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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第八十七話 戻ったばかりの書状


 領都マバールの街並みが見えた時、俺は馬上で少しだけ息を吐いた。


 昼前の光は、石壁にも通りにも遠慮なく降りている。城下へ近づくほど人の気配は濃くなり、荷車の軋む音、職人が木槌を打つ音、どこかの屋台から漂ってくる焼いた肉の匂いが混ざって、ようやく帰って来たという実感が身体の奥へ沈んでいった。


 帰って来た。


 だが、休めるかどうかは別だ。


 俺の隣では、セバスチャンがいつものように姿勢を崩さず馬を進めている。その少し後ろにクレインがいた。城下に入ってから、クレインの視線は何度か通りの奥へ流れていた。家の方角か、姉のいる場所か、あるいはその両方かもしれない。


 石畳へ馬蹄の音が変わったところで、クレインが馬を寄せてきた。


「若様、私はここで一度失礼いたします」


「ああ」


 俺が手綱を緩めると、クレインも馬を止めた。城下の通りはそこまで広くない。行き交う平民たちは、こちらが貴族家の者だと分かると自然に脇へ寄り、頭を下げる。露骨に怯えるほどではないが、近づきすぎない距離は心得ていた。


 クレインは馬上で背を伸ばし、いつもの少し硬い顔をこちらへ向けた。


「姉には、若様がお会いくださると伝えておきます」


「頼む」


 そこまでは予定通りだった。


 だが、言葉を返したあとで、俺は一つ思い出した。いや、思い出したというより、ここで言わなければ後で面倒になると感じた。


「クレイン」


「はい」


「出来ればでいい。夫も同行させてくれ」


 クレインの目が、ほんの少しだけ丸くなった。


 その変化は一瞬だった。すぐに騎士の顔へ戻ったが、驚いたことは分かる。俺が会うのは直属騎士クレインの姉であって、その夫まで呼ぶ必要はない。貴族家の若様が平民夫婦の事情にそこまで踏み込む方が、普通は妙に見えるのだろう。


「夫、でございますか」


「ああ。本人だけ呼んで話を進めるより、その方が後で揉めにくいだろう。もちろん、無理にとは言わん。嫌がるなら姉だけでいい」


「……承知いたしました。姉に伝えます」


 クレインはそう答えたが、まだ少しだけ迷いが残っているように見えた。俺が平民相手に余計な気を使っていると感じているのか、自分の姉だけではなく夫まで、若様の前へ連れてくることに緊張しているのか。まぁ、その辺りだろう。


 俺は深く突っ込まなかった。


 ここで細かく聞けば、かえってクレインが答えにくくなる。


「では、後ほど城へ戻ります」


「急がなくていい。まずは話してこい」


「はっ」


 クレインは短く頭を下げ、馬首を城下の横道へ向けた。背中はいつも通り真っ直ぐだったが、去り際に一度だけこちらを見た。その顔には、まだ少し考え込むような色が残っていた。


 まあ、驚くよな。


 俺だって前世の感覚がなければ、平民の夫婦関係まで気にしなかったかもしれない。いや、この世界に馴染んできた今でも、どこまで気にすべきかは難しい。貴族が口を出せば、それだけで相手は拒みにくい。善意のつもりで踏み込んでも、受け取る側には命令に近く響く。


 だからこそ、夫もいた方がいい。


 クレインの姉をどう扱うにせよ、夫を無視して進めれば、後味が悪い。


 そんなことを考えていると、隣でセバスチャンが鼻を鳴らした。


「平民にまで気を使うとは、若様はお優しいですな」


「俺は領民には優しいぞ」


「敵には優しくありませんがな」


「敵は領民じゃない」


 そう返すと、セバスチャンは口元だけで笑った。顔に刻まれた傷のせいで、笑みというより悪だくみに見える。通りの端で商人らしき男が、ちらりとこちらを見てすぐに視線を落とした。


 俺は少しだけ肩をすくめる。


「俺が優しい若様として城下に名を広めてもいいんだぞ」


「すでに色々と広まっておりますぞ」


「どういう意味だ」


「若様が思っておられるより、城下の耳目はよく動きます」


 それはあまり聞きたくない話だった。


 城下にまで俺の何がどの程度広まっているのか。生産拠点の話ならまだいい。ハンバーガーだの炭だのシルクだのなら、まあ、領地の利益にもなる。だが、レティシアやダリアの話まで妙な形で広がっていると困る。いや、城の中であれだけ堂々と過ごしていて、まったく広がらないと思う方が無理かもしれないが。


「ろくでもない噂なら、出所を潰すぞ」


「領民には優しいのでは?」


「悪質な噂を流すやつは領民ではなく敵だ」


「なるほど。実に若様らしい」


 からかっているのか感心しているのか分からない声だった。たぶん両方だろう。


 そんな軽口を交わしながら城門へ向かう。マバール城は昼の光の下でも重い。城壁は飾り気がなく、積まれた石の一つ一つが、長い年月と戦場の気配をまとっている。門の上には兵が立ち、内側からも視線が向けられた。


 帰って来た者への確認。


 それと、俺への確認。


 門兵は俺とセバスチャンを認めると、すぐに姿勢を正した。


「ギルバート様、お帰りなさいませ」


「ああ。変わりは?」


「大きな異常はございません。ただ、城内よりお迎えが出ております」


「迎え?」


 嫌な言葉だった。


 帰って来たばかりだぞ。


 口には出さなかったが、顔には出たらしい。門兵は少しだけ緊張を強め、答える前に城内の方へ視線を向けた。


 そこへ文官見習いらしき若い男が早足で近づいてきた。息を乱してはいないが、明らかに急いでいる。俺の前で足を止め、深く頭を下げた。


「ギルバート様。お戻り早々、申し訳ございません。上層部より、会議室へお越しいただきたいとのことです」


「……帰ったばかりなんだが」


「承知しております。ですが、お館様より書状が届いております」


 その一言で、胸の中にあった面倒くささが少し形を変えた。


 父上からの書状。


 ならば、今呼ばれる理由はある。


 ただし、今回の件への返答ではないはずだ。俺たちが動いた件を父上が知り、書状を返すには早すぎる。王都からの連絡にせよ、こちらの処理結果を受けたものではない。別件だ。


 別件で、上層部が集まっている。


 それはそれで面倒だ。


「分かった。馬を頼む」


「はっ」


 馬を預け、城内へ入る。セバスチャンは当然のようについてきた。報告のために城まで同行すると決めていたし、上層部に呼ばれているならなおさらだ。


 石造りの廊下は、外の明るさから入ると少し暗く感じる。だが、窓から差す光は十分にあり、壁に掛けられた灯火は昼のせいで控えめだった。歩くたびに靴音が石へ返り、遠くで使用人の動く気配が重なっていく。


「父上からの書状か」


「そのようですな」


「今回の件ではないだろう」


「時期を考えれば、そうでしょうな」


 セバスチャンも同じ判断らしい。俺は廊下の先を見ながら、頭の中でいくつか可能性を並べた。王都。帝国。北方。国境貴族。兄たち。どれもあり得る。あり得るが、上層部が即座に俺を呼ぶほどのものとなると、軽い近況報告ではない。


「嫌な書状か?」


「良い書状で上層部が若様を急いで呼ぶとは思えませんな」


「だよな」


 嫌な納得だった。


 会議室の前には騎士が立っていた。俺とセバスチャンを見ると、すぐに扉を開ける。中の空気は、外廊下より少し重い。広い机を囲むように文官、武官、老いた上層部たちが揃っている。ガルシアはいない。当然だが、ちょっとだけホッとした。現状でいきなり会うのは少し気が重い。父上はまだ王都側にいるな。


 俺が入ると、一斉に視線が向いた。


「ギルバート様、お呼び立てして申し訳ありません」


 文官の一人が頭を下げる。他の者たちもそれに続いた。謝罪の声に焦りはない。だが、顔色はあまり良くない。怒りでも恐怖でもなく、苦いものを噛みしめているような顔だった。


「かまわん。父上から書状が来たと聞いた」


「はい。お館様より、上層部宛の書状と、ギルバート様宛の書状が届いております」


 机の上に二つの書状が置かれていた。


 一つは封が切られている。上層部宛だろう。もう一つは未開封のまま、俺の方へ向けられている。宛名は俺だ。父上のものと分かる筆跡がある。


 俺はまず、開封済みの書状へ手を伸ばした。


「先にこちらを見る」


「お願いいたします」


 文官が差し出す形で書状を広げた。紙には細かい字が整然と並んでいる。父上の書状は無駄が少ない。読む側が誤解しにくいように、要点がきちんと分けられている。こういうところは本当に当主だと思う。


 最初に目に入ったのは、王都の報告だった。


 帝国の新皇帝。


 戴冠式。


 そして、善良王がそれに出席したがっているという内容。


 俺は思わず眉間に力を入れた。


 相変わらず平和ボケしてる王様だな。


 帝国が皇帝交代で揺れている。後継争いも完全に片付いたとは言い切れない。こちらは国境を接していて、つい最近まで帝国内部の火種をこちらに都合よく扱おうとしていた。その状況で、新皇帝の戴冠式に王自ら出席したいというのは、どこから出てくる発想なのか。


 外交的な意味は分かる。


 分かるが、危険と釣り合っていない。


 顔を上げると、上層部の面々も似たような表情をしていた。誰もはっきり口には出さない。だが、苦い顔だけで十分だった。


 同じことを思っている。


「……父上と国境貴族たちが反対しているのか」


「はい」


 老文官が短く答えた。


「実行される可能性は低い、とお館様は見ておられます。ただし、王都側の一部には、帝国との関係改善を大きく進めるべきだという声もあるようです」


「関係改善ね」


 言葉は綺麗だ。


 だが、その綺麗な言葉のために誰が危険を背負うのかと考えれば、答えはいつも国境側になる。王都の貴族は、帝国騎士が明日の朝に城門前へ来るわけではない。マバール家は違う。


 書状には、父上が一応注意せよと書いていた。王が本当に動けば、国境警戒、使節経路、帝国側反応、周辺貴族の思惑まで全部絡む。実現しない可能性が高くても、無視はできない。


 嫌な話だ。


 だが、本題はそれだけではなかった。


 次の段落へ目を移した瞬間、俺は少しだけ視線を止めた。


 北方諸国との和平。


 約百年前に戦った北方諸国連合との和平が、正式に締結されたらしい。


 そこまでは、まあ、分からなくもない。王都がそう動いたならそうなのだろう。問題は、その会議に参加した人物の名だった。


 カルデア・トラギス


 俺は一瞬、誰だったかと考えた。


 だが、すぐに記憶の奥から引っかかるものがあった。幼い頃に学んだ歴史。王国北方で起きた戦争。数で劣る北方諸国をまとめ上げ、王国軍を押しとどめ、停戦へ持ち込んだ女当主。


 確か、当時でもかなりの高齢だったはずだ。


 百歳近かったんじゃなかったか。


 ということは。


「……まだ生きてたのか」


 つい声が漏れた。


 会議室の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。いや、緩んだというより、皆同じ場所に引っかかっていたのだろう。老文官が深く頷き、武官の一人が口の端を引きつらせた。


「すでに二百歳近いはずですからな」


「とっくに死んでいると思っておりました」


「俺もだ」


 貴族が長命なのは知っている。魔力を持つ者は生命力が強く、高位貴族なら二百年近く生きる例もあるにはある。それでも、歴史の中の人物が今も会議に出てきたと言われると、さすがに妙な感覚になる。


 百年前の武勇伝の登場人物が、まだ椅子に座って話している。


 普通に怖い。


「カルデアと言えば、確か、ドレス姿で突撃したんだったか?」


 俺が尋ねると、老武官の目がわずかに光った。彼自身が見たわけではない。だが、武官にとってそういう逸話は血を温めるものなのだろう。


「見てはおりませんが、本当のようですな」


「鎧など不要。我に続け、でしたか」


 別の武官が低く言う。声には呆れと敬意が混じっていた。


 俺は書状の上に視線を落としたまま、昔聞いた話を思い出していた。北方諸国は数で劣っていた。装備も王国軍ほど整っていなかったはずだ。それでも、カルデアが前へ出たことで兵が崩れず、逆に王国軍の方が勢いを削がれた。


「それで数に優る王国軍が押されて敗走したんだよな」


「五倍はおったはずです。それで押し返されるとは、情けないことです」


 老武官は本気で不満そうだった。


 自分が参加していない戦の話なのに、王国軍が負けたことを今でも腹に据えかねているらしい。武官というのは、そういうものなのかもしれない。


「もっとも、帝国との国境を守るマバール家は参戦しておりませんが」


 老文官が静かに添えた。老武官は少しだけ鼻を鳴らしたが、否定はしなかった。


 マバール家が北方戦争へ主力を出していなかったなら、俺たちがその敗戦を背負いすぎる必要はない。だが、同じ王国軍がやられたという事実は残る。その相手がまだ生きている。王都貴族が驚いている。父上の書状は、その驚き方そのものを問題視していた。


「その時の王が、今の善良王の父親か」


「はい」


 文官が答えた。


 俺は書状を見たまま、口の中だけで息を吐いた。


 二代続けてか。


 声には出さない。さすがに出さない。会議室にいる者たちも、王への不満を表に出しすぎないよう気をつけている。だが、父親の代で北方に負け、息子の代で正式和平。しかも、その相手の女当主がまだ生きていて、王都が驚いているとなると、何とも言えない気分になる。


 書状の続きには、王都貴族たちの反応が記されていた。


 カルデア生存への驚き。


 北方諸国側が想定よりまとまっていることへの戸惑い。


 そして、父上の短いが鋭い不満。


 その程度の情報収集も出来ていなかったのか、という苛立ちが、整った字の隙間から滲んでいる気がした。


「王都貴族たちは、本当に知らなかったのか」


「書状を見る限り、そのようです」


「敗れた相手だぞ。普通、気にするだろう」


「近い者ほど、かえって見たくないものを見ぬこともございます」


 老文官の言葉は静かだった。


 だが、俺にはあまり納得できなかった。マバール家は北方から遠い。帝国との国境を抱え、迷宮を管理し、魔物にも対応しなければならない。だから北方諸国の細かな内部事情を知らないのはまだ分かる。せいぜい、カルデアの名と派手な武勇伝を知っている程度だ。


 だが、王都に近い貴族たちは違う。


 王国全体を見る立場だと自称するなら、北方の相手くらい調べておくべきだ。しかも過去に敗れている。負けた相手の主導者が生きているか死んでいるかなど、最低限の情報ではないのか。


「俺も父上も、いずれ北方諸国連合など踏み潰して、大陸西半分はまとめるものだと思っていたんだが」


 口に出すと、会議室の空気が少しだけ重くなった。


 誰も驚きはしない。似たような予測をしていたのだろう。


「我らも、いずれ北方を片付け、帝国へ意識を集中するものと見ておりました」


 文官が言う。


「和平など破棄して、今からでも踏み潰せばよいのでは?」


 武官の一人が、実に武官らしいことを言った。


 俺は少しだけ笑った。


「善良王にか?」


 その一言で、会議室に何とも言えない沈黙が落ちた。


 誰も声を上げて笑わない。笑える話ではない。だが、何人かは口元を抑え、老武官は渋い顔のまま視線を机へ落とした。文官たちは困ったように目を伏せている。


 不敬だ。


 分かっている。


 だが、全員同じことを考えているのも分かる。


 あの善良王が、正式に結んだ和平を破棄し、北方へ軍を向けるとは思えない。しかも相手にはカルデアがいる。二百歳近い女傑が健在だと分かったばかりだ。王都貴族たちは、しばらく北方を恐れるだろう。後背を突かれる可能性を考え、帝国へ力を集中することをためらう。


 書状にも、それとなくそう書かれていた。


 父上は断定を避けている。だが、意味は分かる。


 王国中央は、帝国国境へ全力を向けられない。


 つまり。


「国境は、これまで通りマバール家や国境貴族に任せる、ということか」


 俺が言うと、上層部の顔がまた苦くなった。


 今さら驚く話ではない。これまでもそうだった。王都は遠く、帝国は近い。国境で何か起これば、まず血を流すのは俺たちだ。王都が議論している間に、砦は守らなければならない。


 ただ、期待が少しでもあれば失望もある。


 北方が片付けば、王国全体の意識が帝国へ向く。そうなれば、マバール家だけで背負うものが少しは減る。そんな未来を、上層部の誰もが一度は考えていたのだろう。


 それが遠のいた。


 いや、消えたわけではない。


 だが、善良王とカルデアがいる間は厳しい。


 俺は書状を机へ置き、少しだけ息を整えた。暗い話を暗いまま終わらせると、会議室の空気が沈みきる。そうなると、次の話へ移りにくい。


「まあ、これまで通りなら、我らの好きにすればいい」


 あえて軽く言った。


 何人かが顔を上げる。


「王都貴族も、国境に口出しする余裕はないだろう。北方が怖いなら、なおさらな」


 老文官の眉が少しだけ動いた。


「確かに、これまで通りとも言えますな」


「そうですな。悪くなったというより、期待していたほど良くならなかっただけです」


 別の文官が続ける。武官も腕を組み直し、重かった肩をわずかに戻した。


「ならば、我らは我らの守りを固めるまでです」


「ああ。父上もそういうつもりだろう」


 そう言うと、場の空気がわずかに明るくなった。


 明るくなったと言っても、楽観ではない。腹をくくっただけだ。だが、マバール家の上層部にとっては、その方が合っている。王都がどう動くか分からないと悩むより、こちらで出来ることを積み上げた方が性に合う。


 書状の上層部宛部分を読み終えたところで、老武官が少し姿勢を変えた。


「ギルバート様」


「なんだ」


「亡命を望んでいた皇帝の長男は、いかがなりましたか」


 来たか。


 会議室の視線がこちらへ集まる。誰も直接的な言葉は使わない。だが、全員分かっている。メガレア家長男を受け入れたかどうか。逃したかどうか。処理したかどうか。それが知りたいのだ。


 俺は書状を畳みながら、少しだけ笑った。


「ん? 見物に行ってみたが、姿は見えなかったな」


 それだけ言った。


 それだけで十分だった。


 老文官はゆっくりと息を吐き、武官の一人は目を細めた。諜報に関わる者らしき男は、表情をほとんど動かさないまま指先だけをわずかに机へ置き直した。セバスチャンは後ろで黙っている。何も補足しない。それもまた答えだった。


「そうでございましたか」


「ああ。残念だった」


「それは、残念でございましたな」


 老文官の声は淡々としていたが、目の奥には安堵の色があったように見えた。


 メガレア家長男は、亡命者として抱えるには重すぎる。札としては弱く、火種としては厄介。生かしておけば誰かが利用しようとする。殺せば殺したで面倒だが、少なくともこちらの城内で腐ることはない。


 上層部はそれを理解している。


 だから、俺の雑な答えをそのまま受け取った。


 少し間を置いて、文官の一人が机の端に置かれた未開封の書状へ視線を向けた。


「ギルバート様宛の書状には、何と?」


「今見る」


 俺は父上から俺宛の書状を手に取った。封は破られていない。宛名も封もそのままだ。上層部は中を見ていない。そこは当然だが、こういう状況でも当然が守られていることに少し安心する。


 封を切り、紙を開く。


 書き出しは上層部向けと大きく変わらなかった。王都の状況。善良王の戴冠式出席希望。北方和平。カルデア生存。王都貴族への不安。国境側への注意。


 だが、後半に俺宛の私信があった。


 父上らしい、短い言葉。


 些事は任す。


 自信を持って行動せよ。


 不明な事は上層部と相談し、軽率に独断するな。


 俺はその部分を読み、しばらく黙った。


 些事。小さな事。


 父上にとっての小さな事とは何だろうか。


 領地の細かな裁量。城下の整備。生産拠点の試作。直属騎士の運用。平民の扱い。そういうものなら分かる。


 だが、ついさっき俺は、皇帝の長男を始末して帰って来た。


 帝国の皇帝継承に関わる人物だ。普通に考えれば、小さな事ではない。ないはずだ。少なくとも王都貴族が聞けば椅子から転げ落ちるかもしれない。


 しかし、マバール家の会議室で考えると、妙に小さく見える。


 受け入れれば国境が荒れる。逃せば誰かに使われる。殺せば火種が一つ減る。父上がここにいれば、たぶん似たような結論になったのではないか。


 俺は書状から顔を上げた。


「まあ、あれは小さな事だよな」


 会議室が止まった。


 上層部の視線が、一瞬だけ俺へ集まり、その後、示し合わせたように逸れた。老文官は書類の端を整え始め、武官は無意味に椅子へ座り直し、別の文官は机の木目を見ている。諜報に関わる男は最初から表情が薄いせいで分かりにくいが、こちらを見てはいなかった。


 俺は軽く眉を上げる。


「小さな事だろう?」


 誰も答えない。


 セバスチャンまで黙っている。


 おい、クソじじい。そこは何か言え。


 振り返ると、セバスチャンは口元に微妙な笑みを浮かべていた。助ける気はないらしい。むしろ面白がっている。


 仕方なく、俺はもう一度書状を見た。


 不明な事は上層部と相談しろ。


 これは守った。


 少なくとも俺一人で全部決めたわけではない。会議もした。意見も聞いた。上層部も反対しなかった。つまり、父上の言葉には従っている。


「ちゃんと会議して相談もしたし、問題ないよな?」


 今度は、さらに露骨に誰も目を合わせなかった。


 老文官は咳払いをし、武官は天井近くの梁を見上げ、別の文官は手元の紙を裏返した。そこには何も書かれていないだろ。明らかに見るものがないのに見ている。


「おい」


 俺が低く言うと、老文官がようやく口を開いた。


「ギルバート様は、お館様のご意向を尊重し、上層部との協議を経て行動なさいました」


「そうだな」


「その点においては、何ら問題はございません」


「その点においては?」


 老文官は静かに視線を逸らした。


 会議室の隅で、セバスチャンが喉の奥で笑いを殺したような音を立てた。


 俺は書状を畳み、机の上に置いた。


 父上。


 些事は任すと書いたのは父上です。


 俺はちゃんと相談しました。


 たぶん問題ない。


 たぶん。


 そう思いながら周囲を見ると、上層部の誰一人として、力強く頷いてはくれなかった。


 だが、反対もされなかった。


 なら、問題ないということにしておこう。


 俺はそう決めた。

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― 新着の感想 ―
善良王の希望通り帝国へ行ってもらったらよいな 赤布の山賊が出るらしいから気をつけてな
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