第4話 あなたは選ばれなかった。私は最強の精霊王様と共に、永遠の幸福を生きていく
神聖クロノス帝国の朝は、鳥の囀りと、窓から差し込む柔らかい陽光で始まる。
最高級の羽毛布団に包まれた私は、ゆっくりとまぶたを開けた。視界に広がるのは、金と白を基調とした豪奢な天蓋と、天井に描かれた美しい精霊たちのフレスコ画だ。かつてグランツ王国で、夜明け前から冷たい水で顔を洗い、山積みの書類に向かっていた日々が、まるで遠い前世の出来事のように思える。
「おはよう、私の愛しいアメリア。今日も世界で一番美しいね」
耳元で、甘く低い声が囁かれた。
振り返るよりも早く、強靭な腕が私の腰に回され、背中から温かい胸に包み込まれる。最強の精霊王であり、この巨大な帝国を統べる若き皇帝、クロノスだ。彼は私が目覚めるのをずっと待っていたかのように、私の首筋に顔を埋め、陶酔したように深く息を吸い込んだ。
「クロノス……おはよう。あなた、また一睡もしていないの?」
「君の寝顔が愛しすぎて、目を閉じるのが惜しかったんだ。君が私の隣で息をしている、その事実だけで私は満たされる。ああ、今日も君の魔力は甘く、素晴らしい……」
クロノスは私の髪に何度も口づけを落とし、まるで壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめる。彼からの愛は、時に狂気を帯びているほど深く、重い。私がグランツ王国から救い出されて以来、彼は文字通り片時も私から離れようとしないのだ。政務の最中も私を膝の上に座らせ、私が少しでも咳き込めば国中の名医を呼び寄せ、私が庭の花を「綺麗だ」と言えば、その花で国中を埋め尽くそうとする。
それは、かつて誰からも愛されず、利用されるだけだった私にとって、戸惑うほどに過保護で、とろけるほどに甘い日々だった。
「陛下、皇后陛下。朝の支度が整っております。そして、グランツ王国方面より、定例の報告書が届いております」
寝室の扉の向こうから、侍従長の声が控えめに響いた。
グランツ王国。
その名前を聞いても、私の心にはもう、何の感情も湧き上がらなかった。ただの、汚れた過去の遺物。
「ああ、入れ。アメリア、君も聞くかい?」
「ええ、一応ね。私が捨てたゴミ箱が、今どうなっているかくらいは知っておきたいわ」
私の冷たい言葉に、クロノスは「君のその冷酷な声もたまらない」と嬉しそうに微笑み、私を抱き上げたまま長椅子へと移動した。
侍従長が恭しく頭を下げ、分厚い羊皮紙の束を読み上げ始める。
「現在、グランツ王国は事実上、国家としての機能を完全に喪失しております。皇后陛下の加護が消失したことにより、すべての大地は干上がり、農作物は一つ残らず枯死。水源も枯渇し、民衆は泥水をすすって飢えを凌いでいる状況です」
予想通りの惨状だった。
私が無意識に精霊たちに指示を与え、維持していた魔力回路と結界。それが消滅したのだから、当然の結果だ。
「結界の消滅により、北方の魔物群が王都にまで侵入。王国軍はすでに瓦解しており、防衛は不可能です。各地で暴動が頻発し、王族や貴族に対する民衆の怒りは頂点に達しています。国王はすでに心労で倒れ、国政は完全に停止しております」
「ふむ。見事な自滅だな。それで、あの愚か者どもの末路は?」
「はい。元王太子レオン・フォン・グランツは、国を破滅に導いた大罪人として廃嫡されました。怒り狂った民衆によって王城から引きずり出され、現在は奴隷身分に落とされております。毎日、魔物が徘徊する鉱山で、足枷をつけられたまま強制労働をさせられているとのことです」
かつて私を無能と嘲笑い、傲慢に胸を張っていたあの男が、泥に塗れて奴隷として働いている。
その光景を想像しても、私の胸には微かな哀れみすら浮かばなかった。ただ、それが当然の報いだと感じるだけだ。
「リリア・ヴァン・ローズライトについては、加護を完全に失ったことで精神に異常をきたしております。極度のストレスと栄養失調により、自慢だったプラチナブロンドの髪は抜け落ち、肌はひび割れ、かつての美貌は見る影もありません。現在は王都の地下牢に幽閉され、誰もいない虚空に向かって『私は王妃よ、私を敬いなさい』と叫び続けているそうです」
いつも悲劇のヒロインを装い、私からすべてを奪うことに悦びを感じていた妹。彼女の最大の武器であった美貌と加護が失われた今、彼女に残されたのは惨めな狂気だけだった。
「そして、ローズライト公爵ですが……全財産を国庫に没収され、莫大な借金を背負わされました。現在は王都のスラム街に捨てられ、かつて彼がゴミのように見下していた浮浪者たちから暴行を受けながら、残飯を漁って生き長らえているとのことです」
権力と能力至上主義の権化であった父。私を家門の恥と罵り、暴力で押さえつけていた彼が、今や自分が最も軽蔑していた底辺の泥水の中で這いつくばっている。
「素晴らしい報告だ。だが、これだけではまだ足りないな。彼らが私の最愛のアメリアに与えた苦痛は、こんなものでは清算できない」
クロノスは不満げに目を細め、指先でトントンと肘掛けを叩いた。
「アメリア、彼らの惨めな姿を、直接見に行かないか? 君が望むなら、今すぐあのゴミ山へ連れて行ってやろう。君の目の前で、彼らに永遠の絶望を与え、完全に息の根を止めることもできる」
クロノスの提案に、私は少しだけ考えた。
彼らに会う価値など、すでにない。しかし、彼らが自らの罪の重さを完全に理解し、二度と這い上がれない絶望の底にいることを、この目で確認して、私の中の過去を完全に終わらせるのも悪くないかもしれない。
「……そうね。一度だけ、彼らの顔を見ておきたいわ。私がどれほど幸福か、彼らに教えてあげるために」
「ああ、君の望む通りに」
クロノスが指を鳴らすと、私たちの足元に巨大な転移魔法陣が展開された。
空間が歪み、一瞬にして周囲の景色が黄金の宮殿から、悪臭と砂埃が舞う荒野へと切り替わった。
そこは、かつて私が追放された国境付近の荒野だった。
しかし、あの時とは状況が全く異なっていた。そこには、グランツ王国から逃げ出してきた難民たちの粗末な収容所が広がっており、その一角に、重罪人として繋がれた者たちの檻が置かれていた。
帝国の皇帝と皇后の突然の降臨に、周囲にいた兵士や難民たちは恐怖に顔を引き攣らせ、一斉に地面に平伏した。
「さあ、見ろ。君を不当に扱った愚か者どもの末路だ」
クロノスが指差した先。
錆びついた鉄格子の向こうに、ボロ布を纏い、泥と汚物に塗れた三つの人影が転がっていた。
「……アメ……リア……?」
かすれた、ひび割れた声。
鉄格子にしがみつくようにしてこちらを見上げたのは、レオンだった。
かつての金糸のような美しい髪は泥で固まり、青い瞳は絶望と疲労で濁りきっている。体は痩せこけ、鞭で打たれた無数の傷跡から血が滲んでいた。
「お姉……様……?」
レオンの足元で、うずくまっていた塊が顔を上げた。
それがリリアだと認識するのに、数秒かかった。彼女の自慢だったプラチナブロンドの髪はまだらに抜け落ち、頭皮が覗いている。頬はこけ、目は落ち窪み、まるで老婆のような醜悪な姿に成り果てていた。
「アメリア! おお、アメリア! 私の娘よ!!」
最も激しく反応したのは、公爵だった。
彼は狂ったように鉄格子にすがりつき、泥だらけの手を私に向けて必死に伸ばしてきた。
「助けてくれ、アメリア! 私は間違っていた! お前こそが我が家の誇りだったのだ! あの無能なリリアになど騙されて、私としたことが何と愚かな判断をしたことか! 頼む、私を帝国に連れて行ってくれ! お前の父として、優雅な暮らしをさせてくれ!」
「お、お父様……ひどい……私を、見捨てるの……?」
「黙れ、この疫病神が! お前が殿下を誘惑などしなければ、我が家はこんなことにはならなかったのだ!」
公爵はリリアの顔面を蹴りつけ、醜い責任の擦り合いを始めた。リリアは悲鳴を上げて床を転がり、血反吐を吐きながら泣き叫ぶ。
「アメリア……っ! 私も、私が悪かった! お前がどれほど私のために尽くしてくれていたか、今なら痛いほどわかる! この国が滅びたのは、私がお前を失ったせいだ! 頼む、もう一度私を愛してくれ! お前の力で、私をもう一度王にしてくれ!」
レオンもまた、鉄格子に額を打ち付けながら、涙と鼻水を垂れ流して命乞いをしてきた。
「私はお前を愛していたんだ! ほんの少し、魔が差しただけなんだ! リリアの加護に騙されただけなんだ! お前だけが私の真実の愛だ! だから、この地獄から私を救い出してくれ……っ!」
彼らの醜悪な姿、自己中心的な言葉、見苦しい命乞い。
私はクロノスの腕に抱かれたまま、その光景を氷のように冷ややかな目で見下ろしていた。
かつては、彼らに少しでも認めてほしくて、必必死に努力していた。彼らの冷たい言葉に傷つき、涙を流した夜もあった。
しかし、今はもう、怒りすら湧かない。
ただ、どこまでも滑稽で、底知れぬほど哀れな生き物に見えた。
「……あなたたち、本当に何もわかっていないのね」
私の静かな声が、荒涼とした空気に冷たく響いた。
レオンたちが、ハッと息を呑んで私を見上げる。
「私を愛していた? 私が家族の誇りだった? 笑わせないで。あなたたちが愛していたのは、私がもたらす『恩恵』と『便利さ』だけよ。あなたたちは最初から最後まで、私という人間を見てはいなかった」
「そ、そんなことはない! アメリア、私は……」
「黙りなさい」
私が冷たく言い放つと、私の周囲に付き従っていた高位精霊たちが一斉に殺気を放ち、その重圧だけでレオンたちは地面に顔を押し付けられた。
「私がどれほど血を吐くような思いで国を支えていたか。あなたたちがどれほど私の善意に寄生し、搾取していたか。それを当たり前だと思い上がり、私を無能と嘲笑って捨てたのはあなたたち自身よ。私が荒野で一人凍えていた時、あなたたちは私の悲鳴に耳を傾けた? 私の痛みに寄り添った? いいえ、あなたたちは私の破滅を笑いながら、祝杯を挙げていたわよね」
冷たい事実の羅列が、彼らの心臓を抉っていく。
「今更、泥水の中で泣き喚いて許しを乞うなんて、本当に見苦しいわ。あなたたちが今味わっている地獄は、あなたたち自身が選び取った道よ」
「アメリア……っ、頼む、許してくれ……許してくれぇ……っ!」
レオンが狂ったように土下座を繰り返し、リリアが「お姉様、お姉様」と壊れたように呟き、公爵が絶望に顔を歪めて嗚咽を漏らす。
私は、彼らへの最後の宣告として、ゆっくりと、はっきりと口を開いた。
「あなたは選ばれなかった」
それは、かつて彼らが私に投げつけた言葉。
それをそっくりそのまま返し、私は彼らから視線を外した。
「クロノス、もういいわ。完全に満足した。彼らの顔は、二度と私の視界に入れないで」
「ああ、君の心が晴れたのなら何よりだ。私の愛しいアメリア」
クロノスは残酷な笑みを浮かべ、レオンたちを見下ろした。
「貴様らのような塵芥に、死という安息は生ぬるい。その呪われた命が尽きるまで、精霊の加護が一切届かぬこの死の土地で、泥を舐め、互いを憎み合い、永遠の後悔と絶望の中で狂い死ぬがいい。私の妻の美しい瞳に触れたことだけが、貴様らの人生の唯一の価値だったと思い知れ」
クロノスの宣告と共に、レオン、リリア、公爵の周囲に漆黒の炎が立ち上り、彼らを檻ごと包み込んだ。それは彼らを焼き殺すものではなく、未来永劫、彼らの精神と肉体に消えることのない苦痛を与え続ける呪いの炎だった。
彼らの絶叫が荒野に響き渡る。
鼓膜を破らんばかりの断末魔の叫び。しかし、私には何の感慨もなかった。ただ、一陣の風が吹いて、過去の塵が吹き飛ばされたような、清々しい解放感だけがあった。
「帰ろう、私の皇后。我々の楽園へ」
「ええ、帰りましょう。クロノス」
転移魔法陣が再び光り輝き、私たちは地獄と化したグランツ王国を後にした。
彼らの絶叫は、光の彼方へと消え去り、二度と私の耳に届くことはなかった。
空間の歪みを抜け、気がつけば、私たちは再び神聖クロノス帝国の美しい後宮の庭園に立っていた。
色とりどりの薔薇が咲き乱れ、清らかな水が噴水から溢れ出し、光の精霊たちが祝福のダンスを踊っている。
先ほどの荒涼とした地獄とは正反対の、世界で最も美しく、豊かな場所。
「アメリア……」
クロノスは私を強く、息が詰まるほど強く抱きしめた。
彼の体温と、力強い心臓の鼓動が伝わってくる。
「私は、君を愛している。世界中のどんな宝よりも、どんな権力よりも、ただ君だけが愛おしい。君の過去の傷をすべて癒し、君が二度と涙を流さなくていいように、私のすべてを君に捧げる。君は、私がいなければ息もできないほどに、私に溺れてくれればいい」
彼の深紅の瞳には、狂気的なまでの執着と、海よりも深い愛情が渦巻いていた。
かつての私なら、これほど重く激しい愛に戸惑い、恐れたかもしれない。
しかし、今の私にとって、彼のこの狂おしいほどの愛こそが、何よりも確かな救いであり、至上の幸福だった。
「クロノス……私も、あなたを愛しているわ」
私が彼の首に腕を回し、そっと微笑みかけると、クロノスは感極まったように顔を歪め、私の唇を塞いだ。
甘く、深く、魂の底まで溶かされるような口づけ。
風が薔薇の花びらを舞い上げ、精霊たちが歓喜の歌を歌う。
もう、誰かのために自分をすり減らす必要はない。
「善意」も「忍耐」も、私を縛る鎖にはならない。
私は「精霊王の真嫁」として、そして神聖クロノス帝国の皇后として、最強の精霊王様からの極上の溺愛を一身に受けながら、この世界の中心で、永遠の幸福を生きていく。
私を捨てた愚か者たちが、泥濘の中で永遠の絶望に泣き叫んでいることなど、もう私の美しい人生には、一欠片の影も落とさないのだから。




