第二十八話 腐った銀
大河までは、順調と言っていいところまで来た。
ギルは馬上から、夕暮れを受けて鈍く光る水面を眺めた。河という言葉から思い浮かべるものよりも、目の前に横たわるそれはずっと大きい。幅があり、流れがあり、対岸が見えているのに、近いとは感じられない。水面には細かな波が幾重にも重なり、風に押された濁った光がゆっくりと形を変えている。
足元の草地は湿っていた。馬の蹄が踏み込むたび、柔らかな土が鈍く沈み、青臭い草と泥の匂いが立ち上がる。河岸には古い杭の跡が残っていて、ところどころに人の手が入った形跡もあったが、今は渡し場として賑わっている様子はない。水鳥が遠くで鳴き、葦の陰から小さな虫が飛び立ち、河風が赤布の端を揺らした。
ここまでの道のりは、楽ではなかった。
だが、そこまで大変でも無かったな。
それがギルの実感だった。
「大河までは、まあ順調に進んで来れたな」
声に出すと、隣のセバスチャンが鼻で笑った。
赤布で口元を覆っていても、あの凶悪な顔がにやにや歪んでいるのは分かる。長年戦場を歩いてきた老人の目は、夕暮れの中でも妙にぎらついていた。
「そう思っているのは若様だけじゃねえんですか?」
「少なくとも、大きく足止めはされていないだろ」
「そりゃあ、足止めされる前に潰してきましたからな」
「なら順調だ」
「若様の順調は、ずいぶん物騒で」
セバスチャンの声音には笑いが混じっていた。
ギルは否定しなかった。
道中、何度か接近者はあった。街道の枝から近づいてきた騎士、こちらを遠巻きに見ていた騎士たち、偶然を装って進路を測ろうとした者たち。明確に刃を向けてきた連中もいたし、ただ様子を見に来ただけだった可能性のある者もいた。
だが、敵地である。
こちらは顔を隠し、名を隠し、遠乗りの山賊もどきという無理のある形で進んでいる。相手が何者であれ、こちらの人数、進路、エレオノーラ殿との距離、魔力の強さを持ち帰られるわけにはいかない。正体を探りに来た者は、正体を知らないまま帰るとは限らない。
だから処理した。
必要なら捕らえ、必要なら聞き、必要なら殺した。
そこに大きな感情はなかった。少なくとも、手を下す時には消した。判断が必要な間は考える。危険かどうかを測る。だが、一度決めた後は迷わない。可哀想だとか、もしかしたら敵ではなかったかもしれないとか、そんなものを挟んでいたら、こちらが死ぬ。
敵の命は重くない。
少なくとも、俺たちの安全より重くはない。
ギルはそう理解していた。
ただ、その結果として、エレオノーラ殿たちとの空気が少しずつ変わっていることも理解していた。
物理的な距離は変わっていない。馬車を中心とした彼女たちの一行と、赤布を巻いたこちらの十騎は、相変わらず近すぎず遠すぎない位置を保っている。指揮関係はない。同行しているとも言い切れない。だが、視界から外れない。
それでも、護衛たちの目は変わった。
最初は戸惑いと警戒だった。今はそこに、明確な恐れが混じっている。ギルが戻るたび、彼らは何があったのかを聞かない。セバスチャンが血の匂いを連れて戻った時など、誰も近づこうとしなかった。
当然だ。
彼らから見れば、ギルたちは山賊ごっこの一団ではない。
笑いながら肉を食い、軽口を叩き、赤布を巻いたまま、必要とあれば人を消して戻ってくる連中だ。しかも、その先頭にいるのはマバール家の若い三男で、あの桁外れの魔力を持つ男である。
ギルは自分の手綱を緩め、馬の首筋を軽く叩いた。
大河を渡るか。
引き返すか。
ここまで来たことで、選択肢は少し重くなっていた。大河を渡っても、すぐにアバルディア家の領域に入るわけではないらしい。だが、かなり近づいたのは確かだ。エレオノーラ殿の護衛たちの緊張も増している。彼女自身も、ここへ来るまで何度か言葉を選び直すような顔をしていた。
引き返すなら今だ。
大河を越えれば、戻るのはさらに面倒になる。エレオノーラ殿たちと別れて帰る場合、帝国の地理に不案内な俺たちだけで動くことになる。こちらを見た者を処理しながら戻ることもできるが、それは騒ぎの種を増やすだけだ。そもそも、帰り道でどの勢力の領域を通るかもはっきりしない。
だが、引き返すには惜しいというのも正直な感想である。
せっかく、ここまで来たのだ。
どうせなら帝都も見てみたい。帝都そのものに入れるかどうかは別として、帝国の内側をこの目で見る機会など、二度とないかもしれない。マバール家の三男が正式な使節でもなく、軍でもなく、山賊もどきとして帝国内を進む。どう考えてもまともではないが、まともではないからこそ今しかできない。
もちろん、ただの物見遊山ではない。
帝国がどういう土地で、どういう街道を持ち、どの程度の力を抱えているのか。それを見ることには意味がある。将来、強大化した帝国と向き合うことになるなら、俺自身が何も知らないままでいるのは危ない。
しかし、危険も大きい。
ギルは河を見た。
広い。
水は重く、暗い。
「どうしやした?」
セバスチャンが横から声をかける。
ギルは少しだけ目を細めた。
「大河を渡るか、引き返すか悩んでる」
「ここまで来て引き返すんですかい?」
「帰りが面倒だろ」
「そりゃあ面倒でしょうな。あっしらだけで戻りゃ、また鼠やら犬やらが寄ってきやす」
「鼠や犬で済めばいいがな」
「まあ、焼けば同じで」
「お前は雑だな」
「若様ほどじゃありやせんよ」
セバスチャンは悪びれない。
ギルは答えず、河岸の古い杭へ視線を移した。杭は斜めに傾き、半分ほど泥に埋もれている。水位が高い時には沈むのかもしれない。あれを見る限り、船を着ける場所として使えなくはない。だが、今すぐ渡れる船はない。
泳ぐか。
一瞬、本気で考えた。
前世では、少しなら泳げた。こちらの体は前世よりもずっと強い。肉体強化魔法を使えば、ある程度の距離は泳げるかもしれない。水流に逆らうのではなく、斜めに流されながら対岸へ向かえば、理屈としては不可能ではない気もする。
だが、馬はどうする。
荷はどうする。
全員が同じように渡れるとは限らない。
そもそも、肉体強化魔法は身体能力を強める魔法であって、水を支配する魔法ではない。泳ぐ技術がない者が水に落ちれば、強く暴れて沈むだけかもしれない。魔力持ちは頑丈だが、呼吸ができなければ死ぬ。
やはり無理だ。
そう考えていると、少し離れた場所でエレオノーラ殿が護衛たちと話し始めた。
彼女は河を見ていた。横顔は夕暮れの光を受けて淡く染まり、金髪の端が風に揺れている。声は大きくないが、こちらへ届く程度には通っていた。
「お祖母様はお元気かしら」
ギルは視線だけを動かした。
セバスチャンも、何も聞いていないような顔で水面を眺めている。だが、耳はそちらへ向いているはずだ。
「ご当主としてお忙しい方だから、心配だわ。大河を越えれば少しは近づけるのだけれど」
祖母。
当主。
大河を越えれば近づく。
つまり、アバルディア家の当主に会わせる意思があるということだ。少なくとも彼女はその努力をすると言っている。
もちろん、彼女は直接言っていない。俺も直接受け取らない。だが、意図は分かる。ここで大河を渡れば、ただ帝国を見物するだけでは終わらない。アバルディア家の中枢へ近づく可能性が出る。
ギルは決めた。
「セバス」
「へい」
「大河を渡るぞ」
「まあ、ここまで来ましたしね」
セバスチャンは驚かなかった。
むしろそう言うのを待っていたような顔だった。
「で、どうやって渡るんですか?」
「泳ぐか?」
「若様」
セバスチャンの声が低くなる。
オルドとジノも、少し離れた場所で微妙な顔をした。
「冗談だ」
「半分くらい本気でしたな」
「少しは考えた」
「やめてくだせえ。若様一人ならともかく、馬と荷と他の連中は沈みやす」
「お前なら泳げるだろ」
「あっしは泳げても、馬は文句を言いやすぜ」
「馬の文句は聞きたくないな」
そんなやり取りをしていると、エレオノーラ殿が再び言った。
「ああ、そういえば、アバルディア家の船が数日後には来る予定でしたね」
ギルは笑いそうになるのをこらえた。
彼女は護衛へ話している。
俺たちへ言っているのではない。
「ただ、もし山賊に人質にされたらどうしましょうか。船に乗せざるを得ないかもしれません」
なるほど。
山賊に脅されたアバルディア家の使者一行は、やむを得ず船に山賊を乗せて大河を渡る。実に苦しい。苦しいが、形にはなる。エレオノーラ殿が俺たちを招いたわけではない。俺たちが勝手に脅しただけだ。
俺たちは便利な山賊である。
「よし」
ギルは少し声を張った。
「しばらく休憩だ」
「休憩で?」
「船を待つ」
「山賊らしく待ち伏せと言った方がいいんじゃありやせんか」
「俺は上品な山賊だからな」
「上品な山賊は人質を取りやすかね」
「必要なら取るだろ」
「違いねえ」
セバスチャンが笑う。
エレオノーラ殿の護衛たちは笑わなかった。
それもそうだ。
冗談で済まない距離にいる。
その夜は大河の近くで野営することになった。
河風は日が沈むにつれて冷たさを増した。水面から上がる湿気が衣服の隙間に入り込み、焚き火の煙を低く流していく。馬車は河岸から少し離れた草地に置かれ、馬はさらに風下へ繋がれた。水場が近いのは便利だが、近すぎると足元が悪い。夜のうちに馬が暴れれば厄介だ。
エレオノーラ殿の一行はいつも通り整然としていた。馬車を中心に、護衛たちが四方を固める。荷を下ろす者、水を汲む者、火を起こす者、見張りに立つ者。それぞれが自分の役割を知っている。
俺たちは少し離れた場所に火を起こした。
距離は保つ。
近づきすぎれば関係が濃く見える。離れすぎれば、何かあった時に間に合わない。何日も同じように旅をしているうちに、その曖昧な距離感は自然と形になっていた。今では互いの陣の位置を見れば、誰がどこまで近づいてよいか、なんとなく分かる。
今夜の食事は鶏の塩スープだった。
なぜ鶏があるのか。
それはセバスチャンがどこからか調達してきたからである。
鍋の中では、骨ごと割られた鶏肉が湯に沈み、脂が細かな輪になって浮いていた。塩と香草の匂いが湯気に混じり、干した野菜らしきものが柔らかく煮えている。旅の食事としてはかなり上等だった。
「どこから手に入れたんだ」
ギルが尋ねると、セバスチャンは木の匙で鍋をかき混ぜながら肩をすくめた。
「まあ、小銭を渡せばなんとかなりますぜ」
「そんなもんか?」
「それで無理でも、なんとでもなりますしね」
「なるほど」
その場合は無理矢理か。
実にセバスチャンらしい。
ギルは追及しなかった。金で買ったのか、脅して買ったのか、借りたのか、もらったのか。どれでも今さら大きな違いはない。少なくとも鶏は鍋の中にあり、俺たちの腹を満たす。それが今の事実だった。
椀に注がれたスープは熱かった。
口をつけると、強めの塩気と鶏の脂が舌に広がる。上品ではない。だが、体に染みる。長い移動で冷えた体に、熱と塩と脂が入っていく。肉は硬めだが、噛むほど味が出た。
火を囲んで食事をしながら、ギルは薄く感知魔法を広げた。
広く、浅く。
拾うのは魔力だけだ。
水の流れも、暗い草地も、魔力を持たない平民や動物そのものも感知できない。感知魔法は万能ではない。魔力を感じ取るための魔法であって、世界そのものを見通す力ではない。だが、魔力持ちが近づけば分かる。騎士や貴族が動けば、その魔力が薄く意識に触れる。
今は全方位に薄く広げている。
前方だけに集中すれば精度は上がるが、野営中に前だけ見ても意味がない。河の向こう、背後の木立、左右の草地、どこから来るか分からない以上、広く拾う方がいい。前世の知識で言えば、レーダーのようなイメージだ。ただし、反応するのは魔力だけ。そこを間違えれば死ぬ。
薄く維持するだけなら負担は軽い。
いや、俺にとっては軽い。
普通の騎士が同じことをすれば、すぐに疲れるだろう。貴族でも、ここまで長く垂れ流すように使う者は少ないはずだ。魔力容量があるからこそできる。魔力操作の無駄を削っているからこそ、食事をしながらでも維持できる。
「まったく、若様のバカ魔力には恐れ入りやすな」
セバスチャンが椀を抱えたまま言った。
「バカ魔力とはなんだ、バカ魔力とは」
「飯を食いながら、そんな顔で感知魔法を広げっぱなしにしてる魔力のことですぜ」
「けっこう繊細な魔力操作が必要なんだぞ」
「でしょうな。普通の騎士が真似したら、飯の前にへばりやす」
「貴族でも普通はやらないと思うぞ」
「普通の貴族は、顔を隠して敵地で山賊ごっこもしやせん」
「それはそうだ」
ギルは素直に認めた。
火の周りで小さく笑いが起きる。
オルドもジノも、疲れた顔をしながら少しだけ口元を緩めていた。他の騎士たちも、緊張を完全には解かないまま、温かいスープを飲んでいる。赤布を外した顔には疲労がある。道中での接触、警戒、移動、野営。魔力持ちでも疲れるものは疲れる。
それでも、体調を崩した者はいない。
ギルはそのことに気づき、椀の中を見ながら言った。
「そういえば、ここまで旅をして来て、疲れた者はいるが体調不良者はいないな」
「若様はもちろんですが、あっしらも魔力持ちですからな」
「それもそうか」
魔力持ちは頑強だ。
水が変わっても、食事が粗くなっても、平民ほど簡単には崩れない。生水や少々の毒も、ほとんど問題にならないと聞く。もちろん限度はあるだろうが、少なくとも普通の旅で腹を壊したり熱を出したりする可能性は低い。
無意識に肉体強化魔法が働いているのか。
それとも魔力そのものが肉体に影響しているのか。
魔力持ちは寿命も長い。病にも強い。体が丈夫で、魔法が使えて、子を成せば魔力持ちが生まれる可能性がある。貴族や騎士が支配階級になるのは、この世界では自然な流れなのかもしれない。
前世の価値観では納得しにくい。
だが、今はもう、納得しにくいというだけで否定できるほど、この世界から離れてはいない。
「ですが、腐銀だけは勘弁ですな」
セバスチャンが何気なく言った。
ギルは椀を持つ手を止めた。
「腐銀? なんだ、それは?」
「ああ、魔力持ちに効く毒ですよ」
あまりにも軽い口調だった。
内容と声が合っていない。
「そんなのがあるのか?」
「あるって話ですな。あっしも実物は見たことありやせんが」
ギルはセバスチャンを見る。
同時に、少し離れた場所の空気が変わったのを感じた。
エレオノーラ殿だ。
彼女がこちらを見ている。火の向こう、馬車の近くで、動きを止めていた。表情までは完全に読めないが、反応したのは分かる。護衛たちも、彼女の変化に気づいたらしい。だが、誰も声をかけない。
「セバス、腐銀ってのを詳しく教えてくれ」
「いや、あっしも詳しくは知らんのですよ。ただ、平民の間じゃけっこう有名ですぜ」
「平民?」
「ええ。魔力を持たない平民でも魔力持ちを殺せる毒って話です」
平民でも魔力持ちを殺せる毒。
それは、平民の間で語られるには分かりやすい話だった。
理不尽な貴族。
横暴な騎士。
どうにもならない圧倒的強者たち。
それを、魔力を持たない者でも殺せる最後の手段。
噂としては、あまりにもありそうだ。
だが、噂としてありそうなことと、実在することは別だ。普通の毒なら、騎士や貴族の頑強な体には効きにくい。治癒魔法もある。魔力持ちだけに効くというなら、毒の種類が違うのかもしれない。体ではなく、魔力に作用するということなのだろう。
「どう効くんだ」
「魔力を乱すとか、魔法を使えなくするとか、そんな話ですな」
「魔力を乱す……」
ギルは口の中で繰り返した。
ただの伝承にしては、嫌な理屈がある。
魔法は魔力操作とイメージで効果が変わる。魔力操作が乱されれば、魔法は使えない。攻撃魔法も、防御魔法も、肉体強化魔法も、感知魔法も、治癒魔法も、すべて魔力操作が前提だ。魔力そのものが残っていても、操作できなければ意味がない。
毒。
神経毒。
いや、神経毒程度で貴族が簡単に死ぬとは思えない。
魔力そのものに干渉するのか。
魔力の流れを乱すのか。
それとも、体と魔力の接続のようなものを壊すのか。
分からない。
ギルは医者でも学者でもない。前世の知識はあるが、専門ではない。言葉だけならいくつか浮かぶ。神経、ホルモン、免疫、タンパク質。だが、それらをこの世界の魔力と結びつけて正確に考えられるほどの知識はなかった。
「どんな毒なんだ。液体か? 粉か何かか?」
「いや、あっしも実物なんざ見たことはありやせんよ。ただ、腐銀っていうだけあって、銀を腐らせて作るらしいですがね」
「銀を腐らせる?」
「そういう話です」
銀は腐るものなのか。
前世では、銀が黒ずむという話は知っていた。硫黄か何かで変色するはずだ。だが、それを腐ると呼ぶのか、別の何かなのかは分からない。平民の噂なら、正確な言葉ではない可能性も高い。
粉末か。
腐らせた銀を削って、食事にでも混ぜるのか。
液体に溶かすのか。
肌から入るのか。
煙なのか。
考えても分からない。
「腐った銀……魔力を乱す毒……」
エレオノーラ殿が呟いた。
独り言のようだった。
夜の河風に混じるほど小さな声だったが、ギルには聞こえた。彼女は自分が声に出したことに気づいていないように見えた。焚き火を見つめているが、その目は火ではなく、もっと遠い何かを見ている。
ギルは黙った。
セバスチャンも黙る。
火の爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。
「アバルディア家では、近年、次々と男子が失われました」
エレオノーラ殿が言った。
護衛の一人がわずかに動いた。
止めるべきか迷ったのだろう。だが、エレオノーラ殿は止まらなかった。彼女の声は静かだったが、そこに普段の使者としての整った響きはなかった。胸の奥から漏れ出るような声だった。
「事故や行方知れずなどと言われていますが、本当は違うのです。何故か魔法が使えぬようになり、魔力を失って死んでいったのです」
ギルは息を止めた。
魔法が使えなくなる。
魔力を失う。
死ぬ。
「治癒魔法も効かず、いえ、むしろ治癒魔法を使えば使うほど悪化していったのです。兄たちも……」
兄たち。
エレオノーラ殿の声が、そこで少しだけ揺れた。
彼女は強い女だ。敵国の城へ使者として来て、マバール家の当主や上層部と向き合い、ギルとの曖昧な交渉にも耐えた。その彼女が、今は自分の声を制御しきれていない。
「毒ではないかとも考えました。ですが、同じ物を食べていた女にはそのようなことは無く、何らかの病かと……」
男だけ。
ギルの頭の中で、その言葉が形を持った。
男にだけ効く毒。
男性ホルモンか。
いや、女性にも存在しているはずだ。
男と女の差。
精液か。精子か。特定のタンパク質に反応するのか。女性にも効いているが、女性側に何か無効化する仕組みがあるのか。子宮や卵子が関係しているのか。染色体か。いや、染色体なんて言葉を知っているだけで、俺はそれを利用した毒の仕組みなど分からない。
そもそも、この世界には魔力がある。
前世の知識だけで説明できるはずがない。
だが、アバルディア家の男子が次々と失われた件に、原因がある可能性は高い。
事故でも行方知れずでもない。
病でもないかもしれない。
魔法が使えなくなり、治癒魔法で悪化する。
腐銀の噂と、嫌なほど噛み合っている。
エレオノーラ殿は、自分が俺たちに話していることに気づいていないのかもしれない。あるいは、気づいていても止められないのかもしれない。彼女の護衛は顔を強張らせている。外へ漏らすべき話ではないのだろう。アバルディア家の男子が魔力を失って死んだなど、敵対勢力に知られれば致命的な情報になる。
ギルは焚き火から視線を外し、セバスチャンを見た。
「セバス。そんなもん、よく知ってるな」
「いや、騎士や貴族には知る者は少ないですが、平民の間じゃそれなりに有名ですぜ」
「そうなのか」
「ええ。まあ、貴族様方は平民の噂なんざ馬鹿にしやすからな」
ふむ。
セバスチャンだから知っているのかもしれない。
こいつは凶悪な顔をしているし、言葉も荒いし、若様相手にも遠慮が薄い。だが、戦死した兵の家族に金を渡したり、何かと世話をしている。兵たちとの距離が近い。平民兵の口から流れる噂も、自然と耳に入るのだろう。
貴族や上級騎士が聞かない話を、セバスチャンは知っている。
腐銀。
魔力持ちに効く毒。
平民の噂。
アバルディア家男子の異常な死。
ギルは椀の中の冷めかけたスープを見た。脂の輪が固まり始め、湯気はほとんど消えている。さっきまで美味かった鶏の塩スープが、急に重く感じられた。
これは調べる必要がある。
徹底的に。
魔力持ちに効く毒。
魔力を乱す毒。
もしそれが本当に存在し、しかも魔力の強い者ほど危険だとすれば、俺が一番危ない可能性がある。魔力強度も容量も規格外。普通の騎士や貴族よりも、魔力に関わる影響を強く受けるかもしれない。
逆に、魔力容量が大きいから耐えられる可能性もある。
だが、分からない。
分からないものは怖い。
ギルは火を見つめながら、帝国の勢力図を頭に浮かべた。
アバルディア家の男子だけが次々と死んでいる。
最も疑わしいのはメガレア家だ。
皇帝位を独占しようとするなら、他の帝家の男子を削るのは合理的だ。表向きは事故や病として処理し、裏で魔力を乱す毒を使う。二代続けて皇帝を出した裏で、競争相手の家を少しずつ弱らせていたのだとしたら、今の状況にもつながる。
だが、決めつけるのは危険だ。
ザザント家の可能性もある。
フリージア家の可能性もある。
アバルディア家内部の争いだって、絶対にないとは言い切れない。外から見れば被害者だが、内部の誰かが得をする構造があるなら話は変わる。今の段階で除外していいのは、少なくとも表向き被害を受けているアバルディア家全体を最有力犯から外す程度だ。
いや、それすら甘いかもしれない。
怖いぞ、これ。
ギルは腹の奥が冷えるのを感じた。
敵に斬られるのはまだ分かりやすい。
攻撃魔法で焼かれるのも、防御魔法で受けるなり避けるなりできる。
だが、食事に混ぜられるかもしれない毒。
魔力を乱し、治癒魔法すら悪化させるかもしれない何か。
それは危険の質が違う。
しかも、平民の間ではそれなりに知られているという。噂として広まっているなら、使い方の断片を知る者がいてもおかしくない。誰かが実物を持っていてもおかしくない。帝国の政争に関わる者が、それを利用していてもおかしくない。
これは、ただ帝都を見て帰る話ではなくなった。
「腐った銀……魔力を乱す毒……」
エレオノーラ殿がもう一度呟く。
声はさらに小さい。
だが、ギルには聞こえた。
彼女は震えてはいない。泣いてもいない。ただ、何かに触れてしまったように、焚き火の前で立ち尽くしている。兄たちを失った記憶と、腐銀という噂が、彼女の中でつながってしまったのだろう。
ギルは椀を地面に置いた。
「セバス」
「へい」
「大河は絶対渡るぞ」
セバスチャンは少しだけ目を細めた。
軽口は返ってこなかった。
「でしょうな」
「腐銀について、分かることは全部拾う」
「平民の噂まで漁るとなると、面倒ですぜ」
「得意だろ」
「まあ、嫌いじゃありやせん」
セバスチャンは口元を歪めた。
その顔は相変わらず凶悪だったが、今は妙に頼もしくもあった。
ギルは対岸を見た。
夜の大河は黒く沈み、夕暮れの金色はすでに消えている。対岸は暗く、ところどころに木立の影が見えるだけだった。数日後に船が来る。それまで待つ。その間に何があるかは分からない。だが、もう引き返す選択肢はない。
帝都を見たいからではない。
アバルディア家当主に会えるからだけでもない。
腐銀を知らなければならない。
それはアバルディア家のためではなく、帝国のためでもなく、まず俺自身のためだ。
俺は死にたくない。
レティシアと離れたくない。
お気楽な三男坊でいたい。
そのために必要なら、どれだけ冷酷なことでもやる。
そして、俺を殺せるかもしれないものがあるなら、知らないまま放置するわけにはいかない。
ギルは薄く広げた感知魔法を保ったまま、黒い水面の向こうを見つめた。
腐った銀。
魔力を乱す毒。
その正体を知るために、大河を越える。
そう決めると、不思議と迷いは消えていた。




