第十四話 最後の一人
九名までは、ほぼ決まった。
紙の上に並んだ名を見下ろしながら、ギルは肘掛けに片肘を置き、指先でこめかみを軽く押さえていた。
窓から入る午後の光は柔らかく、机の上の紙を白く照らしている。さっきまでレティシアの筆が走っていた紙面には、整った文字で候補者たちの名が記されていた。武官寄りの家、文官寄りの家、家格、年齢、得意分野、注意すべき癖。完璧ではないにせよ、今の段階で集められる情報としてはかなりまとまっている。
レティシアは俺の隣ではなく、少し後ろに控えていた。
必要な時だけ言葉を挟み、こちらが考え込めば黙って茶を替えてくれる。その距離感が本当に見事だった。近すぎず、遠すぎず、邪魔はせず、けれど完全に離れもしない。俺が紙に視線を落とすたび、いつでも答えられる位置にいる。
九名。
あと一人。
数字だけで見れば、たかが一人だ。
だが、その一人が決まらない。
候補者の中には城外で仕事をしている者もいる。国境近くの砦へ出ている者、領内の迷宮管理に関わっている者、城下の倉や工房に出入りしている者、寄子家との連絡に出ている者。全員が城内ですぐ呼べる場所にいるわけではない。
使いは出す。
だが、全員が揃うまでには数日はかかるだろう。
なら、それまでに最後の一人を決めればいい。
そう考えれば時間はある。
時間はあるのだが、妙に落ち着かない。
最後の一人だけなら、集まるまでに適当に選べばいい。そういう考え方もできる。だが、どうもそれではまずい気がする。
直属の騎士と筆頭騎士。
この二つは似ているようで違う。
直属の騎士は、状況や立場の変化によって多少は変わることがある。もちろん簡単に入れ替えるものではないが、役割や家の事情、本人の成長や失敗、主の立場の変化によって調整されることはある。
だが、筆頭騎士はほとんど変わらない。
例えば本人が年老いたとか、大怪我をしたとか、何か取り返しのつかない失態を犯したとか、そういうことでもない限り、筆頭騎士をころころ変えることはない。
主の側に立つ騎士の筆頭。
武の顔であり、直属騎士たちを束ねる立場であり、外から見れば主の信頼そのものを示す存在でもある。
だから迷う。
九名の中から筆頭騎士を選ぼうかとも思った。
それが一番自然ではある。
父上から許された直属騎士十名。その中で最も実績があり、年齢もあり、家格もそれなりの者を筆頭に据える。綺麗だ。整っている。周囲から見ても分かりやすい。
だが。
うーむ。
それでいいのだろうか。
ギルは紙面の名を眺めた。
悪くない。
どの名前も悪くない。
武官寄りのオルドは多少荒いが力がある。ジノは慎重で、若さもある。文官寄りのクレインは数字に強く、トールは商人や寄子との交渉に使える。他の候補も、それぞれ役割を考えて選んでいる。
だが、筆頭騎士という言葉の重みを乗せると、どうも紙面の上の文字が少し軽く見えてしまう。
人として軽いという意味ではない。
俺との関係がまだ薄いのだ。
この九名は、家の中のバランスや将来の役割を考えて選んだ。必要だから選んだ。だが、筆頭騎士にはそれだけでは足りない気がする。
もっと俺の意思というか、俺のカラーを打ち出した方がいいんじゃないだろうか。
三男坊とはいえ、俺が初めて選ぶ直属の騎士だ。
多少の無理は許されるはずだ。
たぶん。
いや、許されるかどうかは父上次第だが、少なくとも最初から無難すぎる形に逃げる必要はないはずだ。無難は悪くない。悪くないが、俺が今後どういう立場で動くのかを示す最初の人事であるなら、少しは俺自身の意思を入れるべきだろう。
もういっそのこと、父上の直属騎士から筆頭騎士を選ぶか。
父上の側で経験と実績を積んだ騎士なら問題はないだろう。実務も、戦場も、貴族社会の距離感も分かっている。俺みたいな若造の筆頭としては、むしろ安定する。
だが、それはそれで借り物のようにも見える。
父上の騎士を下げ渡された三男坊。
いや、実際にはそうではないとしても、周囲がそう受け取る可能性はある。俺が自分で選んだのではなく、父上に整えられたように見えるかもしれない。
それは少し面白くない。
決まりではないが、全員が揃うまでには筆頭騎士を決めておきたい。
全員が揃った段階で筆頭騎士が決まっていないと、自分が選ばれるんじゃないかと期待する者もいるだろう。もちろん、そんな気持ちを三男坊とはいえ俺に見せたりはしないだろうが、内心で期待して、外れれば損したような気分になる者は出るかもしれない。
人間とはそういうものだ。
前世でもそうだった。
昇進するかもしれないと匂わされて、結局別の人間に決まれば、理屈では納得しても感情は残る。別に約束されたわけではない。自分が勝手に期待しただけだ。そう分かっていても、損をした気分にはなる。
ましてこの世界の騎士家ならなおさらだ。
筆頭騎士は名誉だ。立場だ。家の格にも関わる。選ばれるかもしれないと思わせてから外すのは、なるべく避けた方がいい。
もちろん、あからさまに不満を見せるようなやつなら、その場で直属取り消しするけどな。
そんな程度の自制もできない者を俺の側に置く必要はない。
だが、見せない不満は残る。
それが面倒なのだ。
ギルは紙から視線を外し、ちらりとレティシアを見た。
レティシアは俺の邪魔をしないよう、静かに控えていた。茶が冷めそうになれば音もなく替え、机の端に置いた小皿を整え、こちらが何か言い出すのを待っている。
本当に出来た女だよな、レティシアは。
俺の視線に気づいたのだろう。
レティシアの目がこちらを向いた。
その頬が、少しだけ赤くなる。
いかん。
ちょっと勘違いさせてしまった。
いや、まあ、こないだの俺は我ながらひどかったからな。
戦場帰りだったとはいえ、久しぶりに会ったレティシアへ遠慮なく全力で向かってしまった。あれはちょっと、いや、だいぶひどかったかもしれない。レティシアは受け入れてくれたし、嫌がってはいなかったと思うが、それで俺の行いが全て適切だったことにはならない。
だが、あれは戦場帰りだったからだ。
レティシアとあれほど離れるのは、ラブラブになってから初めてだったし。
レティシアの方は異論があるかもしれないが、そのはずだ。
たぶん。
おそらく。
ギルは視線を紙へ戻した。
しかし、一度そちらへ思考が逸れると、変な方向へ滑っていく。
もう、いっそのこと筆頭騎士は女騎士にするか。
そうすれば、戻った時に過度にレティシアに負担を強いることもないし、俺も戦場で少しは落ち着くことができるかもしれない。
いや。
待て。
アホか、俺は。
ギルは内心で自分に突っ込んだ。
仮に女騎士を選んだとしても、騎士や兵たちの前で二人きりになったり、そんなことができるわけないだろうが。
そもそも筆頭騎士はそういう目的で選ぶものではない。何を考えているんだ、俺は。思考が煮詰まりすぎて、なんか変な方向へ進んでいる。
危ない。
だいぶ危ない。
レティシアがいる部屋で、レティシアへの負担軽減のために女騎士を選ぼうかとか考えている時点で、かなり末期だ。
ギルは椅子から立ち上がった。
このまま考えていても駄目だ。
「レティシア」
「はい」
「ちょっと付き合え。城下町に行く」
レティシアは一瞬だけ瞬きをした。
だが、すぐに表情を整える。
「生産拠点ですか?」
「いや」
ギルは軽く首を振った。
「単に城下町を彷徨くだけだ」
「はい。では、お着替えを用意します」
「うむ。レティシアも着替えろよ」
「承知いたしました」
レティシアはすぐに動いた。
こういう時の反応も早い。目的が生産拠点ではなく、ただの散策だと分かると、服装の方向も変える。貴族として目立ちすぎず、かといってあまり粗末にも見えないもの。城下の中で浮きすぎないが、万が一誰かに見られても失礼にはならないもの。
その辺りの加減は、俺よりレティシアの方がずっとよく分かっている。というか俺には、全然分からん。
ギルはレティシアが用意した服へ着替えた。
普段より質素な上着に、動きやすい靴。色も落ち着いている。貴族の若者というより、どこかの裕福な商家か、下級騎士家の息子くらいに見えるだろうか。完全に身分を隠せるわけではないが、少なくとも「マバール家の若様です」と一目で分かる格好ではない。
レティシアもメイド服から着替えた。
落ち着いた色の衣服に、髪も少しだけまとめ方を変えている。飾り気は抑えているが、やはり美しいものは美しい。むしろ普段のメイド服と違う分、少し新鮮で危ない。
ギルは思わず眺めてしまった。
「若様?」
「いや、似合っている」
素直に言うと、レティシアの頬が少し赤くなった。
「ありがとうございます」
その反応だけで、出かける前から満足してしまいそうになる。
だが、外へ出る。
城の中庭を抜け、目立たぬ門から城下へ降りる。もちろん、完全に二人きりではない。周囲には目立たないように護衛がついている。
三男坊とはいえ貴族だから仕方ないよな。
俺がいくらふらふらしたいと言っても、本当に護衛なしで城下町を歩かせてもらえるわけがない。相手が刺客でなくても、貴族の子弟に何かあれば面倒になる。まして初陣から戻ったばかりで、家中での扱いも変わり始めている時期だ。警戒されるのは当然だった。
護衛たちは距離を取っている。
露骨に囲むのではなく、通行人に紛れるように動いていた。さすがにマバール家の城下で働く護衛だけあって、その辺りは慣れている。俺も完全には把握していないが、視界の端で何人かの気配は分かった。
ただ、感知魔法を使う必要はない。
目で見ればいい。
街の空気を感じればいい。
そう思いながら、ギルはレティシアと並んで城下の道を歩いた。
ふむ。
デートみたいで楽しいな、これ。
実際には護衛付きだし、身分を完全に隠しているわけでもないし、目的も気分転換だ。だが、レティシアと二人で城下を歩いているというだけで、かなり楽しい。
城下町は活気があった。
石畳の大通りには荷車が行き交い、商人の呼び声が響く。布を売る店、金物を並べる店、香辛料や乾燥した薬草を扱う店、焼き菓子を売る小さな露店。職人の工房が並ぶ通りからは、木を削る音や金属を叩く音が聞こえる。
人の匂い。
焼いたパンの匂い。
獣の匂い。
油と煙と土埃が混じった、城の中とは違う匂い。
ギルはこの空気が嫌いではなかった。
異世界の庶民の生活には興味がある。
こういった外出は何度もしている。前世のように写真やテレビがあるわけではないので、俺の顔はそこまで知られていない。もちろん城に出入りする商人や一部の職人、城下の有力者なら見覚えがあるかもしれないが、道行く庶民が一目で「ギルバート様だ」と分かるほどではない。
服装も抑えている。
護衛も離れている。
なら、かなり自由に歩ける。
前世なら有名人が帽子とマスクで歩くみたいな感じだろうか。いや、この世界にマスクはないが。
レティシアは少し後ろではなく、今は自然に隣を歩いている。完全に対等ではない。そこは立場が出る。だが、城の中で控える時よりは距離が近い。
道の脇に並ぶ店を見ながら、ギルは歩幅をゆるめた。
「あれは何だ?」
「乾燥果実かと」
「高いのか?」
「ものによります。南から入ったものは高うございますが、領内で採れるものなら庶民でも手が届きます」
「ふーん」
ギルは露店の籠を眺めた。
乾いた果実は色が濃く、少し固そうに見える。前世のドライフルーツほど綺麗ではないが、保存食としては悪くなさそうだ。甘味は貴重だし、軍や旅にも使えるかもしれない。
いや、今日はそういう開発目線をやめようと思ったのに、すぐそちらへ行く。
職業病みたいなものか。
いや、職業ではないか。
貴族病か。
少し歩くと、パン屋の前を通った。
焼きたての匂いが強い。
城のパンとは違う、もっと粗くて力強い香りだ。庶民向けなのだろう。粉の質も違うし、焼き方も違う。だが、これはこれでうまそうだった。
店の前には数人の女が並び、子どもが母親の服の裾を掴んでいる。職人らしい男が大きな籠を抱えて出てきて、湯気の立つパンを棚へ並べた。
ギルは少し足を止めた。
この世界の庶民も、ちゃんと朝にパンを買う。
昼に飯を食う。
女は値段を気にし、子どもは甘いものを欲しがり、職人は売れ行きを見て顔を緩める。
当たり前だ。
当たり前なのだが、ついこの間まで帝国の村を焼いていたせいで、その当たり前が妙に新鮮に見える。
あの村にも、こういう光景はあったのだろう。
焼く前には。
ギルはそこまで考え、すぐに思考を切った。
今ここで深く考えても仕方がない。
俺が歩いているのはマバール家の城下だ。ここは俺たちの領民の街であり、守るべき場所だ。帝国の村と同じように見えても、同じではない。
同じではない。
そう思うことにする。
「若様?」
レティシアが小さく声をかける。
「何でもない」
「お疲れでしたら、どこかでお休みになりますか」
「そうだな」
ギルは周囲を見回した。
「適当な店に入ろう」
大通りから少し外れたところに、茶を出す店があった。
貴族向けの洒落た店ではない。だが、薄汚れてもいない。木の看板は古いが手入れされており、開いた戸からは茶と焼き菓子の匂いが漂っていた。客は商人らしき男が二人、職人風の老人が一人、あとは近所の女たちが少し離れた席で話している。
ギルとレティシアが入ると、店主らしい男が一瞬だけ目を上げた。
その視線が服と立ち居振る舞いを見て、少しだけ丁寧になる。
誰だかは分かっていないだろう。
それでいい。
二人は奥の席へ通された。
護衛たちは入らない。だが、近くにいるのは分かる。店の外、向かいの軒下、隣の路地。何人かが自然な位置に散っている。
面倒だが、ありがたくもある。
貴族として生まれるというのは、自由があるようでない。だが、その不自由の中に守られていることも確かだ。
出された茶は、城のものに比べればかなり粗い。
香りも浅いし、少し渋い。
だが、歩いた後に飲むと悪くなかった。
「どうだ、レティシア」
「素朴で良いかと存じます」
「本音は?」
「城の茶の方が美味しゅうございます」
「正直でよろしい」
ギルは小さく笑った。
レティシアもほんの少し口元を緩める。
こういう時間はいい。
城の部屋で二人きりになるのとは違う。戦場の話でも、直属騎士の話でも、夜の話でもない。ただ茶を飲み、街の音を聞き、隣にレティシアがいる。
それだけで、少し頭がほどける。
店の外を人が行き交う。
荷を背負った男が通り過ぎ、子どもが何かを追いかけて走り、女たちが声を潜めて笑う。馬の蹄が石畳を叩く音もする。遠くから鍛冶場の音が響き、風に乗って炭と鉄の匂いが届いた。
庶民の街は、ずっと動いている。
城とは別の理屈で動いている。
それを見るのが、ギルは好きだった。
ふと、通りの先へ視線をやる。
確かこの先に連れ込み宿があるよな。
田舎の村は分からんけど、城下町には前世と同じような役割の連れ込み宿がある。案外、人間ってのは世界が変わってもあんまり変わらないのかもしれない。
身分が違っても、魔力の有無があっても、欲の形は似たようなものだ。
男と女がいれば、人目を避けたい時に使う場所が必要になる。前世でもそうだったし、この世界でもそうだ。呼び方や作法は違っても、機能は変わらない。
ギルは一瞬だけ、隣のレティシアを見た。
レティシアは茶器へ視線を落としている。
横顔が美しい。
連れ込むか。
そんな考えが頭をよぎり、すぐに自分で却下した。
まあ、俺がレティシアを連れ込むと護衛たちが困るだろうからしないけど。
いや、護衛だけの問題でもない。
城下の連れ込み宿にマバール家の三男が専属メイドを連れ込んだなんて話になったら、面白がる者が多すぎる。父上には怒られないかもしれないが、メイド長には何か言われるだろう。レティシアも恥ずかしがるかもしれない。
それはそれで少し見たい気もするが、今はやめておく。
今は、筆頭騎士のことを考えに来たのだ。
考えに来たはずなのだ。
なのに、またレティシアの方へ思考が引っ張られている。
ギルは茶を飲み、意識を戻した。
筆頭騎士。
直属の十人。
家。
武官。
文官。
最後の一人。
街の音を聞きながら考えると、城の部屋で紙面を見ていた時とは少し違う視点が湧いた。
上級騎士は城近くに住むことが多い。
家格のある騎士家は城内、あるいは城に近い一画に屋敷を構える。主に近いことが名誉であり、いざという時に駆けつけるためでもある。政治的にも、城に近い場所に屋敷を持つというのは意味がある。
だが、下級騎士は城下に住むことも多い。
さらに言えば、郊外に近い場所に小さな家を持つ者もいる。家格や収入によって当然違う。立派な屋敷を持つ者ばかりではない。
ふむ。
そこで、ふと一人の顔が浮かんだ。
傷だらけの顔。
片耳のない頭。
にやにや笑いながら人を地獄へ放り込む老騎士。
セバスチャン。
あのクソじじいは、今どこに住んでいるんだろうな。
ギルは茶器を置いた。
「レティシア」
「はい」
「セバスの家って知ってるか?」
口に出してから、自分で少しおかしいと思った。
いや、まあ、知らんよな。
レティシアが下級騎士の家全部知ってるわけないし。
そう続けようとした。
だが、レティシアはあっさりと答えた。
「はい。郊外に住んでおります」
ギルは思わずまじまじとレティシアを見た。
「知っているのか?」
「はい」
「何で?」
「セバスチャン様が若様の初陣の指南役になった時に調べておきました」
当然のように言う。
うーむ。
さすが仕事の出来る女レティシアだな。
思わず護衛たちの苦労を無視して宿に連れ込んでしまいそうだ。
いや、しないけど。
さっきから思考が本当に危ない。
しかし、調べておいたというのはすごい。
セバスチャンは現時点では俺の騎士ではない。父上が俺の初陣のためにつけた指南役だった。あくまでその役目として俺に同行し、戦場を教えた男だ。俺の専属ではないし、俺の配下でもない。
だが、レティシアはその段階で、俺に関わる者として調べておいたのだ。
家。
住む場所。
おそらく家族構成や周囲の評判も多少は押さえているのだろう。
本当に抜けがない。
「案内できるか?」
「はい」
即答だった。
ギルはしばらく考えた。
別に行く必要はない。
ないのだが。
城の中で紙を眺めていても決まらなかった最後の一人。筆頭騎士。俺の意思を示す人選。
その答えが、街へ出て、下級騎士の住む場所を思い浮かべた時に、自然とあの老騎士の顔として浮かんだ。
偶然かもしれない。
ただ初陣の印象が強いだけかもしれない。
だが、考える価値はある。
少なくとも、俺はあのクソじじいの家を知らない。どう暮らしているのかも知らない。戦場でどう動くかは見た。訓練でどうしごくかも嫌というほど知っている。だが、家の中のセバスチャンを知らない。
筆頭騎士にするかどうかは別として。
見ておいて損はない。
「ふむ」
ギルは立ち上がった。
「ちょっと行ってみるか」
レティシアも静かに立ち上がる。
「承知いたしました」
店の主人に代金を渡し、外へ出る。
護衛たちの気配が、ゆるやかに動いた。こちらが予定を変えたことに気づいたのだろう。だが、誰も表へ出て止めたりはしない。俺が城下を散策している時点で、多少の移動は想定内なのだろう。
通りはまだ明るい。
太陽は傾き始めているが、夕暮れには少し早い。店は開いているし、人通りも多い。大通りから横道へ入り、さらに少し細い通りへ進むと、街の表情が変わっていった。
城に近い区画は整っている。
道幅も広く、家の壁もきれいで、店の看板も手入れされている。商人や上級の職人が多く、荷車も整ったものが多い。
だが、少し離れると、道の石畳に欠けが目立ち始める。家々の壁も少し粗くなり、屋根の色もばらつく。子どもたちの声が近くなり、裏庭から家畜の匂いが流れてくる。
さらに進むと、城下町の外縁へ近づく。
レティシアは迷わなかった。
大通りを避け、通りやすい横道を選び、時折こちらの歩幅に合わせながら進んでいく。彼女が本当に道を把握していることは、その足取りだけで分かった。
「よく調べたな」
ギルが言うと、レティシアは前を向いたまま答えた。
「若様に関わる方でしたので」
「それだけで家まで調べるのか」
「必要であれば」
「必要だったのか?」
「はい」
迷いがない。
ギルは少し笑った。
「俺より俺の周辺に詳しそうだな」
「若様は、必要な時に必要なことをご存じであればよろしいかと」
「俺が知らない分をレティシアが知っている?」
「お役に立てるのであれば」
本当に出来た女だ。
このまま直属に入れるのは当然として、館を持ったら確実に内を任せることになるだろう。俺が外で変なことを始めても、レティシアが内を締めてくれるならかなり安心できる。
将来、俺が館を持つ。
そこにレティシアがいる。
廊下を歩き、使用人たちを動かし、俺の部屋を整え、夜には俺の側に来る。
かなりいいな。
いや、また思考がそっちに行っている。
落ち着け。
今はセバスチャンの家だ。
通りは少しずつ静かになっていく。
城下町の中心部ほど商いの声はない。代わりに、木を割る音や、子どもの泣き声、どこかの家から漏れる煮込み料理の匂いがある。家々は小さく、庭も狭い。だが、完全に貧しいというわけでもない。城下の端で、それぞれが暮らしている。
下級騎士は、こういう場所にも住むのだろう。
騎士といっても、全員が立派な屋敷を持つわけではない。
魔力を持つからといって、全員が裕福とは限らない。家格、役目、報酬、戦で得たもの、それらによって生活は大きく変わる。
セバスチャンは下級騎士家だ。
実戦経験は豊富で、必勝の騎士とすら言われる。だが、下級騎士のままだ。なぜか。
ギルはまだ、はっきりと知らない。
ただ、あの男の言葉や態度からして、金や地位に素直にしがみつくタイプではないのだろうとは思う。
あれだけ戦場を知っていて、あれだけ人を殺し、奪うことを当然とする男が、なぜ下級騎士のままなのか。
そこに何かある気がした。
いや、ただ単に人間性に問題がありすぎて出世できないだけかもしれないけど。
それはそれで納得できる。
ギルは少し笑いそうになった。
「若様」
レティシアが小さく声をかける。
「この先から郊外寄りになります」
「分かった」
道の先には、城下町の外れらしい景色が見えていた。
家々の間隔が広がり、道の脇に畑が見える。城壁の内側ではあるが、中心部とは空気が違う。人の密度が薄くなり、風が少し通りやすい。遠くには薪を積んだ小屋や、小さな家畜囲いも見えた。
護衛たちの距離が少し詰まる。
人通りが減るからだろう。
ギルはそれを視界の端で感じながら、レティシアの後について歩いた。
考えはまだまとまっていない。
筆頭騎士。
セバスチャン。
あのクソじじいを選ぶのか。
そもそも選べるのか。
父上が許すのか。
本人が受けるのか。
受けたとして、俺はあの男を扱えるのか。
次から次へと疑問は浮かぶ。
だが、不思議と嫌ではなかった。
紙の上で知らない候補者たちの名前を眺めている時よりも、ずっと実感がある。あの傷だらけの顔を思い浮かべると、腹が立つし、疲れるし、げんなりもする。だが、同時に、あの男ならと思ってしまう部分もある。
初陣の教師。
今はまだ、それだけの関係だ。
俺の騎士ではない。
俺の配下でもない。
だが、俺に戦場の歩き方を教えた男であることは間違いない。
村を焼くこと。
奪うこと。
逃げること。
魔力を抑えて走ること。
引く判断をすること。
どれも、あの男から実地で叩き込まれた。
だからこそ、最後の一人を考えた時、あの顔が浮かんだのかもしれない。
ギルは息を吐いた。
「若様?」
レティシアが振り返る。
「いや、何でもない」
「お疲れでしたら、少し休まれますか」
「大丈夫だ」
ギルは前を見た。
「行こう」
「はい」
レティシアが頷き、また歩き出す。
城下の外れへ。
下級騎士の家々が点在する、少し静かな区画へ。
そして、その先にあるはずのセバスチャンの家へ。
ギルはまだ、答えを出していない。
だが、足は止まらなかった。




