「私たち」としての、はじまり
怜は自らの過去を悔い、澪もまた「守っていたのはひなたではなく、自分だった」と気づく。
意を決した澪は、自分が元は男性だったという秘密を初めて怜へ打ち明けた。
驚きながらも受け止めようとする怜は、澪に「ひなたへ伝える練習をしよう」と提案する。
昼休みのたびに想いを言葉にする中で、澪は謝罪とは許しを求めるためではなく、自分の過ちと向き合うことだと知る。
勇気を振り絞り、ひなたへ連絡しようとしたその時、スマートフォンに一通の通知が届く。
「明日話したいことがある」と、ひなたからのメッセージが、止まっていた二人の時間を再び動かし始めた。
翌朝。
制服に袖を通し、鏡の前に立つ。
何度も考え直した言葉を頭の中で繰り返す。
大丈夫、もう逃げない。
そう言い聞かせても、胸の鼓動だけは少しも落ち着かなかった。
家を出て、いつもの通学路を歩く。
見慣れた景色。
聞き慣れた電車の音。
それなのに、今日だけは何も頭に入ってこない。
考えるのは、放課後のことばかりだった。
教室へ入ると、ひなたと目が合ったけれど、お互い何も言わない。
私は静かに自分の席へ向かった。
授業が始まり、先生の声が教室に響く。
ノートを開き、黒板を見る。
何を書いたのか、ほとんど覚えていない。
気付けば一限目が終わっていた。
二限目。
三限目。
時計の針だけが、やけにゆっくり進んでいるように感じる。
昼休みになっても、私は席を立たなかった。
ひなたは詩乃とみさきの三人で教室を出ていく。
私はその背中を見送ることしかできなかった。
話しかけたい。
でも。
全部、放課後に伝えると決めた。
だから今は、何も言わない。
午後の授業も、気が付けば終わっていた。
ホームルーム。
先生の話は耳に入らない。
膝の上で握った拳には、じんわりと汗が滲んでいた。
「それじゃあ、終礼終わります。」
チャイムが鳴ると同時に教室が一気に騒がしくなる。
椅子を引く音。
笑い声。
部活へ向かう生徒たち。
その喧騒の中で、私はゆっくりと立ち上がった。
教室の前を見ると、ひなたも同じように静かに立ち上がっていた。
目が合うとほんの一瞬だけ、ひなたは小さく頷く。
私は何も言わずに頷き返した。
二人は教室を後にした。
向かう先は――誰もいない、あの空き教室だった。
ひなたが一歩先に歩き、私はその少し後ろをついていく。
ひなたの背中は、いつもより少しだけ遠く感じる。
何か話した方がいいのかな。
そう思って口を開きかける。
けれど、言葉は喉の奥で止まり、ただ足音だけが静かに廊下へ響く。
コツ、コツ、コツ。
歩幅を合わせているわけじゃない。
それでも、不思議と足音だけは重なっていた。
階段を上り、廊下を曲がると、人の気配が少しずつ遠ざかっていく。
窓からは夕日が差し込み、長い影を廊下へ落としていた。
誰もいないあの空き教室の前で、二人は足を止めた。
ひなたはゆっくりとドアへ手を伸ばす。
一瞬だけ深呼吸をして。
静かに扉を抜けた。
二人しかいない教室を、窓から差し込む夕日が、淡い茜色に染めていた。
ドアが閉まる音だけが、静かに響く。
ひなたは教壇の前まで歩くと、ゆっくり振り返った。
私は少し離れた場所で立ち止まる。
いざひなたを前にすると、何から言い出せばいいのか分からなくなり、何を話せばいいのかも分からなくなってしまった。
静寂だけが、二人の間を流れていた。
私は意を決して息を吸う。
「「あの……」」
重なる声。
二人とも驚いたように顔を上げる。
一瞬だけ目が合って。
張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
ひなたは小さく息を吐き、どこか困ったように笑う。
「……ごめん」
「え……?」
思わず聞き返すと、ひなたは視線を少し伏せたまま、小さく口を開いた。
「先、私から話してもいい?」
私はゆっくり頷く。
「……うん」
ひなたは胸の前でぎゅっと手を握り、覚悟を決めるように深く息を吸った。
「……この前は、ごめん」
「澪の…澪ちゃんの話もちゃんと聞かずに」
澪は小さく首を振る。
「ううん、違う」
「謝るのは、私だから」
澪は一度目を閉じ、深く息を吸う。
「全部、話すね」
その一言から、澪は自分の過去を話し始めた。
朝、目を覚ましたら女性になっていたこと。
原因は今でも分からないこと。
昔は男として生活していたこと。
そのまま学校へ通えなくなり、転校してきたこと。
誰にも言えず、一人で抱え続けてきたこと。
そして。
「……私は。」
澪は自分の震える手を強く握り締める。
「秘密が知られたら、全部が終わると思ってた」
「だから、誰にも言えなかった」
「ひなたにも」
澪は苦しそうに笑う。
「守ってるつもりだった」
「話したら、きっと離れていくって」
「だから黙ってた」
澪は首を横に振る。
「……でも違った」
「守ってたのは、ひなたじゃない」
「嫌われたくない、自分だった」
「全部、自分のことしか考えてなかった」
空き教室に沈黙が落ちる。
ひなたは何も言わずにただ、静かに澪を見つめていた。
「ごめん。」
「本当に、ごめん。」
その声は震えていた。
少しの間を置いて、ひなたがゆっくりと口を開く。
「……わたしね」
小さく息を吸う。
「秘密が、怖いの」
澪は顔を上げる。
「昔、自分の秘密がきっかけで……大切な人との関係を失いかけたことがあったの」
「だから」
「写真を見た時」
「また秘密なんだ、って」
少しだけ目を伏せる。
「澪ちゃんが男だったことも、もちろん驚いたよ」
「でも、それ以上に」
「わたしはまた、大切な人との間に秘密があることが怖かった」
澪は何も言えない。
言葉が見つからなかった。
ひなたは言葉を続ける。
「だから、逃げたの」
「ちゃんと話も聞かないで」
「傷付く前に、澪ちゃんを遠ざけようって」
ひなたは自嘲するように笑う。
「最低だよね」
「そんなことない」
澪はすぐに否定した。
「私の方が本当に……」
「違うよ」
ひなたは澪の言葉を遮るようにゆっくり首を振る。
「わたしたち」
「二人とも、秘密に振り回されてただけだったんだと思う」
その言葉に、澪は目を見開く。
「秘密が悪いんじゃなかった」
「向き合えなかったことが、苦しかった」
夕日が二人を照らす。
長かった沈黙が、少しだけ優しいものに変わっていく。
ひなたが微笑む。
「…もう怖くない、とはまだ言えない」
「でも」
「今の澪ちゃんは、逃げなかった」
「ちゃんと私を見て、話してくれた」
一歩。
ひなたが澪との距離を縮める。
「だから」
「もう一回だけ」
「澪ちゃんを信じたい」
澪の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……ありがとう。」
震える声で、それだけを口にすると、澪はもう言葉を続けられなかった。
隠し続けてきた過去。
逃げ続けてきた自分。
全部受け止めてもらえた安心感が、涙になって溢れていく。
ひなたはそんな澪を見つめ、小さく笑った。
「約束しよ」
「もう、一人で抱え込まないこと」
「わたしも、あなたも」
澪は何度も頷く。
「うん……約束する。」
その返事を聞いて、ひなたはゆっくりと澪との距離を縮めた。
ただ真っ直ぐに澪の瞳を見つめ、少しだけ背伸びをして。
ゆっくりと手を伸ばし、澪の制服の襟元をそっと掴む。
逃がさないように。
そして、自分も逃げないように。
「ひ、ひなた……?」
突然近付いてきたひなたに、澪は戸惑う。
けれど、ひなたは何も言わず、静かに目を閉じた。
二人の距離が、ゆっくりと近付いていき。
唇が、そっと重なった。
どれくらいの時間が経ったのかは分からないが、お互いの想いを伝えるには十分すぎる時間だった。
唇が離れると、澪は呆然としたまま、ひなたを見つめる。
「えっと……いまのって……」
ひなたの頬も真っ赤だった。
恥ずかしそうに視線を逸らしながら、小さく笑う。
「誓いのキス…みたいな?」
その笑顔を見た瞬間。
澪の瞳から、また涙が零れ落ちた。
ひなたは困ったように笑って、その涙を指先で優しく拭う。
「もう、そんなに泣かないで」
「……ごめん、嬉しくて」
「ふふっ」
「今日は謝ってばっかり」
二人は顔を見合わせ、思わず笑った。
さっきまで感じていた距離は、もうどこにもなかった。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと茜色へと変わっていく。
そして。
初めてのキスは、涙の味がした。
数年後。
段ボールが置かれている玄関前で、ひなたが少し立ち止まる。
「……どうしたの?……入らないの?」
声がした方に振り返ると、荷物を持っていた澪がいた。
ひなたは苦笑する。
「なんかさ」
「今日からここが『帰る場所』なんだって思ったら、急に実感湧いちゃって」
澪は笑い、あの日のことを思い出したように。
ゆっくり手を差し出す。
「緊張してる?」
澪はそう言うと、そっと私の手を握った。
「大丈夫だって。さ、行こ?」
わたしはその手に引かれるまま、新しい暮らしの扉をくぐった。
これから先も、嬉しいことばかりじゃないかもしれない。
悲しい日も。
苦しい日も。
きっとある。
それでも。
もう、どちらかが前を歩くことはない。
もう、どちらかが、一人で背負うこともない。
私たちはこれからも、隣で笑い合いながら、同じ歩幅で歩いていく。
これは、心と心が重なるまでの物語。
そして、その先の物語。
完
ここまで読んでいただき本当にありがとうございました!感想などいただけると、とても励みになります!
この作品は私の処女作で、正直挫折して途中で辞めるかなとか、思いながら書いていましたが、皆さんのリアクションや感想、ブックマーク、評価など、一つ一つが書き続ける大きな気力になりました。ここまで書き切ることができたのは、最後まで見届けてくださった皆さんのおかげです。本当に本当にありがとうございました。
現時点で新たな物語を書くかはまだ未定ですが、もしまた新しい物語を書く日が来たら、そのときはまた皆さんに読んでいただけたら、とても嬉しいです。またどこかでまた、新しい物語をお届けできる日を願っています。
最後になりますが、澪とひなたを見届けてくださり、本当にありがとうございました。




