AかBか、あるいはAA
疾風の如く駆けるため、忍者が編み出した訓練方法を知っているだろうか。
一丈、すなわち約三メートルある細長い布を背に垂らし、それが地面に付かないように走るのだ。
ここ、聖フィロソフィー学園に、忍者はいない。しかし、忍者の如く駆け回るのが大好きな少女なら、一人いる。
背中に垂らした銀髪のツインテールが、地面と平行になるほどの速度で駆け回る少女の名は、ラッセル。
ラッセルの服装は、いつもマラソン選手のような軽装だ。ヘソ出しルックのタンクトップに、プリーツのミニスカート。茶色と黒の縞々ニーソックスに、黄色いスニーカー。それから、黒い指出しグローブ。ジッとしていても絶対領域が男子の視線を集めるのに、走り回るものだからスカートがいつもめくれ上がり、ますます注目を浴びている。
ラッセルがこんなにも無防備な格好をしているのは、聖フィロソフィー学園が元女子高で、現在も生徒の九割が女子だからだろう。自分の格好が思春期の男子にどのような影響を与えるのか、理解していないのだ。
くりくりとした丸い瞳で無垢な笑顔を浮かべ、ラッセルは今日も学園を駆け回る。
彼女が駆け回る目的は、ただ一つ。
――女子のブラジャーを、剥ぎ取ること!
学園の敷地内にある遊歩道を走るラッセルの視界に、二人組みの女子が入った。一人はゆったりとした淡いオレンジのワンピースを着たお姉さん。もう一人は、ハンサムな顔立ちで何故か巨大な剃刀を携えた女性だ。
しかし、顔や服装なんてどうでもいい。ラッセルは二人の胸元を見た。
ハンサムな方は、長身痩躯だった。灰色のタートルネックには、体のラインがはっきり浮かんでいる。目測では、80cmのBカップ。
お姉さんの方は、ゆるふわの服で体のラインが隠れていた。それでも、ラッセルの目はごまかせない。94cmのGカップ。
ラッセルは瞬時に目標を定めた。狙いはお姉さんだ!
「オッカムちゃんは、最近……」
とお姉さんが何か言った、その瞬間。
ラッセルはお姉さんに当て身を食らわせた。
「きゃっ」
とお姉さんがバランスを崩すが、すぐにオッカムと呼ばれた少女がその体を支える。
「アウグスティヌス、大丈夫?」
「え、ええ。あなたも、平気?」
アウグスティヌスと呼ばれたお姉さんは、親切にもラッセルの身を案じた。ラッセルはそれには答えずに、くりくりの瞳をキラキラさせて、声高に聞いた。
「トリック・オア・スリップ! ブラを脱いで?」
「えっ?」
アウグスティヌスは目を白黒させて、
「ど、どうして??」
「脱いでくれないなら、こうだー!」
ラッセルがアウグスティヌスの胸に飛び込んだ、次の瞬間。既に事は終わっていた。
「おおー、やっぱりGだったー!」
ラッセルが高々と掲げたそれは、今しがた、スリのような手腕で剥ぎ取ったもの。すなわち、アウグスティヌスのブラ。
ピンクの布地に、白い水玉模様。カップのラインは、肌色の小さなフリルで縁取られている。フロント部分には可愛らしい赤いリボン。しかしそれはただの飾りで、ほどくことは出来ないようだ。ホックは背中側にある。やはり巨乳用のフロントホックは存在しないらしい。
「――っ。きゃーーーー!!!?」
ラッセルが掲げているものの正体に気付いた途端、アウグスティヌスが自身を抱きかかえてしゃがみ込んだ。
「っ、貴様っ!」
剃刀を構えたオッカムが、ラッセルに斬りかかる。が、一足早くラッセルはその場から逃亡した。ブラを片手に、無邪気に笑いながら走り出す。
「待てっ!」
「きゃはははは☆」
オッカムは剃刀を上段に構えながら走った。ラッセルは後方を確認しながらも、距離を少しずつ広げていく。
と、ラッセルは前方に見知った顔を発見した。ごく普通の顔立ちをした、ごく普通の男子生徒。服装も普通の学生服で、全くもって特徴がない――そしてそれが、この学園における彼の最大の特徴だった。剃刀を携えたり、スカートを翻したりする生徒が多くいる中で、彼は、彼だけは、聖フィロソフィー学園以外の高校でも十分通用する格好をしていた。
普通ゆえに目立つその男子生徒は、ラッセルの同級生のフィルだった。
「へい、フィル君。パース!」
ラッセルはフィルに向かって、アウグスティヌスのブラを投げた。
「えっ?」
何が起こったか理解する前に、フィルはその布切れを受け止めていた。
「ナイスキャッチー☆」
目を点にするフィルの横を、ラッセルは笑いながら駆け抜けた。
「……」
これはいったいなんだろう、とフィルは自分の手元に視線を落とした。ピンクの布切れは、人肌程度に温かい。それになんだか、甘い匂いがする。幼少期に嗅いだような匂いだ。丸められているのだと思ったが、よく見ると折りたたまれているだけだった。丸い形は、形状記憶素材によるためか。その布切れを広げ――た瞬間、フィルは顔が真っ赤になった。
「なっ、なっ、なっ」
そのとき、ビュッと風切り音がして、フィルの首筋に冷たい物が触れた。
「おい、フィル」
それは、オッカムの剃刀だった。あと数ミリ動くだけで、フィルの首筋に赤い線が出来るであろう距離に、刃があった。オッカムはフィルの手元に視線を投げ、テノールのハスキーボイスで言った。
「それを寄越せ」
「あ、ああ……」
抵抗出来ないフィルは、アウグスティヌスのブラを下手投げし、オッカムは剃刀を下ろすと同時にそれをキャッチした。
「今見たものは忘れろ」
ドスの利いた視線で、オッカムはフィルを睨み付けた。「あ、ああ……」とフィルは首を何度も縦に振ることしか出来なかった。
次の日。
ラッセルは今日も、ミニスカートを翻しながら学園の中庭を走っていた。くりくりとした丸い瞳で、盗みがいのあるカップを探す。
とはいえ、ラッセルはブラを欲しがっているわけではない。昨日、剥ぎ取ったブラをフィルに投げたのが、何よりの証拠だ。第一、盗んだところで使い道が……。
「ひゃっ」
余所見をして走っていたせいで、ラッセルはブレーキが間に合わなかった。中庭の大きな木の陰から現れた人物と正面衝突し、尻餅をつく。白と青の縞パンが顕わになった。
「あ、えっと、大、丈夫?」
ぶつかった相手は、フィルだった。どもりながら、声をかけてくる。その声に被せるように、女子生徒の悲鳴のような声が聞こえた。
「あなた、早く立たないとパンツ丸見えよ! というかフィル君、あっち向いて!」
女子生徒に差し出された腕を掴みながら、ラッセルは立ち上がった。スカートに付いた土埃を払う。
女子生徒は、ラッセルと同じくツインテールをしていた。ただし銀髪ではなく、栗色だ。大して寒くもないのに、首にはマフラーを巻いている。ミニスカートには、可愛いフリルが付いていた。
「もう良いか、デカルト?」
「うん。あなた、大丈夫?」
デカルトと呼ばれた少女が、ラッセルの顔を覗き込んでくる。ラッセルはそれを無視して、デカルトの胸元を見た。マフラーに隠れているため、胸の谷間などは全く見えない。厚着をしているため、体のラインも見えない。それを一睨みして、ラッセルはため息をついた。
「どうしてキャミなの?」
「えっ!?」
何を言われたのか理解するのに、デカルトは一瞬を要した。そしてすぐに、自分が今日はブラジャーではなくキャミソールを着ていることを思い出した。
「しかもパットが入ってBになってるけど、実際は68cmのA」
「なっ!?」
「どうせ増やすなら、Cくらいにしないと意味ないんじゃない?」
デカルトの顔が見る見る赤くなっていく。口をパクパクさせていると、横からの視線に気付いた。フィルがチラチラと、デカルトの胸を見ていた。
「み、見ないでよっ!」
「ご、ごめん、思わず」
二人のやり取りを見ながら、ラッセルはフィルにぼそりと呟いた。
「騙されちゃダメだよ、フィル君」
「どういう意味だよ……」
「なに、フィル君」親しげなラッセルとフィルを見て、胸を隠しながらデカルトが聞いた。「この子と知り合いなの?」
「同じクラス。ほら、昨日オッカム達が言ってた女の子」
「!」
デカルトが驚愕に目を見開きながら、半歩下がった。
ちなみに。デカルト、オッカム、アウグスティヌス、そしてフィルの四人は、クラスこそ違えど知り合いである。全員、同じ図書委員なのだ。
「それで、キャミだとわかって失望したわけね……って、どうしてわかるの!?」
デカルトの質問に、ラッセルは、にこー、と笑うだけだった。
「いえ、そんなことより」とデカルトがラッセルに詰め寄る。「どうしてあなたは、人のブラを盗んでるわけ?」
「それはね」
とラッセルは無垢な瞳で答えた。
「あたしの考えた『ラッセルのパラドックス』を実践しているからだよ! あたしは、この世にパラドックスが実在することを、証明しようとしているの!」
そんなことを言われてもわからない。「なにそれ?」とデカルトが聞き返す。ラッセルは薄い胸を張って、一息に言った。
「自分自身を要素とする集合の集合Aと自分自身を要素としない集合の集合Bがあるとき集合Bは集合AとBのどちらに含まれるか!?」
「………」
はぁ?
と、フィルは思ったのだが、隣のデカルト(一見Bだが実はA)は理解したらしい。
「あ、あれ? 確かにおかしい。パラドックスになってる」
「いや、なにが?」
突っ込むフィルの横で、デカルトは「ZFC公理系を考えると……」などと呟いている。
鼻息荒く胸を張るラッセルはそれ以上説明する気がないようなので、フィルはデカルトに尋ねた。
「いまの呪文は、どういう意味だ?」
「フィル君の学力に合わせていまの呪文を解説すると明日になっちゃうから、例え話で説明するとね」
さっき胸を見られた事を、まだ根に持っているらしい。胸を隠しながら小ばかにし、デカルトは説明を始めた。
「ある村の男性には、自分のヒゲを必ず自分で剃る人と、自分では絶対に剃らない人の、二通りしかいないとする」
鼻息を抑えたラッセルが、くりくりした瞳でフィルのあご辺りを見た。普通の男子高校生程度の濃さだ。
「ところでこの村には、たった一人だけ床屋さんがいる。その床屋さんは、『自分でヒゲを剃らない男性のヒゲ』は必ずすべて剃り、『自分でヒゲを剃る男性のヒゲ』は絶対に剃らないとする」
「うん」
「では、この床屋さん自身は、自分のヒゲを剃るのでしょうか、剃らないのでしょうか?」
「はぁ?」
フィルが悩む横で、デカルトがラッセルに尋ねた。
「これで合ってるわよね?」
「ザッツライトだよ、Aカップのお姉さん」
「っ!」
再び胸を隠すデカルトに、フィルが言った。
「普通に考えて、自分で剃るんじゃないか? 床屋なんだし」
「普通じゃなくて、論理で考えて欲しいんだけど……」
デカルトはジト目を向けた。
「それに、そう考えると変じゃない? この床屋さんは、『自分でヒゲを剃らない男性のヒゲ』だけを剃るのよ? 床屋さんが自分で自分のヒゲを剃ったら、それは『自分でヒゲを剃る男性のヒゲ』を剃ったことにならない?」
「あれ、そうか……じゃあ、剃らないのか?」
「それも違う」とデカルトは首を振った。「そしたら今度は、『自分でヒゲを剃らない男性のヒゲ』は必ず剃るって条件に、反するでしょ?」
「……ん? あれ?」
フィルは首をひねって考え始めた。
読者の皆さんも、わからなければ三回くらい読み返して考えてみて欲しい。果たして床屋は、自分のヒゲを自分で剃るのか否か。
「でも」悩むフィルの隣で、デカルトがラッセルに尋ねた。「これとブラを盗むのと、何の関係があるのよ?」
「いまお姉さんが言ったことを、実際にやってるだけだよ!」
ラッセルはまた胸を張って、宣言した。
「あたしは、『自分でブラを脱がない女の子』からはブラを取り、『自分でブラを脱ぐ女の子』からはブラを取らないの。ってことは、あたし自身は、自分のブラをどうしなきゃいけない?」
「…………」
無論、ここでの模範解答は「脱ぐにせよ脱がないにせよ、矛盾が生じる」である。
だがデカルトは、別な解答を口にした。
「あなた、ブラ必要なの?」
「…………。えっ!」
そこでラッセルは硬直した。
自分の体を見て、ぺたぺたと両手で胸を触る。
ヘソ出しルックのタンクトップに包まれたその体は、腰付きこそ年相応に丸みをおびているが、ウエストから上は幼女のようだった。立派な寸胴体型。Bカップはおろか、Aすらない。可愛い顔をしているから少女だとわかるものの、そうでなかったら……。
顔を上げたラッセルの瞳に、絶望の色が浮かぶ。くりくりとした瞳に、じわじわと涙がたまり始めた。
「こ、これでも……」
「?」
「これでも、AAはあるんだからーーーっ!!」
それ自慢にならないでしょ、とデカルトが突っ込む前に、ラッセルはスカートを翻して走り去っていた。
「なんだったの、あの子……」
デカルトは呆然と、ラッセルが走り去った方角を見やった。土煙がなくなる頃には、ラッセルの姿は跡形もなく消えていた。
しばらく無言が続いた後、フィルが言った。
「なあ、デカルト。結局、ラッセルのパラドックスに、答えはあるのか?」
「あるわ」
とデカルトはフィルを見て言った。
「ヒントはわたしと、さっきの――ラッセルさん? が握ってるわ」
「え?」
フィルはデカルトの体をまじまじと見た。マフラーの下にはAカップが……と、思わず意識して、視線をそらした。
「……いま何を考えたの?」
胸を隠しながら、デカルトが尋ねるが、フィルは「さぁ……」とお茶を濁した。
「で、答えは?」
「わたしもラッセルさんも、その、ほら……」
同年代の男の子に向かって、女性下着の名前を言うのは恥ずかしかったらしい。
「着けてないじゃない?」
お茶を濁した。
「でも、それが?」
「えっとぉ……さっきの、床屋の例えで言うとね!」
例えを切り替えることで、デカルトは難を逃れた。
「床屋さんがヒゲを剃る条件には、『男性』という但し書きがあった。つまりね……この床屋さんは、女性なのよ!」
「……はぁ!?」
デカルトは、してやったり、という顔でフィルを見た。
「これなら、パラドックスは生じないでしょ? ラッセルさんの言った『呪文』も同じ。Bを集合とするから、パラドックスに陥る――故に、Bは集合ではない! これが答えよ」
「そうか……」フィルは少し考えてから、納得したようだ。「デカルトもラッセルもブラジャーを着けていなかったから、パラドックスには陥らないわけか!」
フィルは、またデカルトをまじまじと見た。それから、真顔で尋ねる。
「……え、でも、なんでデカルトはブラジャー着けてないんだ? 普通、女の子ってブラジャー着けてるもんなんじゃないの?」
「え!? え、えっと……」
「キャミ、とか言ってたけど、キャミってなんだ?」
「え、あの、その……」
デカルトの顔が、また見る見る赤くなっていく。説明しようと思えば、いくらでもできる。女の子相手なら、躊躇なく言える。だが同年代の、それも自分が淡い想いを抱いている男子に説明することは、デカルトには出来なかった。
デカルトは赤い顔のまま口をパクパクさせたあと、
「ば、ばかーーーーーっ!!」
そう叫んで、土煙を上げて走り去っていった。
余談だが、ラッセルはその後、中庭で豊胸マッサージに勤しむようになった。白昼堂々、自らの胸をまさぐる少女の姿は、学園の男子生徒達へのちょっとした爆撃となっている。
...『AかBか、あるいはAA』END
むしゃくしゃして書いた作品。いまは反省している。
初めて聞いたパラドックスを一瞬で解いちゃうデカルトちゃんマジ天使。
この作品もまた多くの感想を頂き、
「これはないわ」と書かれた方と、「もっとやれ」と書かれた方がいました。
あなたは、どちらの集合に属しますか?
ちなみにこの作品は、何かの間違いで審査員特別賞(佳作)を受賞しました。
なお応募時のタイトルは、『Sは集合(set)のS』という、ちょっとカッコイイものでした。




