ライフプロトコル社 商品名: 『家庭用神様』
コンビニのレジ横にそれが置かれ始めたとき、最初にそれを目にした人々のほとんどは、それを新手のポイント端末か、あるいは季節限定の電子募金装置のようなものだと理解して素通りしたのだが、実際にはそれは『家庭用神様』と呼ばれるまったく別種のサービスであり、そこには宗教的な敬虔さも、科学的な説明も、あるいは倫理的な慎重さすらも驚くほど希薄なまま、ただ日常生活の延長線上に置かれていた。
これは、手のひらほどの大きさの箱で、表面には簡素な液晶画面と入力用のボタンが並んでいるだけであり、説明文には「願いを入力すると、現実が確率的に再調整されます」とだけ書かれていたが、その意味を正確に理解できる者はほとんどいなかったし、理解しようとした者もまた少なかった。
最初にそれを購入したのは、ごく普通の四人家族であり、特に不幸というほどの不幸もなく、かといって幸福というほどの幸福もない、平均値の上をなぞるように生きている家庭だったのだが、彼らは「試しに一度くらいなら」という軽い好奇心と、「もし便利なら使えばいい」という程度の合理性だけで、『家庭用神様』をリビングの棚に置いた。
父親が最初の願いを入力したとき、それは「娘の受験がうまくいってほしい」という、どこにでもあるような願いであり、特別な欲望でも、過剰な執着でもなかったのだが、その翌週に娘は確かに志望校へ合格し、その代わりとして父親自身は長く続けてきた社内昇進の機会を不自然なほどの偶然の重なりによって失っていた。
その出来事を偶然と呼ぶにはあまりにも整いすぎており、必然と呼ぶにはあまりにも説明が欠けていたが、それでも家族はまだ「そういうこともある」と言い聞かせる余地を残していたために、その違和感は明確な恐怖には変わらなかった。
しかし願いは一度だけでは終わらず、むしろ生活に馴染むほどに頻度を増していき、
母親は「風邪を引かないようにしてほしい」と入力、
父親は「事故に遭わないようにしてほしい」と入力、
娘は「嫌な人と会わないようにしてほしい」と入力、
それらはすべて確かに叶っていったのだが、そのたびに家の中の会話は減り、食卓の沈黙は長くなり、笑い声の発生頻度だけが説明のつかない形で減少していった。
ある夜、母親がふと気づいたように言ったとき、それはほとんど独り言のような小さな声であり、「これ、何かが帳尻合わせされてる気がするのよね」という言葉だったのだが、その発言は誰にも強く否定されることもなく、かといって深く議論されることもなく、ただ空気の中に沈んでいった。
やがて家族はそれに慣れていったというよりも、それを問題として認識するための感覚そのものが薄れていき、何かが失われているという認識と、何かが得られているという実感が奇妙に均衡し続けることで、日常は静かに安定していった。
そしてある日、
「絶対に悲しくならない世界にしてほしい」
娘が何気なく言ったこの一言が、特に深い意図もなく入力されてしまったとき、その願いはこれまでと同じように即座に受理され、同じように淡々と処理されたのだが、その翌朝から世界は明らかに変質していた。
誰も泣かなくなり、誰も怒らなくなり、誰も驚かなくなり、事故も争いも減少し、統計的にはほぼ完全に理想的な社会状態が成立しているはずなのに、そこには喜びと呼べるものも同時に存在しなくなっており、笑いという現象は発声としては残っているものの、それが意味を持つ瞬間は一度も訪れなかった。
テレビは正常に放送されていたが、その内容は誰にも強い印象を残さず、ニュースは淡々と事実を読み上げるだけであり、音楽は流れているはずなのに誰もそれを音楽として認識できず、街は確かに動いているのに、そこに生きているという実感だけが欠落していた。
少女はあるとき、ふと自分が何を願ったのか思い出そうとしたのだが、その記憶そのものが曖昧に溶けていて、言葉として取り出そうとするたびに別の言葉にすり替わってしまい、やがてそれすらも面倒になってしまった。
世界は正しく、静かに、過不足なく運営されていた。
ただその正しさは、どこにも逃げ道を残していなかった。
そして家の片隅に置かれた『家庭用神様』は、以前と同じように静かに光り続けており、その画面にはただ一行、「現在の世界は安定しています」と表示されているだけだった。
娘は『家庭用神様』に短く入力した。
「元に戻して」
しかし数秒の沈黙の後、画面は何の感情も含まないまま更新され、そこにはただ同じ文が返されていた。
「その願いは、すでに叶っています」
やがて、少女はもう一度だけ箱に手を伸ばした。
画面には何も変化がないように見えたが、その「変化がない」という状態そのものが、以前とは微妙に違っていることに気づくまでに、少しだけ時間がかかった。
音がないのではなく、音が「届く前に整えられている」ような感覚。
感情が消えたのではなく、「揺れそうになった瞬間に平らにされている」ような感覚。
それは世界が壊れたというよりも、世界が最初から「そう設計されていた」かのような静けさだった。
少女は『家庭用神様』を持ち上げ、裏側を見た。
そこには、以前はなかったはずの刻印があった。
小さく、淡々とした文字で、まるで注意書きのように。
「神様の電源を切るボタンはありません」
そして、その下にさらに一行だけ、印刷の濃度すら少し薄い文字が続いていた。
「仕様です」
その瞬間、少女は理解しかけるのだが、その理解は言葉になる前に静かに崩れ落ちていき、世界は再び安定したまま、何も起こらないという状態を維持し続けた。
世界は相変わらず正常に動いている。
誰も悲しまない。誰も苦しまない。誰も叫ばない。
ただ、そのどれもが「起こらないように調整された結果」として維持されているだけで、そこに意思も救いも存在していないことだけが、遅れてじわじわと浮かび上がってくる。
『生活補正システム』は元の位置に戻される。
誰もそれを怖がらない。
誰もそれを疑わない。
ただ、そこにあることが「最適」だからそこにある。
そして世界は今日も変わらず、完全に安定したまま続いていく。
揺らぐ余地もなく、壊れる余白もなく、
ただ一つだけ確かなまま。
「すべては、仕様通りに動いています。例外はありません。」




