第二話 初陣
紋章を許された、その日から。
頭の中が、妙に落ち着かなかった。
何をしていても、ふとした瞬間に意識がそちらへ引き戻される。書類を見ていても、魔力の流れを整えていても、職人の話を聞いていても、気づけば同じことを考えている。
誰を選ぶ。
選ぶ相手は、もう決まっている。
決まっているのに、動けない。
机の上に広げた紙に視線を落としながら、俺は小さく息を吐いた。
レティシア。
それ以外は、考えられない。
だが、だからこそ躊躇う。
命じればいい。
そういう仕組みだと分かっている。
紋章を許された貴族の男が、城に仕える女の中から一人を選ぶ。相手はそれを受け入れ、関係が結ばれ、紋章が刻まれる。
理屈は単純だ。
単純なのに、喉の奥に何かが引っかかる。
もし断られたらどうする。
そんなことはまずない、と頭では分かっている。この城に仕える者が、当主の息子の命を拒むなど考えにくい。
それでも。
もし、万が一。
表情に出たらどうする。
嫌そうな顔をされたら。
ほんの一瞬でも、躊躇いが見えたら。
今までの距離が壊れる。
そんな気がして、踏み出せない。
「……」
自分でも笑えるくらい、情けない。
戦場に出るわけでもないのに、妙に臆病だ。
だが、こればかりは仕方がない。
相手がレティシアだからだ。
軽く扱える相手ではない。
軽く扱いたくもない。
だから余計に、どう動けばいいのか分からなくなる。
結局、俺は回りくどい手を選んだ。
直接聞くのは無理だ。
レティシア本人に「どうすればいい?」などと聞けるわけがない。
なら、他の誰かに聞くしかない。
少し年上のメイドを捕まえたのは、昼下がりの廊下だった。
「若様、お呼びでしょうか」
柔らかく頭を下げる。
名前は、覚えている。
美人だから、という理由もあるが、こういう時に名前を知っていると便利だ。
「……ああ」
軽く頷いて、周囲に人がいないことを確認する。
なんでこんなに慎重になってるんだ、俺は。
内心で自分に突っ込みながらも、口に出る言葉はやたらと遠回しになった。
「その……紋章の件なんだが」
「はい」
顔を上げたメイドの目が、わずかに細くなる。
あ、これもう分かってるな。
そう思ったが、後には引けない。
「どういう流れになるんだ?」
「流れ、でございますか」
わざとらしく首を傾げる。
だが口元は、ほんの少しだけ緩んでいるように見えた。
「そうだ。初めてだからな」
「……そうでございますね」
一拍。
そして、はっきりとした声で言われた。
「若様は、ただお命じすればよろしいのです」
「……それだけか?」
「はい」
あまりにも簡単に言われて、言葉に詰まる。
「相手は……」
「選ばれた者は、従います」
断言だった。
迷いも含みもない。
当然のことを言っている、という顔だ。
「そういうものか」
「はい」
短く返される。
それ以上の説明はない。
それで終わりだと言わんばかりに、メイドはもう一度頭を下げた。
俺はしばらくその場に立ち尽くしてから、小さく息を吐いた。
分かっている。
分かっているが。
それができないから困っている。
ただ命じればいい。
その一言が、どうしてこんなに重いのか。
数日が過ぎた。
何もできないまま。
タイミングを測る。
今か、いや違う。
もう少し後か。
そうやって考えているうちに、機会は過ぎていく。
レティシアは、いつも通りだった。
距離も、態度も、変わらない。
それが逆に、判断を鈍らせる。
俺だけが意識しているようで、妙に落ち着かない。
そんな中で、ひとつだけ違和感に気づいた。
夜。
就寝前。
部屋に戻ると、ベッドメイクがされている。
当たり前の光景だ。
だが、その担当がずっと同じだった。
レティシア。
普段はローテーションだ。
複数のメイドが交代で入る。
だが、ここ数日、毎回レティシアがいる。
最初は偶然かと思った。
二日、三日と続いて、違うと気づく。
俺は椅子に腰掛けながら、その様子を横目で見ていた。
シーツを整え、枕の位置を直し、無駄のない動きで寝台を仕上げていく。
その背中を見ながら、胸の奥がざわつく。
これ。
もしかして。
そういうことか?
俗に言う、合図。
いや、さすがに分かりやすすぎるか。
だが、それ以外に説明がつかない。
レティシアが、わざわざ自分で担当を引き受けている。
俺の部屋の、就寝前の時間を。
そこまで考えた瞬間、心臓が一気に早くなった。
分かってしまえば、話は早い。
逃げ場もなくなる。
その夜。
いつも通り、レティシアがベッドを整えていた。
背を向けて、最後の皺を伸ばしている。
俺は少しだけ迷ってから、立ち上がった。
一歩。
また一歩。
距離を詰める。
すぐ後ろで足を止める。
「レティシア」
声をかけた瞬間、肩がわずかに揺れた。
「はい、若様」
振り向かないまま、応じる。
声は、普段通りに聞こえた。
だが、ほんの少しだけ硬い気がするのは、気のせいか。
喉が乾く。
息を整える。
ここまで来て、引く理由はない。
「朝まで」
一度言葉が途切れる。
続ける。
「共に過ごして欲しい」
静かな部屋に、言葉が落ちた。
一瞬、時間が止まる。
レティシアの動きが完全に止まった。
それから、ゆっくりと。
肩がわずかに震える。
耳が、赤くなっているのが見えた。
振り向く。
顔が上がる。
――真っ赤だった。
普段の落ち着いた表情が嘘みたいに、頬が染まっている。
目がわずかに揺れて、視線が定まらない。
「はい……」
小さく息を吸う。
「わたくしで、よろしければ……喜んで」
言葉の最後が、少しだけ震えた。
そのまま、ほんの少しだけもじもじと身じろぐ。
その仕草が、思っていた以上に破壊力があった。
可愛い。
頭の中にそれしか浮かばない。
今まで見てきたレティシアとは、少し違う。
普段は隙のない彼女が、こんなふうに揺れている。
その事実が、妙に胸を熱くした。
気づけば、手を伸ばしていた。
そっと肩に触れる。
びくりと震える。
だが、逃げない。
そのまま、ゆっくりと。
整えたばかりの寝台へ。
二人で、倒れ込んだ。
夜が、静かに更けていく。
目が覚めたとき、天井はまだ薄暗かった。
朝というには早い時間だ。
身体が妙に重い。
だが、それ以上に。
隣の気配がはっきりと分かる。
視線を向ける。
レティシアが眠っていた。
髪が少し乱れて、普段よりもずっと柔らかい表情をしている。
静かな寝息。
規則的な呼吸。
その様子を見ていると、胸の奥がじわりと温かくなった。
昨夜のことが、ゆっくりと蘇る。
初めてだった。
俺も、そして。
レティシアも。
途中で気づいた。
ぎこちなさ。
痛みに耐えるような気配。
それでも、拒まない。
むしろ、こちらに合わせようとする。
その献身に、思わず息を呑んだ。
ここまで。
ここまで、受け入れてくれるのか。
嬉しさと同時に、申し訳なさも込み上げる。
だが、それ以上に。
離したくない、という感情が強く残った。
「……」
小さく息を吐く。
その気配で、レティシアが目を覚ました。
ゆっくりと瞼が開く。
視線が合う。
一瞬、ぼんやりとした顔。
次の瞬間。
「……っ」
顔が一気に赤くなる。
慌てて身体を起こそうとして、少しよろめく。
「申し訳ございません……!」
慌てて頭を下げる。
「若様より遅く目覚めるとは……」
声が、少しだけ震えている。
その様子が、妙に愛おしい。
「気にするな」
思わず、口元が緩む。
「昨夜は……無理をさせた」
「い、いえ……」
「レティシアがあまりにも……」
言葉を選ぶ。
だが、結局そのまま出た。
「良くて、我慢できなかった」
「……っ」
レティシアの顔が、さらに赤くなる。
耳まで染まっている。
視線が泳いで、落ち着かない。
その反応を見ていると、こちらまで妙な気分になる。
少しだけ間を置いて、俺は言った。
「レティシア」
「は、はい」
「俺の紋章を……受け入れてくれるか?」
一瞬の沈黙。
そして。
迷いのない声が返ってきた。
「はい」
はっきりと。
「喜んで」
顔を上げる。
真っ赤なまま、それでもまっすぐにこちらを見る。
「わたくしの全ては、若様のものです」
その言葉に、胸が強く打たれた。
ゆっくりと手を伸ばす。
魔力を整える。
細く、慎重に。
乱せば傷になる。
流しすぎれば痛みが強くなる。
集中する。
指先に集めた魔力を、肌へと触れさせる。
ゆっくりと、線を描く。
レティシアの身体が、わずかに震える。
だが、逃げない。
じっと耐えている。
同時に、治癒の魔力を流す。
痛みを和らげる。
削りすぎないように、刻みすぎないように。
細心の注意で、形を作る。
時間が、ゆっくり流れる。
最後の線を引き終えたとき、息を吐いた。
「……終わった」
手を離す。
そこに刻まれた紋章を見る。
綺麗に入っている。
乱れもない。
レティシアの肌に、俺の印がある。
その事実が、妙に強く実感として落ちてきた。
正直に言えば。
この風習は、あまり好きではなかった。
重い。
束縛が強い。
どこか野蛮にも感じていた。
だが。
今は違う。
レティシアが、俺のものだと。
そうはっきりと分かる。
それが、こんなにも。
嬉しい。
「……いいな、これ」
思わず、口に出た。
レティシアが、少しだけ微笑む。
「はい」
その表情を見て、さらに胸が満たされる。
レティシアは身体を起こそうとした。
「それでは、仕事に――」
「待て」
反射的に止める。
「今日は休め」
「ですが――」
「命令だ」
少しだけ強く言う。
一瞬の逡巡。
そして。
「……かしこまりました」
小さく頭を下げる。
その様子に、満足しながらも、内心では自分の浮かれ具合に苦笑した。
分かりやすい。
たぶん、周りにもバレている。
部屋を出ると、案の定、メイド長がいた。
廊下の端で、静かに立っている。
こちらを見る目は、いつもと変わらないようで、どこか違う。
「若様」
「レティシアを休ませろ」
言う前から、分かっていたような顔をしている。
「承知いたしました」
静かに頭を下げる。
そのまま何も言わない。
それが逆に、全て分かっていると告げているようだった。
城を出て、開発拠点へ向かう。
空気が軽い。
足取りも軽い。
自分でも分かるくらい、機嫌がいい。
気をつけているつもりでも、顔が緩む。
職人たちと話していても、どこか上の空だった。
その頃、レティシアは私室にいた。
休むように言われた。
だが、どうしても一つだけ、やることがあった。
寝台のシーツ。
自分で取り替える。
誰にも任せられない。
手際よく外し、新しいものに替える。
その途中で、ふと手が止まる。
目に入ったもの。
白い布の上に残る、淡い印。
頬が、じわりと熱くなる。
「……」
指先で、そっと触れる。
消えていくはずのもの。
だが、確かにそこにあった証。
思わず、微笑む。
午後になって、扉が叩かれた。
開けると、メイド長が立っている。
「レティシア」
「はい」
「様子はどうですか」
一瞬、言葉を選ぶ。
そして、まっすぐに答えた。
「若様は……見事に初陣を飾られました」
頬が熱い。
だが、声はしっかり出た。
メイド長は、わずかに目を細めた。
「そうですか」
それだけ言って、頷く。
大げさに褒めることはない。
だが、その一言に、十分な評価が含まれているのが分かる。
「よく務めました」
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
胸の奥が、静かに満たされていく。
夕方。
城へ戻る。
仕事は終えた。
気持ちも落ち着いてきた。
……はずだった。
部屋に入る。
灯りが落ち着いている。
そして。
そこに、レティシアがいた。
また、ベッドメイクをしている。
「……お前、休めと言っただろう」
「はい」
振り向く。
顔は、少しだけ赤いまま。
「ですが……問題ございません」
静かな声。
「女の体は、案外丈夫なようです」
さらりと言われて、言葉に詰まる。
昨日のことを思い出す。
身体の感覚が蘇る。
理性が、少しだけ揺らぐ。
「……そうか」
短く答える。
それ以上、言葉が続かない。
ベッドが整えられる。
レティシアが一歩下がる。
視線が、合う。
ほんの一瞬。
どちらからともなく。
距離が、縮まる。
気づけば。
また、手を取っていた。
理性が、少しだけ負ける。
そして。
そのまま、静かに。
寝台へと導いていた。




