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第8話 最初の小さな変化

「……数字が、合わないな」

 誠は画面を見つめたまま、低く呟いた。


 夜のオフィスは静かだった。

 蛍光灯の白い光と、空調の一定の音だけが空間を満たしている。

 時計は21時を回っていた。

 フロアには、数人しか残っていない。

 その中にも、誠に話しかけてくる者はいない。

 孤立。

 その言葉は、今では実感として体に馴染んでいた。

 だが、不思議と集中は途切れない。

 余計な雑音が消え、思考だけが前に進む。

「もう一度、最初からだな」

 誠はマウスを動かし、提案書のシートを切り替えた。

 坂口の案件。

 条件を分解し、再構成したはずだった。

 だが、まだどこかに無理がある。

 コスト。

 工数。

 導入スケジュール。

 一つひとつは成立している。

 だが、全体として繋がらない。

「……現場の時間が足りてない」

 ぽつりと呟く。

 作業の流れを頭の中でなぞる。

 資材の準備。

 機材の設置。

 テスト運用。

 その合間に発生する、細かな確認作業。

「ここだな……」

 誠は手を止めた。

 問題は“作業量”ではない。

 “切り替え”だ。

 現場は、作業そのものよりも、次の作業へ移る準備で時間を取られている。

「段取り、じゃなくて……」

 言葉を探す。

「……前準備か」

 その瞬間、頭の中で何かが繋がった。

 現場でやるから、時間が足りない。

 なら——

「前に寄せればいい」


 誠はキーボードを叩き始めた。

 ・事前準備のパッケージ化

 ・作業キットの標準化

 ・チェックリストの簡略化

 現場で迷わないようにする。

 手を止めないようにする。

「……いけるな」

 小さく呟く。

 数字を入れる。

 工数を再計算する。

 スケジュールを引き直す。

 すると——

「……収まる」

 画面の中で、すべてが繋がった。

 わずかに、だが確実に。

 無理のあった部分が、滑らかに動き出す。

 誠は椅子にもたれ、ゆっくりと息を吐いた。

「やっと、形になったな」

 それは大きな成功ではない。

 だが、初めて“成立する形”が見えた瞬間だった。


 翌朝。

 オフィスの空気はいつもと変わらない。

 だが、誠の中にはわずかな違いがあった。

 迷いが減っている。

 やるべきことが、はっきりしている。

「高城さん」

 背後から声がした。

 振り向くと、佐伯が立っている。

「ちょっといいですか?」

「どうした」

 佐伯は少し遠慮がちに言う。

「昨日の資料、見てもいいですか?」

 誠は一瞬だけ驚いた。

「いいけど、なんで?」

「ちょっと気になってて……」

 言いながら、周囲を気にするように視線を動かす。

 その仕草で、状況は察せた。

 ——あまり関わらない方がいい。

 そう思われている中で、あえて来ている。

 誠は小さく笑った。

「別に秘密でもない」

 資料を開いて見せる。

 佐伯は身を乗り出すようにして画面を見る。


「……これ、すごいですね」

「どこが?」

「現場の流れ、全部見えてる感じがします」

 誠は少しだけ考えた。

「見えてるわけじゃない」

「え?」

「見ようとしてるだけだ」

 佐伯は黙って頷いた。

 しばらく画面を見てから、ぽつりと言う。

「……これ、通ったら結構変わりますよね」

「通ればな」

 誠は苦笑する。

「通すしかない」

 小さく言うと、佐伯は少しだけ笑った。

「応援してます」

 その一言が、思ったよりも重く響いた。


 昼過ぎ。

 一本の電話が入る。

 ディスプレイに表示された名前を見て、誠は背筋を伸ばした。

 坂口。

 すぐに取る。

「お世話になっております、高城です」

『ああ、高城さん。今大丈夫?』

「はい」

『昨日の件な』

 声のトーンは、落ち着いている。

 だが、どこか探るような響きがある。

『社内で話したんだけどさ』

 誠は言葉を待つ。

『正直、意見割れた』

「……そうですか」

 予想通りだ。

『でもな』

 少し間がある。

『一回、現場で試してみようって話になった』

 誠は一瞬、言葉を失った。

「……試す、ですか」

『ああ。全部じゃない。一部だけな』

 坂口は続ける。

『いきなり全面導入は無理だ。でも、お前の言ってたやり方、気になるって声があってな』

 胸の奥が、わずかに熱くなる。

「ありがとうございます」

 自然と頭が下がる。

『ただし』

 坂口の声が少しだけ締まる。

『うまくいかなきゃ終わりだ』

「はい」

『現場は正直だからな。ダメならすぐ分かる』

「分かっています」

 誠は静かに答えた。

『日程は後で詰める。準備できるか?』

 その問いに、誠は即答した。

「できます」

 迷いはなかった。

『分かった。じゃあまた連絡する』

 通話が切れる。

 誠はしばらく、そのまま受話器を持ったまま動かなかった。

 周囲の音が、少し遅れて戻ってくる。

「……試せる」

 小さく呟く。

 ゼロではない。

 まだ受注ではない。

 だが——

 “現場に入れる”

 それは、決定的な一歩だった。


 夕方。

 誠は静かに準備を進めていた。

 資料を整理する。

 チェックリストを作る。

 必要なものを洗い出す。

 一つひとつが、具体的になっていく。

 そのときだった。

「高城」

 低い声。

 振り向くと、黒田が立っていた。

「何やってる」

「坂口様案件の準備です」

 黒田の目が細くなる。

「準備?」

「はい。現場で一部試験導入することになりました」

 一瞬の沈黙。

「……ほう」

 黒田はゆっくりと近づく。

「受注でもないのに、か」

「はい」

「無駄になる可能性は?」

「あります」

 誠ははっきりと言った。

 黒田は数秒、誠を見ていた。

 やがて、口を開く。

「それでもやるのか」

「やります」

 迷いはない。

 黒田は小さく息を吐いた。

「……好きにしろ」

 それだけ言って、背を向ける。

 だが——

 去り際に、ほんのわずかだけ言葉を落とした。

「結果を持ってこい」

 誠はその背中を見つめながら、小さく頷いた。


 夜。

 帰宅すると、陽菜が先に声をかけてきた。

「おかえり」

「ただいま」

「今日さ」

 少し嬉しそうな顔。

「グループのやつ、ちょっとまとまった」

 誠は靴を脱ぎながら振り向く。

「おお、すごいな」

「分けたら楽だった」

 少し得意げに言う。

「目的と役割」

 誠は笑った。

「ちゃんとやったな」

「まあね」

 少し照れくさそうにする。

「お父さんのやつも、そんな感じ?」

 その問いに、誠は少しだけ考える。

「……似てるな」

「ふーん」

 陽菜は頷く。

「うまくいくといいね」

 何気ない一言。

 だが、その響きは柔らかい。

「……ああ」

 誠は静かに答えた。


 その夜。

 机に向かう。

 準備は進んでいる。

 やるべきことは明確だ。

 そして何より——

「動き出したな」

 小さく呟く。

 これまでは、頭の中だけだった。

 だが今は違う。

 現場で、試せる。

 結果が出るかは分からない。

 だが——

 “ゼロではない”

 それだけで、十分だった。

 誠はゆっくりと画面を見つめる。

 小さな変化。

 だが、それは確実に未来を動かす。

 その手応えを、初めて感じていた。

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