第百六十五話 決断の先
シルディア城の一室で、俺はオルフィアを見ていた。
窓から差し込む光は明るい。けれど部屋の中は妙に静かで、外から聞こえてくる人の足音や、遠くで何かを運ぶ物音ばかりが耳についた。
オルフィアは椅子に腰掛けている。
背筋を伸ばし、両手を膝の上に置いたまま、ただ静かに前を見ていた。
涙は流していない。
先ほど父上から父親の死を告げられたばかりだというのに、取り乱してもいなかった。
だからといって平気なはずはない。
広間で父上から話を聞いた時、オルフィアの身体がわずかに震えていたのを俺は見ている。
今はそれすらない。
その代わり、何かを押し込めるように口を閉ざしている。
少し離れた場所にはジルベッドが立っていた。
いつもオルフィアの側にいる護衛だが、今は俯いたまま主人の顔を見ようとしていない。
その隣ではセバスチャンも黙っている。
こいつなら普段は何か一つくらい余計なことを言う。
俺が黙っていれば勝手に茶化してくるし、オルフィア相手でも必要以上に畏まったりはしない。
そのセバスチャンまで何も言わない。
静かだった。
本当に、静かだった。
その中で座っているオルフィアを見ていると、俺にはその姿からある種の覚悟のようなものが感じられた。
何を考えているのかまでは分からない。
ただ、何も考えずに呆然としているようには見えなかった。
それなら俺も、いつまでも黙って見ているだけでは意味がない。
何より、今のオルフィアの立場はかなり面倒なことになっている。
いや、かなりどころではないかもしれない。
帝国への亡命を希望する王国貴族の令嬢。
そこは今までと変わらない。
だが、その令嬢の足場とも言えるルディア家そのものが揺らいでしまった。
ルディア家当主が死んだ。
しかも父上は、その死に疑いを持っている。
領地が攻められたわけでも、城が落ちたわけでもない。それなのに当主だけが突然死んだのなら、これからどうなるのか俺にも分からない。
だったら、まず確認しておくべきことがある。
「オルフィア」
俺が呼ぶと、オルフィアの目がゆっくりとこちらへ向いた。
「当主を失ったルディア家には、後継者はいるのか?」
横でわずかに空気が動いた気がした。
たぶんジルベッドだろう。
だが、俺は視線を逸らさなかった。
言葉を濁すことも考えなかった。
父上はすでにオルフィア本人へ、ルディア家当主が死去したとはっきり告げている。
それなのに俺だけが今さら、父君がどうとか、もしもの場合がどうとか言葉を濁して何になる。
むしろ、そんなことをすればオルフィアを軽く見ているようで嫌だった。
こいつはさっきまで震えながらも父上の問いに答えた。
死因を調べてほしいとも、自分の口ではっきり言った。
なら俺も、必要なことは普通に聞けばいい。
オルフィアはしばらく俺を見ていたが、やがて小さく首を振った。
「いえ、直系の男子はいないわ。分家にはいるけど」
声は静かだった。
だが、はっきりしている。
「ふむ、その分家の男子が家を継ぐ可能性は?」
重ねて聞いた瞬間、それまで俯いていたジルベッドが顔を上げた。
今度は分かりやすい。
じっと俺を見ている。
……まぁ、そうなるよな。
自分でもかなりきついことを聞いているとは思う。
父親が死んだと聞かされた直後の娘に、家の後継者は誰だ、誰が継ぐんだと聞いているのだから、護衛であるジルベッドからすれば俺を酷い奴だと思っても仕方ない。
それでも今は聞いておきたかった。
オルフィアが嫌なら答えなければいい。
そう思って待っていると、オルフィアは俺から目を逸らさなかった。
「かなり難しいわね。父様の弟、そしてその息子、それにお祖父様の曾孫ぐらいしかいないもの」
「ふむ」
父親の弟。
その息子。
それに祖父の曾孫。
俺は頭の中で順番に並べてみた。
「それなりに血は濃そうだが、難しいのか?」
少なくとも、どこの誰とも分からないほど遠い血縁には思えない。
父親の弟ならかなり近いし、その息子だってルディア家の血を十分に引いているように思える。
貴族社会は血統社会でもある。
だったら、その程度の血縁が残っているなら、誰かが家を継げそうな気もするのだが。
俺がそう考えていると、オルフィアは少しだけ言いづらそうに唇を動かした。
「その、全員平民から産まれているの」
「ああ……」
それで納得した。
貴族社会が血統を重く見るのは、ただ古い家だからでも、偉い先祖がいたからでもない。
血に魔力が宿るからだ。
貴族同士から産まれれば、子にもそれだけの魔力が期待される。
逆に平民から産まれれば、その絶対的な力そのものが弱まりやすい。
血が近い。
それだけでは足りないわけか。
俺が黙っていると、オルフィアの視線が少しだけ下がった。
「母様が貴族だったのは私だけ、弟もいないし」
そう呟いたオルフィアは、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
母様が貴族だったのは自分だけ。
それに弟もいない。
母を『だった』と言い、弟もいないのなら、まぁ、そういう事なのだろう。
そこまで聞けば十分だ。
わざわざ俺から踏み込んで確かめるようなことでもない。
今聞きたいのは、ルディア家のこれからだ。
「つまり、お前以外に家を継ぐに足る人物はいないんだな」
俺が確認すると、オルフィアは今度は迷わなかった。
はっきりと頷く。
うーむ。
これはどうなるんだ?
俺は腕を組みたくなるのを堪えながら、頭の中で今聞いたことを並べ直した。
家を継げそうなのはオルフィア。
だが、そのオルフィアはルディア家を出ている。
しかも、ただ家出しているわけではない。王国貴族でありながら、帝国への亡命を希望している。
もちろん、それ自体には意味がある。
父親がルディア家を俺とオルフィアを結婚させる事で帝国へ移そうとしていた中で、オルフィアは娘を売った弱い貴族家となる事を嫌がり、自分だけが帝国へ来ることを選んだ。
その決断が正しかったのかどうかはともかく、何をしようとしていたのかは分かる。
だが、今はその前提だった父親がいない。
そして残ったルディア家を継げそうなのも、結局そのオルフィアしかいない。
なんだこれ。
めちゃくちゃになってるな。
オルフィア本人は帝国へ来たい。
けれど、そのオルフィアがいなければルディア家を誰が継ぐのか分からない。
逆にオルフィアが家を継ぐなら、帝国への亡命を希望している今の立場をどうするのかという話になる。
少なくとも、俺一人で考えて答えが出るような話ではなさそうだ。
父上なら、もう少し何か見えるのだろうか。
そんなことを考えていると、それまで黙っていたオルフィアが小さく口を開いた。
「父様がこんなに早く亡くなるなんて、思ってもいなかった」
声が、先ほどまでとは違っていた。
ほんの少しだけ掠れている。
俺は何も言えなかった。
オルフィアも、それ以上は続けなかった。
ただ俯くこともなく、しばらく前を見ていた。
その目の縁に、光るものが浮かんだ。
一滴。
頬を伝った。
その次にはもう、止まらなかった。
オルフィアの目から涙が溢れだしていく。
さっきまであれだけ静かに話していたのに、ぽろぽろと頬を伝って膝の上へ落ちる。
俺は思わず腰を浮かせかけた。
何か言うべきなのか。
いや、何を言う。
大丈夫か、なんて聞いたところで大丈夫なわけがない。
父親が死んだばかりなのだ。
しかも、その死に父上は疑いを持っている。
変な慰めを口にしたところで、何の役にも立たないだろう。
そう考えているうちに、オルフィアがこちらを見た。
涙で濡れた目が俺を捉える。
次の瞬間、顔を少し歪めた。
「出ていって!」
思った以上に強い声だった。
「すぐに出ていって!」
「あ、ああ」
反射的に返事をしたところで、ジルベッドが動いた。
先ほどまで黙っていた男が俺とセバスチャンの前まで来る。
何も言わない。
ただ、扉の方へ視線を向けた。
十分分かる。
俺が立ち上がると、セバスチャンも黙ったままそれに続いた。
扉の前まで来て振り返りそうになったが、やめた。
今のオルフィアは、見られたくないのだろう。
だったら見る必要はない。
ジルベッドが扉を開け、俺たちを廊下へ出す。
最後まで俺へ何かを言うことはなかった。
扉が閉まる直前、部屋の中に残ったオルフィアの姿がわずかに見えた。
俺はそのまま目を逸らした。
そして扉は静かに閉じられた。
扉が閉じると、廊下の静けさが急に戻ってきた。
俺はしばらく扉を見ていたが、やがて隣に立つセバスチャンへ顔を向けた。
「自分から出てくるまで、そっとしとくように使用人たちに伝えといてくれ。俺は父上のところに行く」
「分かりやした」
いつもの軽い調子ではなかった。
セバスチャンはそれだけ答えると、すぐに廊下の向こうへ歩き出した。
俺も反対へ足を向ける。
オルフィアのことはジルベッドに任せておけばいい。
今の俺が側にいたところで、できることはないだろう。
それより、父上に伝えておいた方がいいことが増えた。
先ほどまでいた広間へ戻る。
扉の前にいた兵へ声を掛けると、ほとんど待たされることなく中へ通された。
父上はまだそこにいた。
俺が戻ってきたのを見ると、手元から目を上げる。
「どうした、ギルバート」
「父上、オルフィアから少し話を聞きました」
「うむ」
俺は父上の前まで進み、先ほど聞いたことを順番に伝えた。
ルディア家には直系の男子がいない。
分家には男子がいるものの、全員が平民から産まれていて、オルフィア自身も家を継ぐのはかなり難しいと言っていた。
そして、母親も貴族なのはオルフィアだけ。
つまり現状では、ルディア家を継ぐに足る人物として最も可能性が高いのがオルフィアだということ。
そこまで話してから、俺は一度言葉を切った。
「父上もご存じでしょうが、オルフィア本人は帝国への亡命を希望しています」
父上は黙って聞いていた。
俺の話が終わっても、すぐには何も言わない。
やがて短く息を吐いた。
「うむ」
それだけだった。
まぁ、父上も困るよな。
俺もどうすればいいのか分からない。
家を継げそうな本人が家を出ていて、そのまま別の国へ亡命しようとしている。
しかも、本人がそう決断した時には生きていた当主が突然死んだ。
今になって結果だけ見れば、どうしてそんなことをしたんだと言う奴もいるだろう。
俺もさっきから考えている。
考えているうちに、なんとなく口が動いた。
「父上」
「なんだ」
「オルフィアは愚かなのでしょうか?」
言ってから、自分でも少し妙なことを聞いたと思った。
別にオルフィアが愚かだろうが、愚かじゃなかろうが、俺には関係ない。
オルフィアが自分で決めて、自分で帝国へ来た。
それだけの話だ。
なのに、なぜか聞いてしまった。
父上はすぐには答えず、俺をじっと見た。
「ルディア家当主が死ぬ前なら、果断と褒める者もいただろうな」
「それでは?」
「うむ。ルディア家当主が死んだ今では、愚かと責める者の方が多いだろう」
「そうですよね」
俺は小さく頷いた。
やっぱり、そうなるよな。
結果だけ見ればそうだ。
家を継げそうな人間が、自分から家を離れている。
しかも父親はもういない。
事情を知らない奴なら、それだけで責めることだってできるだろう。
「だがな、ギルバート」
父上の声が少し強くなった。
俺は顔を上げる。
「貴族であろうとも、未来を見通す魔法などありはせん。その時その場でやるしかないのだ」
父上は真っ直ぐ俺を見ていた。
「悩むだけで決断出来ぬ者より、悩んでも決断出来る者の方がずっと良いのだ」
俺はその言葉を聞きながら、少しだけ考えた。
オルフィアが家を出た時、父親がこんなに早く死ぬことなど分かるはずがなかった。
少なくとも本人は知らなかった。
あいつはあいつなりに考えた。
家を巻き込みたくない。
娘を俺に差し出して帝国側へ移った弱い家だと思われたくない。
だから、自分だけで来た。
その後に起きたことまで含めて、最初から全部考えろと言われても無理なのだろう。
それなら父上の言う通りだ。
「はい、肝に銘じます」
俺が頷くと、なぜか父上の眉がわずかに歪んだ。
「うむ。だがな」
「はい?」
「あくまで悩んでの決断だ。何も考えずに動く事は決断とは言わぬぞ」
俺は父上を見た。
当たり前ではないだろうか。
何も考えていないなら、それはただ暴走しただけだ。
「はあ、それはそうですよね」
「……う、うむ」
父上は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「分かっているなら良い」
それだけ言って、父上は俺から目を逸らした。
なんだったんだ?
妙な念押しだった。
俺だって何も考えずに動いたりはしない。
ちゃんと考えている。
俺は理性的な常識人なのだから。




