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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第四十七話 城内案内


 レティシアの手つきは、いつも通り丁寧だった。


 朝の光が窓から差し込み、部屋の中へ薄く広がっている。昨夜使った寝具はすでに整えられ、茶器も片づけられ、床に落ちていたはずの衣類も跡形なく消えていた。俺が少し目を離した間に、部屋はきちんと主人の部屋へ戻されている。


 さすがレティシアだ。


 寝起きの俺がぼんやりしている間にも、彼女は俺の着替えを用意し、上着の皺を確かめ、袖口を整えていた。指先の動きには無駄がない。襟を直す距離も近すぎず、離れすぎず、いつも通りに見える。


 ただ、目が少し厳しい。


 ギルは黙ってその目を見た。


 何だろう。


 俺は何も言っていない。


 何もしていない。


 ただ、レティシアを一日中裸で過ごさせるのはいつがいいか、ついでにダリアもその場にいたらかなり夢が広がるのではないかと、ほんの少し考えていただけだ。


 今回は以前と違って、口には出していないはずだ。


 絶対に出していない。


 たぶん。


 いや、出していない。


 それなのに、なぜかレティシアの目は少し冷たい。


「若様」


「何だ」


「襟元が曲がっております」


「ああ」


 レティシアは静かに指を添え、襟を直した。


 声は柔らかい。


 だが、目はやはり少し厳しい。


 うーむ、謎だ。


 もしかして、レティシアには俺の心を読む特殊な個人魔法でもあるのか。


 いや、ある訳ない。


 魔法はそんな便利なものではないし、個人魔法だとしても心を読むなど聞いたことがない。そもそも、そんなものが本当にあったら貴族社会は今よりさらに地獄になる。


 だが、レティシアなら読めそうな気がする。


 魔法ではなく、ただの観察力で。


「若様」


「今度は何だ」


「何か失礼なことを考えておられませんか」


「考えていない」


「本当でしょうか」


「うむ」


 レティシアは少しだけ目を細めた。


 怖い。


 やはり読んでいるのではないか。


 ギルは咳払いし、袖を通した腕を少し動かした。


「今日は朝食の後、特に予定は入っていなかったな」


「はい。旦那様よりお呼びがあれば別ですが、現時点では特にございません」


「そうか」


 それなら少しゆっくりできる。


 帝国から戻り、父上への報告も終え、ダリアも部屋に収まった。もちろん、完全に片づいたわけではない。帝国の話は重いし、腐銀の件もある。だが、今日一日くらいは少し緩く過ごしてもいいのではないか。


 ギルがそんなことを考えていると、レティシアが最後に上着の前を整えた。


「整いました」


「うむ」


「朝食へ参りましょう」


「ああ」


 廊下へ出ると、城はすでに朝の顔をしていた。


 石床には使用人たちの足音が重なり、遠くから食器の触れ合う音が聞こえてくる。窓の外では中庭を横切る兵が見え、厩の方から馬の声も届いた。帝国へ出る前と同じ城だ。だが、戻ってきた後で見ると少し違って感じる。


 大きい。


 重い。


 そして、落ち着く。


 ギルはレティシアを伴って食堂へ向かった。


 席に着いてしばらくすると、父上が入ってきた。


 ガルシア・マバール。


 その姿は普段と変わらない。


 歩幅も、背筋も、椅子へ腰を下ろす動きも同じだ。顔色にも大きな乱れはない。表情も崩れていない。父上はいつも通りに見える。


 だが、ギルは少しだけ違和感を覚えた。


 疲れている。


 そんな気がした。


 もちろん感知魔法など使っていない。父上に感知魔法を向けるなど、あまりにも失礼だ。魔力の状態を探るような真似はしないし、する気もない。


 だから、ただの感覚だ。


 顔に出ているわけではない。


 動きが鈍いわけでもない。


 それでも、なんとなく分かる。


 昨夜は長かったのかもしれない。


 俺の報告の後、上層部で話し合ったのだろう。帝国のこと、アバルディア家のこと、ザザント家のこと、腐銀のこと。軽く扱える話ではない。父上が疲れていても不思議ではなかった。


 朝食は静かに進んだ。


 パンをちぎり、肉を口に運び、湯気の立つ汁を飲む。レティシアは少し後ろに控え、必要な時だけ動く。父上はいつも通りに食べているように見えるが、やはりどこか少しだけ重い。


 食事が終わりに近づいた頃、父上が口を開いた。


「ギルバート」


「はい」


「今日はどうするつもりだ」


 ギルは少し考えた。


「そうですね。特には決めていませんが、しばらくはゆっくりしようかと」


「うむ。そうか」


 父上は短く頷いた。


 それで終わりかと思ったが、父上は杯を置き、こちらを見た。


「では、落ち着いたらでよい。迷宮へ行ってみなさい。許可する」


 ギルは一瞬止まった。


 迷宮。


 行きたいとは思っていた。


 アル兄さんの担当でもあるし、この世界の重要な場所だ。魔物も出る。資源もある。貴族の仕事にも関わる。興味はある。


 だが、父上から許可が出るとは思っていなかった。


「ありがとうございます」


 ギルはすぐに頭を下げた。


「うむ」


 父上はそれ以上言わなかった。


 理由も説明しない。


 だが、許可は許可だ。


 落ち着いたら迷宮へ行ける。


 これはかなり大きい。


 朝食を終え、食堂を出たギルは、部屋へ戻る途中で足を止めた。


 ダリアの部屋は近い。


 レティシアが用意した部屋だ。ギルの部屋から離れすぎず、かといって完全に隣でもない。使用人として扱うには少し良い位置であり、ギルの手元に置く女としても都合がいい。


 扉の前で、ギルは軽くノックした。


 少し間があって、扉が開く。


 ダリアが顔を出した。


 褐色の肌に灰色の髪。昨日よりは少し整っている。レティシアが何か手を入れたのかもしれない。服もあの赤ではなく、城内で動きやすいものに変わっていた。


 彼女はギルを見ると、少し驚いた顔をした。


「ギル様」


「起きてたか」


「はい」


「何もなければ部屋に来い」


「承知しました」


 ダリアはすぐに扉を閉め、最低限の身支度を整えて出てきた。


 廊下を並んで歩く。


 少し後ろにレティシアがつく。


 ダリアはちらりとギルを見た。


「何だ」


「いえ」


「言いたいことがあるなら言え」


「……変な方だと思いまして」


 ギルは眉を上げた。


「俺がか」


「はい」


「失礼だな」


「申し訳ございません」


 あまり申し訳なさそうではない。


 ギルは少し口元を歪めた。


「何が変なんだ」


「使用人の部屋へ、わざわざ扉を叩いて入る貴族をあまり見ません」


「ああ」


 それか。


 この世界では、貴族が使用人の部屋に入る時、いちいち許可を取る方が珍しいのだろう。まして、相手が自分専属の使用人であり、平民の女ならなおさらだ。


 ギルもそれは理解している。


 この世界では、遜ることは必ずしも美徳ではない。特に貴族は堂々としているべきだ。下の者へ過剰に気を使えば、優しさではなく弱さと見られることすらある。


 分かっている。


 分かってはいるのだが。


 女性の部屋へいきなり押し入るのは、ちょっとなぁ。


 いや、面白そうではある。


 慌てるダリアも見てみたい気はする。


 だが、それをやると本当にただの横暴な貴族になる。俺は貴族として生きているし、この世界の常識にもかなり染まっている。だが、前世の感覚が完全に消えたわけではない。


「まあ、気分だ」


 ギルは適当に答えた。


「気分、ですか」


「そうだ」


 ダリアは少しだけ目を細めた。


 納得していないのだろう。


 だが、それ以上は聞かなかった。


 部屋へ戻ると、ギルはソファへ座った。


「レティシア、茶を頼む」


「はい」


「ああ、土産の茶だ」


「かしこまりました」


 レティシアはすぐに動いた。


 帝国から持ち帰った茶葉を用意し、湯の温度を確かめ、茶器を並べる。その所作をダリアが静かに見ていた。昨日も見たはずだが、やはりレティシアの動きは目を引くのだろう。


「ダリア、お前も座れ」


「よろしいのですか」


「飲めと言っている」


「では、失礼します」


 ダリアは控えめに腰を下ろした。


 レティシアも茶を淹れ終えると、ギルの視線を受けて小さく頭を下げ、同じようにカップを手に取った。使用人としては異例かもしれないが、ギルが許しているのだから問題ない。


 茶の香りが部屋に広がる。


 王国でよく飲むものとは少し違う。香りが深く、わずかに渋みもある。帝国の土産としては悪くない。


「そういえば」


 ギルは茶を口に運びながら、ふと思い出した。


「旅に出る前に渡した手紙はどうした?」


 レティシアが顔を上げる。


「生産拠点への指示は、若様のご指示通り順に出しております」


「ふむ」


「調理場へのものも、余裕がありそうな時に渡しました」


「そうか」


 なら後で見に行くのも面白いかもしれない。


「お前自身への手紙は?」


 レティシアの手がわずかに止まった。


「使用しておりません」


「そうか」


「お返しいたします」


 レティシアは立ち上がろうとした。


 ギルは片手で制した。


「持っていろ」


「ですが」


「何かあれば使えばいい。俺が持っていても意味がない」


 レティシアは少しだけ迷うように目を伏せた。


 あの手紙は、ただの指示書ではない。レティシアの立場に関わるものだ。彼女も中身を知っている。だからこそ、簡単に持ち続けることにためらいがあるのだろう。


 だが、だからこそ持っていろと言っている。


「分かったな」


「……はい。ありがとうございます」


 レティシアは静かに頭を下げた。


 ギルは茶を飲みながら、今日の予定を考えた。


 何をするか。


 レティシアを愛でる。


 悪くない。


 かなり良い。


 だが、昨夜のこともある。いくら治癒魔法があるとはいえ、さすがに疲れるだろう。俺も成長しているのだ。ここは少し我慢するべきかもしれない。


 では、ダリアを愛でるか。


 ギルはちらりとダリアを見る。


 褐色の肌。灰色の髪。控えめな胸。だが、腰から尻の線はやはり良い。


 うむ。


 見た目は実に良い。


 ただ、今はまだラブラブイチャイチャという感じではない。抵抗はしないかもしれない。立場的にも、命じれば従うだろう。だが、そういうのではない。


 どうせなら、俺はダリアともラブラブイチャイチャがしたいのだ。


 ただ触るだけではなく、向こうから甘えてくるくらいがいい。


 そこまで持っていくには、まだ少し時間が必要だろう。


「若様」


 レティシアの声がした。


「何だ」


「何をお考えですか」


 目が冷たい。


 ギルは即座に首を振った。


「いや、何も考えていないぞ」


「本当でしょうか」


「うん。本当だ」


 なぜ分かる。


 何も言っていないのに。


 レティシア、本当に心を読めるのではないか。


 ギルは内心かなり真剣に疑った。


 だが、もちろん口には出さない。出せば余計に冷たい目で見られる気がする。


 ギルは茶を飲み、話題を変えるように考えを巡らせた。


 生産拠点へ行くか。


 城下へ行くか。


 どちらも悪くない。


 だが、今日は城から出る気分ではない。帝国から戻ったばかりだ。馬にも乗りたくないし、街へ出て人目を集めるのも面倒だ。できれば城の中で済ませたい。


 城内で出来ること。


 ギルはふとダリアを見た。


 そうだ。


 ダリアに城を案内すればいい。


 レティシアも一緒に。


 そうすれば、ダリア自身も城内の構造を覚えられる。使用人として最低限必要な場所も知れる。そして城内の者たちにも、俺がダリアを気に入っていることが自然に伝わる。


 悪くない。


「レティシア」


「はい」


「ダリアに城内を案内してやってくれ」


「はい」


 即答だった。


 ダリアも小さく頭を下げる。


「ありがとうございます」


「俺もついて行くぞ」


 沈黙。


 二人が一瞬だけ黙った。


 何だ、その間は。


 ギルは眉を寄せる。


「何だ」


「いえ」


 レティシアが微笑む。


「分かりました」


「よろしくお願いいたします」


 ダリアも少し遅れて答えた。


 絶対に何か思っただろう。


 まあいい。


 三人は部屋を出た。


 レティシアが先導し、ダリアがその横に少し控え、ギルが後ろからついていく形になる。普通ならギルが先頭なのだろうが、今日は案内なのでこれでいい。廊下を歩く使用人たちは、ギルたちを見るとすぐに頭を下げた。


 その視線が、ちらりとダリアへ向く。


 当然だ。


 謎の旅から戻った若様のそばに、見慣れない褐色肌の女がいる。しかもレティシアが普通に案内している。気にならないわけがない。


 ギルはそれをあえて放置した。


 隠すつもりはない。


 むしろ、見せる。


 俺の近くにいる女だと分かれば、変な扱いはしにくくなる。


「こちらは上級使用人の区域です」


 レティシアが静かに説明を始めた。


「若様方の生活に直接関わる者や、各部署の責任者が多く使います。一般の使用人は用がない限り立ち入りません」


 ダリアは頷きながら周囲を見る。


 廊下は広く、壁には簡素だが手入れされた飾りがある。人の行き来は少ないが、すれ違う者の服装や所作は整っていた。下働きとは違う。動きが静かで、目がよく利く者たちだ。


「こちらから奥は、旦那様やご家族の私室に近くなります。許可なく入ってはなりません」


「承知しました」


「若様のお部屋へ向かう時は、こちらの廊下を使って構いません。ただし、夜間は必ず当直の者へ声をかけてください」


「はい」


 レティシアの説明は分かりやすい。


 必要なことだけを、余計な言葉なく伝える。


 ギルは後ろで聞きながら少し感心した。


 俺が説明すると、絶対に途中で余計なことを言う。


 レティシアに任せて正解だ。


 次に向かったのは、一般使用人たちが多く使う区域だった。


 空気が少し変わる。


 先ほどより足音が多く、声も聞こえる。洗濯物を運ぶ者、籠を抱える者、水差しを持つ者。若い使用人がギルに気づいて慌てて頭を下げ、先輩らしき女に小さく注意されていた。


 ダリアはその様子を見ていた。


「こちらは一般使用人の区域です。掃除、洗濯、運搬、下準備などを行う者が多くおります。ダリア様は若様専属の扱いですので、こちらの作業を直接行うことは少ないと思いますが、場所は覚えておいた方がよろしいでしょう」


「私も手伝わなくてよいのですか」


 ダリアが尋ねる。


 レティシアは少しだけ目を細めた。


「必要があればお願いします。ただ、若様の近くに控えることが優先です」


「分かりました」


 ダリアは素直に頷いた。


 その返事を聞いて、近くの使用人が少し驚いた顔をした。若様専属。そう聞こえたのだろう。すぐに目を伏せたが、情報は広まるはずだ。


 いい。


 そのために来ている。


 次に中庭へ出た。


 朝の光はもう高く、石畳に明るい影が落ちている。兵が訓練場へ向かい、馬を引く厩番が端を通る。庭木は整えられ、井戸の近くでは使用人が水桶を運んでいた。


「中庭は移動にも使いますが、騎士や兵が通ることも多い場所です。通る時は周囲をよく見てください」


「はい」


「若様」


 レティシアがこちらを見る。


「何だ」


「勝手に訓練場へ近づかないよう、ダリア様へもお伝えしてよろしいですか」


「俺に聞くな。伝えろ」


「では」


 レティシアはダリアへ向き直る。


「訓練中の騎士へ不用意に近づいてはなりません。魔力持ちの訓練は、見た目以上に危険です」


「承知しました」


 ギルは中庭を見回した。


 この城で育っているのに、こうして説明されると意外と知らないことが多い。自分が使う場所と、使用人が使う場所はかなり違う。俺は城の主家側から見ていただけで、城の裏側まではあまり知らないのだ。


 次に、少し高い場所へ向かった。


 屋上に近い見張りの通路だ。


 城壁ほどではないが、城内を見渡せる場所で、風がよく通る。ダリアは外へ出た瞬間、少しだけ目を細めた。褐色の肌に光が当たり、灰色の髪が風に揺れる。


「ここは使用人が頻繁に使う場所ではありませんが、城の構造を把握するには便利です」


 レティシアが指で示す。


「あちらが厩。向こうが調理場へ続く棟です。中庭を挟んで、旦那様の執務棟がございます」


 ダリアは黙って見ていた。


 アバルディア家の屋敷とは違うのだろう。


 マバール城は辺境伯家の城だ。広く、重く、軍事色も強い。帝国の貴族屋敷とは造りも空気も違うはずだ。


「迷いますね」


 ダリアがぽつりと言った。


「最初は誰でもそうです」


 レティシアが答える。


「必要な場所から覚えれば十分です」


 ギルは横から口を挟んだ。


「トイレや風呂は教えなくていいのか?」


 ダリアがこちらを見た。


「すでに教えていただきました」


「そりゃそうか」


 少し残念だ。


 何が残念なのかは深く考えない。


 レティシアの視線がまた少し冷たい気がしたので、ギルは空を見た。


 空は青かった。


 次に食堂へ向かった。


 主家が使う食堂ではなく、使用人たちが食事を取る場所も含めた案内だった。大きな部屋に長い卓が並び、時間帯によって人が入れ替わるらしい。今は食事時ではないので人は少ないが、片づけや準備をしている者がいた。


「一般使用人の食事時間は、ある程度決まっています」


 レティシアが説明する。


「ただし、上級使用人や若様方に近い者は、時間がずれることもあります。その場合はこちらへ声をかければ、簡単な食事を用意してもらえます」


「私はどちらに従えばよいのでしょうか」


「当面はわたくしへ確認してください」


「はい」


「若様のお呼びがあれば、食事よりそちらを優先します」


 ダリアが頷く。


 こういう具体的な話になると、彼女は本当に覚えが早い。質問も必要なところだけだ。感情で動かない。こうして見ていると、やはり拾ってきて正解だったと思う。


 そのまま調理場へ向かった。


 調理場に近づくにつれ、匂いが強くなる。


 焼いた肉の匂い、煮込んだ野菜の匂い、香草、油、パンの焼ける香り。音も多い。包丁が板を叩く音、鍋を動かす音、誰かの短い指示、火が薪を舐める音。


 扉をくぐると、調理人たちが一斉にこちらを見た。


「若様!」


「おお、若様だ」


「戻られていたとは聞いておりましたが」


 声が明るい。


 ダリアが少し驚いた顔をした。


 ギルは軽く手を上げる。


「邪魔するぞ」


「邪魔などとんでもない」


「ちょうど試しておりました」


「若様の手紙にあったやつです」


 調理人たちは楽しそうだった。


 貴族に対する緊張はあるが、それだけではない。ギルがこれまで調理場へ色々な案を持ち込んできたせいで、彼らはギルをただの主人筋としてだけでは見ていない。面倒な注文を持ってくるが、面白いものも持ってくる若様。そんな扱いなのだろう。


 ダリアはそれを見て、また少し不思議そうな顔をした。


 普通の貴族は、調理人とこんな気安く話さないのかもしれない。


 まあ、俺も普通ではない自覚はある。


 ギルは調理台の方へ目を向けた。


 油の入った鍋が火にかけられている。


 その横には、よく洗われた芋が置かれていた。皮を薄く残したもの、剥かれたもの、太めに切られたもの、薄めに切られたもの。見た目はほとんどジャガイモだ。


 この世界にもジャガイモに似た作物はある。


 前世のものと完全に同じかは分からない。だが、見た目も味もかなり近い。なら、俺の中ではジャガイモでいい。


 調理人が切った芋を油へ入れる。


 じゅわっと音が立ち、香ばしい匂いが広がった。


 ギルはレティシアを見た。


 レティシアが小さく頷く。


 旅に出る前に渡した手紙を調理場へ回したのだろう。さすがだ。


「ふむ」


 ギルは揚がったばかりの芋を皿から一つ摘まんだ。


「若様、熱いですぞ」


「分かっている」


 指先で持ち替え、息を吹きかけてから口に入れる。


 熱い。


 かなり熱い。


 だが、美味い。


 外側は軽く香ばしく、中はほくほくしている。塩が振られていて、油の香りとよく合う。まだ改良の余地はあるが、十分に美味い。


「うん、美味いな」


 調理人たちの顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか!」


「ああ。いい感じだ」


「切り方をいくつか変えております」


「薄い方も試したか?」


「はい。ただ、焦げやすくて」


「火を少し弱めるか、二度に分けて揚げるといいかもしれない」


「二度に?」


「一度軽く火を通して、少し休ませて、もう一度揚げる」


 調理人たちが顔を見合わせる。


「なるほど」


「試してみます」


「あと、塩だけじゃなくて香草も合うかもしれない」


「香草ですか」


「細かくしたものを振るとか、油に香りを移すとか」


「油に香りを……」


 調理人の一人が真剣な顔になる。


 こういう顔は好きだ。


 職人が新しいものを試そうとしている顔。


 ギルはもう一つ芋を摘まみ、ダリアへ差し出した。


「食べてみろ」


 ダリアは少し驚いたが、受け取った。


「ありがとうございます」


 熱そうに息を吹きかけ、口に入れる。


 目が少し動いた。


「美味しいです」


「だろう」


 なぜかギルが得意げに頷く。


「俺が作ったわけではないが」


 ダリアは少しだけ口元を緩めた。


「そうですね」


「おい、そこはもう少し気を遣え」


「申し訳ございません」


 やはり申し訳なさそうではない。


 レティシアも一つ摘まんだ。


「美味しいですね」


「だろう」


「若様の書かれた通り、油を少し多めに使う必要があるようでした」


「油の消費は問題か」


 調理人が答える。


「毎日は難しいかもしれませんが、量を決めれば出せます」


「軍向けにも良さそうだが、揚げたてじゃないと味が落ちるな」


「持ち運びには向きませんな」


「城内の食事や軽食向きか」


 ギルは考えながら、もう一つ食べた。


 美味い。


 やはり芋を揚げるのは正義だ。


 ダリアがこちらを見ている。


「何だ」


「いえ」


「また変な方だと思ったか」


「はい」


 即答だった。


 調理人たちがぎょっとした顔をした。


 ギルは笑った。


「正直でよろしい」


 ダリアは少しだけ目を伏せた。


「貴族の方が調理場で揚げた芋をつまみ食いし、調理人と油の話をするとは思いませんでした」


「俺も昔は思わなかった」


「昔?」


「子どもの頃だ」


 危ない。


 前世の意味で言いかけた。


 ギルは何でもない顔で芋を置いた。


「美味いものは大事だ。兵も使用人も、美味いものがあれば少し元気になる」


「そういうものですか」


「そういうものだ」


 これは本当にそう思う。


 戦争も政治も大事だが、毎日の飯も大事だ。腹が減っている者はまともに動けない。まずい飯ばかり食っていれば気も滅入る。俺は専門家ではないが、少なくとも美味いものが人を動かすことは知っている。


 ダリアは少し考えるように揚げ芋を見ていた。


 調理人たちは別の切り方を試し始めている。レティシアはその様子を静かに見守り、邪魔にならない位置へ立っていた。


「若様」


 調理人の一人が言った。


「これは城下で出してもよろしいのでしょうか」


「構わないが、油の扱いには気をつけろ。火事になる」


「はい」


「あと、熱いうちに出せ。冷めると微妙になる」


「分かりました」


「名前はどうする」


 誰かが言った。


 ギルは少し考えた。


 フライドポテト。


 そのまま言うのはちょっと違うか。


 この世界に英語を持ち込んでもあまり意味がないしな。


「揚げ芋でいいだろ」


「揚げ芋」


「分かりやすい」


「確かに」


 調理人たちは納得したようだった。


 いい。


 変に洒落た名前にしても広がらない。


 食べ物の名前は分かりやすい方がいい。


 調理場を出る頃、ダリアはまだ少し不思議そうだった。


 廊下に戻ると、油の匂いが少し服についた気がした。


 レティシアがさりげなくギルの袖を確認する。


「汚れてはいません」


「そうか」


「ですが、少し香りが移りました」


「悪くない匂いだろ」


「若様のお部屋に戻る前に、軽く整えます」


「はい」


 ギルは素直に頷いた。


 レティシアに逆らうと面倒だ。


 ダリアがまたこちらを見ていた。


「今度は何だ」


「いえ」


「言え」


「やはり変な方だと思いました」


「お前、そればかりだな」


「他に言いようがありませんので」


 ギルは少し笑った。


「まあ、褒め言葉として受け取っておく」


「半分くらいは、そうかもしれません」


「残り半分は?」


「困惑です」


「正直すぎる」


 レティシアが少しだけ微笑んだ。


 城内案内はその後も続いた。


 倉の近くを通り、布や食器が保管される場所を外から見せ、使用人の出入口や夜間の通路も説明した。もちろん、全てを細かく教えたわけではない。ダリアが今知る必要のある範囲だけだ。


 それでも、彼女はよく覚えているようだった。


 案内が終わる頃には、城内の空気も少し変わっていた。


 使用人たちはダリアを見る。


 騎士も見る。


 だが、誰も軽く扱わない。


 レティシアが案内している。


 ギルが一緒にいる。


 それだけで十分だった。


 部屋へ戻る途中、ギルはふと思った。


 今日は悪くない。


 城から出ていない。


 戦ってもいない。


 政治の話もしていない。


 ただ、茶を飲み、城を歩き、揚げ芋を食べた。


 こういう日があってもいい。


 部屋へ戻ると、レティシアがすぐに茶を淹れ直した。


 ダリアも少し疲れたように見えるが、表情は悪くない。


 ギルはソファに座り、息を吐いた。


「どうだった、ダリア」


「広いですね」


「それだけか」


「覚えることが多いです」


「まあ、少しずつでいい」


「はい」


 ダリアは少し間を置いてから、静かに言った。


「ですが、悪くない場所だと思いました」


 ギルは少しだけ目を細めた。


「そうか」


「はい」


「なら良かった」


 レティシアが茶を置く。


 香りが広がる。


 帝国の茶だ。


 帝国から連れてきた女が、マバール城でその茶を飲んでいる。


 妙な巡り合わせだ。


 ギルはカップを手に取り、少しだけ笑った。


 お気楽な三男坊としては、こういう一日が一番いいのかもしれない。


 ただ、レティシアの視線がまた少し厳しくなったので、ギルは慌てて姿勢を正した。


「若様」


「何だ」


「また何かお考えではありませんか」


「何も考えていないぞ」


「本当でしょうか」


「本当だ」


 今度は本当に、ほとんど何も考えていない。


 ほんの少しだけ、裸デーのことが頭をかすめただけだ。


 レティシアはしばらくギルを見ていた。


 ダリアも静かにこちらを見ていた。


 ギルは茶を飲む。


 うむ。


 やはり、レティシアは心を読んでいる気がする。


 ある訳ないけどな。


 そう思いながら、ギルは何食わぬ顔で茶をもう一口飲んだ。

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