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哲学理論はミステリを解けるか?(連作作品集)  作者: 黄黒真直
第三章 哲学ガールズの日常(連作短編コメディ)
28/64

ハッピーエンドはお約束 -A happiness comes through.-

 突然の牽引力。

 視界が一気に上昇する。

 自分は落ちているのだ、とライプニッツが理解した次の瞬間、ゴツンと鈍い音がして、尾てい骨に鈍痛が走った。

「~~~~~っ!!」

 声にならない悲鳴をあげるライプニッツの前に、

「あー、ごめん。大丈夫かい?」

 右手にコーヒーカップを持ったパスカルがしゃがみ込んだ。

「だ、大丈夫、です……」

 痛むお尻をさすりながら、ライプニッツは顔を上げた。だが、その頭がパスカルの持っていたコーヒーカップを突き、中の熱いコーヒーがライプニッツの頭に零れた。

「きゃっ!!?」

 思わず飛びのこうとしたライプニッツだったが、長い髪をかかとで踏んでいたらしい。立ち上がりかけたとき、首が勢いよく後ろへ折れ曲がった……。


「いやいや、すごいね」

 フラスコからコーヒーを飲みながら、パスカルは笑った。

「椅子に座ろうとしたら椅子の脚が突然折れてお尻を打ちつけ、顔を上げたらコーヒーを頭に被り、立ち上がろうとしたら自分で自分の髪を踏むとは」

 あ、これ新しい椅子ね、とパスカルはライプニッツに来客用のパイプ椅子を渡した。ちなみにパスカル自身も、同じパイプ椅子に腰掛けている。ライプニッツは石橋の強度を確かめるように何度もパイプ椅子を叩き、それからゆっくりと座った。

「しかし」とパスカルは、先ほどライプニッツが壊したアームチェアを見やった。「あれ、私のお気に入りだったんだけどねぇ」

「ご、ごめんなさい……」

 わざとでないとは言え、破壊した全責任はライプニッツにある。ライプニッツはぺこぺこと頭を下げた。

「なんなら弁償しますので……」

「そこまで気を使わなくて良いよ」からからとパスカルは笑った。「それにあの椅子、学園の備品だから。私が壊したら学園側に弁償しなきゃだけど、生徒が壊した場合は説得次第で無償で済むよ」

 いったい誰に、どんな説得をするのだろう、とライプニッツは頭の片隅で思った。

 二人がいまいるこの場所は、パスカルの部屋だ。部屋と言っても私室ではない。研究室、あるいは教員室と言った方が正確か。

 ここ、聖フィロソフィー学園の教員には、一人一人に個室が与えられている。これには、書くと長い事情がある。

 この学園には主だった校舎が四つある。一般教室と職員室のある第一校舎、特別教室のある第二校舎、食堂と学生ホールのある第三校舎、文化部用の部室と図書室がある第四校舎だ。ところが、第一校舎に収まるべき一般教室は、この学園にはたったの五つしかない。と言うのも、聖フィロソフィー学園は五つしかクラスが無いからだ。五つのクラスはそれぞれ、古代組、中世組、近代組、現代組、東洋組と名付けられ、学年による区別は無い(ちなみにライプニッツは近代組、パスカルはそこの担任だ)。

 一つの建物に五つしか教室が無ければ、当然部屋は大量に余る。その余った部屋が、職員室や運動部の部室、そして教員の個室に割り振られているのだ。

 そのうちの一つ。三階の西端にあるパスカルの部屋に、ライプニッツは呼び出されていた。

 室内は整理されていた。入り口と反対の壁に、事務机が一脚。コーヒーカップやインスタントコーヒーの袋が仕舞われた棚と、ホワイトボードが一枚。本棚には、数学の本と共に、サイコロやトランプ、ルーレットなどが陳列していた。

 部屋の中央には応接用の木製のテーブルがあり、それを挟んで向かい合う形で、パスカルとライプニッツは座っていた。二人の間に射し込む西日は、カーテンによって遮られていた。

 ライプニッツは、パスカルに勧められたコーヒーを啜りながら、目の前に座る担任教師の様子を窺った。

 パスカルは、若い先生だった。自分達と十歳も違わない。背中に垂らした栗色の髪と、そこに被せた黄色いバンダナが、勝気な表情に似合っている。緑を基調としたセーラー服に似た服も、溌剌とした女学生のようだ。膝丈のスカートは、教師としては当然だろうが、彼女の場合は逆に不自然だった。「昔はもっと短かったんだけどねー」と笑っていたのを、思い出す。

 それに比べると、なんだか自分の方が年寄りみたいだ。地味な色の長い三つ編。セピア色のワンピースにベージュのカーディガン。お洒落といえば、髪飾りの白薔薇くらいだろうか。せめて、下着くらいは可愛いのを着けようか……。

「それで、だ」

 ライプニッツが一息ついたのを確認すると、パスカルが切り出した。

「どうして呼び出されたか、察しはついてるよね?」

 ライプニッツは無言で頷いた。それを見ると、パスカルは一度席を立ち、事務机の上の書類を取って来た。

 その書類は、ライプニッツが提出したレポートだった。ここ聖フィロソフィー学園では、ほとんどの授業が自習である代わりに、宿題がやたらと多い。それも、ほとんどがレポートだ。ライプニッツの前に置かれたものは、先々週提出したものだった。

「このレポートがさ、ニュートンちゃんのとよく似てるんだよね」

 ニュートン。普段あまり口を利かない同級生の名前だ。ニュートンは目立つ銀髪をした少女で、見てくれは悪くないが性格に難ありである。なにしろ、情緒不安定で猜疑心が強い。

「でも、似てしまったのは、偶然です」

 テストならともかく、レポートでカンニングなんてあり得ない。しかも、先に提出したのは間違いなくライプニッツの方なのだ。

 なんとかして偶然だと信じてもらわなければ。ライプニッツは力んだが、対するパスカルはからっとした表情で答えた。

「わかってるよ、そんなこと」

「え?」

 呼び出しておいて、それ? ライプニッツは拍子抜けた。

「いやー、偶然って怖いねー」かんらかんらと、パスカルは笑う。「偶然にも提出日に欠席したニュートンちゃんが、偶然にも先週この部屋にレポートを提出しに来て、偶然にもちょうど私が読んでいたライプニッツちゃんのレポートを目にし、偶然にもそれがニュートンちゃんのレポート内容と被っていたんだ」

「はぁ……」

「で、ニュートンちゃんが『これは盗作だ!』って私に訴えて来たから、一応、ライプニッツちゃんを呼び出すことにしたんだよ。ま、形だけね」

「パスカル先生は、私の言うことを信じてくださるんですか?」

「そりゃそうさ」

 良かった……。ライプニッツは胸を撫で下ろした。

 先週、偶然にもニュートンがライプニッツのレポートを目にして以来、ライプニッツはニュートンにネチネチとした攻撃を食らっていた。ライプニッツに聞こえるように陰口を言われたり、過去のレポートも盗作なんじゃないかと噂を立てられたり。そのせいで、他の同級生からも疑われていた。

 もともと、ライプニッツは同級生からの人気が高かったと、自負している。それが、ニュートンのせいで評判が落ちてしまった。いくらライプニッツが自分の無実を主張しても、同級生達は真偽を確かめようがない。それに、ニュートンの方が口先がうまかった。ライプニッツは追い詰められていた。

 しかしここに来て、ようやく、自分を信じてくれる人が現れたのだ。ライプニッツには、パスカルの黄色いバンダナが後光のように見えた。

「でも、どうして信じてくださるんです?」

「だって、アプローチが全然違うもの」

 そう言って、パスカルは再び席を立った。今度は、ニュートンが提出したらしいレポートを取って来た。

 ライプニッツとニュートン。二人が提出したのは、数学のレポートであった。内容はパスカルの出題に対する解答であり、問題は大雑把に言ってこうだった。

『関数y=f(x)の振る舞いを調べるには、どのような方法があるか。また逆に、振る舞いから元の関数を導く方法はあるか』

 これに対するライプニッツの解答はこうだった。

『振る舞いを調べるには、xがほんの少し変化したとき、yがどのくらい変化するかを求めれば良い。逆に振る舞いから元の関数を導くには、yの変化を積み重ねていけば良い』

「いわゆる、微分と積分だよね」

 パスカルの言葉に、ライプニッツは頷いた。

「中学の二次関数などでも、変化の割合について習いました。これは、その応用なんですね」

「その通り」

 フラスコに入ったコーヒーを飲み、パスカルは目で頷いた。

「一方、ニュートンちゃんのアプローチは全然違うね。yを落下するリンゴの位置、xを落下開始からの経過時間としている。すると関数の振る舞いは、単位時間当たりの位置の変化ってことになる。それはすなわち――」

「速さ、ですか」

 パスカルの言葉をライプニッツが引き継いだ。やっぱり賢いね、きみ、とパスカルが教え子を褒める。

「位置を表す関数を、時間で微分すれば、速さが求まる。『き・は・じ』の応用だね」

 人差し指で空中にT字を書きながら、パスカルはかんらかんらと笑った。

「どうもニュートンちゃん、以前物理の問題を考えたときに、この手法を思いついてたらしいね。それが私のレポートにも応用できることに気が付いた。だから二人とも、結果的に同じものが出てきたけど、過程はまるで違うし、使ってる記号も違う。すなわち、ライプニッツちゃんはニュートンちゃんのレポートをカンニングしたわけじゃないってことさ。当然、その逆でもない」

「ニュートンさんには、そう仰ったんですか?」

 ライプニッツが尋ねると、パスカルは「うーん……」とバンダナの端を弄った。

「言ったんだけどねぇ……」

 疑いが晴れなかった、ということか。

 ライプニッツは膝の上に置いた手で、スカートの裾を掴んだ。俯き加減で、話し出す。

「私、正直あの子、ちょっと苦手です。みんなが同じ問題に解答してるんですから、似たような答えが出てくるの、当然じゃないですか」

「いやいや、そうでもないよ?」

 パスカルは首を振った。どうしてですか、とライプニッツが首を傾げた。

「何しろ、私が望んだ解答……つまり微積分について書いてきたのは、きみたち二人だけだったからね」

「そうなんですか?」

「そう。ほとんどがまともな解答になってなかった。次点はデカルトちゃんの『直交座標上にグラフを描く』かな。ちなみにグラフの発想を出した人は、他にいなかったね」

 まぁ、まだ授業で微積分を教えてないんだから、当然だよね、とパスカルはからから笑った。

 パスカルはいつも、これから教える内容のレポート課題を出す。生徒達がまずその問題を考え、あとから「ほら、あの問題は、こうやれば解けるんだよ」と解説する。生徒が自ら考え、行動することで、己の哲学を育て上げていく――それが聖フィロソフィー学園の教育方針であり、パスカルの教育方針でもあるからだ。

 人はみな、弱々しい葦に過ぎない。でも、考えることの出来る葦だ。考えることで、宇宙よりも大きな存在になれる。パスカルはそう考えていた。

「話は以上」とパスカルはテーブルにフラスコを置いた。「不運だったね」

 不運、か。その通りだろう。ニュートンとレポート内容が被ったのも、それをニュートンが知ったのも、すべては偶然だった。不運、不幸としか言いようが無い。

「慣れてるから平気です。私、いまは不幸なので」

「うん?」

 立ち上がりかけたパスカルだったが、俯き加減でライプニッツが話し出したので、再び腰を下ろした。

「いまは不幸って、どういうこと?」

「色々と、都合の悪いことばかり起こるんです。空からタライが降ってきたり、椅子の脚が突然折れたり……」

「カンニングの疑いをかけられたり?」

 パスカルの言葉に、ライプニッツは弱々しく頷く。

「でも良いんです。不幸というのは、ハッピーエンドに至るための、神様が用意したアクセントなんです。だから、不幸な目に次々遭う私は、きっと、最高のハッピーエンドが待っているんです」

 ライプニッツは弱々しく顔を上げたが、しかしその表情は明るかった。朗らかな笑顔で、

「神様の予定調和により、世界は最良に向かっているんです」

 と断言した。

「ふぅん?」

 パスカルはワイングラスのようにフラスコを振った。それから、

「本当かな?」

 と首を傾げた。

「え?」

 まさか、私の考えが否定されてしまうの? ライプニッツは慌てた。不幸な目に次々遭う彼女にとって、この予定調和の考えは、心の支えと言っても良い。それを否定されてしまったら、生きていく拠り所を失ってしまう。それもよりにもよって、自分を信じてくれた人が否定するとは。

「別に、ライプニッツちゃんの考えを否定するわけじゃないよ」

 パスカルのその一言に、ライプニッツは安心した。

「ただ、きみの言うハッピーエンドって何だろう、と思っただけだよ。あと、きみは本当に不幸なのかな、とも思った」

「え、だって……空からタライが降ってくるなんて、不幸以外のなんなんですか!? あと、椅子の脚が折れたりとか!」

「それはね」

 パスカルはフラスコを手にしたまま、ライプニッツを指差した。

「不幸じゃない。不運って言うんだよ」

「不運……?」

 ライプニッツは、パスカルがさっきも「不運だったね」と言っていたことを思い出した。しかし、不幸と不運。どう違うのだろう。

「タライの方はわからないけど……そうだね、例えばあの椅子」

 と、パスカルはライプニッツが破壊した椅子を指差した。

「私のお気に入りのアームチェア。きみが座って壊れたのは、果たして不幸だったのか、不運だったのか?」

「どう違うんですか?」

「不幸とは、幸せでない状態。幸せとは全てが満ち足りた、それ以上何も望まない状態だ。不幸はその逆、つまり何かが物足りず、常に空しさが付きまとう状態だ」

 ライプニッツはこれまで、幸せと不幸せをはっきり定義したことはなかった。ただなんとなく自分は不幸だと思い、なんとなくハッピーエンドが待っているものと思っていたが……パスカルの頭の中には、両者の定義があるようだった。

「ところがライプニッツちゃんは、いつかハッピーエンドになると信じることで、満ち足りた良い笑顔をしている。きみにとってハッピーエンドは未来に約束された出来事で、それをただ待つだけで良い。だから、わざわざ何かを望む必要はないし、実際、望んでいない。状況だけ見れば、これは幸せな状態と同じだ。少なくとも、不幸ではない」

 まさか、自分が不幸じゃないと、理詰めで説得されようとは思わなかった。ライプニッツは口を半開きにしたまま、ただ感心していた。

「だから、私は不幸じゃなくて、不運だってことですか?」

 パスカルは人の良い笑顔を浮かべ、「そう」と頷いた。

「ついでだから、あの椅子が今日壊れる確率を、求めてみようか」

「そんなもの、求まるんですか?」

「もちろん」

 自信に溢れた勝気な表情で頷くと、パスカルは立ち上がった。壁際に置かれたホワイトボードを、テーブルの横まで持って来て、ペンを取った。

「この部屋には、週に一回程度、生徒が訪れる。一年は五十二週だけど、そのうち学園が休みでないのはおよそ四十週。つまり、年に四十回程度、生徒が訪れるわけだ。訪れた生徒は必ずあの椅子に座ると仮定すれば、あの椅子は年に四十回、座られることになる」

 パスカルはホワイトボードに、「40回/年」と書いた。

「あの椅子を購入したのは、今から五年前だ。だから、これまであの椅子は四十かける五で、二百回座られたことになる」

 ホワイトボードに「40回/年×5年=200回」と数式が綴られた。

「そして今日、二百回目で椅子が壊れた。だから、一回座ったときにあの椅子が壊れる確率は?」

 パスカルはペンでライプニッツを指した。ライプニッツは「えっと」と呟いてから、答えた。

「二百分の一、ですか?」

「正解」

 パスカルは先ほど綴った式の下に、「壊れる確率 1/200」と書いた。

「つまり、私が今日あの椅子に座って壊す確率は、二百分の一……〇・五パーセントだったってことですか?」

「いや、ちょっと違うかな?」と言って、パスカルはペンを振った。「ここが確率論の難しいところだけどね」と前置きしてから、話を進める。

「確かに、ライプニッツちゃんがあの椅子に座ったときに、あの椅子が壊れる確率は、二百分の一だ。でもね、それが『今日』である確率となると、また別だ」

「今日である確率……?」

「今日、と言うと語弊があるかな。正確には『二百回目に壊れる確率』だ」

 どちらにせよ、よく意味がわからない。ライプニッツは小首を傾げたが、パスカルはすぐには答えず、ホワイトボードに向き直った。

「例えば、最初、つまり一回目に壊れる確率は、いくらになる?」

「二百分の一です」

 パスカルは頷きながら、黒板に「1回目=1/200」と書いた。

「それじゃあ、二回目に壊れる確率は?」

「当然、二百分の一です」

「チッチッチッ」

 ホワイトボードからライプニッツの方に向き直ると、パスカルはわざとらしくペンを振った。そして、ニヤリと笑いながら答えを告げる。

「正解は、四万分の百九十九だ」

「……え?」

 なんだその中途半端な値は。ライプニッツは目を瞬いた。

「こんな式で計算できる」

 と言って、パスカルは再び数式を書いた。「2回目=(199/200)×(1/200)」

「えっと……?」

 よくわからず、ライプニッツは首を傾げる。傾けすぎて、三つ編みが肩から零れた。パスカルは愉快そうに言った。

「二回目に壊れるってことはさ、一回目に壊れちゃ駄目だよね?」

「そうですね」

「だから『二回目に壊れる確率』というのは、正確には『一回目に壊れずに、二回目に壊れる確率』なんだよ」

 なるほど。ホワイトボードの数式は、確かにそれを意味している。最初の「199/200」が一回目に壊れない確率を表し、次の「1/200」が壊れる確率だ。この二つを掛け算することで、二回目に壊れる確率がわかる。

「この調子で考えていくと、三回目はどうなる?」

「一回目も二回目も壊れず、三回目に壊れる確率、と言うことですよね?」

「その通り。そしてそれはこんな式になる」

 ホワイトボードに、さらに数式が綴られる。「3回目=(199/200)×(199/200)×(1/200)」

「こうやって考えていくと、二百回目に壊れる確率というのは物凄く低くなって……えっと……」

 パスカルは事務机の上の電卓を叩き、

「およそ〇・一八パーセントだ」

 と告げた。

「つまり、きみは不幸なんじゃなくて、こんな低い確率で痛い目を見た、とっても不運な女の子ってことさ」

「そうですか……」

 納得しかけて、あれ、どちらにせよ悪いことに違いないのでは、とライプニッツは思った。そんな不運に出遭う自分は、やはり不幸なのでは……。もし、もっと幸運に恵まれたいと望むのなら、自分はいま、不幸なのだろう。

「ま、もっとも」ペンを置いて、パスカルが言った。「いまの計算、間違ってるんだけどね」

「はいっ?」

 裏返ったライプニッツの声を聞いて、パスカルはからから笑った。

「誤解しないでね。『一回座ったときに椅子が壊れる確率』が本当に二百分の一なら、合ってるよ? ただ、『一回座ったときに椅子が壊れる確率』を二百分の一とするところが、間違ってるんだ」

「はぁ……?」

 ライプニッツは、いまのパスカルの台詞をもう一度頭の中で流し、意味を租借した。

「では、本当の確率は、いくらなんですか?」

「さてね。それは椅子のメーカーさんに問い合わせないと、わからないな」

 まだ混乱しているライプニッツに、パスカルはニヤリと笑ってみせた。

「いまの『椅子が壊れる確率』みたいなものは、本当は何百回、何千回とテストして、その結果を統計的に分析し、ようやく得られる値なんだ。ただ、いまはそこまで出来ないから、一回のテストで強引に確率を出したってだけの話さ」

 わかったかな、と小首を傾げるパスカルに、はい、とライプニッツは答えた。

 うん、やっぱり頭良いね、きみ、とパスカルは優秀な教え子に満悦した。しかしライプニッツの対面の椅子に座ると、すぐに笑みを消し、真剣な目でライプニッツを見た。

「ところで、ライプニッツちゃん。一つ聞いて良いかな?」

「なんですか?」

 パスカルは、普段の自信に満ちた、どこかおちゃらけた表情ではなく、真面目な顔をしていた。

「きみの言うハッピーエンドって、なんだろう?」

 ライプニッツはふるふると首を振った。三つ編みもゆさゆさと揺れる。

「わかりません」

 正直に答えた。

「でも、ハッピーだと感じる何かです」

「それじゃ、もう一つ聞こう」パスカルは人差し指を立てた。「それは、いつ訪れるんだ?」

 この質問にも、ライプニッツは首を振った。

「わかりません」

「うーん……」

 パスカルは腕を組み、脚を組んだ。それから、少しだけ上目遣いにライプニッツを見る。

「それだと、もしかしたらそのハッピーエンドとやらは、極楽往生することかもしれないよ?」

「極楽……え、天国のことですか?」

 聞き返すと、パスカルは頷いた。ライプニッツのハッピーエンドは、死んで天国へ行くことだと、パスカルは指摘したのだ。

「ど、どうしてですか?」

「これだよ」

 と言って、パスカルは背後のホワイトボードを肩越しに指差した。そこには、椅子が壊れる確率が書かれている。

「さっき言った通り、二回目に椅子が壊れるためには、一回目に椅子が壊れてはいけない。……これって、私達人間にも適用できると思わない?」

 人間が壊れる確率。その言葉の妥当な解釈は、死ぬ確率だ。

「私達はいつか死ぬ。では、いつ死ぬのか。明日か、来年か、それはわからない。でも、一つわかることがある」

 パスカルは指先で、ホワイトボードを軽く叩いた。

「私達が死ぬ確率が最も高いのは、今日だ。何故なら、明日死ぬ確率は、『今日生き延びて、明日死ぬ確率』だからだ。今日生き延びる確率が百パーセントじゃない以上、明日死ぬ確率は、今日死ぬ確率より低くなる。……さっきの計算でも、そうだったろう?」

 ライプニッツは、もう一度ホワイトボードの式を見た。一回目に椅子が壊れる確率は、二百分の一だった。これは〇・五パーセントである。一方、二回目に椅子が壊れる確率は四万分の百九十九、つまり〇・四九パーセントである。一回目に壊れる確率よりも低い。さらに二百回目となると、たった〇・一八パーセントしかない。

「つまり、『いつか幸せになる』なんて言ってたら、死ぬまで幸せになんてなれない。私のように天国へ行く努力をしているならともかく、そうでないのなら、いまを幸せに生きないとダメなんだ」

「…………」

 ライプニッツには、返す言葉がなかった。自分が死ぬ確率なんて、考えたこともなかった。

 本当にパスカルの言う通りなのだろうか。少なくとも数式の上では正しいことは、頭の良いライプニッツには理解できた。だが受け入れ難い。パスカルの考えには、ライプニッツの信念と決定的に異なる点がある。

「パスカル先生は、すべて確率だと考えているんですか?」

「どういう意味かな?」

「神様のような、この世界を支配する絶対的な存在がいて、その存在が書いたシナリオ通りに世界が動いている……つまり、偶然なんて何一つないとは、思わないんですか?」

「そうだねぇ」ニヤリ、と笑った。「その可能性も、一パーセントくらいあるかもね」

「また確率ですか……」

 性質の悪い禅問答のようだ。「すべては確率か否か」「一パーセントの確率で、確率ではない」自己矛盾甚だしい。

「でもパスカル先生は、天国は信じていらっしゃるんですよね?」一縷の望みにかけるように、ライプニッツは身を乗り出した。「先ほど、天国へ行く努力をしていると、仰いましたよね?」

 ライプニッツは目を輝かせたのだが、

「天国のある確率は、一パーセントくらいかな」

 パスカルの答えは同じだった。

「どうして一パーセントの確率だと思っているのに、努力してらっしゃるんですか?」

「一パーセントもあれば、十分だよ」

 からからと、パスカルは笑った。それから、ふむ、と少し考え、言った。

「十パーセントの確率で一万円もらえるゲームAと、九十パーセントの確率で千円もらえるゲームBがあったら、どっちに参加した方が得だと思う? どちらも参加費は百円くらいだとすると」

「え? それは……九十パーセントのゲームBじゃないですか? そんな高確率でお金が手に入るなら、そっちの方が得だと思います」

「ところが、確率論的には違うんだ」

 またからからと笑う。それから解説した。

「これらのゲームに、何百人もの人が一斉に参加したとしようか。全員、AかBのどちらか片方に、一回だけ参加する。で、Aに参加した人と、Bに参加した人の、獲得金額の平均を計算すると……なんと、Aでは千円、Bでは九百円になるんだ」

「どうしてです?」

「十パーセントの確率で一万円ってことは、十人に一人が一万円を手に入れるってことだ。百人が参加すれば、およそ十人が一万円を手に入れるのだから、平均は『10人×1万円÷100人』で千円になる。一方、九十パーセントの確率で千円ってことは、同じように考えれば、平均は九百円。だから、平均値の高いAのゲームに参加した方が、得をするってわけだ」

「そうなんですか? なんか、少しおかしいような……?」

「もちろん、実際にお金が得られるかどうかは、別だ。この考え方は、得られる利益と得られる確率を、同時に考慮するやり方なんだ」

 いま計算した平均値を、確率論では期待値って呼ぶんだ、とパスカルは付け加えた。

「ギャンブルでは、常に期待値が高くなるように賭けるのが定石だ。道中、何度も負けるだろうが、最終的には勝ち越しになる」

 目先の不運にとらわれず、最終的な利潤を目指せ、ということか。ライプニッツはそう理解した。

「でもそれと、天国へ行く努力をすることと、何の関係があるんですか?」

 パスカルはライプニッツの質問に即答せずに、

「天国って、どんな場所だい?」

 と質問を返してきた。ライプニッツは即答した。

「もちろん、一切の苦痛のない世界です。それこそ、幸せで、満ち足りた世界」

「そして、その幸せは永遠に続く」

 ライプニッツの説明に、パスカルが付け加えた。

「永遠に続く幸福……その利益は、無限大と考えて良い。そしたら、天国が存在する確率が一パーセント、いや〇・一パーセントだとしても、天国へ行く努力をするべきだ。何故なら、期待値が無限大になるからね」

 そう言って、パスカルはウィンクして見せた。その自信に満ちた表情を、ライプニッツは羨ましく思い……同時に、パスカルの行動は矛盾している、と気が付いた。

「ですがパスカル先生。多くの宗教において、賭け事は禁止されています。天国へ行きたいのなら、ギャンブルは捨てるべきではないですか?」

「そんなことはないよ。何しろこの世界は、神様だってサイコロを振るんだからね」

 ああ言えばこう言う……。ライプニッツは、取って置きの一言を言うことにした。


「でもお言葉ですが、パスカル先生。生徒に無実の罪を着せようとする教師は、どうあがいても地獄行きだと思います」


「…………」

 パスカルはたっぷり一秒ほど間を空けたあと、

「ど、どういう、意味かな?」

 不自然なほど目を泳がせながら言った。自分の推理は当たっているらしい、とライプニッツは感じ、胸を張って強気に出た。

「あの椅子」と、この部屋に来たときに破壊した、パスカルのアームチェアを指差した。「壊したの、本当はパスカル先生ですよね?」

「な、なんのことかな??」

 さっきまでの勝気な表情はどこへやら、パスカルの顔には動揺の色しか見えない。

「先ほどは、面白い話を聞かせていただき、ありがとうございました。あの椅子は、たった二百回座っただけで、壊れたんですね」

「そ、そうなるね」

「パスカル先生は先ほど、この部屋に週一回生徒が訪れるとして、今まで何度あの椅子が座られたかを計算しました。でも私、おかしいと思うんです」

「何が?」

「あの椅子は、パスカル先生のお気に入りだったんですよね? ならその計算には、パスカル先生が座った回数も考慮しなくてはいけないと思うんです。ところが、パスカル先生はそうしませんでした。何故ですか?」

「いや、それは……」パスカルは、頭のバンダナを解いて、結び直し始めた。「忘れてただけだよ」

「いいえ、違います」と、ライプニッツは自信満々に首を振った。「パスカル先生は、自分が椅子を壊したのだと気づかれるのを恐れ、無意識のうちに計算から外したんです。『自分はあの椅子に座っていない、だから壊したのは自分ではない』と、暗に主張しようとしたんです」

「…………」

 パスカルはバンダナを弄り続けたが、手元が落ち着かないのか、上手くいかなかった。諦めて、テーブルの上に置く。

「いや、なんていうか、うん、はは……きみ、本当に頭が良いね」

 からからと笑って誤魔化そうとするパスカルを、ライプニッツは睨みつけた。

「ご、ごめん。私が悪かった」

 素直に頭を下げた。

「動機はなんですか? 学園に椅子の弁償代を払いたくなかったからですか?」

「そうです」

 パスカルは頭を下げながら答えた。

 本当は、もっと怒るべきなんだろうか。ライプニッツは思った。でも、自分は不幸、いや不運に慣れている。ニュートンに濡れ衣を着せられ、パスカルにも着せられそうになった。このくらいのことはとっくに慣れっこで、いまさら怒る気は起きない。

 ああ、自分は本当に不運だ。パスカルが椅子を壊したのは、先週ニュートンがこの部屋を訪れたのより、後だろう。つい先日、偶然にもパスカルは椅子を壊した。そして偶然にも、ライプニッツを呼び出す口実があった。だからパスカルは今日、ライプニッツを呼び出した。

 とすると、自分が今日あの椅子に座り、尾てい骨を痛めたのは、ある意味必然だったことになる。パスカルという、目の前の若い教師の描いたシナリオ通りに、自分は動いたのだ……。

 自分のレポートが盗作ではないと信じてくれた先生が、自分を嵌めようとしていた。ライプニッツは、なんだかもう、誰も信じられなくなった。

「パスカル先生。死ぬ確率が最も高いのは、今日でしたよね」

 ライプニッツの目に、妖しげな光が宿った。

「本当に、今日がパスカル先生の命日になりそうです」

 それは御免被りたいね、とパスカルは乾いた笑みを浮かべた。



...『ハッピーエンドはお約束』END

数学の説明をきちんと書きたかったものの、読みづらいだろうと思って泣く泣く省いたら、「もっとちゃんと書け」と批判が集って泣きたくなった作品。

これが「哲学ガールズ」を「なろう」に投稿しようと思った、最初のきっかけでもあります。

今思えば、数学をテーマに書いたのに、それを省く必要はありませんでしたね。

(当然、こちらへの投稿に際し、大幅に加筆してあります)


ちなみにこの作品は、哲学ガールズ企画にて審査員特別賞(佳作)を受賞いたしました。

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