番外編 私たちが捨てたのは、この国の命綱でした〜愚か者たちの転落と永遠の地獄〜
グランツ王国の中央にそびえ立つ白亜の王城。その奥深くにある王太子の執務室で、私、レオン・フォン・グランツは忌々しげに舌打ちをした。
机の上にうず高く積まれた羊皮紙の山。それは本来、次期国王たる私が目を通し、裁可を下すべき書類の数々だった。しかし、それらをめくる気など毛頭起きなかった。
隣国との貿易関税の調整、魔力回路の定期点検の予算編成、水源管理のための精霊魔術師の配置……。どれもこれも、泥臭くて地味な仕事ばかりだ。
高貴なる水精霊の加護を受け、光輝く未来を約束されたこの私が、なぜこのような薄暗い部屋でインクの染みと格闘しなければならないのか。
「おい、この書類はすべてアメリアの執務室へ持っていけ。あいつに処理させろ」
私が命じると、控えていた文官が困惑したように顔を上げた。
「殿下、しかしこれらは……王太子殿下の直筆のサインが必要な重要書類も含まれております。アメリア様に丸投げされるのは……」
「口答えをするな! 私のサインなど、後で適当に書き写せばいいだろう。あのように精霊の加護すら見えぬ無能な女には、こういった陰気な裏方仕事がお似合いなのだ。どうせ他に何の役にも立たないのだから、これくらいは国のために働かせてやらねばな」
文官を追い出し、私は深くため息をついた。
私の婚約者であるアメリア・ヴァン・ローズライト。
公爵家の長女でありながら、彼女には精霊の加護が視認できなかった。この国において、精霊の姿が見えないというのは致命的な欠陥だ。そんな呪われた女が私の隣に立ち、次期王妃として君臨するなど、私の完璧な経歴に泥を塗る行為に他ならない。
彼女は確かに、書類仕事や面倒な調整ごとは文句も言わずにこなしていた。しかし、それは彼女自身が自らの無能さを恥じ、せめて労働力として私にすがりつこうとしている哀れな努力だと私は解釈していた。
「殿下、お疲れのようですわね」
執務室の扉が開き、甘い香りと共に銀の鈴のような声が響いた。
プラチナブロンドの髪を揺らし、愛らしい微笑みを浮かべて入ってきたのは、アメリアの異母妹であるリリアだった。彼女の周囲には可愛らしい風の低級精霊たちが舞い飛んでおり、彼女の存在を華やかに彩っている。
「おお、リリア。お前が来てくれると、このむさ苦しい部屋も一気に花が咲いたようだ」
「ふふっ、殿下ったら。今日は殿下のために、私が特別にお茶を淹れてまいりましたの。お仕事の疲れが少しでも癒えればと思って……」
リリアは可憐な仕草でティーカップをテーブルに置き、私の隣に座った。その柔らかな体が私の腕に触れ、私はひどく満足げに目を細めた。
アメリアのような冷たくて陰気な女とは違う。リリアは真に精霊に愛され、男の庇護欲をそそる可愛らしさと、華やかさを持っている。彼女こそが、私の隣に立つに相応しい真の乙女だ。
「リリア、建国祭の夜会の手はずは整っているな?」
「はい、殿下。お父様とも打ち合わせは済んでおります。お姉様には少し可哀想ですが……でも、お姉様のような加護のない方が王妃になれば、国が不幸になってしまいますものね。私が代わりに、精霊様たちとこの国を豊かにしてみせますわ」
「ああ、お前はなんて心優しいのだ。アメリアは自分が次期王妃になると思い上がっているようだが、今夜、彼女の身の程をわからせてやろう。あのような無能は、我が国には不要だ」
私はリリアの華奢な肩を抱き寄せ、冷笑を浮かべた。
アメリアがこれまでどれほどの業務をこなしていたかなど、私には関係なかった。王族とは、上に立って優雅に微笑み、民衆に希望を与える存在だ。実務など、優秀な官僚や、代わりの労働力にやらせれば済むこと。
私は、自分がどれほど致命的な勘違いをしているか、この時は微塵も気づいていなかった。
建国祭の夜。
私の計画は完璧に遂行された。
公衆の面前での婚約破棄。リリアとの新たな婚約発表。
群衆の視線が集まる中、みすぼらしいドレス姿で立ち尽くすアメリアを嘲笑ってやった時の、あの胸のすくような優越感は今でも忘れられない。
彼女が必死に「私がいなくなれば魔力回路が……」などと世迷い言をほざいていたが、私は鼻で笑い飛ばした。精霊の加護すらない女が、国の魔力回路を維持できるわけがない。あれは、彼女が自分を大きく見せようとする見苦しい虚勢に過ぎなかった。
「黙れ、この出来損ないが!!」
ローズライト公爵が、激昂してアメリアを殴り倒した時、私は心の中で快哉を叫んだ。公爵もまた、家門の恥であるアメリアを切り捨て、精霊に愛されたリリアを寵愛していた。私たちの利害は完全に一致していたのだ。
近衛兵によって引きずり出されていくアメリアの後ろ姿を見送りながら、私は勝利の美酒に酔いしれていた。
これで、私の人生の唯一の汚点が消え去った。
あとは、リリアという美しい飾りを隣に置き、順風満帆な王としての道を歩むだけだ。
……それが、すべて崩れ去るのに、そう時間はかからなかった。
アメリアを追放してから数週間後。
私とリリアの盛大な結婚式が、王都の大聖堂で執り行われていた。
国内外から集まった貴族たちからの惜しみない賛辞と祝福。リリアは最高級のドレスに身を包み、私は誇らしげに彼女の手を引いていた。
まさに、私の人生の絶頂期だった。
祭壇の前で永遠の愛を誓おうとした、その瞬間。
パリンッ!
天井を飾っていた巨大な魔石のシャンデリアが突如として砕け散り、大聖堂は暗闇と混乱に包まれた。
それと同時に、私を常に守り、私の魔力の源であった水精霊たちが、悲鳴を上げて消滅したのだ。
「な、なんだ? どうしたというのだ、精霊たちが……!」
狼狽する私の元へ、血相を変えた騎士が駆け込んできた。
防衛結界の沈黙、水源の枯渇、農作物の腐敗、そして魔物除けの結界の消失。
次々と報告される絶望的な凶報に、私は自分の耳を疑った。
そんな馬鹿な。昨日まで、この国は完璧に機能していたではないか。魔力回路も、水源も、すべて順調だったはずだ。なぜ、突然すべてが崩壊し始めたというのだ。
「精霊たちは、リリアを愛しているのではなかったのか! 答えろ、リリア!」
「わ、私に怒鳴らないでくださいませ! 私は何も……私のもとからも、風の精霊様がいなくなってしまって……」
床にへたり込んで震えるリリアを見て、私は激しい苛立ちを覚えた。彼女が侍らせていた精霊たちも消え失せ、彼女はただの無力な小娘に成り下がっていた。
そして、絶望のどん底に突き落とされた私たちの上に、決定的な破滅が舞い降りた。
空を覆い尽くすほどの巨大な空中要塞。
神聖クロノス帝国の圧倒的な軍勢と共に現れたのは、あろうことか、私たちが「無能」と見下し、ボロ布のように荒野に捨てたアメリアだった。
漆黒のドレスに身を包み、伝説級の高位精霊たちを侍らせた彼女の姿は、神々しいほどに美しく、そして恐ろしかった。
彼女の隣には、最強の精霊王であり、絶対的な覇王であるクロノス皇帝が立っていた。
「久しぶりね、レオン殿下。それに、リリア、お父様」
アメリアの氷のように冷たい声が、大聖堂に響き渡った。
彼女が『精霊王の真嫁』であり、この国が享受していたすべての恩恵が、彼女の「無意識の加護」によるものだったという真実を告げられた時、私の頭の中は真っ白になった。
防衛結界も、水源も、豊かな大地も。
すべては、アメリアが裏で血反吐を吐きながら書類仕事を通じ、精霊たちに指示を与えていた結果だった。
私が誇っていた水精霊も、リリアの風精霊も、アメリアが私たちを「家族」や「婚約者」と認識していたからこそ、その恩恵の余波として寄り付いていただけだったのだ。
彼女がいなくなれば、この国がどうなるか。
アメリアは追放される直前、必死にそれを訴えていた。だが私は、その言葉を「見苦しい言い訳」と切り捨て、彼女の声を完全に無視した。
私自身の手で、この国の命綱を断ち切っていたのだ。
「あ、アメリア……すまなかった! 私が愚かだった! 頼む、この国を救ってくれ! お前は私を愛していたはずだろう!?」
プライドも何もかも投げ捨て、私は彼女の足元に這いつくばった。
彼女の力があれば、もう一度すべてを取り戻せる。彼女は私を愛していた。だから、謝ればきっと許してくれるはずだ。そんな浅はかな期待にすがりついた。
しかし、皇帝クロノスの見えない一撃によって私は壁に吹き飛ばされ、アメリアからは冷酷な国交断絶と魔力供給の完全停止を宣告された。
彼女の瞳には、かつて私に向けられていた温かな愛情の欠片もなかった。ただ、路傍の石ころを見るような、徹底した無関心と冷酷さだけがあった。
空へ舞い上がっていく彼女の後ろ姿を見つめながら、私は血反吐を吐きながら絶叫した。
だが、その声が彼女に届くことは、二度となかった。
アメリアの加護が完全に失われたグランツ王国は、瞬く間に地獄と化した。
水は枯れ、作物は腐り、餓死者が街中に溢れかえった。
防衛結界が消滅したことで、国境の荒野から無数の魔物がなだれ込み、領地は次々と蹂躙されていった。
絶望と飢餓に狂った民衆の怒りの矛先は、当然のごとく王族とローズライト公爵家へと向けられた。
「あの無能な王太子が、国の守り神であったアメリア様を追放したせいだ!」
「我々を騙し、死の淵へ追いやった罪人どもを許すな!」
暴徒と化した民衆は王城の門を打ち破り、雪崩を打ってなだれ込んできた。
近衛騎士たちもまた、魔力を失い、暴徒を止める気力すら失っていた。彼ら自身も家族を飢えで失い、私たち王族を憎悪していたのだ。
私は玉座の裏に隠れて震えていたが、すぐに見つかり、髪を掴まれて引きずり出された。
王冠は踏みにじられ、豪華な衣装は引き裂かれ、私は民衆からの容赦ない暴行を浴びた。
「や、やめろ! 私は王太子だぞ! 次期国王たるこの私に、何という真似を……ぎゃああっ!」
顔面を殴られ、腹を蹴られ、私は血まみれになって泥土を舐めた。
父である国王は心労と恐怖で倒れ、そのまま息を引き取った。
私は大罪人として廃嫡され、王族としての身分をすべて剥奪された。そして、生きたまま永遠の地獄を味わわせるため、最下層の奴隷として鉱山へ送られることになった。
現在、私は両手両足に重い鉄の枷をはめられ、魔物が徘徊する危険な鉱山で、一日中つるはしを振るう生活を強いられている。
かつては水精霊の力で汗一つかいたことのなかった体が、今や泥と汗にまみれ、鞭で打たれた傷が化膿して悪臭を放っている。支給されるのは腐りかけの黒パン一つと、泥水のような飲み水だけだ。
「おい、サボるな元王太子! さっさとその岩を砕け!」
「ひっ……は、はい……!」
監督官の鞭が背中に振り下ろされ、私は悲鳴を上げながらつるはしを振るう。
なぜ、こんなことになってしまったのか。
あの日、アメリアを追放さえしなければ。
彼女の功績を正当に評価し、彼女を王妃として迎えてさえいれば。
私は今頃、豊かな国の国王として、絶対的な権力と繁栄を謳歌していたはずなのだ。
リリアの浅はかな色香と、自分の傲慢さに目が眩んだばかりに、私は自らの手で黄金の未来をドブに捨ててしまった。
「アメリア……アメリア……」
血まみれの手で岩を叩きながら、私は何度彼女の名前を呼んだかわからない。しかし、もう取り返しはつかない。彼女は今頃、クロノス皇帝の隣で、世界で最も幸せな女として微笑んでいることだろう。
その後悔と絶望が、私の心を際限なく蝕んでいく。
一方、私からすべてを奪う原因となったリリアの末路も、悲惨なものだった。
彼女は王都の地下深くにある、光の届かない牢獄に幽閉されていた。
風精霊の加護を失い、自らの魔力も枯渇した彼女は、極度のストレスと栄養失調により、見る影もなく変貌していた。
「ふふふ……私は王妃よ。次期王妃のリリア様よ。皆、私に跪きなさい。私の美しい髪、私の可愛い精霊たち……ふふっ、綺麗でしょう?」
彼女の自慢だったプラチナブロンドの髪は、栄養不足でまだらに抜け落ち、頭皮が醜く露出していた。かつて男たちを魅了した白い肌は乾燥してひび割れ、土気色に変色している。
彼女は狂気に逃げ込んだ。
何もない暗闇の牢獄の中で、見えないドレスの裾を摘み、存在しない参列者たちに向かって優雅に微笑みかけている。
「お姉様? ああ、あの可哀想な無能のお姉様ね。私の残り物を拾って生きていけばいいわ。私がすべてを持っているのだから。ねえ、レオン様? 私を愛していると言って……」
彼女の虚ろな瞳は、もはや現実を映していない。
自分が最も見下していた姉が、実は世界で最も尊い存在であり、自分がその足元にも及ばないただの道化だったという事実を、彼女の脆弱な精神は受け入れることができなかったのだ。
彼女は一生、その暗く冷たい牢獄の中で、存在しない栄光にすがりつきながら、惨めに狂い死ぬのを待つだけである。
そして、私たちをそそのかし、アメリアを直接的に虐待していたローズライト公爵。
彼もまた、絶対的な権力者から最底辺のゴミへと転落していた。
公爵家の財産はすべて国庫に没収され、領地は民衆に奪われた。彼は莫大な借金の責任を一人で負わされ、王都のスラム街へ全裸同然で放り出された。
「ど、どけ! 私はローズライト公爵だぞ! 貴様らのような賎民が、私に触れるな!」
「何が公爵だ。てめえのせいで俺たちの家族は餓死したんだよ!」
「死ね、国賊め!」
スラムの住人たちにとって、国を滅ぼした元凶の一人である彼は、格好の鬱憤晴らしの的だった。
彼は毎日、自分がかつて「汚物」と呼んで見下していた浮浪者たちから凄惨な暴行を受け、泥水を飲まされ、残飯を漁って生き延びるしかなかった。
「アメリア……私のアメリア……! 許してくれ、お前は私の自慢の娘だった……! なぜこんなことに……!」
片目を潰され、歯をすべて折られた彼は、スラムの路地裏で血反吐を吐きながら天を仰いだ。
能力至上主義を掲げ、加護のないアメリアを無能と切り捨てた彼が、今度は自分が「無能」として底辺で踏みにじられる立場になったのだ。
彼がどれだけ泣き叫び、娘に許しを請おうとも、彼を助けに来る者は誰もいない。彼は死ぬまで、飢えと暴力と後悔の中で這いつくばる運命なのだ。
ある日、私たちが繋がれている国境の難民収容所の一角に、突然、巨大な転移魔法陣が展開された。
空間が歪み、そこから現れたのは、神聖クロノス帝国の皇帝クロノスと、彼に大切に抱きしめられたアメリアだった。
眩いばかりの美しさと、圧倒的な魔力。
私は鉄格子にしがみつき、必死に彼女へ手を伸ばした。
リリアも、公爵も、狂ったように彼女に助けを求めた。
「アメリア! 頼む、この地獄から私を救い出してくれ!」
「お姉様、ごめんなさい! 許して!」
「私を帝国へ連れて行ってくれ、アメリア!」
しかし、彼女は私たちを、氷のように冷たく、美しい瞳で見下ろした。
そこには、怒りすらなかった。ただ、路傍の石ころを見るような、徹底した無関心。
「あなたは選ばれなかった」
彼女のその一言が、私の心臓を鋭く貫いた。
あの日、建国祭の夜に、私が彼女に言い放った言葉。
それが今、何万倍もの絶望となって、私自身に突き刺さった。
彼女は皇帝と共に光の中へ消え、私たちの周囲には、皇帝が放った漆黒の呪いの炎が立ち上った。
永遠に消えることのない、精神と肉体を灼き続ける苦痛の炎。
「ぎゃあぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫が荒野に響き渡る。
私たちは、この暗く冷たい死の土地で、互いを呪い、己の愚かさを呪いながら、永遠に続く地獄の業火に焼かれ続けるのだ。
彼女が世界で最も幸福な微笑みを浮かべている、その裏側で。
私たちが捨てたのは、ただの無能な令嬢などではなかった。私たち自身の、未来と命そのものだったのだ。




