後篇:桜舞い散る中に置いていく記憶と
僕は時々、こういった桜が縁を結ぶ偶然の交流を楽しむ。
今年は早くから咲いたのもあり、既に数人の異邦者との巡り合わせがあった。
時には近所の奥さん数人と共に、庭に案内することもある。
僕が寂しがってると思っているのだろう。奥さん連の中には、「再婚は考えていないのかい?」と訊いてくれる人もいる。
だが僕は今が充分幸せなのだ。だから妻の籍も抜いていない。
もう失踪から十年以上経っているが、妻は僕の妻のままだ。
その日の朝やって来た彼女は、傷心旅行だと言った。誰にも、同居している家族にすら、行き先を伝えなかったのだと。
「もっとも、伝えなかったのではなく、特に行き先を決めていなかったのだけど」と小さく舌を出す。
僕は、エゾヤマザクラのような控え目ながらも可憐な美しさを彼女から感じた。こんなに可愛らしい女性が、何故……という思いがよぎるが、一期一会に深入りは禁物だ。
僕にしても「こんなに奥さんのことを考えてくれる旦那さんなんて、そうそういないのにねぇ」と言われていたのだから。
傷心旅行の彼女は、一日中、僕の庭と近所を散策して写真を撮影していた。近所の奥さん数人が彼女と言葉を交わし、午後には茶菓子持参で僕の庭での花見会となった。
翌日も彼女は来た。
朝から門掃きに参加し、二軒隣の奥さんなどは「とても助かるわ。ありがたい」と感謝の言葉を口にしていた。
確か僕より幾分若い娘さんがいたはずだが……と思い返していると、「うちの娘は、箸のひとつも自分で片づけようとしなくてねえ」と、奥さんの口から愚痴がこぼれた。
他にも回る予定があるのではないかと、さり気なく僕が問うと、どうやら彼女はここの桜や佇まいが気に入ったので、帰る予定日までこの街に滞在しようと思っていたらしい。
「それじゃあ、櫻庭さんの家に厄介になればいい。部屋は余っているんだし」と、まとめ役を引き受けるのが好きな奥さんが、お節介にもほどがある発言をする。
他の奥さんたちは、形だけはお節介発言をたしなめているが、どうやら何か企んでいたようだ。奥さん連がなかば強引に、空き部屋だった東の一室を客室用にしつらえてしまった。
「すみません佳澄さん。変なことになって」と、その夜、酒宴の席で僕は彼女に謝罪する。
「いいえ、楽しいです。こんなによくしてもらって、私の方こそ恐縮します」
そう言って微笑む佳澄さんは、やはり可憐だった。
翌日、門掃きを終えた佳澄さんと奥さん連は、前日の宴の片づけをするため集まった。
台所から賑やかな話し声が聞こえて来るのはいつ振りだろう。僕はその声を聞きながら、午後まで仕事部屋で過ごす。午後にはまた、佳澄さんは散策に出掛けた。
夕食は佳澄さんの手作りだと聞いた。
「こんなにちゃんとした食事、久しぶりですよ。とても美味しいし……ありがとうございます」
『いいお嫁さんになりそうだ』などと陳腐な台詞は言わない。彼女は傷心旅行なのだから。仮にその相手と上手く行ってたなら、いいお嫁さんになっていたであろう。
当然、彼女もそう思っていたはずだ。
「これは、田中さんが届けてくださったんですよね? このお大根、味がよく沁みてて美味しいですね」
佳澄さんはそう言って、鰤大根を頬張る。
田中さんは、二軒隣の腰が悪い奥さんだ。「もう季節も終わりだからと張り切ったら、作り過ぎちゃって」と、いかにもな口実と共に、鰤大根や煮物を届けてくれた。
「そろそろ、櫻庭さんも幸せになっていいと思うんだよ……」などと、田中さんは去り際に残して行った。
だが僕は、今が充分幸せだと思っている。ただそれが、他の人には伝わらないだけで。
「櫻庭さんは、ここで生まれ育ったんですよね。わたしもこの辺りの子に生まれたかったなぁ。ここの桜は見事だし、秋にも冬にも素敵な景色が見られるというし、あたたかいご近所付き合いも――」
日本酒のせいか、佳澄さんの頬も桜色に染まり、瞳は夢見るように潤んでいる。
「ここにいると……帰りたくなくなっちゃうなぁ……」
その晩、佳澄さんは僕の布団で眠りについた。
発つ予定日までの残り二日間、佳澄さんは朝は門掃き、昼間には散策、夕方には坂の下のマーケットに向かい食事の支度をして、夜はまた僕の腕の中で眠った。
食事など気を遣わなくていいと申し出たのだが、「私がしたいんです」と山桜のように笑みをほころばせる。
奥さん連は、今度こそと思っているのかも知れない。
出て行った者のことなど忘れろ、新しい人生を歩んでもいいじゃないか、と毎年のように焚きつけられているのだ。相変わらず面と向かって言われることもある。
実際の僕は未だに妻帯者だ。この状況も本来ならば……
だが僕の心にも、佳澄さんの笑顔をここに留めておきたいという気持ちが芽生えていた。
最後の夜、僕は腕の中の佳澄さんを見つめながら問い掛ける。
「――実は、僕には十年以上前に失踪した妻がいるんだが、それを聞いても、きみはここに留まりたいと思えるだろうか?」
彼女は僕を見上げてうっすらと微笑んだ。
「ごめんなさい……その、奥さまのことは、実は近所の方々から既に――」その後は言葉にならない。
そうだろう、とは思っていた。だが僕の一方的な意志だけでは意味がないのだ。それでも僕と――いや、ここに留まりたいと望むのなら、僕は彼女の願いを叶えようと思う。
僕はもう一度彼女に問うた。
彼女が望むなら、僕は彼女の願いを叶えるだろう――腕の中にある、山桜のように可憐で愛おしい彼女の、ため息と恍惚とした表情、そのあとの苦悶に満ちた表情を見つめながら、僕も満ち足りていた。
* * *
「櫻庭さん、おはようございます」
二軒隣の田中さんの奥さんが、自宅の前を掃きながら挨拶する。僕の家の前にある道路には、今は八重桜の花びらが舞っている。
「おはようございます。すみません、うちの桜が」
僕も箒と塵取りを手に挨拶を返す。門掃きさながらの朝のひと仕事をこなす。
八重桜は時々、花が丸ごとぽとりと落ちて来る。そういうものを見つけると、僕はそっと拾って持ち帰り、グラスに浮かべて愛でるのだった。
「結局、佳澄さんも行ってしまいましたねえ……寂しくなるから挨拶もせずに、だなんて……」
田中さんの口から本音がぽろりとこぼれる。心なしか涙ぐんでいるようにも見えた。
僕は苦笑して「僕には妻がいますから」とこたえる。
佳澄さんがいないと知った時、奥さん連は非常に気落ちしていた。
別れを惜しむ時間を得られなかった寂しさと憤り、しかし顔を合わせればやはり全員で引き留めてしまっていただろう――と、ソメイヨシノがすっかり散ってしまうまで、彼女たちに口々に何度も聞かされたものだ。
「あら、でももう――いえ、佳澄さんとは特にいい雰囲気だと思ったんですけどねえ」などと言い、田中さんは「あらすみません、余計なことを」と年甲斐もなく頬を染め、口元に手を当てる。
「でも彼女との思い出は残りますから。またいつか縁があれば出会えるでしょう」
僕は微笑む。田中さんも微笑み返してくれるが、その表情にはどこか諦めたような色があった。
山桜のように控え目な可憐さを持っていた佳澄さんは、もしかすると理想の女性に近かったのかも知れない、と僕も思う。
だがもう彼女は思い出の中の人だ。
今年三本目の植樹は山桜にしよう。僕はそう決めた。