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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第七話 国境は森の中にある


 昼の光は、思っていたよりずっと残酷だった。


 昨夜、本当に朝までレティシアを眠らせなかったのだから、当然と言えば当然である。薄い天蓋布を透かして差し込んできた白い光は、柔らかいくせに容赦がなく、乱れた寝台の上に朝ではなくきっちり昼を連れてきていた。


 ギルはしばらく仰向けのまま、目元に腕を置いていた。


 身体が重い。


 重いが、不快ではない。


 筋肉の芯に鈍い疲れが溜まっている。訓練の後のだるさとはまた少し違う、じわりとした心地よい気怠さだ。胸の内側には妙な充足感があって、喉の奥にはまだ昨夜の熱が薄く残っている気がする。


 寝返りを打つ。


 シーツが肌にひやりと触れ、その下から昨夜の温度がゆっくりと戻ってくる。


 隣を見る。


 レティシアが横たわっていた。


 ぐったり、という表現がいちばんしっくりくる。


 いや、正確にはぐったりしているのに美しいという、こちらの理性をあまりにも軽視した有様だった。普段きっちり整えられている髪は半ばほどけ、頬には色が残り、閉じた瞼の下の睫毛が影を落としている。呼吸は浅く静かで、そのたびに掛け布の端がほんのわずかに上下した。


 色々と、色々である。


 言葉にすると酷く雑だが、雑にしか言いようがなかった。


 昨夜の自分を思い返して、ギルは心の中で少しだけ反省した。


 少しだけだ。


 やりすぎた自覚はある。


 だが後悔は無い。


 いや、無いどころか、こうして眠っているレティシアを見ていると、どうしても口元がゆるむ。困るくらいに満足してしまっている。


 出征前夜だ。


 そういう言い訳はいくらでもできる。明日から戦場へ向かう。戻って来られるとは思っているが、それでも何があるか分からない。なら今夜くらい、という理屈は立つ。


 だが、その理屈がなくても、おそらく昨夜の自分は大差なかっただろう。


 ひと月以上。


 ほぼ毎晩のようにレティシアと過ごしてきた。


 最初は恐る恐るだった。こちらもこちらで経験豊富というわけではないし、レティシアの方も初めてだったのだから、緊張も遠慮もあった。だが回を重ねるたび、互いに馴染んでいくのが分かった。呼吸の合わせ方。力の抜き方。どこを撫でれば彼女が安心するか。どこへ口づければ小さく息を呑むか。そういうことを一つずつ知っていった結果、今では妙に自然になっている。


 その自然さが、良くない。


 飽きるどころか、回を重ねるほどにのめり込んでいる自覚があった。


 しかも困ったことに。


 セバスチャンのせいで体力がついたのか、以前よりどう考えても元気だ。朝から晩まで鎧を着て走らされ、訓練で体はへとへとになっているはずなのに、レティシアが目の前でベッドメイクをしているのを見るだけで別のところが元気になる。もう本当に我ながらサルみたいだと思っていたが、昨夜はそのサルがかなり本気を出してしまった感がある。


 レティシアが嫌がっていないならいいか、と考えてしまう自分も大概だった。


 良くはない。


 だが、可愛いのが悪い。


 いや、悪いのは俺か。


 そんな意味のないやり取りを心の中でひとしきり繰り返したあと、ギルはゆっくりと上体を起こした。


 掛け布の下にあるはずの紋章の位置に、無意識に視線が落ちる。


 見えない。


 だが、見えないからこそ分かる。


 あそこにあるのは、自分が刻んだ印だ。


 あの風習は重いと思っていた。


 野蛮だとさえ思っていた。


 だが、今では見るたびに満たされる。


 ああ、やっぱりこれはいいものだな、と素直に思う自分がいる。レティシアが俺だけのものだと、視覚的に突きつけられる感じがあるのだ。理屈ではなく感覚として、それが妙に深く刺さる。


 手を伸ばす。


 そっと、眠るレティシアの髪に触れる。


 柔らかい。昨夜の熱をまだ少し含んでいて、指を滑らせると絹のように落ちる。


 そのまま額へ顔を寄せ、起こさない程度に軽く口づけた。


 レティシアの睫毛がかすかに揺れる。


 だが、起きない。


「……ゆっくり寝とけ」


 聞こえないだろうと思いながら、小さく言う。


 今日は、俺だけ先に行く。


 戦場へ。


 そう言葉にすると、胸のどこかが少しだけざわついた。今まで散々訓練されてきたとはいえ、俺はまだ実戦を知らない。魔物も、迷宮も、戦場も、全部知識としてはあったが、体感としてはゼロに近い。


 だからだろうか。


 こうして眠るレティシアの顔を見ると、少しだけ離れがたくなる。


 だが、離れないわけにはいかない。


 ギルはそっと立ち上がり、身支度を始めた。


 鎧を身につける。板金と革の重みが肩と腰に乗る。最初にこの鎧を着た日のことを思い出す。あのときは、ただ立っているだけでも鬱陶しかった。走れば死ぬほど重い。息は上がるし、汗は止まらないし、何より肉体強化魔法を禁じられていたせいで、ひたすら理不尽だった。


 それが今は、重いことは重いが、我慢の範囲に収まっている。


 慣れたのだ。


 認めたくはないが、慣れさせられた。


 胸の留め具を締め、腕を通し、最後に腰を確かめる。鏡の前に立つと、以前よりは少しだけ様になって見えた。気のせいではないと思いたい。少なくとも、最初の頃の「鎧に着られてる坊ちゃん」感は薄れている。


 最後に、寝台の方をもう一度振り返る。


 レティシアはまだ眠っていた。


 その様子を目に焼きつけるように見てから、ギルは静かに部屋を出た。


 昼の城は、いつも通り動いていた。


 廊下を行き交う使用人。書類を抱えた文官。中庭側から聞こえてくる鍛錬の掛け声。どこかで皿の触れ合う音もする。自分は今から戦場へ向かうのだ、と少し気負っていたが、城の中にいる限り、その実感は妙に薄い。


 城からすれば、今日も昨日の続きらしい。


 そのことが少しだけ気を楽にした。


 中庭へ向かう。


 石造りの回廊を抜け、日差しの中へ出た瞬間、ギルは足を止めた。


「……なんだよ、これは?」


 思わず口に出た。


 中庭の中央、セバスチャンが立っている。


 それ自体はいい。


 問題は、その周囲だ。


 十人ほどの騎士が、石畳の上に倒れていた。


 きれいに並んで倒れているわけでも、訓練後に座り込んでいるわけでもない。本当に、力尽きた形のまま転がっている。鎧を半ば脱ぎかけた姿で横になっている者。顔から突っ伏して動かない者。白目を剥いて、口元を引きつらせたままぴくぴく痙攣している者。


 全員、完全に沈黙していた。


 いや、一部は呻いていたかもしれない。だが、呻きと呼ぶより空気の抜ける音に近く、どちらにせよまともな会話ができる状態ではない。


 その中心で、セバスチャンは何食わぬ顔をしてこちらを見た。


「おや、若様」


 いつも通りの低い声だった。


「思ったより早いお出ましで」


「いや、そういう話じゃないだろ」


 ギルは倒れている騎士たちを指差した。


「何なんだよ、これ」


 セバスチャンはひょいと肩を竦める。


「城の連中が選んだ若様のお供ですよ」


「全員気を失ってるじゃねぇかよ」


 本当に全員だ。


 気絶していないとしても、起き上がれる者は一人もいない。白目を剥いてぴくぴくしている騎士を見た瞬間、ギルは今朝のレティシアをうっかり思い出してしまった。


 いや、全然違う。


 違うのだが、ぐったりと力の抜けた感じと、痙攣気味の震えがどうにも脳内で妙な繋がり方をしてしまい、自分でもかなり嫌な気分になった。


 最低だな、俺。


 内心でそう呟く。


 セバスチャンは頭を掻きながら言った。


「魔力無しでどれだけ出来るか、ちょいと試しただけなんですけどね」


 ちょいと、でこれか。


 とはいえ、考えてみれば当然でもある。


 騎士も貴族も、基本的には魔力を使って戦う側の人間だ。肉体強化を当たり前のように織り込んだ動きが染みついている。そういう連中から魔力を抜いて、純粋に身体だけでどれだけやれるかなどと問えば、こんなことにもなるだろう。


 むしろ、魔力無しで平然と暴れ回るセバスチャンの方がどうかしているのだ。


「……それで?」


 ギルは一応聞いてみた。


「どうする?」


 ほんの少しだけ、延期を期待していた。


 流石にこの状況で出発は無理だろう、と。十人連れて行く予定だった連中が全員床で白目を剥いているなら、普通は一度仕切り直すだろう。


 セバスチャンはあっさりと言った。


「ついて来ても邪魔なだけですからね。このまま二人で行きましょう」


「チッ」


 思わず舌打ちが漏れる。


 期待は一瞬で潰れた。


 このクソじじい、本当に雑だな。


 だが、考え方自体は筋が通っている。連れて行っても足手まといなら、いない方がましだ。そういう理屈だろう。分かる。分かるが、もう少し何かないのか。


 セバスチャンはそのまま城門の方へ歩き出した。


「ちょっと待て」


 ギルは慌てて呼び止める。


 立ち止まった背中が振り返る。


「なんです?」


「俺、鎧はあるけど剣とか武器無いぞ」


 これは結構重要な問題だと思う。


 城の中での訓練ならともかく、これから戦場へ行くというのに武器がない。鎧だけ渡されて、剣も槍も弓も何ひとつ支給されていない。自分で用意しろと言われるならそうするが、多分こいつ相手に勝手に動くと、それはそれで怒鳴られる未来が見える。


 セバスチャンは拍子抜けするほど気楽に言った。


「ああ。どっかで適当に何か買いましょう」


「それでいいのかよ?」


 ギルは首を傾げる。


「何言ってるんです」


 セバスチャンはわずかに鼻を鳴らした。


「若様は貴族なんですよ。武器なんぞ、いらんでしょう」


 ギルは一瞬だけ言葉に詰まった。


 ……そう言えば、そうなんだよな。


 忘れかけていたが、俺って貴族なんだよな。


 魔法で戦う側だ。


 攻撃魔法と肉体強化がまともに使えれば、普通の兵相手なら武器がなくても大抵のことは何とかなる。武器はあくまで補助だ。あるいは見栄えだ。


 そこまで考えてから、別の疑問が湧く。


 ん?


 それなら、さっき倒れてた騎士たちも別に魔力無しで戦う必要なくないか?


 問いかける前に、セバスチャンはそのまま歩き出した。


 完全に無視だ。


 ああ、このじじい、ついて来られるのが面倒くさくてまとめてボコったな。


 ギルは確信した。


 城下町へ下りる。


 昼の町はいつも通り賑やかだった。焼きたてのパンの匂い、革を鞣す匂い、鍛冶場から流れてくる鉄の熱い匂い、人の話し声、荷車の軋み。これから敵国へ向かうという実感が薄いのは、こういう生活の音が当たり前に満ちているからかもしれない。


 セバスチャンは迷いなく武器屋へ入った。


 いかにも町の武器屋といった風情の店だ。壁に長剣や斧が掛かり、棚には短剣や鉈が雑然と並んでいる。手入れはされているが、高級感はない。飾り物ではなく、明らかに実用品の店だった。


 店主は、入ってきた二人を見て一瞬だけ動きを止めた。


 片方は傷だらけの老騎士。もう片方は若い男だ。鎧は実用品で、貴族の飾り物めいた派手さは無い。だが、歩き方と目線の置き方が、町の兵や冒険者とは少し違って見えたのだろう。


 どこの誰かまでは分からないまでも、軽く扱っていい相手ではないと察したらしい。店主はすぐに頭を下げた。


「何本か見せてくれ」


 セバスチャンが言うと、店主ははいはいと奥から武器を持ってくる。


 ギルは言われるままそれを受け取り、軽く振ってみた。


 長剣。重い。


 片手剣。細い。


 槍。長い。論外だ。こんなの持って森を歩きたくない。


 結局、セバスチャンが選んだのは、短めの両刃剣と分厚いナタだった。


 地味である。


 かなり地味だ。


 もっとこう、初陣の貴族らしいそれっぽい剣はないのかと思わないでもない。装飾のついた剣とか、魔力を流しやすそうな加工のやつとか。


 ギルは店主に聞こえないくらいの声量で聞いた。


「……こんなのでいいのか?」


「充分ですよ」


 セバスチャンは即答した。


「壊れても惜しくないし、放り捨てても惜しくない」


 さらっとひどいことを言う。


 店主に聞こえてないことを祈るしかない。


 武器を買い、そのまま町を抜ける。


 城門を出て街道へ入ると、ぐっと空が広くなった。遠くまで伸びる道の脇に草が揺れ、その先には緩やかな丘と畑が見える。行商人の小さな荷車や、近隣の村へ向かうらしい農民とすれ違うが、誰も二人に特別な目を向けない。


 まあ、そうだろう。


 大軍でもなければ旗もない。供回りも荷車もなく、ただ鎧を着た貴族の若造と老騎士が歩いているだけだ。これで「ああ戦に行くんだな」と思う方が難しい。


 だが、それが逆に妙な現実味を連れてくる。


 戦場へ向かうのに、戦争っぽくない。


 なのに、それが一番本当らしい。


 陽がだいぶ傾いてから、街道沿いの小さな街へ入った。宿を取るのも、セバスチャンは手慣れたものだった。入口で軽く声を掛け、宿の主人と言葉を交わし、値段と部屋をさっさと決める。妙な駆け引きも見せず、しかし足元も見られない。慣れている者の動きだ。


 ギルはその横顔を見ながら少し感心した。


 戦場の狂犬みたいな顔してるくせに、こういうとこは妙にちゃんとしてるんだよな。


 宿屋の女将らしい中年女も、セバスチャンに怯えるというより「あんたまた来たのかい」みたいな目をしている。何度か使っているのだろう。あの顔で顔馴染みなのは、少しだけ面白かった。


 通された部屋は質素だったが、悪くはない。木の床に簡素な机、寝台が二つ。窓は小さいが外の赤い光を細く取り込んでいて、薄暗い室内に夕方の名残を残していた。


 荷を下ろし、腰を落ち着けたところで、セバスチャンが水を一口飲みながら言う。


「このまま三日ほど進んだら、適当な場所から帝国領に向かいます」


「何か、ずっと適当だよなぁ」


 ギルは思わずぼやいた。


 最初からそうだ。武器も適当、越境地点も適当、戦場は自分たちで決めればいい。雑というか、大雑把というか、怖いというか。


 セバスチャンは肩をすくめた。


「いいんですよ。ある程度決めるだけで」


「そうなのか?」


「今は二人だからそう思うでしょうがね」


 椅子に深く座り、手足を投げ出す。


「軍を率いてると、予定通りになんざ行きません」


 その言い方には妙な重みがあった。


「人数が増えれば増えるほど足は遅くなる。荷も増える。馬もへばる。病人は出る。道は荒れる。雨でも降れば、きっちり立てた予定なんざ紙切れ以下です」


 紙切れ以下、という表現は少し気に入った。


 前世の俺も会議で作った予定表がその日のうちに紙切れ以下になった経験はある。そう考えると、世界が違っても似たようなことは起きるのかもしれない。


 ぼんやりと、前世で見た中世軍の移動速度の話を思い出す。一日二十から三十キロぐらいだったか。うろ覚えだが、それくらいの数字を見た気がする。もっとも、俺は軍事史の専門家ではない。ネットでたまたま読んだ程度の知識だ。


「なあ、セバス」


「はい」


「もし全員に肉体強化魔法を施して移動したら、どうなる?」


 単純な疑問だった。


 肉体強化魔法で脚力も持久力も上げられるなら、移動はかなり楽になるのではないか。少なくとも理屈の上ではそう思える。


 セバスチャンは即答した。


「施してる貴族も、施された兵たちも、半日もせずにぶっ倒れます」


「ふーん」


 あっさりしすぎていて、一瞬軽く受け流しそうになる。


 だが、考えてみれば納得はできる。


 平民はそもそも魔力を持たない。そんな身体に他人の魔力を長時間流し込めば、負担が大きくて当然だ。施す側も、何十人何百人もの身体に強化を維持し続ければ、並みの貴族ならあっという間に魔力が枯れるだろう。


 何より、肉体強化魔法は万能ではない。


 ギルはそこを言葉にしようとして、少し首を傾げた。


 肉体強化魔法は、たしかに肉体を強くする。筋力、反応、持久力、そういうものを底上げする。だが、土台そのものを作り変えるわけではない。いや、感覚としては半ば作り変えるようでもあるのだが、結局は器が要る。骨も筋肉も、ある程度の強さがなければ、上から押し込まれた力に耐えきれない。


 うーん、言語化すると難しいな。


 前世の電池とか出力とかのイメージでは近いようで違う。


 だが、分かることは分かる。


 魔法だけで人間を別物にはできない、ということだ。


「若様」


 セバスチャンが言った。


「明日は早くから動きますからね」


「ああ」


「早めに休んでください」


 考えるのはいい。


 だが、今この場で悩んでも仕方がないこともある。


 少なくとも今は、悩む時ではないのだろう。


 ギルは素直にベッドへ潜り込んだ。


 掛け布は粗いが、眠れないほどではない。むしろ訓練後の身体には、柔らかすぎる寝台よりこういうのの方が合っている気もした。


 横になる。


 その瞬間、違和感がくる。


 隣にレティシアがいない。


 当たり前だ。分かっていたことだ。なのに、身体が先に「あれ?」と感じる。眠る前に側にあるはずの温度も、匂いも、呼吸の気配もない。


「レティシア嬢を思い出して興奮せんでくださいよ」


 向こうのベッドから、にやにやした声が飛んできた。


 ギルは顔をしかめる。


「安心しろ」


 すぐに返す。


「お前の顔を見てたら萎える」


 セバスチャンがくっくっと笑った。


「そりゃ結構」


 自分もベッドに入る音がする。


 ウソだけどな、とギルは心の中で付け足した。


 横になると、どうしてもレティシアを思い出す。ここふた月以上、ほとんど毎晩のように一緒に寝ていたのだ。目を閉じれば、自然と細い指の感触や、髪の匂い、眠る前の柔らかな声が脳裏に浮かぶ。


 うーん、寂しい。


 ひどく率直な感想だった。


 しかも、寂しいだけではない。別れ際のレティシアの顔が頭に残っていた。少しだけ疲れていて、それでも静かに微笑んでいたあの顔だ。


 ……大丈夫だよな。


 ちゃんと回復してるよな。


 昨夜はだいぶ容赦がなかった自覚がある。出征前だなんだと、我ながらかなり浮かれていた。自制がきいていたかと言われると怪しい。


 少しだけ、不安になる。


 そうやって考え始めると余計に眠れなくなる。


 だが身体は疲れている。いくら頭が回っても、重いまぶたには勝てない。気づけば思考は緩み、暗い眠りへ落ちていった。


 翌朝。


 まだ日も昇りきらない頃に、二人は宿を出た。


 街道に人影はほとんどない。夜露を含んだ土が靴裏に少しだけ柔らかく、空気はひやりと肺へ入る。空の端がわずかに白み始めてはいるが、家々の窓はまだ暗い。


 セバスチャンは周囲を見てから言った。


「少し走りますよ」


 ギルは鼻で笑った。


「なんだよ。日暮れぐらいまでなら走れるぞ」


 軽口だった。


 だが半分は本気でもある。あの地獄みたいな訓練をひと月やったのだ。少なくとも、鎧を着て長距離を走ることに関しては、最初とは比べものにならない自信がある。


 セバスチャンは首を振った。


「街道でそんなことをすれば、あっという間に噂が広まります」


「は?」


「そうすれば敵も警戒しますよ」


 なるほど。


 半分くらいは納得する。


 だが半分はよく分からない。


「うん? でも国境は向こう側だろ? そんなに簡単に広がるのか?」


 セバスチャンは、そんなことも分からんのかと言いたげに息を吐いた。


「若様、国境なんてのは平民にはさして関係ないんですよ」


「関係ない?」


「国境沿いじゃ、お互いの民が思った以上に行き来してます」


「そんなに頻繁に?」


「商売もありますし、酒も女もありますからな」


 いつものように身も蓋もない。


 だが、その言い方の方が余計に現実味がある。


 王国人も帝国人も、少なくとも見た目で分かるほど違う民族ではないのだ。言葉も多少の訛りや言い回しの差はあっても通じる。そうなると、遠い同国より近い敵国の方が、ずっと現実的な隣人になる。


 前世の国境のイメージとは大違いだ。


 もっとこう、はっきりしたものを想像していた。川とか壁とか検問とか。だがこの世界では、小競り合いのたびに境目が動くらしい。そんなものに毎回、今の自分は王国人だ帝国人だと付き合っていられるはずがない。


 税の納め先が変わる。


 たまに来る兵隊の顔ぶれが変わる。


 その程度にしか思っていないかもしれない。


 ……これ、かなり問題じゃないか?


 ギルは走りながらそう思った。


 するとセバスチャンが、恐ろしいことをごく普通に言った。


「若様、国境の民を自分たちの民にするには、歩いていけないくらいまで敵の村々を滅ぼすのが一番ですよ」


 ギルは眉を寄せた。


 あまりにも普通に言うな。


 理屈としては分かる。行き来が容易だから帰属意識が曖昧になる。なら、行き来できないほど緩衝地帯を広げてしまえばいい。敵の村を焼いて人を減らし、間を空ければ、そちらの色は薄くなる。


 理屈としては分かるが、口にすることじゃない。


 いや、この世界では口にするのかもしれない。


 少なくとも、辺境では。


 人が少ない時間だけ走り、人影が増えてきたら普通に歩く。


 その切り替えを数日続けるうち、ギルの中でも妙な実感が育ってきた。


 速く進むことだけが正義ではない。


 目立たずに進むことも同じくらい大事だ。


 そして、その両方を成立させるためには、こういう中途半端にも見えるやり方が案外合理的なのだ。


 数日後。


 景色は変わっていた。


 村と村の距離が開き、人影はさらに減り、街道の端には雑木林が濃くなる。道も少し荒れ、荷車の轍は浅くなる。風の匂いにも、湿った土と葉の匂いが強く混じるようになっていた。


 昼前、セバスチャンがふと立ち止まる。


「この辺りにしますか?」


 あまりにも軽い。


 ギルは周囲を見回した。


 森だ。


 ただの森。


 少し深いが、それだけだ。


「おい」


「はい?」


「ここ、戦場じゃないだろ?」


 セバスチャンは首を傾げる。


「若様、戦場ってのは、自分たちが決めればいいんです」


 またそれだ。


 ギルは笑うしかなかった。


「セバス」


「はい」


「騎士道精神って知ってるか?」


「ああ」


 即答。


「戦場の外で使う役立たずの理屈ですな」


「うん、なんかそんな感じの事言うと思ったよ」


 森へ入る。


 魔力を抑える。


 体の内側で燃えている灯を意識し、表へ漏れないよう沈める。胸の奥から四肢へ勝手に滲もうとする流れを掴んで押し戻す。完全に消すことはできないが、気配を薄くすることはできる。ひと月の訓練で、それはかなり上達した。


 前世の俺が見たら意味不明だろうな、とギルは思う。


 だが今の自分には、感覚としてかなり自然だった。


 森は静かだった。


 鳥の羽音。枝の擦れる音。時折、遠くで小動物が走る気配。そこを二人で進んでいく。


 そして、しばらくしてから、ギルは妙な違和感に気づいた。


 何もない。


 本当に何もない。


 柵があるわけでも、目印の石があるわけでも、道筋が変わるわけでもない。川もない。門もない。ただの森が続いていて、そのどこかを越えたら帝国領、というだけだ。


 拍子抜けするくらい、何もない。


 国境というより、県境みたいだな。


 前世の感覚が、妙な方向から顔を出す。山を越えたら隣の県に入りました、みたいな、そんな薄い境目に近い。


 敵国へ入った、という感じが全然しない。


 そのこと自体が逆に不気味だった。


 セバスチャンが言う。


「敵も魔力持ちは警戒しますが、魔力を持たない者まで構ってられませんからね」


「なるほどな」


 ギルは頷いた。


「魔力を抑えなきゃならない俺たちより、魔力の弱い奴の方が動きやすいこともあるのか」


「ありますとも」


 そこでふと、また一つ嫌なことに気づく。


「なぁ」


「はい」


「俺たちが簡単に侵入できるってことは、相手も簡単に侵入できるってことじゃないか?」


 セバスチャンはあっさり頷いた。


「ええ、もちろんです」


 当然だろうと言わんばかりだ。


「よくあることですよ、小競り合いなんてのは」


「そんな報告知らないような気がするけど」


「いちいち報告なんざしないでしょうからね」


 ギルは内心で頭を抱えた。


 おいおい、どうなってるんだよ国境警備。


 だが、少し考えればすぐに分かる。


 どうなってるもこうもないのだ。十分な兵を並べられない以上、全部は防げない。全部を見張ることはできない。だから、やられたらやり返す。向こうもやられたらやり返す。それをいちいち大仰に報告していたら、紙だけで倉が埋まるだろう。


「なぁ、これって永遠に終わらなくないか?」


 ふと口から漏れた問いに、セバスチャンは一切迷わず答えた。


「何言ってるんです」


 歩幅を変えない。


「敵を皆殺しにすれば終わりますよ」


 ギルは一拍置いてから言った。


「うん、そうだね。その通りだね」


 半ばは諦めだ。


 半ばは、本当にそうとしか言いようがないという理解だった。


 森を抜ける。


 帝国の村が見えた。


 それほど大きくない、小さな村だ。畑と木柵と、粗末な家々。煙の立つかまど。井戸。家畜小屋。遠くに人影も見える。


 前世なら、どこにでもあるような田舎の風景にしか見えなかっただろう。


 だが今のギルには、それが違って見えた。


 これから壊すかもしれない場所。


 そういう意味を帯びて見える。


 セバスチャンが、まるで授業の続きのような顔で言った。


「若様」


「……何だ」


「いい騎士ってのは」


 そこで一拍置く。


「敵をたくさん殺して」


 低い声が、妙にはっきりと耳に入る。


「敵からたくさん奪って」


 風が畑を撫でていく。


「味方にたくさん与える」


 遠くで犬が一度吠えた。


「それが、いい騎士ってやつなんですよ」


 ギルは唇を引き結んだ。


 なんかヤクザより酷いな。


 ほとんど山賊の理屈だ。


 だが。


 理解できてしまった。


 そうだよな。


 終わらないし、無くならないなら、殺され奪われるより、殺して奪う方がいいよな。


 綺麗事では終わらない世界だ。


 辺境とはそういう場所なのだろう。


 ギルは小さく息を吐いた。


 そして、帝国の小村へ向かって、ゆっくりと歩き出すセバスチャンの背を追った。

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