第31話 タカシの心の傷
「ああ、大丈夫だよ」
3月31日、月曜日の夜中、カニの長老がトイレに起きると、タカシがスマホを耳に当たまま階段を降りてくるところだった。
階段を降りると、台所の椅子に掛けた綿入れ半纏をパジャマの上に羽織り、茶の間の炬燵に足を入れた。
茶の間の右手にハコちゃんのピアノ部屋があるけれど、その引き戸が少し開いていて、タカシの話す声が水槽の中の長老にも聞こえてきた。
「そうなんだ?」
明るく相槌を打つ。
目が覚めてしまった長老は、ガラス壁に寄りかかって、なんとなく話に耳を傾けた。
「誰かと思ったら、長老じゃないですか?」
右手で目をこすりながら、カニのタロウが岩陰から現れた。
「起こしてしまったかの?」
「いえ、明日は4月1日じゃないですか。
なんとなく眠れなくて」
振り返る長老。
「明日、何かあるんかの?」
首を振るタロウ。
「ぼくは何もありませんが、この家のヒトたちは、色々あるみたいですよ?
コズエさんは仕事が変わるみたいだし、シゲルは展覧会の準備があるみたいだし」
タロウが続けた。
「タカシも明日は新年度初日で、人事異動があったり色々忙しいんでしょうけれど、こんな時間に起きてて大丈夫なんですかね?」
うなずく長老。
「お見込みのとおりじゃ。
コズエさんに見つかったら、一言あるじゃろの。
だがの、この電話は特別じゃ」
そう言って、肩をすくめる。
「何があるんですか?」
笑う長老。
「何もない」
「何もないのに、何が特別なんですか?」
少しムッとした顔のタロウに、真顔に戻った長老が答えた。
「電話の主はの、中学時代の友達なんじゃ」
「ずいぶん昔の友達ですね?」
「友達というよりも」
ここで長老がタロウの耳元に口を近づけた。
「付き合ってた子、なんじゃ」
「えーッ!」
急いでタロウの口をふさぐ長老。
「ばか! 皆が起きるじゃないか。静かにせい!」
真っ赤になって、両のハサミで口を押さえるタロウ。
「こんな夜中に、何なのよ?」
石造りの小屋の中から、頭にカーラーを巻いたまま、イソスジエビのスジコちゃんがパジャマ姿で出てきた。
「あちゃ!」
がっくり肩を落とし、両目を閉じる長老。
両目をふさいだハサミの隙間からさりげなく覗くタロウ。
「いいわよ、今更目を隠さなくたって。
減るもんじゃないし」
「おお、助かった」
ため息をつく長老に、スジコちゃんからの鋭い質問。
「だから、何なのよ? こんな夜中に?」
長老が手招きして2人を集める。
「いいかの。コズエさんには内緒じゃぞ?
この電話の主は、タカシが中学生の時に付き合うとった女の子なんじゃ。
今は、もうおばさんじゃがの」
そう言って、少し笑った。
「での。時々電話をくれる」
スジコちゃんがパジャマの腕を組む。
「そんなの、何でもないじゃないの?」
真顔に戻る長老。
「病気なんじゃ」
息をのむ2人。
「調子が良い時と、悪い時がある。
調子が悪いと、何ヶ月も部屋から出てこれなくなるそうじゃ。
良くなると、時間を気にせず何時でも電話をしてくる。
その電話に、タカシは必ず出る」
「えー、そこまでしなくてもいいんじゃない?」
頬っぺたを膨らませるスジコちゃん。
「タカシは心にひとつ傷を持っておっての。
当時、その子を深く傷つけたことがあって、それが後々の病気の原因の、わずかかもしれないが、じゃが、少しはある、そう思っとるんじゃ。
だから、何時でも、必ず出る。
出て、話を聞いている。
聞くだけなんじゃ。反対したり、助言めいたことは口にせん。
うなずいてあげて、同意してあげる。
彼女が満足して自分から電話を切るまで、ずっと聞いとるんじゃ」
生唾をのむ2人。
「長老、良く知ってますね?」
ようやく、タロウが口を開いた。
「ばか。わしが何年この水槽で暮らしてると思っとるんじゃ!」
「恐れ入りました!」
スジコちゃんの声にあわせて頭を下げる2人に、胸を反らせる長老。
「ありがとう?
いや、おれのほうこそ。
また、電話くれよな?
じゃあ」
ガチャガチャ。
新聞配達がポストに朝刊を入れる音がした。(終わり)




