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魔力が強いやつがモテる世界に生まれ変わったのでモテる為にがんばります  作者: 伊右衛門


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第一話 貴族の三男は勝ち組らしい


 最初に感じたのは、熱だった。


 ぬるくて、やわらかくて、どこまでも沈み込んでいくような熱。背中も、頭も、腕も脚も、全部まとめて白い何かに包まれていて、自分の身体の境目がぼやけている。息を吸うと、甘い匂いがした。乳の匂い。洗いたての布の匂い。人の肌の匂い。鼻の奥がくすぐったくなって、むずむずして、それでようやく自分が息をしているのだと分かる。


 目を開けようとした。


 うまくいかなかった。


 まぶたが異様に重い。腕も、指も、思うように動かない。何なら首ひとつ満足に回せない。なのに喉だけは勝手に震えて、次の瞬間、甲高い泣き声が部屋いっぱいに響いた。


「まあ、元気な子ね」


 女の声だった。


 知らない声だ。知らないはずなのに、言葉の意味はすんなり入ってくる。誰かに抱き上げられ、視界がぐらりと揺れた。白い天井。木の梁。光。影。その間を、金色の髪がさらりと流れる。


 顔が近づく。


 整っている。


 ぼんやりと、それだけを思った。


 美人だな。


 その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。


 蛍光灯の白さ。会議室の空調。パソコンの画面に並ぶ数字。紙コップのコーヒー。湿った夜気。終電間際のホーム。スマホの画面に映る自分の顔。鏡に映る、くたびれたスーツ姿。


 全部がまとめて流れ込んできて、痛いほどの違和感だけを残して散っていく。


 俺は知っている。


 この天井を知らない。


 この匂いも、この身体も知らない。


 なら、知っているのはどこだ。


 答えが浮かぶより先に、眠気が一気に頭を攫っていった。


 次に意識が浮いたとき、俺は自分がもう一度生まれたのだと、ほとんど確信していた。


 泣いて、飲んで、寝る。その合間にしか考えられない頭でも、それくらいは分かる。


 前世の俺は、ごく普通のサラリーマンだった。


 朝起きて会社へ行き、上司に頭を下げ、客に頭を下げ、数字に追われ、時間に追われ、帰りが遅くなればコンビニ飯で済ませ、たまに休日にぼんやり動画を見て、それでまた月曜が来る。特別不幸でもなかったし、特別幸せでもなかった。ただ、普通だった。


 そしてたぶん、死んだ。


 死因まで綺麗には思い出せないが、少なくとも今の俺が赤ん坊である以上、その結論で間違いはないだろう。


 なら、今のこれは何だ。


 白い布に包まれて、香油の匂いがする女たちに囲まれて、どう見ても裕福そうな部屋で世話をされている。


 しかも、皆が俺を「若様」と呼ぶ。


 若様。


 口の中で転がしてみる。転がしたところで赤ん坊の舌ではどうにもならないが、意味は十分すぎるほど重かった。


 たぶん、かなり上等な家の子だ。


 しかも、扱いからすると後ろ暗い生まれでもなさそうで、少なくとも周囲は俺を丁重に扱っている。


 勝ち組じゃねえか。


 心の底からそう思った。


 前世の俺は、自分を不幸だと思ったことはない。ただ、楽ではなかった。人間関係、仕事、将来への漠然とした不安。そういうものと付き合いながら生きるのが当たり前だと思っていた。


 その次がこれなら、かなり当たりだ。


 なら、この立場は守る。


 絶対に守る。


 まだ首もろくに据わらない身でそう決めるのは滑稽かもしれないが、どうせこの身体で他にやることもない。決意くらい早くて損はない。


 赤ん坊の生活は、想像以上に退屈だった。


 寝る。起きる。飲む。漏らす。泣く。また寝る。


 身体があまりにも不自由で、前世の記憶があることが逆に苦痛ですらある。大人の感覚があるのに、大人として振る舞えない。腹が減れば泣くしかないし、背中が気持ち悪くても自分ではどうにもできない。何より、眠気が凶悪だ。少し考えたと思ったら、次の瞬間には意識が落ちる。


 そんな短い覚醒時間の中で、俺はあるものに気づいた。


 身体の奥に、熱がある。


 ただの体温じゃない。胸の少し奥、心臓の裏あたりに、小さな灯が揺れているような感覚。最初は気のせいかと思ったが、何度も意識を向けているうちに、たしかにそこに在ると分かった。


 ふっと寄せると、揺れる。


 散らそうとすると、ぼやける。


 集めると、少しだけ輪郭が出る。


 面白かった。


 ひどく地味だが、赤ん坊に許された数少ない遊びとしては破格に面白い。


 俺は暇さえあれば、その灯を弄った。


 胸から腹へ落とす。肩に寄せる。喉まで上げる。指先に流す。うまくいったと思った次の瞬間には眠りに落ちることも珍しくなかったが、それでも毎日繰り返していると、少しずつ手応えが変わっていく。


 灯が大きくなる。


 あるいは、深くなる。


 表現は難しいが、とにかく扱いやすくなるのだ。


 赤ん坊の俺が感じる身体の重さやだるさとは別に、その熱だけが妙に素直で、こちらの意識に応えてくれる。


 これがこの世界の魔力というやつかもしれない、と気づいたのは、もう少し後になってからだった。


 乳母は何人かいた。


 最初は単純に「毎回違う顔が来るな」くらいの認識だったが、見分けがつくようになると、俺の中で明確な好みが生まれた。


 顔立ちが整っていて、声が柔らかくて、匂いがいい相手がいい。


 どうせ抱かれるなら、美人の方がいいに決まっている。


 元サラリーマンとしてあまりにも正直すぎる欲望だが、赤ん坊にまで建前を求める必要はない。


 俺は機嫌で差をつけた。


 気に入った相手に抱かれたときは大人しくし、そうでないときはぐずり、時には本気で泣いた。あまり露骨すぎてもまずいかとも思ったが、幸い周囲は「若様にもお好みがあるのね」程度に受け取ってくれたらしい。


 そのうち、俺の周りには自然と好みの顔ぶれが揃うようになった。


「若様はほんとうに、お綺麗な方がお好きなんですねえ」


 年嵩のメイドが、苦笑まじりにそう言ったことがある。


 俺はそのとき、涼しい顔で指をしゃぶっていた。


 どうせなら美人の方がいいよね。


 心の中では堂々と言い返していた。


 おしめ生活は辛かった。


 これは本当に辛かった。


 前世の記憶が曖昧な時期ですら漠然と嫌だったのに、意識がはっきりしてくると尚更きつい。あの不快感を受け入れろというのは、転生者に対する嫌がらせとしか思えない。


 だから俺は、できるだけ早くそこから脱した。


 身体の成長自体は普通の赤子相応だったはずだが、起きている時間にやることが少なすぎたせいか、周囲の動きをよく見ていたのが大きかったのだろう。タイミングも感覚もなんとなく掴めたし、嫌なものは嫌だという意思も強かった。


「若様はおしめが取れるのも、とてもお早いですね」


 年配のメイドたちが感心したように笑っていたが、こっちは笑い事ではない。


 おしめにぶっ放すのも最初は赤ん坊らしい快感があった気がしないでもないが、前世を思い出した身としてはやっぱり無理だ。そんな快感より尊厳の方が大事である。


 言えないけど。


 歩けるようになり、言葉を覚え、周囲の会話がはっきり聞き取れるようになると、この家の輪郭も少しずつ見えてきた。


 マバール家。


 エルディア王国の辺境伯家。


 城は領都マバールにあり、この巨大な石造りの塊がマバール城。その外に広がる大きな街もマバール。ついでに領地もマバール領。


 どこもかしこもマバールで、最初は頭がこんがらがったが、領民たちは単純に「お城」「街」と呼んでいることが多く、案外実用の方が勝つらしいと知って妙に納得した。


 父はガルシア・マバール。


 この家の当主であり、領地を治める男だ。


 実際に顔を合わせるようになると、その威圧感は相当なものだった。声を荒げるわけでもなく、立っているだけなのに周囲の空気が締まる。こちらを見る目も、優しいというよりは重い。子供である俺に対してすら、どこか値踏みが混じっているように感じる瞬間があった。


 当然だろう。


 この世界で貴族は、家の中でさえただの父親では済まない。


 そんなことを、幼いながらに肌で理解した。


 だからこそ、前世の記憶があることは絶対に秘密だと再確認した。


 こういう家の中で、生まれた瞬間から妙に物分かりが良すぎたり、知らないはずのことを知っていたりしたら、気味悪がられるに決まっている。神童として喜ばれる可能性もゼロではないが、少なくとも俺は賭ける気になれなかった。


 目立ちすぎず、埋もれすぎず。


 有能ではあるが、不自然ではない。


 それが理想だ。


 幼年期に入ると、勉強の時間が増えた。


 書物の匂いは前世でも嫌いではなかったが、この世界の本は紙も装丁も重い。ページを捲るたびに乾いた音がして、指先にざらりとした感触が残る。インクの色も少し褪せていて、古い本はそれだけで権威があるように見えた。


 歴史を学ぶ。


 地理を覚える。


 王国と帝国の国境線、主要な街道、領地の広さ、税の仕組み、家同士の繋がり。


 知らないことばかりだ。


 だからこそ、面白かった。


 何より、全部が自分の立場に直結する知識だという実感がある。前世のように、試験のためでも昇進のためでもなく、純粋に「知らないと死ぬかもしれない」知識は、頭への入り方が違った。


 迷宮について初めてちゃんと知ったのも、その頃だ。


 書物の中の記述は淡々としていた。どこに入口があり、過去にどの程度の魔物が発生し、どのような資源が確認されているか。森の中の迷宮に砂漠が広がっていた例、自然発生したはずなのに巨大建造物があった例、鬱蒼とした森林型迷宮から良質な木材が採れた例。


 読んでいる内容だけならずいぶん奇妙だ。だが、文面には驚きも畏れもなかった。


 ただ実務として記録されている。


 どの迷宮は危険度が高い。


 どの迷宮は塩を生む。


 どの迷宮は水を生む。


 どこは冒険者を入れても採算が取れず、どこは資源の持ち出しを厳しく禁じるべきか。


 ページを追いながら、俺は前世の会社で見た設備管理の資料を少し思い出していた。


 やたら厄介で、放っておくと被害が出るのに、上手く扱えば利益を生む厄介者。


 迷宮とは、たぶんこの世界におけるそういう存在なのだろう。


 そして、その管理は貴族の義務だ。


 面倒な世界だな、と思う。


 同時に、だからこそ貴族が絶対的に上に立てるのだとも理解できた。魔力があり、魔物に対抗でき、迷宮に責任を負う。だったら支配の理屈は立つ。


 美しい理想ではないが、納得はできた。


 兄たちと初めてまともに顔を合わせたのは、その少し後だった。


 長男、ダルメシアン・マバール。


 名前を聞いた瞬間、前世の記憶が悪さをして、危うく吹き出しかけた。いや、本当に危なかった。子供だからで許される類の失礼ではない。


 だが、本人の顔を見た途端、そんな軽い反応は引っ込んだ。


 真面目だ。


 見るからに真面目。


 背筋がまっすぐで、言葉に余分な揺れがない。長男として育てられた重さがそのまま立ち居振る舞いに出ている。


「これからよろしく、ギル」


 落ち着いた声でそう言われ、俺は子供らしく頷いた。


 ダル兄さんは大変だな、と思った。


 この人はたぶん、生まれたときから「長男」でいることを求められてきたのだろう。自分なら耐えられる気がしない。


 次男のアルディスは、また違った。


 柔らかい雰囲気がある。だが、その柔らかさの奥に、妙な実務臭さがあった。人の話を聞くときの目、机に置かれた書類へ落とす視線、使用人に指示を出すときの間の取り方。なんというか、仕事ができる人の空気だ。


 後で、アル兄さんの母が平民出身の側室だと知った。だからといって、彼が家の中で軽んじられているようには見えない。むしろ、弱い魔力を補って余りあるくらい、本人の努力と実績で立っている感じがした。


 二人とも優秀だ。


 数度顔を合わせただけで、それははっきり分かった。


 自室に戻り、一人になってから、俺は心底安堵した。


 よし。


 俺、別に頑張って前に出なくていいな。


 長男がいる。次男がいる。二人とも家を支える力がある。


 なら、三男の俺が無理に目立つ必要はない。


 もちろん無能は駄目だ。無能な三男なんて、いざというとき使い捨てられる。だから有能ではあるべきだ。だが、跡目争いに巻き込まれるほど前へ出る必要はない。


 有能だが脅威ではない。


 役に立つが、気楽な三男。


 それがいい。


 その方針が定まると、ずいぶん気が楽になった。


 前世知識を使うにしても、その範囲を考えやすい。人を驚かせるためでも、英雄になるためでもなく、自分の立場を少しずつ強くするために使えばいい。


 最初に手を出したのは、食べ物だった。


 厨房を覗いていて、卵や粉や砂糖に似たものがあると知り、ふと思い出したのだ。カステラ。パンケーキ。前世では別に料理が得意だったわけじゃないが、食ったことくらいはある。


 見よう見まねでやってみた。


 失敗した。


 焦げた。膨らまない。変に固い。何かが足りない。何かが多い。


 職人ではないし、料理人でもない。分量の感覚なんて適当だ。


 それでも何度も作らせるうちに、そこそこ形になるものが出てきた。ふわりとしていて甘く、城の女たちは面白がってくれたし、男たちも意外そうな顔をしながら手を伸ばした。


 その頃には俺の周囲で「若様は物作りがお好きらしい」という認識が固まりつつあったらしい。


 父上が俺を見る目も、ただの子供を見るものではなくなっていた。


「好きにやってみなさい」


 そう言われたとき、俺は内心で小さく拳を握った。


 専属の平民使用人が数人ついたのは大きい。


 使える手足が増えた、というのが正直な感想だった。もちろん口には出さないが。


 彼らを通して城下町の職人と繋がり、俺はさらに色々試すようになった。


 高品質の炭。金具の工夫。焼き器の改良。新しい形のメイド服。馬車の座席まわりの工夫。


 ほとんどは試行錯誤だった。


 前世の俺は技術者じゃない。詳しい構造なんて知らない。知っているのはせいぜい完成品の見た目や、どんな感じで便利だったか、その程度だ。


 だから失敗は多い。


 思った形にならない。出来ても使い勝手が悪い。材料が足りない。職人に「そんな細工は無理だ」と言われる。


 それでも、たまに上手くいく。


 馬車の乗り心地を良くするための板ばねの工夫は、その代表だった。


 試作品に乗せられたときは半信半疑だったが、実際に走り出すと、身体に伝わる突き上げが明らかに違う。


 石畳の上を進む車輪の振動が、完全ではないにせよ随分と和らいでいる。


「驚きました」


 横に座っていたレティシアが、静かな声でそう言った。


 視線を向けると、いつも通りきっちり結い上げた髪と、落ち着いた横顔がある。


「揺れがだいぶ違います。長く乗っても疲れにくそうです」


「だろ」


 つい、得意げな声になる。


 レティシアは俺が幼い頃から側にいた。専属メイドと呼んでいい立場になったのは後のことだが、俺にとってはずっと、気づけばそこにいる年上の女だった。


 本を読めば灯りを寄せ、夜更かしすれば静かに茶を置き、失敗した試作品で机を汚せば何も言わずに片付ける。近すぎず、遠すぎず、けれど間違いなく俺の側にいる。


 そして綺麗だ。


 年上で、静かで、芯がある感じがして、つい目で追ってしまう。


 好みだった。


 だが、もちろん表には出さない。


 出していい立場ではないし、何よりレティシアは有力騎士家の娘だ。そこいらの平民メイドとは違う。幼い頃から世話になっている相手でもあるし、軽々しく手を出していい存在ではないと、流石の俺でも分かる。


 分かるからこそ、余計に意識してしまうのだが。


 魔力の鍛錬は、その裏でもずっと続けていた。


 夜、人払いした部屋で、灯を弄る。


 胸の奥の熱は、今やはっきりした流れになっていた。量も増えている気がするし、押し出したときの強さも変わってきている。


 ただ強いだけではなく、細かく動かせるのが面白かった。


 少しずつ、細く、鋭く。


 あるいは広く、薄く。


 頭の中で形を作り、その通りに動かす。


 螺旋、帯、球、糸。


 何かを思い描く方が上手くいくと分かったのは、その頃だ。魔法が感覚的なものだという話を学んでいたから、たぶん間違っていないのだろう。


 そうして鍛え続けるうち、俺は自分の魔力がどうやら普通ではないらしいと、ぼんやり理解し始めていた。


 比較対象が少ないから断言はできない。だが、使用人や若い騎士たちの訓練を横目で見ていると、彼らの出す熱は俺が感じるものよりずっと小さい。父や兄たちが纏う圧の方が近いが、それともまた違う気がする。


 まあ、強いなら強いでいい。


 困ることはたぶんない。


 そんなふうに気軽に考えていた頃、領内の森でそれを当ててみたのが、あの蜘蛛だった。


 大きめの蜘蛛が枝の間に巣を張っていた。白っぽい糸が日に透けて、妙に綺麗だったのを覚えている。


 何となく気になった。


 何となく、魔力を当ててみた。


 すると、蜘蛛が急に暴れたかと思うほど勢いよく糸を吐き始めた。


「うおっ」


 思わず声が出た。


 糸は細いのに切れにくく、妙に艶がある。光の中で揺れるそれは、既に知っている虫の糸より見た目からして上等だった。


 最初はただの悪戯のつもりだった。


 だが何度か試すうちに、これはただの面白現象では済まないと分かってきた。


 職人に見せる。


 触った瞬間、顔つきが変わる。


「若様、これは……」


「使えそうか?」


「かなり」


 短い返事だったが、それで十分だった。


 試験的に糸を集め、織らせ、布にする。軽い。滑らかだ。見た目も良い。


 女たちの手に渡ると、反応は明白だった。


 欲しがる。


 商人も目の色を変えた。


 値がつく。


 かなりつく。


 俺はその布を見ながら、ひとりで少し笑った。


「シルク、って呼ぶか」


 口に出してから、いや違うなと思う。


 これ、絹じゃない。どう考えても蜘蛛の糸だ。前世だったら表示違反で怒られそうな気がする。


 だが、ここは異世界だ。


 しかも俺は貴族である。


 押し切れる。


 貴族でよかった。


 シルクと呼ばれたその糸は、想像以上の速さで金を生んだ。


 それまでも蚕に似た虫から取る糸はあったが、こちらの方が品質が良いらしい。織った布は上質で、見た目も華やかで、女たちの目を引く。実際、城の中でも評判になったし、外へ出しても高値で売れた。


 父上の反応は短かった。


「規模を広げなさい」


 それだけだ。


 だが、使用できる人員も場所も増えた。


 功績として認められたのだと、流石に分かる。


 これなら、ただの三男ではないと言える。


 前へ出すぎず、それでいて無視できない。


 理想に近い立ち位置だった。


 時間は、そうしてあっという間に過ぎた。


 背が伸び、手足が長くなり、鏡に映る顔が幼児から少年へ変わっていく。


 顔立ちは、我ながらかなり整っていた。


 前世の俺ならちょっと嫉妬したと思う。


 だからというわけでもないが、女への興味ははっきり強くなった。


 これは仕方がない。


 元からスケベではあったし、この年頃で身体がそうなれば、視線が向くのは当然だ。


 廊下ですれ違うメイド。茶を運ぶ侍女。訓練場の端で洗濯物を干している女たち。胸元、腰つき、脚の線。つい見てしまう。


 もちろん表では澄ましている。


 俺は貴族の三男だ。だらしなく鼻の下を伸ばす趣味はない。


 ……ないつもりだった。


 ある日、新しく入ったメイドが挨拶に来たとき、俺はつい胸元に目が行った。


 我ながら分かりやすかったと思う。


「若様」


 落ち着いた声が飛んできて、はっと顔を上げる。


 レティシアだった。


 何も責めるわけではない。ただ、いつもの静かな表情のまま、そこに立っている。なのに妙に背筋が伸びた。


「ああ……新しいのか」


「はい」


 それだけで終わった。


 俺はそれ以上何も言わなかったし、名前も聞かなかった。


 聞かない方が自然だ。


 この世界で貴族が平民メイドの名前を一人一人覚えるなど、基本的にはしない。俺は前世の感覚のせいでつい個人として認識しがちだが、表では距離を保つべきだと分かっている。


 たぶん、今のレティシアの一声は、その確認でもあったのだろう。


 そんなふうに、欲望と体面の間で綱渡りをしていたある夕方、父上に呼ばれた。


 部屋へ入る。


 窓から射す夕日が、石壁と机の端を赤く染めていた。重たい書類が積まれ、その向こうで父上がこちらを見る。


 静かな部屋だった。


 だからこそ、次の言葉は妙に重く響いた。


「ギルバート、お前にもそろそろ専用の紋章が必要だろう」


 一瞬、息が止まった。


 紋章。


 家のものではない。個人の紋章。


 貴族の男が持つ、自分だけの印。


 それを持つことがどういう意味を持つか、俺ももう知っている。


「専用の紋章を持つことは、貴族の男として認められた証でもある」


 父上の声は低く、平坦だった。


 だが、その平坦さの中にある重みは十分すぎるほど伝わる。


 認められた。


 その言葉が胸に落ちる。


 兄たちの後ろで楽な三男ポジションを守ると決めてから、俺は俺なりにやってきた。勉強した。魔力を鍛えた。前世知識を慎重に使った。失敗もしたし、上手く立ち回れたことばかりでもない。


 それでも、ここに繋がったのだ。


 嬉しい。


 率直にそう思う。


 同時に、別の熱も胸の内で膨らんだ。


「お前さえ良ければ、紋章を使ってみなさい」


 父上が続ける。


「城に仕える者なら、お前が自由に選んで良い」


 脳裏に、真っ先に浮かんだ顔があった。


 レティシア。


 考えるより先に浮かんでしまった。


 年上で、綺麗で、ずっと側にいて、静かで、でも芯があって、俺の好みにこれ以上ないくらい合っている女。


 喉が乾いた。


 手のひらが少し汗ばむ。


 これまでの努力が認められた嬉しさと、貴族の男として一段上の場所へ上がる実感と、その先にあるものへの妙に生々しい緊張が、一度に押し寄せてくる。


「どうした」


 父上の声で我に返る。


 まずい。黙りすぎた。


「……少し、考えていただけです」


 できるだけ平静を装って答える。


「なら考えなさい。だが、そう長くは待たせるな」


「はい」


 なんとかそれだけ返して、部屋を出た。


 扉が閉まる。


 廊下の空気は部屋の中よりずっと冷たかった。窓から差し込む夕日が石床の上に長く伸びていて、遠くで使用人たちの足音が小さく反響している。


 俺はその場で立ち止まり、ひとつ息を吐いた。


 認められた。


 その事実は素直に嬉しい。


 だが、それ以上に頭の中を占めているのは別のことで、どうにも笑うしかなかった。


 城に仕える者なら自由に選んで良い。


 それってつまり、そういうことだよな。


 窓に映る自分の顔は、思った以上に赤かった。


 どうやら俺は、本当にもう、ただのお気楽な三男ではいられないらしい。

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