最後の放送
空は、もう人間のものではなかった。
デンバーの街は、白く濁った胞子の霧に沈んでいた。
かつては車のライトが川のように流れていた道路も、いまは菌糸に裂かれ、ビルの窓という窓からは、肉のように脈打つ茸が花を咲かせている。
風が吹くたび、街全体が呼吸した。
その音は、海鳴りに似ていた。
だがここに海はない。
あるのは、滅びかけた都市と、そこを覆い尽くす茸だけだった。
四人は、山道を登っていた。
先頭を歩く男が、肩に背負ったライフルを揺らしながら振り返る。
「……まだ行けるか、ノア」
呼ばれた女は、荒い息を吐きながら頷いた。
「行ける。止まったら……たぶん、もう動けない」
ノアの背中には、携帯型の無線機材が括りつけられていた。
軍の倉庫から運び出した旧式の送信機。バッテリーは二つ。予備はない。
それでも、これが最後の希望だった。
彼らの目的地は、ルックアウトマウンテンの送信所だった。
街の西側にそびえるその山には、かつてテレビやラジオの電波を遠くまで届けるための鉄塔が立っている。
生き残った者がまだ地上にいるのなら。
地下へ逃げる術を知らず、家や病院や学校に閉じ込められている者がいるのなら。
彼らに伝えなければならなかった。
地上はもう終わる。
だが、地下にはまだ道がある、と。
「なあ」
最後尾の青年、エリオットが笑おうとして失敗した。
「これ、終わったらさ。俺たち英雄ってやつ?」
「英雄はもっと顔がいい」
隣を歩いていたミアが即答した。
「ひどくない?」
「だってエリオット、昨日からずっと鼻血出てるし」
「これは男前の証拠だろ」
「感染症状」
「現実を言うなよ」
ミアは笑った。
笑ってから、すぐに口元を押さえた。
手袋の白い布に、赤黒い染みが広がる。
誰も、それを見なかったふりをした。
四人とも、もう分かっていた。
間に合わないかもしれない。
いや、たぶん間に合わない。
彼らが地下へ逃げる時間は、もう残っていない。
それでも、放送だけはしなければならなかった。
山道の先で、霧の向こうに鉄塔が見えた。
巨大な骨のようだった。
菌糸に絡め取られながら、それでもまだ天へ向かって立っている。
ノアが顔を上げる。
「あった……」
その声に、全員の足が少しだけ速くなった。
送信所のフェンスは倒れていた。
建物の壁には茸が張り付き、白い菌糸が入口を塞いでいる。
先頭の男――ケイレブが斧を抜いた。
「中、確認する。三十秒で戻る」
「一人で行かないで」
ノアが言うと、ケイレブは振り返った。
「じゃあ、ついて来い。昔からそうだったろ」
「何が?」
「俺がバカやると、お前が怒りながらついて来る」
ノアは一瞬だけ黙り、そして小さく笑った。
「……そうだったね」
二人は入口の菌糸を切り裂いて中へ入った。
エリオットとミアは外で周囲を警戒した。
遠くの森が揺れていた。
木々の間に、いくつもの影が見える。
人の形をしている。
だが、人ではなかった。
背中から茸を生やし、首を傾け、ゆっくりと歩く者たち。
感染者。
人々は彼らを、キャリアと呼ぶようになった。
彼らはほとんど地下へ降りてこない。
理由は分からない。
ただ、地上に残った感染者たちは、まるで何かに導かれるように北へ向かう。
アラスカへ。
そこには、国土を埋め尽くすほど巨大な茸があるという。
誰が最初に見たのかは分からない。
衛星写真は数ヶ月前に途絶えた。
軍の無人偵察機も戻らなかった。
だが、北から逃げてきた兵士たちは同じことを言った。
山脈よりも大きい茸がある。
都市を根で砕き、大地を覆い、空へ胞子を噴き上げている。
感染者は、みんなそこを目指す。
「……あいつら、こっち見てる?」
エリオットの声が震えた。
ミアは銃を構えたまま、答えない。
キャリアたちは、森の奥で立ち止まっていた。
襲ってくる様子はない。
ただ、見ている。
まるで、放送を待っているように。
やがて建物の中からケイレブの声がした。
「動く! 機材持ってこい!」
四人は送信室に集まった。
壁の半分は菌糸に覆われていた。
床には古い書類が散乱し、割れたモニターの奥で、小さな茸が淡く光っている。
ノアは震える手で送信機を接続した。
ケイレブが非常用バッテリーを繋ぐ。
エリオットは窓の外を見張り、ミアはノートを開いた。
何度も書き直した原稿だった。
世界が壊れていく間に、四人で集めた情報。
軍から盗んだ記録。
出会った生存者たちの証言。
死んでいった者たちが残した言葉。
ノアがマイクの前に座る。
赤いランプが点いた。
その瞬間、送信室の空気が変わった。
これは会話ではない。
救助要請でもない。
遺言であり、地図であり、祈りだった。
ノアは息を吸った。
「こちらは……ルックアウトマウンテン送信所。デンバー近郊から、全周波数帯に向けて放送しています」
声はかすれていた。
それでも、電波は走った。
「この放送を聞いている人がいるなら、どうか落ち着いて聞いてください。地上は、もう安全ではありません」
ミアが原稿を押さえる。
エリオットが窓の外を睨む。
ケイレブはノアの隣に立ち、ただ彼女の肩に手を置いていた。
「茸は、都市部、森林地帯、農地、あらゆる場所に広がっています。感染した人間は、私たちの間でキャリアと呼ばれています。キャリアは人間を襲うことがあります。けれど、多くのキャリアは北へ移動しています」
ノアの声が、一度だけ詰まった。
「アラスカには、巨大な茸があります。信じられないと思います。けれど、これは複数の記録で確認されています。大地を覆うほどの巨大な茸です。感染者たちは、そこへ向かっています」
送信室の壁で、茸が脈打った。
まるで、その言葉に反応したかのように。
「地上で生き残っている人は、地下へ向かってください。地下鉄、地下道、地下施設。そこには、まだ生存者がいます。私たちは複数の地下鉄路線で、人間が生活圏を築いていることを確認しました」
ミアの頬を涙が伝った。
彼女はそれを拭わなかった。
「キャリアは、ほとんど地下深くまでは降りてきません。理由は分かりません。でも、地下にはまだ時間があります。水を確保してください。入口を封鎖してください。感染者を中へ入れないでください。胞子を吸わないよう、布でも何でも口と鼻を覆ってください」
ノアは前を見た。
その目は、もうカメラのないスタジオを見ていなかった。
まだどこかにいる誰かを見ていた。
「希望を捨てないでください」
ケイレブの手に力が入る。
「どうか、地下へ向かってください。人はまだ生きています。あなたは一人ではありません。繰り返します。あなたは、一人ではありません」
沈黙。
ノアは原稿の最後を見た。
そこには、四人で決めた短い言葉が書かれていた。
だが、その前に、ケイレブがマイクへ身を乗り出した。
「……少しだけ、時間をくれ」
ノアが驚いて彼を見る。
「ケイレブ?」
彼は苦笑した。
「ごめん。今言わないと、一生言えない気がする」
「一生って……」
「たぶん、あと十分くらいだけど」
エリオットが小さく吹き出した。
ミアも泣きながら笑った。
ケイレブはノアを見た。
「ノア。学生の頃から、君が好きだった」
ノアの目が見開かれる。
送信機の赤いランプは、まだ点いている。
世界のどこかで、誰かがこの声を聞いているかもしれない。
「ずっと言えなかった。世界が終わるまで言えないとか、ほんとに最悪だと思う。でも、俺は君が好きだ。君が怒るところも、すぐ無理するところも、怖いくせに前に出るところも。全部、好きだった」
ノアは声を出せなかった。
ケイレブは、胸元から小さな金属の輪を取り出した。
古い鍵束についていたリングだった。
「指輪じゃない。こんなので悪い。でも……」
「ケイレブ」
ノアは泣きながら笑った。
「遅いよ」
「うん」
「ほんとに、遅い」
「うん」
「でも……私も、好きだった」
ケイレブの顔が崩れた。
エリオットが両手を広げる。
「はい! じゃあ式やろう! 俺、神父やるわ!」
「神父できるの?」
「映画で見た!」
「それ一番信用できないやつじゃん」
ミアが笑いながら、ノートの白紙を一枚破った。
そこに震える手で、二人の名前を書く。
ノア。
ケイレブ。
送信室の中で、結婚式が始まった。
参列者は二人。
神父は映画知識だけの青年。
花束はない。
ドレスもない。
祝福の鐘も鳴らない。
外では、キャリアたちが森の中に立っている。
空には胞子が舞い、街は滅び、世界は茸に覆われている。
それでも、そこには確かに人間の式があった。
「ケイレブ。あなたはノアを、えー……健やかなる時も、病める時も」
「もう病めてるけどね」
ミアが言うと、全員が笑った。
「うるさいな、泣くぞ俺。……富める時も、貧しい時も」
「貧しい時しかなかったな」
「黙って新郎」
エリオットは鼻をすすった。
「世界がこうなっても、最後まで彼女を愛すると誓いますか」
ケイレブはノアを見た。
「誓う」
「ノア。あなたはケイレブを……最後まで愛すると誓いますか」
ノアは、金属の輪を左手の薬指にはめた。
「誓います」
二人は、抱き合った。
キスは短かった。
けれど、四人の中の時間だけが、そこで一度止まった。
その時だった。
ミアが、ふと自分の手を見た。
指先の皮膚が、白く裂けていた。
裂け目から、細い菌糸が伸びていた。
「……あ」
誰も動かなかった。
次に、エリオットが咳き込んだ。
口元を押さえた指の間から、白い糸が垂れる。
ケイレブの首筋にも、茸の芽のようなものが浮き上がっていた。
ノアの瞳の端には、薄い白膜が広がり始めている。
間に合わなかった。
分かっていたことだった。
それでも、実際に始まってしまうと、誰も言葉を失った。
送信機の赤いランプだけが、静かに光っていた。
エリオットが震える手で銃を抜いた。
「……約束、覚えてるよな」
ミアが頷く。
「発症したら、キャリアになる前に」
「うん」
ケイレブも銃を手に取った。
ノアは、しばらく自分の指輪を見つめていた。
そして、銃を抜いた。
四人は円になる。
外のキャリアたちが、少しだけ近づいていた。
エリオットが笑った。
泣きながら、笑った。
「なあ。覚えてる?」
「何を」
ミアが聞く。
「学生の頃さ。四人で旅行行こうって話しただろ。海とか、グランドキャニオンとか、ニューヨークとか。結局、金がないとか、仕事があるとか、誰かが風邪引いたとかで、行けなかったけど」
「あったね」
ノアが言った。
「エリオットが全部予定立てたのに、初日に財布なくしたやつ」
「なくしてない。盗まれた」
「自販機の上に置いて忘れただけでしょ」
「盗まれたんだよ、世界に」
ミアが泣きながら笑った。
エリオットは、唇を噛んだ。
「俺さ……ほんとは、行きたかった。皆で。バカみたいに写真撮って、安いモーテル泊まって、ミアが文句言って、ケイレブが道間違えて、ノアが全部調べ直してさ」
「絶対そうなる」
ケイレブが言った。
「俺、方向音痴だからな」
「知ってる」
エリオットは顔をくしゃくしゃにした。
「俺、皆が好きだ。大好きだ。だから……もし、生まれ変わったらさ。今度こそ、皆で旅行行こう」
誰もすぐには答えなかった。
菌糸が指先から伸びる。
皮膚の下で何かが動く。
人間でいられる時間が、少しずつ削られていく。
それでも、ミアが最初に頷いた。
「行こう。今度は、ちゃんと」
ケイレブも言った。
「俺が運転する」
「やめて」
三人が同時に言った。
最後にノアが、泣きながら笑った。
「じゃあ、私が地図を見る。ミアが食べ物を選んで、エリオットが写真を撮って、ケイレブは……荷物持ち」
「新郎の扱い、ひどくない?」
「結婚ってそういうものよ」
「マジかよ」
四人は笑った。
それは、世界が終わる音の中で鳴った、最後の人間の笑い声だった。
ノアはマイクに向き直った。
赤いランプは、まだ点いている。
「この放送を聞いている人へ」
彼女の声は、もうほとんど涙で濡れていた。
「生きてください。地下へ向かってください。誰かを見つけてください。どうか……人間を、終わらせないでください」
ケイレブが彼女の手を握った。
ノアは最後に言った。
「こちらは、ルックアウトマウンテン送信所。これが、最後の放送です」
エリオットが小さく息を吸った。
「三つ数える」
四人は、それぞれの銃を構えた。
だが、その目は恐怖だけではなかった。
そこには、約束があった。
叶わなかった旅行。
遅すぎた結婚式。
終わりかけの世界で、それでも互いを人間として見つめる、最後の時間。
「一」
外で、キャリアたちが一斉に顔を上げた。
「二」
送信室の壁を覆う茸が、淡く光った。
「三」
四つの音が、ほとんど同時に響いた。
送信機の赤いランプが、しばらく点いたままだった。
誰もいなくなった部屋で、ノイズ混じりの電波だけが流れ続けている。
やがて風が吹き、割れた窓から胞子が舞い込んだ。
床に落ちた紙片が、ゆっくりと裏返る。
そこには、震える文字で二つの名前が書かれていた。
ノア。
ケイレブ。
その下に、ミアが書き足した小さな言葉。
――次は、四人で旅行へ。
電波は山を越え、廃墟の街を越え、茸に沈んだ大地を越えていく。
誰かに届いたのかは分からない。
けれど、二百年後。
その場所へ、辿り着く者がいる。
名を、ダウドという。




