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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第二十四話 静かな合意


 目が覚めた時、部屋の中にはまだ夜の名残が薄く残っていた。


 窓に掛けられた厚い布の隙間から、細く淡い光が差し込んでいる。その光は朝というにはまだ弱く、夜明け前の灰色を含んでいて、寝台の周囲に落ちる影も柔らかかった。石造りの壁は冷えを抱いたままで、部屋の空気にもわずかな冷たさが漂っている。だが、厚い寝具の内側だけは温かく、外の世界から切り離された小さな巣のようだった。


 遠くで人の動く気配がある。


 早番の使用人たちだろう。廊下の向こうから、足音とも衣擦れともつかないごく小さな音が届いては消えていく。城はすでに目覚め始めている。だが、まだ完全には起きていない。夜の静けさと朝の支度が、どちらも遠慮がちに同じ場所へ重なっているような時間だった。


 その曖昧な静けさの中で、ギルは隣を見た。


 レティシアが眠っている。


 いつも通りだ。


 俺の隣で眠るレティシア。


 それだけの光景なのに、目が離せなくなる。


 彼女は横向きに近い姿勢で眠っていた。枕に頬を預け、髪は夜の間に少しだけ乱れている。普段なら一筋の乱れも許さないような女が、今はその乱れを無防備に晒していた。それなのに、だらしなさはない。むしろ普段とは違う柔らかさが加わって、見慣れているはずの顔が少し別人のようにも見える。


 起きている時のレティシアは、凛としている。


 背筋はまっすぐで、手の動きには無駄がなく、声は落ち着き、視線には上級メイドとしての確かさがある。俺に対しても甘いだけではない。必要な時にはきちんと釘を刺すし、俺がくだらないことを言えば、静かな目で制してくる。美しい女であると同時に、有能な女であり、俺の側に立つ者としての緊張を常にまとっている。


 だが、眠っている時は違う。


 凛とした線がほどけている。


 瞼は閉じられ、唇はわずかに力を失い、呼吸に合わせて肩が小さく上下している。油断しきっているはずなのに、美しさは崩れない。むしろ、起きている時には隠れている柔らかい部分が浮かび上がって、これはこれで別の意味で危ない。


 うーむ。


 やはり美人だ。


 たぶん一番油断している寝顔なのに、それでも美しい。


 寝起きの顔というのは、もっと間抜けだったり、少し崩れていたりするものではないのか。少なくとも前の人生の記憶では、そういう印象がある。もちろんそんなものは人によるのだろうが、ここまで整っていると少し反則じみている。


 ギルは息を殺すようにして、しばらくレティシアを眺めた。


 見るだけならいいだろう。


 俺の女だ。


 俺の隣で眠っている。


 しかも起こしていない。


 見ているだけなら、たぶん許される。


 いや、目が覚めたレティシアがこの状況を知ったら、少し恥ずかしそうな顔をするかもしれない。だが、その顔も見たい。結局、何をしても見たいだけなのかもしれない。そう考えると少し自分が情けない気もするが、仕方ない。美しいものを見たいと思うのは自然なことだ。


 こうして見ていると、くだらないことまで考えてしまう。


 美人はトイレに行かない、みたいな馬鹿げた話がある。もちろん、そんなことを本気で信じているわけではない。俺も子どもではない。人間である以上、食べれば出すし、飲めば出す。貴族だろうが平民だろうが、美人だろうがそうでなかろうが、そこは変わらない。


 変わらないはずだ。


 それなのに、レティシアなら本当にそういうものとは無縁なのではないかと、ほんの一瞬だけ思ってしまう。


 いや、絶対にそんなことはない。


 ないのだが。


 寝台の上で朝の薄い光に照らされているレティシアは、あまりにも整っていて、生活の生々しい部分から遠く見える。綺麗なものが綺麗なままそこにある。そんな当たり前ではない光景が、当たり前のように隣にある。


 ギルは指先を少しだけ動かした。


 触れたい。


 だが、まだ眠っている。


 起こすのは惜しい。


 起こしたい気持ちと、もう少し見ていたい気持ちがせめぎ合う。くだらない葛藤だ。帝国の皇位争いだとか、アバルディア家だとか、メガレア家だとか、これからやるべきことはいくらでもあるのに、朝の俺は隣で眠る女を起こすか起こさないかで悩んでいる。


 お気楽な三男坊としては、むしろ正しいのかもしれない。


 そう思ったところで、レティシアの睫毛がわずかに震えた。


 呼吸が変わる。


 眠りが浅くなる。


 指先が寝具の上で小さく動き、唇がかすかに開く。ゆっくりと瞼が上がった。朝の光を受けた瞳が、まだ焦点の合わないまま揺れ、それから俺の顔を認識する。


「……若様」


 眠りの残った声だった。


 普段の整った声音よりも柔らかく、少し幼いようにも聞こえる。


 その声を聞いただけで、もう少しこのままでいたいと思った。


 レティシアは目を覚ました瞬間、ほとんど反射のように身を起こそうとした。仕える者としての習慣なのだろう。朝になれば起きる。起きたら俺の世話をする。そういう一連の流れが体に染みついている。


 ギルはすぐに手を伸ばした。


「そのままだ。起きるな」


「ですが、若様、朝の支度が」


「いいから」


 肩にそっと手を添える。


 押し倒すほどの力ではない。ただ、起き上がる動きを止める。レティシアは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに力を抜いて再び寝台へ身を沈めた。寝具が小さく音を立て、彼女の髪が枕の上に広がる。


「もう少しこのままがいい」


 ギルが言うと、レティシアは視線を伏せた。


「……かしこまりました」


 その返事は従順だったが、ほんの少しだけ恥じらいを含んでいるように聞こえた。


 ギルは満足して、寝具の下へゆっくりと手を差し入れた。


 レティシアの体がわずかに強張る。


 だが逃げない。


 指先が彼女の腹に触れた。朝の空気は冷たいが、寝具の中の肌は温かい。薄く、柔らかく、思ったよりも頼りない。普段は服の上からしか意識しない体の細さが、こうして直接触れると妙に現実味を帯びる。


 そして、指先にわずかな引っかかりがあった。


 紋章だ。


 俺が刻んだ印。


 貴族男性が女の下腹部、子を成す場所の上に刻む所有の証。


 前の人生の感覚なら、どう考えても野蛮だ。焼印のようなものだと言ってしまえばそれまでだ。だが、この世界ではそれが意味を持つ。誰の女か。誰の子を宿す場所か。そういうことを体に刻む。


 ギルはその輪郭をゆっくりとなぞった。


 レティシアの腹が小さく震える。


「痛かっただろう」


 言葉は自然に出た。


 レティシアは少しだけ目を伏せる。


「いえ、若様が治癒魔法を使いながら刻んでくださいましたので、それほどではありませんでした」


「それほど、か」


「はい」


 レティシアはそう言う。


 たぶん、本当に耐えられないほどではなかったのだろう。俺は治癒魔法を使いながら刻んだ。痛みや傷を抑え、体に残るようにしながら、ひどくならないようにした。だが、だからといって痛みがなかったわけではないはずだ。


 それでも彼女は、痛かったとは言わない。


 俺のためか。


 自分の立場のためか。


 あるいは、その両方か。


 ギルは紋章の上をもう一度なぞり、そこから少しだけ周囲へ指を滑らせた。


 この腹に、いずれ俺の子が宿る。


 その考えが浮かんだ瞬間、妙な感覚が胸の奥に生まれた。


 不自然だな。


 いや、何が不自然なのか自分でもよく分からない。知識としては分かっている。女の腹に子が宿る。時間をかけて膨らみ、やがて生まれる。そういうものだ。貴族だろうが平民だろうが、魔力持ちだろうが魔力無しだろうが、基本的には変わらない。


 だが、こうしてレティシアの腹に触れていると、本当にここに子どもが出来るのかと不思議になる。


 薄い。


 細い。


 柔らかい。


 そこに新しい命が育つ。


 この世界の治癒魔法や魔力がどう関わるのか、妊娠中は魔力が乱れるという話も聞いたことがある。貴族の出産は治癒魔法の支援があるから前の人生で思い浮かべるほど危険ではないとも聞いている。それでも、こうして手のひらの下にあるレティシアの体は小さく感じた。


「本当に、ここに子どもが出来るんだよな」


 思わず口に出してしまった。


 レティシアの顔が一瞬で赤くなる。


「若様……」


「いや、分かってるんだ。出来るのは分かってる。ただ、こうして触っていると少し信じられないというか」


「そのように言われましても」


「生き物って不思議だよな」


 ギルは曖昧に言った。


 頭の中には、性別が変わる魚や、雌だけで増える生き物の記憶がぼんやり浮かんでいた。だが、そんなことを口にしてもレティシアを困らせるだけだ。そもそもどこで聞いた知識か説明できない。だから、ただ生き物は不思議だ、という雑な言葉に押し込める。


 レティシアは赤い顔のまま、少しだけ困ったように俺を見た。


「若様、そろそろ起きなくては」


「ああ、そうだな」


 そう答えつつ、手はまだ離れない。


 レティシアの腹の温かさと、紋章の感触が妙に名残惜しい。


「本日は朝食の後もご予定がございます」


「予定か」


「はい」


 ある。


 嫌になるほどある。


 父上との昨夜の会話を受けて、俺は動かなければならない。兄たちへの連絡がどうなるかは父上の判断だが、俺は俺で周囲へ布石を打つ必要がある。生産拠点、商人、使用人、セバスチャン、レティシア。そして午後にはエレオノーラとの会談もある。


 起きなければならない。


 だが、起きる前に少しだけ悪戯心が湧いた。


「うーむ、レティシア」


「はい」


「本日は服を着ることを禁ずる」


「若様」


 即座に睨まれた。


 寝起きの柔らかさが消え、いつもの上級メイドの目が戻ってくる。


 ギルは思わず笑った。


「冗談だ」


「本当に冗談でございますか」


「冗談だ」


「今、一瞬真面目なお顔をなさいました」


「気のせいだ」


 もちろん気のせいではない。


 一日裸デー。


 悪くない。


 かなり悪くない。


 部屋から出さず、服も着せず、一日中裸のまま過ごす。朝から晩までレティシアの肌を眺め、触れ、寝台だけでなく長椅子や風呂や窓辺でもイチャイチャする。食事は部屋に運ばせればいい。使用人たちには適当な理由をつける。


 いや、今は無理だ。


 今は。


「若様、また何かお考えになりましたね」


「少しだけだ」


「やめてくださいませ」


「まだ何も言っていないぞ」


「言わなくても分かります」


 レティシアはきっぱりと言った。


 さすが俺のレティシアだ。


 察しがいい。


 良すぎる。


 ギルはようやく寝台から起き上がった。


 寝具の外へ出ると、朝の冷たい空気が肌に触れる。温かい巣から外に引きずり出されたような気分になる。だが、そうも言っていられない。今日やるべきことは多い。


 レティシアも起き上がる。


 寝起きの赤みを残しながらも、動き始めた瞬間にいつもの所作へ戻っていく。服を整え、髪をまとめ、俺の支度へ移る。その切り替えの早さを見ていると、先ほどまで腹を撫でられて顔を赤くしていた女と同じ人物とは思えない。


 やはり、出来る女だ。


 朝食の席へ向かう頃には、城は完全に朝の顔を取り戻していた。


 廊下には使用人たちが行き交い、窓から差し込む光は灰色ではなく淡い金色へ変わっている。遠くで武具の擦れる音がした。騎士か兵が動いているのだろう。マバール城はいつものように広く、重く、そして慌ただしい。


 食堂に入ると、父上がいた。


 ガルシア・マバール。


 いつも通りの姿に見える。


 だが、席についてしばらくすると、ギルは小さな違和感に気づいた。


 食が細い。


 ほんのわずかだが、確かに。


 父上は普段から食べ方が綺麗だ。豪快に食い散らかすわけでも、味に細かく文句を言うわけでもない。必要なものを必要なだけ、無駄なく口に運ぶ。だが今朝は、その動きが少し鈍い。肉に手を伸ばす回数が少なく、杯の水を口に運ぶ間隔がやや短い。顔色に大きな変化はないが、いつもの鋭さがほんの薄皮一枚だけ鈍っているように見える。


 えーっと。


 もしかして二日酔いか、これ。


 昨夜の酒は強かった。


 俺も少し飲んだだけで胸の奥が熱くなった。父上はもっと飲んでいたし、後半はかなり機嫌よく下世話な話をしていた。あのガルシア・マバールが二日酔い。そう思うと、どうしても少しおかしくなる。


 口元が緩みかけた。


 その瞬間、父上の視線がこちらへ飛んできた。


 睨まれた。


 ほんの一瞬。


 だが、明確に。


 ギルはすぐに表情を整え、手元のパンへ視線を落とした。


 笑ってはいけない。


 今笑えば、たぶん後でかなり怖い。


 朝食は静かに進んだ。


 使用人たちはいつも通りに料理を運び、皿を下げ、茶を整える。誰も余計なことは言わない。父上も普段通りに見えるよう振る舞っている。俺も何も気づいていない顔をする。レティシアは後ろに控え、俺のわずかな表情の変化を見ていたかもしれないが、もちろん何も言わない。


 食事が終わり、父上が立ち上がった。


 椅子が静かに引かれる。


 その場の空気が少しだけ引き締まる。


「ダルとアルには今朝使者を出した」


 父上は何でもないことのように言った。


「色々共有せねばならんからな」


 それだけだった。


 だが、ギルには十分すぎた。


 ダル兄さんとアル兄さんに使者を出した。


 今朝。


 つまり、昨夜の段階ではまだ言っていない。昨夜の父上は俺を止めず、許可もせず、ただ俺の強かさを武器だと言っただけだった。そして今朝、実際に兄たちへ使者を出した。書状に何が書かれているかは分からない。おそらく直接的なことは何も書けないだろう。父上の立場では明言できない。証拠を残せば危険すぎる。


 だが、それでも使者を出した。


 言葉にできない何かを、兄たちに伝えるために。


 ギルは頭を下げた。


「ありがとうございます」


 父上はそれ以上何も言わず、食堂を出た。


 その背を見送りながら、ギルは腹の奥が固まるのを感じた。


 父上は動いた。


 なら、俺も俺に出来ることをするだけだ。


 自室に戻ると、すぐに机へ向かった。


 レティシアは何も言わず、紙とインクを用意してくれる。上質な紙だけではなく、実務用の紙も重ねて置かれた。相手によって使い分ける必要があるからだ。生産拠点向けの指示に豪華な紙は不要だし、商人向けにはそれなりに整ったものがいい。セバスチャン宛なら、飾り立てても意味がない。どうせあのクソじじいは一読で必要なことだけ拾う。


 まずは生産拠点への指示を書く。


 急ぎで全て動かす必要はない。むしろ、一度に出せば混乱する。俺がしばらく離れる可能性があるなら、俺がいない間にも生産拠点が止まらないように、適度に課題を残しておく方がいい。新しい発明を投げ込むのではなく、今進んでいるものを少しずつ改善させる。


 蜘蛛糸の品質確認。


 魔力を与える頻度を変えた時の差。


 炭の焼き加減と保存状態。


 馬車の部品の耐久性。


 保存食の試作。


 調理場と生産拠点で共有できる乾燥食材。


 どれも派手ではない。


 だが、大事だ。


 こういう地味な継続がなければ、俺の思いつきはただの思いつきで終わる。生産拠点の連中は優秀だが、放っておくと同じ作業を続けすぎたり、逆に変な方向へ熱中したりすることもある。俺がいなくても、少しずつ前へ進めるようにしておく必要があった。


「レティシア、これは後で適当に出してくれ」


「はい」


「全部一度に出すなよ。生産拠点がだれてそうな時に少しずつな」


「かしこまりました」


「あと、俺がいない時にお前が何か思いついたら、奴らにやらせてもいい」


 レティシアの手が一瞬止まった。


「わたくしが、でございますか」


「ああ」


 ギルは次の紙を取りながら言った。


「お前は俺より現実的だし、使用人や職人の動きもよく見ている。俺がいない時に何か必要だと思ったら、遠慮せずに動かせ」


「若様のご許可があると伝えても?」


「いい。というか、伝えろ。お前が言っても渋るやつがいたら、俺の指示だと言えばいい」


 レティシアは少しだけ目を伏せた。


「承知いたしました」


 その声は落ち着いていたが、わずかな緊張もある。


 当然だろう。


 今のは、ただのメイドに与える裁量ではない。俺の不在時に生産拠点へ指示を出してよいと言っているのだ。もちろん範囲は限られるが、それでもかなり大きい。レティシアは俺の専属で、上級メイドで、騎士家の娘で、俺の女で、俺の直属にも入っている。だから任せられる。


 次に書くのはセバスチャン宛だった。


 内容は短くする。


 飾りはいらない。


 丁寧すぎる前置きも不要だ。


 あのクソじじいには、必要なことだけ伝わればいい。むしろ余計な言葉があると鼻で笑われる気がする。筆頭騎士として動いてもらう以上、こちらの意図を読み取れるだけの材料は入れるが、細かく命令しすぎる必要はない。セバスチャンは勝手に判断する。腹立たしいことに、その方がたぶん早い。


 ギルは書き終えた紙を乾かし、封をした。


「こっちはセバスチャンに渡してくれ」


「はい」


「急ぎで頼む」


 レティシアが書状を受け取る。


 その時、彼女の指がわずかに強張った。


「若様……」


 不安そうな声。


 ギルは顔を上げる。


「大丈夫だ」


「ですが」


「少し旅に出ることになりそうだからな」


 それ以上は言わない。


 レティシアもそれ以上は聞かなかった。


 聞きたいことはあるはずだ。どこへ行くのか、誰と行くのか、どれほど危険なのか、自分は同行できるのか。そうした疑問が彼女の中にあるのは分かる。だが、今ここで全てを言える段階ではないことも彼女は理解している。


「すぐにお届けいたします」


「ああ」


 レティシアが部屋を出る。


 扉が閉まると、部屋の中が少しだけ広く感じた。


 ギルは次の書状へ取りかかる。


 セバスチャンは城内か、その近くにいるはずだ。アバルディア家の使者が滞在している間くらい、訓練を控えるか、せめて見えないところでやるかと思ったが、あのクソじじいはまったく遠慮しなかった。城内や城の周囲で、いつも通り俺の直属騎士たちをしごいている。


 訓練を隠すのではなく、見せつけている。


 完全に喧嘩腰だ。


 だが、セバスチャンらしい。


 マバール家の三男の直属騎士はこの程度で音を上げる連中ではない、と言いたいのかもしれない。あるいは、アバルディア家の使者に見られても構わない、むしろ見ておけ、ということなのかもしれない。どちらにしても、あの凶悪面で笑っている姿が目に浮かぶ。


 商人向けの書状を書く。


 これはすぐに渡すものではない。必要になった時だけ使う。付き合いのある商人に向け、一定の物資の融通、移動中に必要になるかもしれない品、情報を集めるための手配を含める。強く命じるのではなく、しかし断りにくい形にしておく。金の支払いについても明記する。貴族の命だからとただ奪うのではなく、きちんと対価を示した方が動きは早い。


 次に、俺付きの使用人たちへの書状。


 俺が不在になるかもしれないことを前提に、部屋の扱い、書類の管理、レティシアの指示を最優先すること、無用な噂を流さないことを書く。彼らは使用人だが、城内の空気を作るのはこういう者たちでもある。俺が急に動けば、必ず噂が出る。噂が出ること自体は止められないが、変な方向に膨らませるのは防ぎたい。


 さらに調理場への新しい料理案も書いた。


 我ながら、こんな時に料理かと思う。


 だが、こういう時だからこそ必要だとも思う。城内が張り詰めすぎると、使用人たちにも兵にも影響が出る。新しい料理があれば話題になる。以前の肉を挟んだパンは、下級使用人から上級使用人へ広がり、最終的には父上の朝食にまで出て俺が困った。なら、今度はもう少し扱いやすく、変な騒ぎになりにくいものにしておく。


 書いているうちに、レティシアが戻ってきた。


 足音で分かった。


 扉が開き、彼女が静かに入ってくる。


「戻りました」


「どうだった?」


 ギルはペンを置かずに尋ねた。


「はい。至急とのことをお伝えすると、その場ですぐにお読みになられました」


「あのクソじじいめ。主君からの書状だってのに容赦ないな。普通ちょっとは大事に扱うだろうが」


 レティシアは少しだけ困ったような顔をした。


「読み終えられた後、大笑いされました」


「やっぱりな」


「その後、書状はその場で魔法により焼き捨てられました」


「うん、セバスチャンだなぁ」


 ギルは笑った。


 あの男らしい。


 内容を読み、理解し、大笑いし、証拠を残さない。俺がそこまで指示したわけではないが、そうするだろうとは思える。いや、実際にやったと聞くとやはり少し呆れる。主君からの書状をその場で焼く筆頭騎士というのもどうなのか。だが、今回はそれでいい。


「何か言っていたか?」


「若様らしい、と」


「それだけか?」


「それから、くれぐれも無理をなさらぬように、と」


「セバスチャンが?」


「はい」


 ギルは少しだけ眉を上げた。


 あのクソじじいが、そんなことを言うのか。


 いや、心配していないわけではないのだろう。初陣の時も、あの男なりに俺を見ていた。だが、素直に心配されると気持ち悪い。どうせ凶悪な笑みを浮かべながら言ったのだろうが。


「分かった」


 ギルは書き上げた数枚の書状を整え、レティシアへ渡した。


「これは商人向けだ。必要になったら使え。相手がゴネたら、この封を開けて見せろ」


「はい」


「こっちは使用人たちへ。俺がいない間に変に浮き足立たないようにしてくれ。調理場への料理案も入っているから、余裕がある時に渡せ」


「かしこまりました」


 レティシアは一枚ずつ丁寧に確認し、用途ごとに分ける。こういう時の手際は本当に見事だ。俺が雑に渡しても、彼女はすぐに必要な順番と保管の仕方を考えてくれる。


 ギルは最後の封を手に取った。


 他とは少し違う。


 紙も封も、少しだけ良いものを使った。


「レティシア」


「はい」


「これはお前への書状だ」


 レティシアは一瞬だけ目を見開いた。


「わたくしに、でございますか」


「ああ。何かあれば使え」


「何か、とは」


「その時になれば分かる。たぶん、なんとかなる」


 かなり雑な説明だ。


 だが、今は詳しく言わない。


 中には、レティシアを正式な側室にする意向を書いてある。もちろん、それだけで即座に全てが決まるわけではない。父上の承認や家内の手続き、体面の整え方も必要になる。だが、俺の意思を示す書状があるだけで、彼女の扱いは変わるはずだ。


 使用人ではなく、俺の女として。


 貴族側の人間として。


 少なくとも、雑に動かされたり、俺の知らないところで他の男に回されたりする可能性は下げられる。そんなことは絶対に許したくない。だから切り札を渡しておく。メイド長に叱られそうな時に使えば、別の意味で余計に叱られるかもしれないが、それでも何とかなるだろう。


 レティシアは書状を両手で受け取り、胸元に抱えた。


「大切にいたします」


「ああ」


 ギルは頷いた。


 これで万全ではない。


 だが、朝のうちにできることはかなり進めた。


 父上は兄たちに使者を出した。俺は俺の周囲に布石を打った。セバスチャンは内容を理解し、書状を焼いた。レティシアには備えを渡した。商人、使用人、生産拠点にもそれぞれ手を打った。


 あとは午後だ。


 エレオノーラとの会談。


 そこで伝える。


 ただし、明言はしない。


 午後の応接室は、いつもと同じ配置だった。


 上座側に俺、その横に文官、少し離れて記録役。壁際には騎士が二人立ち、レティシアは茶を扱う位置に控えている。エレオノーラの背後にはアバルディア家の随行者が一人控えていた。相手も一人ではない。こちらが一人でないのと同じだ。言葉の重さを記録し、持ち帰る者がいる。


 だが、部屋に入ってきたエレオノーラの様子は、昨日までとは少し違った。


 静かだった。


 焦りが消えたわけではない。


 むしろ、焦りの奥に沈んだ諦めが混じっているように見えた。背筋は伸び、礼は正しく、声も整っている。金髪は今日も美しくまとめられ、衣装にも乱れはない。アバルディア家の使者としての体面は少しも崩していなかった。


 それでも、これまでのように無理に踏み込んでくる圧はなかった。


 一縷の望みを持って来た。


 だが、やはり駄目だったか。


 そんな空気がある。


 そもそも帝国国内の問題なのだ。マバール家にとっては他国の内政であり、影響があるとしても間接的なものにすぎない。将来的に脅威になると分かっていても、今この場で王国の辺境伯家が帝国内部へ介入する理由にはしにくい。


 エレオノーラもそれを理解しているのだろう。


 だから、今日は攻めてこない。


 最後まで使者としての務めを果たすために座っている。そう見えた。


「昨日のお話は、父にも伝えました」


 ギルが言うと、エレオノーラは静かに頭を下げた。


「お取り次ぎいただき、感謝いたします」


「取り次いだだけだ。返答はまだない」


「承知しております」


 穏やかな返答だった。


 その穏やかさが、逆に痛い。


 会話はしばらく形式的に続いた。


 メガレア家の動き。


 アバルディア家の危機感。


 フリージア家の同調。


 ザザント家の沈黙。


 国境の安定。


 帝国の均衡。


 どれも大事な話だが、新しい情報は少ない。エレオノーラも、ここでさらに何かを引き出せるとは思っていないように見えた。文官はいつも通り記録を取り、レティシアは茶を整え、騎士たちは動かない。部屋の空気は静かに、少しずつ終わりへ向かっていた。


 だからこそ、ギルは話題を変えた。


「ところで」


 エレオノーラが顔を上げる。


「帝国の山は高いのか?」


 沈黙。


 ほんの短い沈黙だが、部屋の空気が変わったのが分かった。


 文官が視線を上げかけ、すぐに伏せる。記録役の筆が一瞬だけ止まる。レティシアの気配も、ほんのわずかに張り詰めた。


 エレオノーラはすぐには答えなかった。


 質問の意味を測っている。


 当然だろう。


 さっきまで帝国の皇位争いの話をしていたのに、突然山の話をされたのだ。単なる雑談にしては唐突すぎる。だが、政治や軍事の問いとしてはあまりにも遠い。


 ギルは何でもないように続けた。


「王国側から見える山並みとは違うのだろうと思ってな。俺は帝国の内側を見たことがない」


 エレオノーラは小さく息を整えた。


「地域によります。北方は険しく、雪を戴く山もございます。帝都へ向かう街道から見える山々は、王国側のものよりも荒々しく見えるかもしれません」


「荒々しい?」


「はい。岩肌が露出し、緑の少ない場所もございます。ただ、春には谷筋に花が咲き、旅人の間では美しい景色として語られます」


「それはいいな」


 ギルは素直に感心したように頷いた。


 実際、少し見てみたいとも思う。戦争や政治がなければ、異世界の景色を旅して回るのはかなり楽しそうだ。もちろん、今はそんな呑気な話ではないのだが。


「河はどうだ」


「大河が二つございます。一つは帝都の東を流れ、もう一つは南方の穀倉地帯を支えております。水運も盛んで、河沿いの街には各地の商人が集まります」


「王国とは品も違うか」


「はい。香辛料、染料、金属細工、南方の果実、乾燥させた魚、河港で扱われる酒など、土地によってかなり異なります。帝都に近づくほど税も管理も厳しくなりますが、それでも品は豊富です」


「酒も違うのか」


「違います。強いものもあれば、果実を使った甘い酒もございます」


 昨日の父上の酒を思い出す。


 強い酒はしばらくいい気もするが、果実の甘い酒は少し興味がある。


「迷宮は?」


 ギルがそう聞くと、エレオノーラの目がわずかに鋭くなった。


 迷宮は少し危うい話題だ。


 だが、俺が聞いても不自然ではない。アル兄さんが迷宮を担当している。マバール家にとって迷宮管理は重要な役割の一つだ。俺が帝国の迷宮に興味を持っても、ただの軍事情報収集とは言い切れない。


「帝都近郊にもございます。ただし管理は厳しく、誰でも入れるものではありません」


「だろうな」


「地方には、古くから貴族家が管理する迷宮もあります。規模も性質も異なり、産出されるものも土地によって違います」


「魔物も違うのか」


「はい。山に近い迷宮、河沿いの迷宮、古い都市の下にある迷宮では、出るものも異なると聞きます」


「面白そうだ」


 これは本音だった。


 帝国の迷宮。


 王国の迷宮と何が違うのか。魔物の種類、資源、管理方法、周囲の街との関係。そういうものを見るだけでもかなり面白いはずだ。もちろん、今この場での意味はそれだけではない。


「帝都はやはり大きいのか?」


「はい。王国の王都を拝見したことはございませんので比較はできませんが、帝国内では最も大きな都です。四帝家の屋敷、神殿、皇帝宮、商館、騎士団の詰所、学問所もございます」


「学問所?」


「帝国では、血統、歴史、地理、法に関する学問が重視されます。魔法そのものを教える場というより、家や統治に関わる知を扱う場所でございます。もちろん、学べる者は限られますが」


「いいな」


 ギルは素直に言った。


「そういうのは見てみたい」


 エレオノーラは黙った。


 山。


 河。


 迷宮。


 帝都。


 学問所。


 商館。


 どれも政治そのものではない。領主の名も聞いていない。軍の配置も聞いていない。どの家がどの道を押さえているかも聞かない。あくまで土地への興味、見聞への関心として聞いている。


 帝国に行く理由を作っている。


 そう受け取れる。


 いや、そう受け取れるように話している。


 ギルは茶に口をつけた。


 少しだけ温度が下がっている。


 レティシアがすぐに気づいたが、今は動かない。場の空気を乱さない方がいいと判断したのだろう。本当に出来た女だ。


 エレオノーラは俺をじっと見ていた。


 その瞳には、さっきまでの諦めだけではないものがあった。


 警戒。


 確認。


 理解。


 そして、ほんのわずかな光。


 ギルは微笑んだ。


「いつか行ってみたいものです」


 それだけだった。


 明言はしない。


 マバール家としては協力しない。


 正確には、できない。


 だが、ギルバート・マバール個人は帝国に興味を持っている。山を見たい。河を見たい。迷宮を見たい。帝都を見たい。学問所を見たい。そういう理由で帝国へ入るなら、帝国を見に来たと言える。


 それ以上は言わない。


 言えば壊れる。


 部屋の中が静まり返った。


 文官は顔を伏せている。


 記録役の筆は止まっている。


 騎士たちは動かない。


 レティシアの気配が、背後で静かに張り詰めている。


 エレオノーラはしばらくギルを見つめていた。


 長い時間ではない。


 だが、短くもない。


 やがて、彼女はゆっくりと息を整えた。


 そして、静かに頭を下げた。


 深すぎない。


 だが、明確な礼。


 それは単なる感謝ではなかった。


 交渉が少し進んだという軽い礼でもない。


 ほぼ最終回答を受け取った者の礼だった。


 マバール家としては動かない。


 けれど、ギルは動く。


 その形を理解した。


 アバルディア家として受け取る。


 準備する。


 だが、言葉にはしない。


 言葉にすれば、すべてが壊れる。


「帝国は、見聞に値する土地でございます」


 エレオノーラは静かに言った。


「いつか若様がご覧になる機会がありましたら、失望はなさらないかと存じます」


「それは楽しみだ」


 ギルは穏やかに答えた。


 それで十分だった。


 会談はその後、何事もなかったかのように続いた。


 だが、もう空気は変わっていた。エレオノーラは無理に踏み込んでこない。ギルもそれ以上の含みを重ねない。山や河の話から、帝国の市の様子、祭り、旅人が使う宿、帝都へ向かう道中でよく見られる景色へと話題は流れていく。どれもただの見聞の話であり、同時に、これからの道をぼんやりと照らす灯りのようでもあった。


 最後にエレオノーラが席を立った時、その表情は会談の始まりとは違っていた。


 諦めきった顔ではない。


 焦りに押されている顔でもない。


 静かに、次にすべきことを見定めた者の顔。


 そう見えた。


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 ギルはしばらくその場に座ったまま、息を吐いた。


 言った。


 いや、言っていない。


 だが、伝えた。


 レティシアが近づいてくる。


「若様」


「ああ」


「お茶をお替えいたします」


「頼む」


 差し替えられた茶は温かかった。


 口に含むと、少し強めの苦味が広がる。


 今はそれがちょうどいい。


 窓の外では、午後の光が傾き始めていた。中庭を歩く兵の影が長く伸び、城の石壁に薄い橙が差している。何も変わっていないようで、もう何も同じではない。


 父上は兄たちへ使者を出した。


 セバスチャンは笑って書状を焼いた。


 レティシアには備えを渡した。


 エレオノーラは理解した。


 あとは動くだけだ。


 ギルは茶器を置き、目を閉じた。


 お気楽な三男坊でいたい。


 レティシアと楽しく過ごしたい。


 好きなことをして、面倒事から距離を取りたい。


 そのために帝国へ行くことになりそうなのだから、本当に意味が分からない。


 だが、仕方ない。


 お気楽でいるためには、目の前の面倒を片付けるしかないのだ。


 帝国を見に行く。


 そう言える道はできた。


 その道がどれほど危ないかは、今はまだ考えすぎないことにした。

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