
「だ、大丈夫!?」
デカルトがすかさず駆け寄って、ライプニッツの手を取った。
「いたた……うん、大丈夫、ありがとう」
ライプニッツは顔をさすっている。鼻血が出ていた。デカルトはカバンからティッシュを取り出して、ライプニッツの鼻に当てる。
その様子を、カントとスピノザは、ほとんど無表情で眺めていた。別に、二人が冷たいわけではない。ライプニッツは日に何度も転ぶので、最近は助ける人が減ってきたのだ。
「相変わらず、おっちょこちょいね」
お嬢様然としたスピノザが、自分の眼鏡を外してレンズを拭き始めた。胸元の緑のリボンが、お嬢様のように見える原因だろうか。あるいは、その達観した鋭い目か。
「ねぇ、みんな」ライプニッツを助け起こすと、デカルトが三人に尋ねた。「フーダニットってスタンプが、学園中に押されてるって話、本当?」
「そうみたい」
ありがとう、デカルトちゃん、と一言付けてから、ライプニッツが答えた。そのあとに、スピノザが続ける。
「少し見てきたけど、第二校舎や食堂館にも押してある」
「第四校舎は?」
三人とも顔を見合わせたが、知らないらしい。
「あるって噂は耳にしたわ」とカント。「さっき中庭を通ったとき、誰かが言ってたわね。……そうそう、中庭にもスタンプがあったわよ」
その返事に、デカルトは不安になった。デカルトは第四校舎と縁が深い。第四校舎の三階には図書室があり、デカルトは図書委員なのだ。それも、図書委員長補佐という、特殊な役割についている。ちなみに、さっきメールをくれたフィルも、図書委員長補佐である。
「わたし、ちょっと第四校舎行って来る!」
デカルトは踵を返すと、ケータイを取り出してフィルに返信した。
『いまから図書準備室に行く。フィル君も来て!』




