第7話 目的地
私の目的地は、国境沿いにある修道院だった。
ーーもともと結婚できなければ、行くはずだった場所だもの。それが少し遅れただけのことね。
この国には複数の修道院がある。そのどれもが、身寄りのない女性を修道女として受け入れてくれることで知られていた。
修道女として神に仕えるには、今の名を捨てることになる。私は「ソフィア」ではなくなり、名もなき修道女として生きていく。
けれど。
私はふいに、カテリーナ様の「ソフィア」と呼ぶかわいらしい声を思い出した。前侯爵夫人も親しげに名を呼んでくれていた。
そしてあの夜、熱に浮かされたレオナルド様が呼んでくださった声も。
(もう2度と、呼んでいただくことはできないのね)
外からは馬車の車輪の音だけが聞こえた。
中が見えないよう窓を閉め切っていたので、外の様子はわからない。修道院は遠方のため、宿に泊まりながらの旅になるだろう。
もう王都を出ただろうか。
そう思っていた時、馬車が静かに止まった。
(どうしたのかしら?)
今夜泊まる宿に着いたのだろうか。
けれどドアは一向に開かない。本来なら御者が開けてくれるはずなのだが……。
「どうしたの? 何か問題でも……」
そう御者に問いかけた時。
突然ドアがバタンと開く。そして何かが、勢いよく馬車の中に飛び込んできた。
「ソフィア!」
「えっ……なっ……?」
「よかったわ! 無事で……」
私は、心臓が跳ね上がるほど驚いていた。
私の腕の中に、なぜかカテリーナ様がいる。
どうして……?
なぜここに?
何が起こっているのかわからなかった。
昼過ぎに馬車に乗り込んでから何時間も過ぎている。もうとっくに王都は出ているはずなのに。
外に見えるのは見慣れた侯爵邸ではないか。
「ソフィア。こちらへ」
温かな手に、指を取られる。
馬車の外に姿を見せたのは、レオナルド様だった。
「あのっ……私は、ここに来るはずじゃなかったんです。困ります! なぜ、こんなことに……」
私は思わず、握られた手を振り払った。
カテリーナ様が私から離れると同時に、レオナルド様が馬車に足を踏み入れる。
「こっ、来ないでください!」
逃げようにも、狭い馬車の中に身を隠す場所などない。戸惑いと混乱で、体がガタガタと震えはじめた。
「ソフィア……驚かせてすまない。馬車をここに長く停めておくのはまずい。早く屋敷へ」
「無理です! だって……私は……修道院に行こうと……私がいては、ルチアーニ家にご迷惑が」
レオナルド様は顔を翳らせる。そして覚悟を決めたような表情をすると、その腕を私の腰に力強く回した。
「手荒な真似はしたくなかったが、許せ。責任はとる」
体がふわりと宙に浮く。そして、レオナルド様は私を横抱きにしたまま走りだした。
「あっ……あのっ! やめてください! 下ろして!」
私の抗議を無視して、レオナルド様は正面玄関に向かう。
侯爵邸の扉を開ければ、エントランスホールには前侯爵夫人が待っていた。レオナルド様にそっと降ろされた私を、まるで生き別れた実の娘にするように抱きしめる。
「ソフィア……よかったわ。間に合って」
カテリーナ様もまた、私の腰に縋り付いていた。
2人にしばらく抱きしめられた後、私はソファに腰掛ける。
顔馴染みのメイドがお茶を持ってきてくれた。震える指先をカップで温めながらうつむいていると、レオナルド様が口を開いた。
「結論から言う。俺たちは、ソフィアと離れるつもりは一切ない」
レオナルド様の言葉を受けて夫人も頷く。私の腰に縋り付いたままのカテリーナ様も、回した腕にぎゅっと力をこめた。
「なぜ……そのような……」
「以前伝えたように、ソフィアにこの家になるべく長くいてほしいというのが俺たちの総意だ。だがヴェルディ家は問題のある家だ。だから俺は、ヴェルディ家の使用人に内通者を得て報告を受けていた。ソフィアの乗った馬車の御者も俺の部下だ。尾行を撒いてからこの家に来てもらった」
レオナルド様の話は、信じられない内容だった。レオナルド様は、王都を守る衛兵隊を束ねる立場にいる。
慣れてはいるのだろう。
けれど、私のような使用人のためにする内容とはとても思えなかった。
「なぜ……そこまで……? 私はただの使用人です。それに……もう離縁されました。元夫は私の悪い噂を流すでしょう。私のような者は、ルチアーニ家にふさわしくありません。ですので……」
「問題ない。対処する」
「え……対処……?」
「専門の部署がある。人の噂を操ることなど容易い。しかもそれが故意に流された嘘の噂ならなおさらだ。ソフィアに一切非はないことは知っている。だからソフィアが心配するようなことは起こらない。安心してほしい」
そう言い切ったあと、レオナルド様は言葉を詰まらせる。
「……だが俺たちは、ソフィアの意志に背くことまで望んでいない。だから、ぜひ教えてほしい。この家に、この先もいたいと思ってくれるか? 義務とか仕事とかを抜きにして、ソフィアはこれからどうしたい?」
レオナルド様は気遣わしげに私に問いかけた。
カテリーナ様も私を見上げ、不安げに目を瞬いている。前侯爵夫人も優しいまなざしを向け、私の答えを静かに待ってくれていた。
ーーなんて返事をしたらいいの?
私はふいに、暗闇に放り込まれたような気持ちになった。
だって「どうしたいか」なんて、今まで誰にも聞かれたことがなかったから。
これまで私は、選べなかった。
家の仕事をしろ、家族の面倒をみろ。
父のこと、祖母のこと、妹たちのこと。
そして、お金のないヴェルディ家のこと。
やるべき仕事だけで手一杯で――自分のやりたいことを諦めつづけていた。そうしたらいつの間にか、自分の気持ちなんてどこかに消えてなくなってしまっていた。
けれど今、レオナルド様は私の意思を聞いてくれている。私がどこかに忘れてきてしまった、私自身の気持ちを。
冷え切った胸の奥に、かすかに熱が灯ったように感じた。視界がにじんでいき、じわじわと涙があふれてくる。
「ソフィア、大丈夫か?」
「……申し訳ありません。せっかく、聞いてくださっているのに、私……どうお答えしていいのか、わからなくて……」
ぽろぽろと涙が頬を伝った。こんなふうに大泣きするなんて、小さな子供のようで恥ずかしくてたまらない。なのに、涙をこらえることができなかった。
迷惑をかけたくない。
大切な人たちに幸せでいて欲しい。
そのためには、私はいなくならなければいけない。
そう、思っていたはずなのに。
なぜ答えを口にできないのだろう。
なぜこんなに、涙があふれてくるのだろう?
涙を流すばかりの私に、カテリーナ様が優しい声色で尋ねた。
「ねえソフィア。ソフィアは、私のこと……嫌い?」
「まさかっ……カテリーナ様を嫌ったことなど一度もありません」
「よかったわ! では、おばあさまやお父様のことも?」
「もちろんです」
即答した私を見て、カテリーナ様は微笑む。
「あのね、私たちを嫌いじゃないなら、とりあえず……とりあえずよ? 『お試し』ってことで、ここで暮らしてみない?」
「お試し……?」
「ええ!」
カテリーナ様が、力強く私の手を握りしめた。
「答えを急ぐ必要はないし、ここにいたいと思わなくたっていいわ。私たちに気を遣っているだけなら、どうか出て行かないで。私はソフィアにここにいて欲しい。そばにいてほしいの。お願いソフィア。ここにいるって言って。ちょっと頷くだけでもいいわ」
カテリーナ様の顔がぐいっと近づいてきた。大きなエメラルドグリーンの瞳に吸い込まれそうになる。
「ね? ソフィア」
ぐらぐらと揺れ動く心が、引き寄せられる。
そして、私は思わず……頷いた。
そんな私を見たカテリーナ様が、満面の笑みを浮かべる。
「お父様、おばあさま! ソフィアがいいって言ってくれたわ! 嬉しいっ! これからも一緒にいられるのね!」
カテリーナ様は、私にぎゅっと抱きついた。
レオナルド様と奥様が、驚いて目を見合わせる。
「カテリーナ……どこでそんな方法を覚えたんだ」
「ほんと。まだ8歳だというのに、末恐ろしいわ」
カテリーナ様は2人を見て、優雅に笑みを浮かべる。
「あら。私、お父様とおばあさまに似たのよ? 〈ルチアーニ家の血〉を、しっかりと受け継いだの」
カテリーナ様はそう言って、再び私を抱きしめた。
ここにいる3人は、年齢も性別も違う。
でも、確かによく似ている。
華やかな容貌だけではなく……。
友人の家で見かけた私を雇い入れるために、声をかけ続けてくださった奥様。
わざわざヴェルディ家に内通者を得てまで、逃げ出そうとした私を連れ戻したレオナルド様。
そして、カテリーナ様の熱い想い。
……ルチアーニ家の血って……?
疑問に思ったその時、私はふいに思い出した。
かつて義父が、ぽろっと漏らした言葉を。
「……ルチアーニ侯爵家は、狙いを定めた人物を必ず引き入れることで有名でね……大丈夫か? 強引に勧誘されていないかね?」
私は、目の前の3人を見つめる。
よく似たエメラルドグリーンの眼差しが、まっすぐ私に注がれていた。
……狙いを、定めた……?
ルチアーニ家の人々が持つ何かが、私を捕らえて離そうとしない。
それはあまりに強引に思えた。
けれど私は、少しも嫌な気持ちになどならなかったのだ。




