第1話
悲鳴が上がった。予定より早い。
ニナは手袋の縫い目を親指でなぞり、口元に笑みの角度を作った。傲慢に見えて、品は崩さない。鏡の前で数えきれないほど繰り返した形がある。
広間の中央では、男爵令嬢が袖を押さえて立ち尽くしていた。淡い水色の絹に、赤黒い染みが肘まで伸びている。楽団が音を失い、視線が、申し合わせたようにニナへ集まる。
(順調。あとは殿下が台本を読み上げるだけ)
糾弾、婚約破棄、退場。段取りは頭の帳面に書いてある。膝から崩れるときは左脚を先に折る。涙は会場の熱気で足りる。身に覚えのない罪状を諳んじるのも、仕事のうちである。
第三王子ジークフリートが、人垣を割って歩み出た。
「あら、殿下」ニナは声に棘を乗せた。「その娘、踊りの前に飲み物を浴びる作法を、どこで覚えたのかしら」
挑発は十分。罪状は揃った。さあ。
ジークフリートは、ニナの前を素通りした。
令嬢の袖を取り、染みに鼻を近づける。
「葡萄酒ではないな。李の蜜だ。砂糖が入っている分、乾くと落ちない」
「……は?」
「おい、誰か。湯と白布を。塩は要らない、李には効かない」
控えの小姓が走り出す。広間が、糾弾の舞台から洗い場の相談に変わっていく。
男爵令嬢は王子とニナを交互に見比べて、泣いてよいものか決めかねている。
ニナは笑みの角度を保ったまま、半歩前に出た。
「殿下。袖を払ったのは、わたくしですわよ」
「君の手袋は乾いている」
王子は染みから目を上げずに答えた。それから初めてニナを見た。
「東の控えの間に、洗い桶はあるか」
「厨房脇の通用口を抜けて、左に折れた先」
そこまで言って、ニナは口を閉じた。公爵家の令嬢が知っていてよい知識ではない。
ジークフリートは怪しまなかった。頷き、令嬢を女官に預け、楽団へ目配せをひとつ。何事もなかったように、円舞が床を埋めていく。
遠くで、漆塗りの扇が音を立てて閉じられた。誰の手のものかは、確かめるまでもない。
「いい夜会だ」立ち去り際、王子は言った。「誰も泣かずに済む」
それは、台本のどの行にもない台詞である。
ニナは頭の中の帳面を開き、今夜の報酬の欄に横線を一本引いた。それから原因の欄に、書き足しておく。染み抜き、と。




