優しい手のひら
聖フィロソフィー学園、第四校舎、一階、生徒会室。……の、隣室。
窓がなく、また廊下からの出入りが出来ず、生徒会室からのみ出入りできる倉庫のような部屋(事実、本来倉庫である)で、一人の少女が呻き声を上げていた。
「ううぅ~……」
座卓につみあがる何百ページにも及ぶ論文を前に、鳩摩羅什は頭を抱えて呻いていた。鳩摩羅什は、聖フィロソフィー学園の生徒としては珍しく、学園指定の制服であるブレザーを着ていた。ただし、その上に袈裟を羽織っている。靴も足袋であった。髪は二本の緩いお下げにしているが、本人の精神状態を表すかのように、今は形が崩れていた。
長時間の正座で足はそろそろ感覚がない。だがそれよりも、目の疲労の方がきつかった。
「うがぁっ!」
頭を掻き毟り、座卓の横の栄養ドリンクを乱暴に掴み取る。蓋を開けると、一気に中身を飲み干した。
鳩摩羅什は、学園生徒会の書記を務めている。だが、書記本来の仕事(会議中に議事内容を書き取る、など)に従事することは少なく、もっぱら、いま取り組んでいる「翻訳」の仕事ばかりしていた。
座卓につみあがる論文は、生徒からの意見書であった。学園のここをこうして欲しい、という要望である。たった一言で済むはずのことを、聖フィロソフィー学園の生徒達は何を考えているのか、何百ページもの論文にするのである。とてもではないが、それを生徒会の面々がそのまま読むには、時間も労力もかかり過ぎる。そこで、「翻訳の天才」の異名を持つ鳩摩羅什が、これらの意見書を短くまとめる役を受け持っているのだ。
だが。
「以上のような理由でわたしはわたしがこうあるべきだと考える方法と学園が現時点で運行している仕組みとが一致していないと考える訳であり、その点に於ける改革改良及び改善を貴団体に求める次第であり即ち以下の要望を叶えて頂きたくこの意見書を作成するに至ったのである……」
目の下にクマを作りながら、鳩摩羅什は論文を読んでいた。どの論文も、全部が全部、徹頭徹尾、この調子である。しかも長々と読み進めた結果、
「食堂の料理が不味い」
という意味だったりするのだ。
「にゃああああぁぁぁっ!!!」
二本のお下げを振り乱しながら、鳩摩羅什は頭を掻き毟った。
「んじゃ自分で作って持って来いやああああぁぁぁぁっ!!」
鳩摩羅什は再び栄養ドリンクを一気飲みすると、次の意見書に取り掛かった。
「……ん?」
手に取った瞬間、「軽い」と感じた。次の意見書は、三十ページ程度しかなかった。しかも、普段の意見書は単にクリップで留めてあるだけなのに、これは文芸部が発行するような小冊子になっていた。
表紙には、「夢の胡蝶 作・荘子」と書いてあった。
「荘子ちゃん?」
鳩摩羅什と荘子は、同じ東洋組の生徒だ。ちなみに聖フィロソフィー学園には学年の概念がなく、またクラスも五つしか存在しない。各クラスにはそれぞれ、古代、中世、近代、現代、東洋と名前がついている。
ページを開き、読んでみる。パッと見て、鳩摩羅什はこれが意見書ではないことを悟った。
この小冊子は、小説であった。
何故小説が意見箱の中に? と疑問に思いながらも、鳩摩羅什はついつい、小説を読み始めてしまった。決して文学少女ではないが、職業病なのか、文章を見ると読まずにはいられないのだ。
読み進めてみると、恋愛小説であることがわかった。ただし、普通の恋愛小説とは一線を画していた。ストーリーではなく、その文章が、である。例えば、こんな具合だ。
「猛の大地を沈めんばかりに巨大な獅子の目のような猛々しい瞳を見た瞬間、じゅん子の胸は何千里もある魚に押しつぶされたように絹糸すら吹き飛ばせぬほどの浅い呼吸しか出来なくなった。古来より魑魅魍魎とされる空が暗くなるほど大きな鳥に、じゅん子の作りたての和紙の如く綿とも紙ともつかぬ心が支配されたのだ」
要するに一目惚れしたのだな、と鳩摩羅什はすんなり理解した。普段から難解な意見書を読み込んでいるため、この程度の文章は簡単に読解できたのである。
荘子の『夢の胡蝶』には、全編に渡って奇天烈な比喩が列挙されていた。小説を書きたかったのか、自分の考えた比喩を書きたかったのか、どちらが主目的なのかわからなくなるほどであったが、鳩摩羅什は淀みなく読み進めることが出来た。
そして物語のクライマックス、猛とじゅん子が数多の障害を乗り越えついに結ばれるハッピーエンドでは、不覚にも感動してしまった。
クラスメートの荘子はいつも露出の多い服を着ていて、風紀委員から目をつけられている生徒だ。下着のような肩出しワンピースを着て、その上に透き通った着物を羽織っている。顔も美人で胸も大きく、男子の注目をいつも浴びている少女だ。
その荘子が! マイペースで授業にも出ず、どこかパンクでアウトローな感じのするあの荘子が! こんなにも良い話を書いていただなんて!
明日会ったら、絶対絶対、褒めちぎろう!!
「仕事してるかしら?」
「ひゃうっ!?」
背後からの声に鳩摩羅什は飛び上がりそうになり、しかし足が痺れていたため飛び上がれず、そのまま真後ろに転倒した。
生徒会室から入ってきたのは、生徒会長の釈迦だった。内向きにカールした肩までのセミロング。髪の量が人より多いが、それをカチューシャでまとめている。ワンピースの法衣に包まれた身体は、とても細く痩せていることがわかる。人好きのする朗らかな表情と細い目が、彼女の人望を集めていた。
「何を読んでいたの、プーちゃん?」
優しく目を細めたまま、釈迦が鳩摩羅什の顔を覗き込んできた。
ちなみに「プーちゃん」というのは、生徒会メンバー内での鳩摩羅什のあだ名だ。鳩摩羅什、くまらじゅう、くま、くまの○ーさん、という連想である。鳩摩羅什は最初「可愛くないよぅ!」と反発したのだが、釈迦が「あら、とても可愛らしい名前じゃない」と微笑むと、あっさり篭絡された。
「すみません、会長。これです」
と鳩摩羅什は荘子の『夢の胡蝶』を差し出した。釈迦は特に驚いた様子もなく、それを受け取った。
「あら、荘子ちゃんの小説? 意見書に入っていたの?」
「はい。紛れ込んだのか、何かの意見なのか、わかりませんけど」
釈迦は細い目のまま、パラパラとページをめくった。
「まあ、恋愛小説なのね。プーちゃんも、恋愛に興味があったのねぇ」
「そ、そりゃあ……」鳩摩羅什は、両手で二本のお下げを引っ張った。「私だって、れ、恋愛のひとつくらい、したいですよぅ……」
その台詞に、ピク、と釈迦は眉を動かした。
「あらぁ? それはもしかして、プーちゃんにも意中の殿方がいるということかしら?」
「べ、別にそういうわけじゃ」
鳩摩羅什は顔を伏せ、両のお下げをくいくい引っ張った。口の中で、もにょもにょと何事か呟く。その可愛らしい仕草を、釈迦は目を細めたまま見つめていた。
釈迦も鳩摩羅什も、同じ東洋組で、同じ生徒会役員だ。自然、学園で一緒に過ごす時間も多くなる。だから釈迦は当然、気付いていた。鳩摩羅什はいま、同じクラスの姚興に恋している。
……もっとも、鳩摩羅什自身、まだそのことに気付いていないようだが。
「ひとつ、良いことを教えてあげましょう」
釈迦は観音菩薩のように微笑んで言った。
「明日、学園できび団子を配り歩く浦島太郎を見つけなさい」
「浦島? 桃太郎じゃなくて、ですか?」
「ええ、浦島。きっと貴女は、この小説に出てくるような恋心を、彼に抱くでしょう。そして彼も、貴女に恋をするでしょう」
「ホントですかぁ?」
「もちろん。会えば、わかります」
またお下げを引っ張りながら、鳩摩羅什は「ホントかなぁ?」と呟いた。釈迦はそれ以上何も言わず、荘子の『夢の胡蝶』を座卓に置くと、生徒会室へ引っ込んだ。
釈迦が戻った後、鳩摩羅什は続きの作業に取り掛かった。次で最後の意見書だ。三百ページは超そうかという論文を持ち上げたところで、あれ、と気付いた。
どうして会長は、パラパラと見ただけで、『夢の胡蝶』が恋愛小説だとわかったのだろう?
生徒会室で、釈迦は窓の前に立った。そこから、夕方の学園を見やる。第四校舎の目の前には並木に囲まれた遊歩道があり、そのすぐ向こうに第二校舎がある。校庭や第二校舎の音楽室から、かすかに運動部の掛け声や吹奏楽部の楽器の音が聞こえてくるが、目の前の遊歩道に人の気配はない。今日は、生徒会メンバーも、釈迦と鳩摩羅什しかいないので、いま釈迦の周りには誰もいないことになる。
そのとき、釈迦はカッと目を開いた。
聖フィロソフィー学園には、「釈迦が目を開いたとき、学園で何かが起こる」という噂が流れている。もちろんこれは、全くのデタラメだ。釈迦の目に、そんな超常現象を引き起こす能力はない。
しかし。
このときばかりは、この噂は真実であった。
起こるのだ。明日。この学園で。
「なんだか、疲れたわねぇ」
ひとりごちて、釈迦は自分の席に座った。蓮の形をした特注品で、座るときは上に胡坐をかいて座る。座禅を組んで深く呼吸をした後、釈迦は生徒会室の天井を見上げた。
そして、長かった今日の戦いを、思い出した。
* * *
始まりは、昼休みだった。
釈迦はいつも、昼食を生徒会室で食べる。昼休み中にも、生徒会の仕事を進めるためだ。乳粥で満たされた弁当箱を持ち、第四校舎へ向かう途中で、釈迦は背後から呼び止められた。
「なあ、釈迦ちゃん」
その声には聞き覚えがあった。同じクラスの荘子だ。
振り返ると、二頭の蝶が舞っていた。
何故冬に蝶が、とか、何故頭の上に蝶が、とか、釈迦は一切疑問に思わなかった。この程度で驚いていては、この聖フィロソフィー学園で生き延びることはできない。
蝶をはべらせていたのは、体に薄い布をまとった少女、荘子だった。釈迦は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、問う。
「何かしら?」
「ひとつ、相談したいことがあってさ」
美人なのに、男っぽい粗雑な口調で話す荘子は、そのギャップが男子に受けているようだ。本人もそれに気付いており、狙ってやっている感がある。男の子って馬鹿ねぇ、と釈迦は常々思っている。
「相談? ええ、良いわ。どこか、二人になれる場所に行きましょうか?」
釈迦の提案に、「いや、ここで良い」と荘子は首を振った。とは言え、道のど真ん中で話すわけにもいかないので、釈迦と荘子は遊歩道の横にある並木の根元に移動した。
「それで、何かしら?」
「実はあたし、その……」
しばし言いよどんだ荘子は、背中に隠していた一冊の冊子を取り出した。その表紙には、「夢の胡蝶 作・荘子」と書いてある。釈迦の方に突き出したので、黙って受け取り、パラパラとページをめくった。漢字が多用された文章が書かれている。
「これは?」
「その、見ての通り、小説」
見てもわからない、と釈迦は思った。
「あたし、恋愛小説を書くのが趣味なんだけどさ……」
恥ずかしいのか、荘子は顔を少し赤らめ、俯きながらぼそぼそと喋った。頭の上を舞っていた蝶が、荘子の髪に止まった。口吻で荘子の髪を突く様が、荘子を励ましているようにも見える。
「どうも、受けないんだよね、あたしの小説。……なんでだと思う?」
そりゃこの難解な文章のせいでは、と釈迦は言いかけて、口をつぐんだ。
釈迦は常日頃、小難しい理屈をこねるのが好きな生徒達を見ている。しかし、釈迦はいつも、思っている。
世の中は、理屈ではない。
実際に経験して初めて、知識を得ることが出来るのだ。
だから釈迦は、相談を受けてもストレートに回答を告げない。何かをやらせ、そして悟らせる。
「そうですね、ではこうしなさい」
釈迦は慈悲深い表情を作って言った。
「この小説を、生徒会室の意見箱に投函しなさい」
「え? でも、生徒会長は釈迦ちゃんだよな?」
釈迦は黙って頷いた。
「投函も何も、いま……」
「そうしなさい」
有無を言わさず、釈迦は跳ね除けた。荘子は戸惑いながらも「わ、わかった」と答えた。
「相談はそれだけかしら?」
「あ、いや、もうひとつあるんだ」
多いな、と釈迦は思った。
「あたし、表現力はあるんだけど、描写力がなくってさ」
どう違うのか、釈迦にはわからなかったが、口を挟まなかった。
「特に、人の顔の描写が苦手で……なんか良い方法、ねえかな?」
そもそも釈迦は、小説なんて書いたことがない。人気者なので、小説の登場人物になったことはあるが。巨大化した釈迦が、猿を手のひらに載せる話だ。
だが、釈迦は考えた。せっかく相談に来てくれたのだし、何かアドバイスをしてあげたい。
〔よくわからないけど、上手くなるには練習するしかないわけで……それなら、たくさん顔を描写するしかないんじゃないかしら?〕
良い案が思いついた。釈迦は慈愛に満ちた表情で言った。
「では、百の顔を持つ人を探して、顔を分けてもらいなさい」
「え? どういう意味?」
荘子は聞き返したが、私はただ微笑み、「いずれわかります」とだけ答えた。
「相談はそれだけかしら?」
「ああ。でも……いや」荘子は首を振った。おそらく「百の顔を持つ人」がどういう人か聞きたかったのだろうが、空気を読んだ。「これから食事だろ? 悪かったな、邪魔して」
いいえ、いつでも相談を受け付けますわ、と釈迦は微笑んで、その場を後にした。
釈迦が誰かから相談を受けるのは、日常茶飯事だった。人好きのする細い目と朗らかな表情、そしてどんな相談でも嫌な顔せず乗ってくれる性格が、その原因だ。
聖フィロソフィー学園に入学してからも、相談を受ける日常は続いた。そしていつしか、「釈迦に悩みを相談したら、綺麗に解決した!」との噂が流れ始め、釈迦が生徒会長になると同時に、「生徒会の仕事として、生徒の相談を受け付けて欲しい」との意見が(何百ページもの論文になって)いくつも寄せられた。
生徒の意見は基本的に取り入れることにしている生徒会では、早速その意見も取り入れた。
かくして、月に数回、釈迦が生徒からの悩みを聞く場が設けられた。場所は、生徒会室の隣室(鳩摩羅什のいる倉庫とは反対隣)の小部屋だ。細長いその部屋で、釈迦と相談者が二人きりで会話することが出来る。
今日は、その相談会の日だった。相談は予約も可能だし、飛び入りも可能だ。今日は予約はなかったが、おそらく飛び入りで何人か来るだろうと、釈迦は予想した。
細長い部屋(相談室、と名付けた)に入り、釈迦は窓のブラインドを下ろした。そして席に座り、来客を待つ。
数分後に、早速一人目の相談者が現れた。ツインテールの銀髪と、くりっとした大きな瞳が印象的な、愛くるしい少女だ。タンクトップにミニスカートという格好。この学園の生徒である以上、高校生のはずだが、体格的には、特に胸のサイズ的には、小学生のようだった。もっとも、釈迦も威張れたものではないが。
「いらっしゃい」
入ってきた少女に、釈迦は目の前の椅子を勧めた。
この相談室には、細長いテーブルが一脚、壁に付けて置いてある。椅子は二脚。ちょうど、バーのカウンターのような配置だ。そこに並んで座り、話を聞くスタイルを採っている。意思の強い生徒なら釈迦の方を向いて話をするし、話しづらい内容なら、壁の方を向いたまま話すことも出来る。ちなみにテーブルの壁際には、クマのぬいぐるみなどの小物も置いてあるので、何も無い壁をただ見つめ続ける、という精神的苦痛を与える心配は無い。
椅子に座った少女は、釈迦の方を見ながら、現代組のラッセルだと名乗った。全校生徒の顔と名前とクラスを把握している釈迦は、当然知っていたのだが、「ラッセルさんですね」と初めて知ったような反応を返した。
「それで、どのようなご相談かしら?」
「はい、あのですね」
ラッセルは、小さな両手で自分の胸をペタリと触った。
「おっぱいをおっきくしたいのです。どうしたら良いでしょう?」
私こそ知りてぇよ。
さすがの釈迦も表情を崩しかけたが、耐えた。朗らかな笑みを浮かべたまま、釈迦はラッセルを真っ直ぐ見つめた。
「そうですよね、女の子共通の悩みですもの。わかります」
「ですよね! 会長さんもぺったんですもんね!」
黙れよ。
仏の顔も三度まで。次は無いぞ、と思いながらも、釈迦は仏のような笑みを崩さなかった。
「では、こうしなさい。浦島太郎からきび団子を貰って、それを胸に付けなさい」
「へ、浦島? 桃太郎じゃなくって?」
……あっ、と釈迦は思った。そうか、きび団子は桃太郎か。だが内心の動揺は全く表に出さず、釈迦は穏やかに告げた。
「ええ、浦島太郎です」
「きび団子を、胸に……」
と言いながら、ラッセルは自分の体を見て、ペタペタと両手で胸を触った。
「おー、確かにおっぱいっぽくなるかもー!」
自分でアドバイスしておいてなんだが、この子はちょっと馬鹿なのかもしれない、と釈迦は思った。
「ヌーブラという物があるでしょう? それと同じような物だと思いなさい」
「アイシー! わかりましたー!」
それでラッセルの悩みは解決したらしい。椅子から飛び降りると、「ありがとうございました!」と頭を下げて、相談室を出て行った。
釈迦はぼんやりと壁を見つめながら、この学園に浦島太郎なんていたかしら、と記憶を辿った。浦島太郎は御伽噺の登場人物であり、この学園にはいない。類似した名前の生徒もいない。あのツルペタ少女はどうするつもりだろう……。
そのとき、遠慮がちに相談室の扉がノックされた。「どうぞ」と釈迦は声をかけた。
入ってきたのは、ふわりと広がる髪を持った、清楚そうな少女だった。すらりとした細身を、白いワンピースに包んでいる。胸元には赤いリボンをつけ、茶色いブーツを履いている。地味な服装の少女だった。
しかし服装は地味でも、彼女は派手だった。体にたくさん、妙なものがついていたからだ。
お面だ。
無数のお面を、ブドウの房のようにぶら下げていた。
しかもそのお面はどれも、見ているとイラッとするものばかりだった。具体的には、視線を上に投げて笑っていたり、目は笑っているのに舌を大きく出していたり、人を見下す上から目線だったり、(・∀・)だったり、(´Д`)だったり。
見ているとイラッとするので、釈迦は彼女の顔だけを見ることにした。確かこの少女は、現代組のレヴィナスだ。
レヴィナスは椅子に座ると、「現代組の、レヴィナスです」と名乗り、そのまま顔を俯けた。体は釈迦の方を向いているが、視線はテーブルの方を向いていた。
なかなか話し出す様子がなかったが、釈迦もジッと、レヴィナスが話し出すのを待っていた。その間に、レヴィナスの俯けた表情を窺う。
彼女は、悩んでいるような表情ではなかった。というか、無表情だった。エメラルドグリーンの丸い瞳、細い眉。整った顔立ちだが、印象に残らない。正真正銘の無表情だった。
「私」やっとレヴィナスが声を絞り出した。「表情を作るのが苦手なんです」
無表情はキャラ作りじゃなかったらしい。
「人と話していても、つい、『他者みたいな物言い』をしてしまって、相手を怒らせてしまうんです」
「他者みたいな物言い?」
「はい」レヴィナスはようやく顔を上げた。「仲の良い友達が悩んでいて、その相談に乗っても、他人事のように話してしまうんです。……そう指摘されることが多くて」
「今こうして会話している分には、そのように感じませんけれど?」
「人に好かれようとして、人の相談に乗ると、そうなってしまうんです」
それは、釈迦には無縁の悩みだった。放っておいても向こうから相談を持ち込んで、釈迦が答えるとみんな感謝するのだから。
「怒られたら、謝るべきだと思っています。そんなつもりじゃなかったと、伝えるべきだと。でも私は表情を作るのが苦手なので、どうしても自分の気持ちを伝えられなくて……それで、こう」
レヴィナスは、ぶら下げているお面の中からひとつを取って、顔につけた。
「自分の顔の代わりに、お面で表情を作るのですが、そうするとさらに相手が怒るのです」
そりゃ(`∀´)なんて顔されたら誰だって怒るだろ、と釈迦は思った。
「それで、どうしたら良いか、と……」
レヴィナスはまた、顔を俯けた。
釈迦は少し、考えた。「どうしたら良いか」というのは、「他者みたいな物言い」を改善したいのか、「無表情」を改善したいのか、お面を改善したいのか、あるいはひっくるめて「人から好かれるにはどうしたら良いか」という意味であるのか。
どの意味であったとしても、釈迦に良いアドバイスが出来るとは思えなかった。人の相談に乗って逆効果になったことなど、過去に一度もないのだ。努力して得た力ではないから、どうやってそれを可能にしているのか、釈迦自身にもわからなかった。
しかし、何か方法はあるはずだ。相談に来てくれたのに、「わからない」と突き放すのは、あまりに無慈悲だ。
「それでは、こうしなさい」
釈迦は地蔵のように微笑んで言った。
「きび団子をヌーブラ代わりにしている少女の相談に、乗りなさい」
「え?」
無表情のレヴィナスの顔に、わずかだが、困惑の色が浮かんだ。
「それから、そうですね。貴女のそのお面を求める者には、それを与えなさい」
「でも、それで何がどうなるのでしょう?」
尋ねるレヴィナスに、釈迦は一言。
「やれば、わかります」
とだけ答えた。
レヴィナスはまだ困惑気味だったが、釈迦がそれ以上何も言う気がないと察すると、「ありがとうございました」と部屋を後にした。
また部屋が静かになった。壁際のぬいぐるみを見る。くまの表情が、釈迦を心配しているように見えるのは、釈迦の心中が成せる技だろうか。
「大丈夫よ」と釈迦はぬいぐるみに話しかけた。「いつも通り、上手くいくわ」
そのとき、タイミングを計ったように、扉がノックされた。本日三人目の相談者だ。
「どうぞ」
釈迦の言葉で、一人の男子生徒が入ってきた。これは珍しい、と釈迦は思った。この相談室に男子が入ってくるのは、珍しいことなのだ。この学園には元々男子が少ないためもあるし、どうやら男子は、女子に相談を持ちかけるのは気が引けるらしい。
しかもその相手が釈迦の知り合いだったのだから、なおさらだ。入ってきたのは、釈迦と同じ東洋組の姚興だった。いつも袴を着た男で、二十代後半に見える顔だった。二十代と言えば若いが、男子高校生としては老け顔に分類される顔つきである。
姚興は「よ、よう」と照れくさそうに言うと、椅子に座り、釈迦の方を向いた。しかしすぐに、視線を逸らした。
「どうしたのかしら、姚興君?」
目を細めたまま、小首を傾げる。姚興の顔が、心なし仄かに赤い。
「こんなことを、釈迦に相談するのは、どうかと思うんだけどな……」
姚興はチラチラと、壁の方を見た。テーブルの付いている壁ではなく、その反対側の壁――生徒会室に面した壁を。
その仕草を見て、釈迦はピンと来た。たぶんこれは、恋愛相談だ。
とうの昔に、釈迦は気付いていた。姚興には、好きな女の子がいる。その女の子とは、いま生徒会室(の隣の倉庫)で論文を翻訳している少女だ。だから、そちらの壁を気にしているのだろう。
「実は、俺……ちょっと、気になる子がいて」
全く明後日の方向を見ながら、姚興は言った。恥ずかしがらずともバレバレだということに、彼は気付いていないようだ。
「で、どうしたら良いかと」
好きな相手の情報は、一切明かしたくないようだ。それを明かさずに、どんなアドバイスをしろと言うのだろう、と釈迦は思った。
しかし先述の通り、この相談室では具体的な解決方法を提示しない。だから逆に言えば、どんなに抽象的な相談であっても柔軟に対応することが出来る。
「では、こうしなさい」
釈迦はマリアのように微笑んで言った。
「明日、学園で浦島太郎の格好をして、きび団子を配り歩きなさい」
「浦島? 桃太郎じゃなくて?」
ええそうです、と釈迦は優雅に頷いた。
「な、なんでそんなことを?」
「やってみれば、わかります」
それだけ告げて、釈迦は柔らかく微笑んだ。
「よくわからねえけど、わかったよ」
わかってないだろ、と釈迦は思った。
「変な相談して悪かったな」
と言って、姚興は部屋を出た。
そして彼が、本日最後の相談者だった。
* * *
「フゥゥゥ……」
回想を終えると、釈迦は深く息を吸い、肺の空気を搾り出すように、細く長いため息を吐いた。
今日も、なんとか上手くいった。
隠れ恋愛小説家は、生徒会の意見箱に自身の小説を投函した。それを読んだ翻訳の天才は、感動して小説家を褒め称えるだろう。さらに翻訳の天才は、自分の気持ちにも気付くに違いない。明日、きび団子を配り歩く浦島太郎に、恋をする。またその浦島太郎からきび団子を貰ったツルペタ少女が、きび団子を胸に付ける。それを見たお面女が、ツルペタ少女の相談に乗る。ツルペタ少女は馬鹿だから、お面女がどんな回答を出しても大満足する。そしてお面女も、自分の回答で初めて他人が満足したら、大喜びするだろう。それ以降も、積極的に他人の相談に乗るようになる。例えば、描写力に悩む恋愛小説家が、お面を分けてくれと頼んで来たら、喜んで差し出すはずだ。貰ったお面をひたすら描写すれば、恋愛小説家の描写力も上がるに違いない。
「ふふふ」
釈迦は満足気に微笑んだ。やはり、人に相談されるのは嬉しい。それを解決できたときは、もっと嬉しい。
「やっと終わりましたぁ~」
倉庫の扉が開き、鳩摩羅什がよたよたと生徒会室に入ってきた。胸には、論文の訳を書いたノートを抱えている。それを、生徒会長の机に置いた。
「ご苦労様、プーちゃん。それじゃあ、今日はもう、帰りましょうか」
「はい」と鳩摩羅什は疲れた声で返事をした。
鳩摩羅什と釈迦は帰り支度をすると、並んで生徒会室を出た。二人で廊下を歩きながら、釈迦は言った。
「そうだ、プーちゃん。明日は翻訳の仕事、お休みして良いわよ」
「え、本当ですか!? でも、どうして? 明日もまた、たくさん意見が来るんじゃ……」
「だって」
釈迦は阿弥陀如来のように微笑んだ。
「明日は、プーちゃんの浦島太郎を、捜さないといけないでしょう?」
えー、と鳩摩羅什は眉をひそめた。
「浦島太郎が彼氏だなんて、嫌ですよぅ」
両のお下げを引っ張りながら、鳩摩羅什はぶう垂れた。釈迦が、その頭をそっと撫でた。
「ふにゅ……」
鳩摩羅什は、自分の頬が緩むのを感じた。
釈迦の手は、温かかった。そして、優しかった。鳩摩羅什には、その手がとても、とても、大きく感じられた。
まるで、聖フィロソフィー学園の全生徒を、その上に乗せられそうなくらいに、とても。
...『優しい手のひら』END
釈迦を「表面上はとても優しいのに、心中で毒づいているキャラ」に設定したら、「あまりにひどい」と言われ凹んだ作品。
このような設定にしたのは、私が「もしも、どうすれば他人を動かせるかが手に取るようにわかったら、きっと性格歪むだろうなぁ」と思ったためです。
が、とても評判が悪かったため、こちらへの投稿に際し、地の文を大幅に書き換えることにしました。
ただ、まだ毒が残っているのは、もし釈迦を完全に「良い人」にしちゃったら、読者を最後まで引っ張る力が失われるような気がしたからです。
読者に不快な思いをさせず、クスッとさせる程度に毒を吐くキャラ……にしたかったのですが、さて上手くいったかどうか。
次話で、第三章は終了です。
どうぞ、最後までお楽しみください。




