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SpiculE  作者: 1O1
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- spicule -


太陽物理学において、太陽の表面近くの彩層から上に向かって噴き出す、細長いプラズマのジェット現象のことを指す。太陽表面に無数に見られて、数分〜十数分くらいで消える短命な現象である。高さは数千〜1万km級まで伸びることもあるが、何故発生するのか詳しい理由は不明。


または、主に海綿・スポンジ由来の微細な針状成分を指す。角質層に物理的な刺激を与えたり、成分が角質層まで届くのをサポートする目的で使われる。




・プロローグ



「……っ、げほ」


その咳は、午前九時十四分に聞こえた。


ニューヨーク、マンハッタン南部。

まだ朝の光がガラス張りのオフィスビル群に反射し、通りにはコーヒーを片手にした人々が流れていた。ビルの四十二階にある保険会社のフロアでは、いつものようにキーボードの音と電話の呼び出し音が重なっていた。


その中で、デスクに向かっていた男がもう一度咳をした。


「げほっ……ごほ、っ」


隣の席の女性が、椅子を少し引いて顔を向けた。


「マーク? 大丈夫?」


マークと呼ばれた男は、片手で口元を押さえながら苦笑した。


「ああ……大丈夫。ただの風邪だよ」


「本当に? 顔色、悪いわよ」


「寝不足だ。昨日、娘の宿題を見ててさ」


彼は冗談めかして肩をすくめた。

だが、その直後に喉の奥が引きつるように震え、また咳が出た。


「ごほっ、げほっ……!」


今度は長かった。

乾いた咳ではなかった。何か湿ったものが胸の奥で絡み、引き剥がされるような音がした。


向かいの席の男が眉をひそめる。


「おい、マーク。マジで病院行った方がいいんじゃないか?」


「だから、大丈夫だって」


「全然大丈夫じゃない声してるぞ」


「花粉か何かだろ。空調も最悪だし」


マークはモニターに向き直ろうとした。

しかしマウスを握る指先が小さく震えているのを、隣の女性は見逃さなかった。


「早退しなさい」


「え?」


「いいから。今すぐ帰って。ここで倒れられたら困る」


「そんな大げさな」


「マーク」


彼女の声が少し強くなる。


「あなた、今朝からずっと咳してる。部長には私から言っておくから」


マークは何か言い返そうとしたが、また咳がこみ上げた。


「……げほっ、げほっ、ごほっ……!」


彼はデスクの端を掴んだ。

周囲の視線が集まる。


「わかった。帰る。帰るよ」


「タクシー呼ぶ?」


「いや、地下鉄で平気だ」


「平気に見えないってば」


「大丈夫だ」


マークはそう言った。


その日、彼が最後にオフィスで口にした言葉だった。


ビルの外へ出ると、空は薄く曇っていた。

初夏だというのに風は妙に冷たく、通りを歩く人々の顔には疲れが滲んでいた。


マークはネクタイを緩め、歩道の端で立ち止まった。


「くそ……」


喉が焼けるようだった。

胸の奥に何かが詰まっている。痰でも血でもない。もっと細く、もっと乾いた、綿のような何か。


「げほっ……!」


彼は口を押さえた。

手のひらを見る。何もついていない。


ただ、妙な臭いがした。


湿った土のような。

古い地下室のような。

雨の後に腐った木材を割った時のような臭い。


「なんだよ、これ……」


横を通り過ぎた男が、同じように咳をした。


「ごほっ、ごほっ」


その隣では、若い女性がマスク越しに咳き込んでいる。

信号待ちの老人も、フードデリバリーの配達員も、スーツ姿の男も。


あちこちで咳が聞こえた。


「風邪、流行ってんのか……?」


マークは地下鉄の入り口へ向かった。

階段を下りる途中、壁にもたれかかった学生が激しく咳き込み、友人らしき青年が背中をさすっていた。


「おい、大丈夫か?」


「息が……息がしづらい……」


「救急車呼ぶか?」


「やめろ、大げさにすんな……」


マークはその横を通り過ぎた。

自分も同じことを言ったばかりだった。


大丈夫だ、と。


だがその言葉は、地下へ降りるほどに意味を失っていった。


ホームは人で混み合っていた。

電車を待つ人々の間に、咳が波のように広がっている。


ひとり。

ふたり。

十人。

二十人。


誰かが呟いた。


「なんだよ、みんな風邪か?」


誰かが笑った。


「パンデミック映画みたいだな」


誰も、その冗談に本気で怯えなかった。




その時はまだ。




同日、午後十一時三十二分。

ニュージャージー州ニューアーク市内の総合病院。


地下の解剖室には、白い蛍光灯の光が冷たく落ちていた。


ステンレス製の台の上に、一人の男性の遺体が横たわっている。

身元は不明。年齢は四十代半ば。搬送時にはすでに心肺停止。死因は不明。


担当医のエレン・ハートは、マスクの内側で浅く息を吐いた。


「肺炎……にしては進行が速すぎる」


助手の若い医師が記録用タブレットを見ながら言う。


「搬送されたのは午後八時五分。死亡確認が八時十二分。家族の話では、朝までは普通に会話できていたそうです」


「既往歴は?」


「なし。喫煙歴もありません」


「薬物反応は?」


「陰性です」


エレンは眉間に皺を寄せた。


「じゃあ、何で死んだのかしら?」


助手は答えられなかった。


エレンは慎重に胸部を開いた。

そして、手を止めた。


「……何、これ」


助手が横から覗き込む。


「先生?」


「ライトを近づけて」


「はい」


照明が強くなる。

開かれた胸腔の奥、肺の表面に、白く細いものがびっしりと絡みついていた。


糸だった。

いや、糸のように見える何かだった。


枝分かれし、絡まり合い、肺の隙間を埋め尽くしている。


助手が一歩退いた。


「カビ……ですか?」


「人体の中で、こんな量は見たことがない」


「真菌感染?」


「だとしても異常よ。免疫不全でもない成人男性の肺が、数時間でこんな状態になるわけがない」


エレンは器具を手に取り、白い菌糸の一部をそっと持ち上げた。

それは肺組織に深く食い込んでいた。


「肺胞まで侵食してる……」


「先生、これ、報告した方が」


「当然よ。CDCにも回す。サンプルを――」


その時だった。


遺体の指が動いた。


助手が息を呑む。


「先生」


「何?」


「今……動きました」


エレンは顔を上げた。


「死後硬直の反応でしょ」


「違います。指が、こう……」


もう一度、遺体の手が動いた。


今度ははっきりと。


ステンレスの台を、爪が掻いた。


カリ、と。

乾いた音が解剖室に響く。


助手の顔から血の気が引いた。


「先生、離れて」


「ありえない」


「離れてください!」


遺体の胸が持ち上がった。


肺は開かれている。

心臓は止まっている。

呼吸などできるはずがない。


それでも、遺体は口を開いた。


喉の奥から、湿った音が漏れる。


「……ぁ……」


エレンは硬直した。


「生きてる……?」


次の瞬間、遺体は跳ね起きた。


助手が叫ぶ。


「先生!」


遺体の口から、白い胞子のような粉が吐き出された。

エレンは咄嗟に腕で顔を覆ったが、間に合わなかった。


遺体の手が彼女の肩を掴む。

尋常ではない力だった。


「やめ――!」


エレンの声は、悲鳴に変わった。


解剖室の外で、警備員が振り返る。


「今の、何だ?」


中から金属が倒れる音がした。

続いて、何かが激しく床を叩く音。


警備員は無線機を取った。


「地下解剖室で異常。応援を――」


扉の向こうで、女の声が途切れた。


そして、静かになった。


警備員はゆっくり扉に近づいた。


「ドクター・ハート?」


返事はない。


「開けますよ」


彼がドアノブに手をかけた瞬間、内側から何かが扉にぶつかった。


一度。


二度。


三度。


警備員は後ずさった。


「おい……」


扉の隙間から、白い粉が舞った。


翌朝、ニュースはまだ慎重だった。


“原因不明の呼吸器疾患、東海岸で複数確認”


昼には、語調が変わった。


“突然死との関連を調査中”


夜には、画面の中のキャスターが青ざめていた。


“死亡した患者が動いたとの未確認情報”


未確認。

噂。

誤報。

集団パニック。


人々は最初、そう呼んだ。


だが映像は増え続けた。


病院の廊下を走る看護師。

担架から起き上がる患者。

救急車の後部ドアを内側から叩く手。

駅のホームで人に噛みつくスーツ姿の男。

白い菌糸に覆われた口元。

虚ろな目。

震える手。

咳。

咳。

咳。


画面は切り替わる。


ロンドン。

パリ。

東京。

メキシコシティ。

サンパウロ。

ムンバイ。

ヨハネスブルグ。


どの都市でも、人々は咳をしていた。


あるニュース番組で、専門家が言った。


「これは従来のウイルスではありません。真菌性の感染症に近いものです。ただし、感染速度が異常です」


別の番組で、政府高官が言った。


「パニックを起こさないでください。状況は管理下にあります」


その三日後、その高官は会見中に咳をした。


五日後、首都は封鎖された。


十日後、封鎖線は破られた。


一か月後、世界中の病院は機能を失った。


感染した者は、最初に咳をする。

次に高熱。

呼吸困難。

意識混濁。

そして死亡。


だが、それで終わらなかった。


死後、体内に広がった菌糸が神経を侵し、筋肉を動かした。

彼らは歩いた。

走った。

人を襲った。


噛まれた者、胞子を吸った者、傷口から侵された者。

感染経路はひとつではなかった。


人類は対策を立てようとした。


マスク。

隔離。

焼却。

都市封鎖。

地下避難。

軍による掃討。


だが、菌は待たなかった。


森に広がり、畑を覆い、家畜を殺し、下水道を伝い、地下鉄のトンネルを白く染めた。

ビルの壁には菌糸が這い、道路の割れ目から茸が生えた。


都市は、ゆっくりと呼吸をやめていった。


二年。


たった二年だった。


人類が築き上げた地上の生活圏が、奪われるまでにかかった時間は。


アメリカ合衆国は、もはや地図の上にしか存在しなかった。

州境は意味を失い、国道は墓標になり、かつての大都市は胞子雲に沈んだ。


生き残った者たちは、都市から逃げた。

山岳地帯へ逃げた。

乾燥した荒野へ逃げた。

人のいない場所へ逃げた。


そして、誰もが同じことを覚えた。


咳をする者には近づくな。

白い粉を吸うな。

遺体を放置するな。


それでも生きている以上、逃げられないものはある。


空腹から。

睡眠から。

人の姿をした何かから。

苦しみで壁を掻く爪の音から。

そして、どこからともなく響く、湿った咳。


「……げほ」


世界の終わりは、爆発でも、戦争でも、神の怒りでもなかった。


それは、一人の男の小さな咳から始まった。

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