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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第三十八話 鈍く光る銀灰色


 ルクレ家の屋敷は、外から見た時よりもずっと静かだった。


 門は開いていたが、歓迎しているというより、閉じていないだけに見える。中庭の砂利はきれいに均され、屋敷の壁も窓も古びてはいるが手入れは行き届いていた。庭木は低く刈られ、枝の影が白い壁に細く落ちている。地方小貴族の屋敷としては悪くない。大きすぎず、小さすぎず、目立ちすぎない。


 秘密の会談場所としては、実に都合がいい。


 それが少し気に入らない。


 ギルは赤布を巻いたまま、案内の使用人の後ろを歩いた。使用人は平民だ。魔力はない。年は中年に差しかかった頃だろうか。背筋は伸びているが、こちらを見ようとはしない。視線は常に少し下。余計なことを聞かず、必要なことだけをする。こういう使用人は信用できる。少なくとも、無駄に騒ぐ者よりはずっといい。


 廊下は薄暗かった。


 窓はあるが、厚い布で光を絞っている。足音が石床に小さく響き、壁に掛けられた古い織物が風もないのにわずかに揺れているように見えた。感知魔法に引っかかる魔力は奥の一つだけ。屋敷へ近づく前から何度も確かめている。今も変わらない。


 エレオノーラ殿だ。


 静かで、整った魔力。


 ただ、以前よりわずかに揺れが細いように感じる。疲れているのか、緊張しているのか、それとも俺が勝手にそう見ているだけか。魔力で体調や感情が全て分かるわけではない。俺が拾えるのは魔力の反応だけだ。そこから先は推測になる。


 扉の前で使用人が止まった。


「こちらにございます」


「ご苦労」


 ギルが短く返すと、使用人は一礼して下がった。離れていく足音は乱れない。廊下の角を曲がり、その気配が見えなくなったところで、ギルは改めて扉へ視線を向ける。


 中には一人。


 魔力持ちは一人だけ。


 平民の伏兵がいる可能性は残る。罠がある可能性もある。腐銀のようなものが仕込まれていれば、感知魔法では分からないかもしれない。だが、ここで引き返すなら最初から来ていない。


 ギルは扉を開けた。


 部屋の中は、思ったよりも簡素だった。


 豪華な応接室ではない。広さはあるが、調度は控えめで、壁際の棚にも飾り気の少ない壺や書類箱が並んでいる。窓は一つ。厚い布が半分ほど引かれ、外の光は柔らかく抑えられていた。部屋の中央に小さな卓があり、その向こうにエレオノーラが立っている。


 久しぶりに見る彼女は、やはり少し疲れて見えた。


 髪はいつも通り整っている。衣服も乱れていない。姿勢も崩れていない。だが、目元の色が薄く沈み、頬の線もわずかに鋭くなっていた。気丈さで形を保っているが、内側の疲労までは隠しきれていない。そんな印象だった。


 帝国内を山賊として荒らしている俺より疲れているな。


 ギルは内心で苦笑した。


 いや、考えてみれば当然かもしれない。俺は襲う側だ。動き、焼き、殺し、逃げる。大変ではあるが、行動は自由でもある。エレオノーラ殿は違う。アバルディア家の中で調整し、ザザント家を探り、メガレス家の動きを見て、フリージア家の沈黙まで計算しなければならない。疲れない方がおかしいよな。


「お久しぶりです」


 エレオノーラが静かに礼をした。


 個人名は呼ばない。


 ここでは、呼ばない。


 彼女も俺もそれを理解している。


「ええ、お元気そうでなによりです」


 ギルも同じように返した。


 白々しい挨拶だ。


 だが、必要な白々しさでもある。俺たちは正式に会っていない。マバール家の三男とアバルディア家の者が、帝国内の小貴族屋敷で密談などしていない。ここにいるのは、上品な山賊と、何らかの事情でその山賊に会っている帝国貴族の女。それ以上でも、それ以下でもない。


 エレオノーラの視線が、ギルの赤布に一瞬だけ触れた。


「そのお姿も、ずいぶん馴染まれたようですね」


「何事も経験ですから」


「山賊の経験が、ですか」


「上品な山賊です」


「ええ。そこは変わらないようで安心しました」


 口元だけが少し緩んだ。


 だが、笑みはすぐに消える。


 エレオノーラは卓の向こうを示した。


「お掛けください」


「失礼します」


 ギルは腰を下ろした。


 卓の上には茶器が二つ。茶はすでに注がれている。湯気はまだ立っているが、熱すぎるほどではない。毒の可能性はある。だが、エレオノーラも同じ茶器に手を伸ばしたので、ギルもそれ以上は疑わなかった。同じ茶でも片方だけ毒入りということはあり得るが、そこまで疑い始めると会談などできない。


 もっとも、飲む量は少しにしておく。


「かなりお疲れのようですね」


 ギルが言うと、エレオノーラは茶器を持つ手をわずかに止めた。


「そう見えますか」


「ええ」


「では、まだ隠し方が足りませんね」


「十分隠せています。俺が少し見慣れただけでしょう」


 エレオノーラは短く息を吐いた。


 ため息ではない。崩れそうな呼吸を整えたように見えた。


「今の帝国では、疲れずにいる方が難しいでしょう」


「でしょうね」


「特にメガレス家は、かなり混乱しております」


 そこで空気が変わった。


 軽いやり取りはここまで。


 ギルは茶器を置き、続きを促すように黙った。


「皇帝候補たちが、それぞれ独自に動いています。家として一つにまとまっているとは言いがたい状況です」


「候補が割れていると聞いていましたが、そこまでですか」


「はい」


 エレオノーラは指先を茶器から離し、卓の上に重ねた。


「先帝の長男は、ザザント家を犯人として討つべきだと主張しています。帝都への攻撃、各地の屋敷襲撃、ザザント家だけが被害を避けていたこと。それらを理由に、もはや疑う余地はないと」


 ギルは目を細めた。


 帝都への攻撃。


 各地の屋敷襲撃。


 ザザント家だけが被害を避けていたこと。


 全部、こちらが仕込んだ流れだ。


 もちろん、メガレス家の長男とやらが本当に何を考えているかまでは知らない。だが、そう受け取る人間がいるのは狙い通りだった。


「交戦的ですね」


「もともと武を重んじる方です。支持する騎士も少なくありません」


「それで、実際に動いた」


「おそらくは」


 エレオノーラは断定しなかった。


 そこは当然だ。


 証拠があるわけではない。ザザント家系の屋敷を襲ったのがメガレス家の長男派かどうかも、現時点では推測だろう。だが、そう見える。そう噂される。政治ではそれだけで十分な時がある。


「先帝の弟は?」


「まだ見極めるべきだと主張しています」


「慎重ですね」


「慎重とも言えますし、遅いとも言えます」


 エレオノーラの声には評価を決めきらない硬さがあった。


 身内ではない相手を語る時の声だ。


「証拠が曖昧なまま大きく動けば、後で取り返しがつかない。その主張自体は正しいのです。ただ、今の帝国では、正しさがそのまま力になるとは限りません」


「その通りですね」


 ギルは軽く頷いた。


 慎重な人間は必要だ。


 だが、状況が動いている時に慎重すぎると、他人に主導権を取られる。


「そして、先帝の次男」


 エレオノーラの声が少しだけ低くなった。


「まずはアバルディア家と協力し、事態の収束を目指すべきだと主張しています」


「ふむ」


 ギルは茶へ視線を落とした。


 交戦的な長男。


 慎重な叔父。


 理性的な次男。


 一番危険なのは次男だな。


 ギルはすぐにそう思った。


 長男は分かりやすい。武で押すなら、押す方向を曲げればいい。叔父は慎重すぎるなら、その間に流れから取り残される可能性がある。だが次男は違う。自分の利益のために敵とも手を組める人間は厄介だ。今アバルディアと協力すべきだと言えるなら、状況次第でザザントともフリージアとも組める。


 理性は美徳ではある。


 だが、敵が持つ理性ほど面倒なものはない。


「その次男殿は、本気でアバルディア家と協力するつもりなのですか?」


「少なくとも、今はそう見えます」


「今は」


「はい。帝国内部での争いが広がりすぎれば、誰が皇帝になっても立て直しが難しくなります。次男殿は、それを嫌っているのでしょう」


「合理的ですね」


「ええ」


 エレオノーラはそこで一度言葉を切った。


 合理的という言葉に、同意しながらも警戒しているように見える。


 やはりエレオノーラ殿も、次男を軽く見てはいないらしい。


「ザザント家の様子はどうです?」


 ギルが尋ねると、エレオノーラの指が卓の上でわずかに動いた。


「かなり追い詰められています」


「でしょうね」


「メガレス家から疑われているだけではありません。表向きは、アバルディア家もザザント家を責めています」


「形を整えるために」


「はい」


 エレオノーラの表情に、わずかな苦さが混じった。


 アバルディア家はザザント家との共闘を考えている。だが、表向きは責めなければならない。ザザント家だけを庇えば、帝都攻撃や屋敷襲撃との関係を疑われる。アバルディア家も被害者であるためには、ザザント家を疑う姿勢を見せる必要がある。


 実に面倒だ。


 だが、貴族の政治はだいたい面倒だ。


「メガレス家の一部、おそらく長男派は、すでに実力行使を始めています」


「ザザント家系の屋敷襲撃ですね」


「はい」


 エレオノーラは頷いた。


「ただ、襲い方は荒い。生き残りも出ています」


「噂になりやすい」


「ええ。実際、なっています」


 ギルは内心で頷いた。


 ギルたちの襲撃は、生存者を残さないから具体的な情報が出にくい。だが、メガレス長男派らしき連中の襲撃は違う。生き残りがいる。証言が出る。襲撃者の特徴が噂になる。正確でなくてもいい。噂は事実より扱いやすい時がある。


「フリージア家は?」


「防御を固め、沈黙しています」


「動かない」


「少なくとも表向きは」


 その言い方に、ギルは引っかかった。


 エレオノーラはすぐには続けなかった。


 今はまだ、その話を出す場所ではないのだろう。


 ギルはあえて急がず、別の方向から尋ねた。


「ザザント家は、どうするつもりでしょうね」


「内密ですが」


 エレオノーラは少しだけ声を落とした。


「ザザント家は、アバルディア家との共闘を望んでいます」


 ギルは赤布の下で小さく笑いそうになった。


 来たか。


 狙い通り、と言えば言い過ぎかもしれない。政治は予定通りには動かない。だが、少なくとも望んだ方向には転がっている。


 ザザント家がメガレス家を頼ることはできない。


 フリージア家は沈黙。


 なら、アバルディア家へ寄るしかない。


「アバルディア家は選び放題ですね」


 ギルが言うと、エレオノーラは少しだけ苦笑した。


「選び放題と言えるほど楽ではありません」


「ですが、選べる」


「……ええ」


 否定はしなかった。


「メガレス家と組む道もあるでしょう」


 ギルは続けた。


「次男殿が協力を望んでいるなら、なおさら」


「あります」


「でも、選ばない」


「現時点では」


「理由は?」


 エレオノーラは茶へ目を落とした。


 しばらく湯気を見てから、静かに答える。


「メガレス家と組んでも、アバルディア家が得られるものは多くありません」


「最終的にメガレス家から皇帝が出る可能性が高いから?」


「はい」


 ギルは頷いた。


 分かりやすい。


 メガレス家と組めば、混乱は収まりやすいかもしれない。だが、収まった後の帝国はメガレス家のものになる。アバルディア家は協力者であって、主導者ではない。ほとんどの男子を失い、追い詰められた家としては、それでは足りないのだろう。


「ザザント家と組めば、メガレス家を削れる」


「はい」


「そして、アバルディア家から皇帝を出せる可能性が残る」


「可能性はあります」


「ザザント家にも見返りは必要でしょう」


「もちろんです」


 エレオノーラは顔を上げた。


「例えば、今回はアバルディア家。次はザザント家。そのような約束も、状況次第では考えられます」


 ギルは内心で、そちらの方が俺としてはいいな、と思った。


 帝国が一つにまとまるより、そうやって約束と不満を抱えながら均衡してくれた方がいい。今回はアバルディア、次はザザント。そんなものが本当に守られるかは分からない。だが、約束があるだけで争いの種にも抑止にもなる。帝国が王国へ圧をかける余裕は減るだろう。


 マバール家としては、その方が扱いやすい。


 もちろん、口には出さない。


「現実的ですね」


「現実的でなければ、今のアバルディア家は立てません」


「でしょうね」


 部屋の空気は、ここまでは政治の話だった。


 重いが、まだ読める。


 メガレス、ザザント、アバルディア、フリージア。


 それぞれがどう動くか。


 誰と誰が組むか。


 誰がどこで損をするか。


 ギルはそういう話なら嫌いではない。面倒ではあるが、筋が見える。利害で動くものは、まだ追える。


 だが、エレオノーラはそこで沈黙した。


 卓の上に置かれた茶は、少し冷め始めている。窓の外で枝が揺れる音がした。屋敷の中は相変わらず静かだ。静かすぎて、廊下の向こうに平民使用人がいるのかどうかも分からない。


 エレオノーラの手が、卓の横に置かれた小さな箱へ伸びた。


 それまで視界に入っていたはずなのに、ギルはその箱を意識していなかった。木製の小箱だ。飾りは少ない。書類入れにも、薬箱にも見える。


「今回、急いでお会いした理由は、今お話しした政治の流れだけではありません」


 エレオノーラの声は低かった。


 ギルは黙ったまま、箱を見る。


「フリージア家の密使が、アバルディア家へ来ました」


「フリージア家の密使」


「はい」


 エレオノーラは蓋を開けた。


 中には小さな硝子瓶があった。


 透明度は高くない。少し歪んだ瓶だ。その中に、粉が入っている。


 鈍く光る銀灰色の粉。


 ギルは息を止めた。


「それは」


「腐銀です」


 エレオノーラは短く言った。


 部屋の温度が下がったような気がした。


 ギルは瓶から目を離さなかった。


 量は多くない。指先で摘めるほどか、もう少しあるか。その程度だ。粉はさらさらしているようにも、わずかに湿っているようにも見える。光を受けても鋭く輝かない。むしろ鈍く、くすんでいて、銀というより腐った金属の灰のようだった。


 腐銀。


 平民の噂にあった毒。


 魔力持ちに効くと言われるもの。


 銀を腐らせる。


 魔力を乱す。


 アバルディア家の男子たちが魔力を失い、治癒魔法も効かずに死んでいった話を思い出す。


 だが、ここで断定はしない。


 これは腐銀だとエレオノーラは言った。


 そう伝えられたのだろう。


 実際に何なのかは分からない。


「フリージア家が、これを持ってきたのですか」


「はい」


「何のために?」


「それを調べるためにも、あなたにお会いする必要がありました」


 エレオノーラの目は瓶ではなく、ギルを見ていた。


「密使は、これが腐銀であると伝えました。フリージア家は防御を固め、沈黙しているように見せています。ですが、裏ではこのようなものを持ち込んできた」


「要求は?」


「今は言えません」


 エレオノーラの返答は早かった。


 ギルは少しだけ目を細める。


 言えない。


 つまり、何か要求はあったのかもしれない。


 だが、そこまではまだ共有しない。


 それでいい。


 全てを話すほど、アバルディア家は甘くない。


「その粉が本物かどうかは?」


「分かりません」


「試したのですか」


「できません」


「でしょうね」


 ギルは小さく頷いた。


 貴族に効くと言われる毒を、簡単に試すわけにはいかない。誰で試す。騎士か。貴族か。魔力のない平民では効果があるかどうかも分からないだろう。動物で分かるかも不明。そもそも、触れるだけで危険なのか、飲ませる必要があるのか、粉として吸わせるのか、それすら分からない。


 分からないものは怖い。


 実に面倒だ。


「密使は、これをどう扱っていました?」


「小瓶に入れ、さらに布で包んでいました。素手では触れていません」


「なるほど」


 少なくとも、扱う側も警戒している。


 それが本当に危険だからなのか、危険に見せるためなのかは分からない。


 ギルは瓶へ手を伸ばさなかった。


 触りたくない。


 珍しいものは好きだ。


 未知のものにも興味はある。


 だが、これは別だ。


 規格外の魔力を持つ俺が、最も影響を受ける可能性があるものかもしれない。腐銀の噂が本当なら、魔力が強いほど危険ということもあり得る。いや、それも推測だ。だが、推測で十分怖い。


「なぜ俺に見せるのです?」


「あなた方が、腐銀の噂を知っていたからです」


 エレオノーラはそう言った。


「そして、あなたは腐銀を軽く見ていませんでした」


「軽く見る理由がありませんからね」


「ええ」


 エレオノーラは小箱の蓋へ指を添えたまま続ける。


「アバルディア家にとって、これは無視できません。フリージア家がこれを持ち込んだことも、腐銀という名を出したことも」


「アバルディア家の男子の件を思えば、当然でしょうね」


 エレオノーラの表情が少しだけ固くなった。


 しまったか。


 いや、今さらか。


 彼女が以前、自分で話したことだ。アバルディア家の男子が次々と失われた。魔法が使えなくなり、魔力を失って死んだ。治癒魔法も効かず、むしろ悪化していった。兄たちも、と彼女は言っていた。


 今、目の前に腐銀がある。


 彼女が平静でいられる方がおかしい。


「失礼」


 ギルは静かに言った。


「いえ」


 エレオノーラは首を振った。


「事実です」


 その声は硬かった。


 だが、震えてはいない。


 ギルは改めてエレオノーラを見る。


 疲れている。


 だが、折れていない。


 この女は、やはり強い。


「フリージア家は、なぜ今これを出してきたのでしょうね」


 ギルは瓶を見たまま言った。


「沈黙を保っていた家が、ここで腐銀を持ち込む。アバルディア家へ。メガレスではなく。ザザントでもなく」


「それを考えております」


「でしょうね」


 ギルは頭の中で勢力図を並べる。


 メガレス家は混乱。


 長男派はザザントを討てと言う。


 叔父は見極め。


 次男はアバルディアとの協力を主張。


 ザザント家は追い詰められ、アバルディアとの共闘を望む。


 フリージア家は防御を固め沈黙。


 だが、その裏で腐銀を持った密使をアバルディアへ送った。


 何を狙っている。


 アバルディアを動かすためか。


 腐銀の存在を知らせるためか。


 それとも腐銀を巡ってアバルディアを縛るためか。


 分からない。


 分からないものばかりだ。


 ギルは少しだけ顔をしかめた。


「面倒ですね」


「ええ」


 エレオノーラがすぐに同意した。


 その言い方があまりに素直で、ギルは少し笑いそうになった。


 だが、笑う場面ではない。


「これを見せられて、俺に何をしてほしいのです?」


 ギルが尋ねると、エレオノーラはすぐには答えなかった。


 小箱の中の瓶へ目を落とし、しばらく黙る。


 彼女が迷っているのか、言葉を選んでいるのか、ギルには分からない。


「今は、知っていただきたかったのです」


「知るだけでいいと?」


「いいえ」


 エレオノーラは顔を上げた。


「ですが、ここで軽々しく頼めることではありません」


「なるほど」


 ギルは納得した。


 アバルディア家は、ギルを利用したい。


 だが、腐銀に関しては簡単に頼めない。


 調べてくれ、と言えば危険を押し付けることになる。奪ってくれ、と言えばフリージア家への敵対行為になる。広めてくれ、と言えば腐銀の噂そのものが帝国内に大きく広がる。


 どれも軽くない。


「では、俺も軽くは答えません」


 ギルは茶器を持ち上げた。


 今度は飲まず、ただ手の中で温度を確かめる。


「腐銀について、分かっていることは少ない。噂ばかりです。俺も実物を見るのは初めてだ」


「はい」


「ただ、無視するには怖い」


「同感です」


「触れたくもない」


「それも同感です」


 エレオノーラの返しが少し早かった。


 ギルは今度こそ少しだけ笑った。


「では、まずは触らない方向で」


「それがよろしいかと」


 僅かだが、空気が緩む。


 だが、瓶の存在感は消えない。


 鈍く光る銀灰色。


 小さな粉。


 それが卓の上に置かれているだけで、部屋の中心がずれてしまったように感じる。


「フリージア家は、沈黙しているわけではなかった」


 ギルが言うと、エレオノーラは頷いた。


「ええ」


「メガレス家が動き、ザザント家が追い詰められ、アバルディア家が選べる立場になった。そのタイミングで腐銀を出してきた」


「はい」


「実に嫌なタイミングですね」


「まったくです」


 エレオノーラの声に、少しだけ本音が混じったように聞こえた。


 ギルはそれを聞いて、彼女が本当に疲れているのだと改めて思う。


 帝国の四帝家は、どいつもこいつも面倒くさい。


 メガレスは割れている。


 ザザントは追い詰められている。


 アバルディアは被害者の顔をしながら選ぼうとしている。


 フリージアは沈黙しながら腐銀を出してきた。


 俺は山賊としてその間を焼いている。


 うーん、ろくでもないな。


 ギルは内心でそう思った。


「この件、ザザント家は知っているのですか?」


「まだ」


「メガレス家は?」


「知りません」


「フリージア家の密使が持ち込んだことを知っているのは?」


「限られた者だけです」


「俺もその一人になったと」


「はい」


 エレオノーラは真っ直ぐに言った。


「あなたに知らせるべきだと判断しました」


「エレオノーラ殿が?」


 思わず個人名を呼びそうになり、ギルは言葉を飲み込んだ。


 だが、もう少しだけ遅かったかもしれない。


 エレオノーラは聞こえたはずだが、咎めなかった。


「私だけではありません」


「アバルディア家として?」


「はい」


 なるほど。


 アバルディア家は、ギルを切り捨てるつもりではない。


 少なくとも今は。


 腐銀の情報を共有する価値がある相手として見ている。危険な山賊だが、必要な山賊でもある。そういう扱いか。嬉しくはないが、使える立場ではある。


「分かりました」


 ギルは静かに頷いた。


「俺も、これを見なかったことにはしません」


 エレオノーラの目がわずかに動く。


「ですが、軽々しく動くつもりもありません」


「承知しております」


「腐銀が本物かどうかも分からない。どう使うのかも分からない。誰が作れるのかも分からない。今は分からないことだらけです」


「はい」


「なら、急いで触るより、まず情報を拾うべきでしょう」


 ギルはそこで少しだけ考えた。


「フリージア家の密使が、どこを通って来たか。誰が取り次いだか。持ち込んだ瓶や布に特徴はあるか。その辺りは調べられますか?」


「調べています」


「なら、それを進めてください」


「あなた方は?」


「俺たちは、当面これまで通りです」


 ギルは言った。


「メガレス家系を中心に動く。ザザント家系は避ける。必要ならアバルディア家系やフリージア家系にも軽く被害を散らす」


 エレオノーラの表情が少し動いた。


 アバルディア家系にも被害を出す、と言われて良い気はしないだろう。


 だが、理解はしているはずだ。


「アバルディアだけ無傷では疑われる」


「……承知しています」


「フリージアも、沈黙しているだけならともかく、腐銀を持ち込んだ以上、完全に外すわけにはいかない」


「フリージア家を?」


「軽くです」


 ギルは赤布の下で笑った。


「上品に」


「山賊として?」


「ええ」


 エレオノーラは少しだけ目を伏せた。


 笑ったのか、呆れたのかは分からない。


「あなたは、本当に恐ろしい方です」


「俺はただ、お気楽に生きたいだけです」


「そのために帝国の屋敷を焼くのですね」


「必要なら」


 ギルは迷わず答えた。


 エレオノーラはしばらくこちらを見ていた。


 その目には、恐れだけではない何かがあった。


 評価。


 警戒。


 諦め。


 あるいは、ほんの少しの安堵。


 どれか一つではないのだろう。


「分かりました」


 エレオノーラは小箱の蓋を静かに閉じた。


 銀灰色の粉が視界から消える。


 それだけで、部屋の空気が少し戻ったように感じた。もちろん、消えたわけではない。蓋の向こうにある。今もそこにある。腐銀は存在している。


 それを知ってしまった。


「今後、ザザント家との共闘は進めます」


 エレオノーラが言った。


「メガレス家の長男派が動けば、ザザント家はさらにこちらへ寄るでしょう。次男派はそれを抑えようとするかもしれませんが、間に合うかは分かりません」


「叔父殿は?」


「動けないでしょう。見極めると言っている間に、事態は進みます」


「なるほど」


 ギルは頭の中で三人を並べる。


 長男を煽ればメガレスは荒れる。


 次男は収束を望む。


 叔父は遅い。


 ザザントはアバルディアに寄る。


 フリージアは腐銀を持ち込んだ。


 やはり次男が厄介だな。


 ギルは改めてそう思った。


「メガレス家の次男殿には注意した方がいい」


 ギルは静かに言った。


 エレオノーラが顔を上げる。


「なぜそう思われますか」


「長男殿は動きが分かりやすい。叔父殿は遅い。次男殿は、必要なら敵とも組める」


「……」


「そういう方が一番面倒です」


 エレオノーラはすぐには答えなかった。


 だが、反論もしなかった。


「覚えておきます」


「ええ」


 ギルは茶を飲み干した。


 すっかりぬるくなっていたが、喉を通るだけで十分だった。


 会談は終わりに近づいている。


 話すべきことは話した。


 腐銀を見た。


 メガレス家の内情を聞いた。


 ザザント家との共闘の方向も確認した。


 フリージア家が腐銀を持ち込んだことも知った。


 これ以上ここに長居するのは危険だ。


「そろそろ失礼します」


 ギルが立ち上がると、エレオノーラも立った。


「お気をつけて」


「そちらこそ」


 また個人名は呼ばない。


 最後まで形式を崩さない。


 扉へ向かう途中、ギルは少しだけ振り返った。


「その小箱、できれば俺の近くには持ってこないでください」


 エレオノーラは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、今日初めて少し自然に笑った。


「承知しました」


「怖いので」


「ええ。私も怖いです」


 その言葉だけは、飾りのない本音に聞こえた。


 ギルは頷き、扉を開けた。


 廊下には誰もいない。


 魔力反応もない。


 だが、屋敷の中には平民使用人たちがいる。彼らは今日、この部屋で何が話されたかを知らないだろう。知らない方がいい。知れば死ぬ可能性が高くなる。


 ギルは廊下を歩いた。


 足音が石床に響く。


 赤布の下で息を吐く。


 腐銀。


 フリージア家の密使。


 メガレス家の混乱。


 ザザント家との共闘。


 アバルディア家の疲弊。


 どれも面倒だ。


 だが、放っておけばもっと面倒になる。


 屋敷の外へ出ると、セバスチャンがこちらを見た。


「若様」


「戻るぞ」


「何かありやしたか」


「かなり面倒なものを見た」


「へえ」


 セバスチャンの目が少し楽しそうになる。


 ギルは赤布の下で顔をしかめた。


「楽しそうにするな。今回は本当に面倒だ」


「若様がそう言う時は、大抵ろくでもねえですな」


「ああ」


 ギルは馬へ向かいながら答えた。


「今回は、かなりろくでもない」


 空は少し曇っていた。


 風は湿っている。


 遠くの林が揺れ、屋敷の門が背後でゆっくり閉じられる音がした。


 腐銀の入った小箱は、まだあの部屋にある。


 だが、その存在はもう、ギルの頭から離れなかった。

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