第6話 離縁
ついに、恐れていた日が来てしまった。
この冬一番に冷え込む朝のこと。
義父がベッドで冷たくなっているのを、ヴェルディ家の侍従が発見した。
「こんなに優しい奥方がいて、息子は幸せ者だな」
そう言って、いつも私を褒めてくれたヴェルディ伯爵。侯爵家で仕事をするようになってからも、時間が合えばお茶を共にし、なごやかに会話を楽んだ。
私がルチアーニ侯爵家で働いていることも、とても喜んでいてくれて。
昨日の朝、出勤前にお会いした時も元気にされていて。亡くなるような気配は全くなかったのに……。
医師に死亡を告げられ、ベッドに横たわる亡骸を前に呆然とする。私は心に、大きな穴がぽっかり空いたみたいに感じた。
その時、ドアが乱暴に開かれて、バタンと大きな音が響く。
医師が帰るのと入れ替わりで、ジェラルド様が部屋に入ってきた。
「やっとか。待ちくたびれたぞ」
ジェラルド様は、最近義父の元に全く来ていないようだった。
「ジェラルドはどうしている?」と寂しげに問う義父に「職務が多忙なようですよ」と何度嘘をついたことか。
それなのに、亡くなった途端に戻ってくるなんて。
「今日からヴェルディ家の当主は俺だ。お前はもう用済みだな」
乱暴に腕を掴まれ、執務室に連れてこられた。椅子に無理矢理座らされると、家令のパオロが悲しげな顔で寄ってくる。
部屋の奥で、赤毛の女がニヤニヤと下卑た笑みを浮かべていた。きっと彼女がマリーという娼婦なのだろう。そんな彼女の腰に腕を回し、ジェラルド様は嬉しそうに抱きしめた。
――ジェラルド様は「愛する女」に、そのようなことをする方だったのね。
冷めた目で見つめていると、パオロから一枚の紙が差し出される。
「こちらの離縁状にサインを」
離縁状の大部分はすでに記入済みだったが、妻のサイン欄のみが空欄だった。
結婚式の夜、離縁することはあらかじめジェラルド様から告げられていた。
準備はとっくにできている。名ばかりの伯爵夫人の地位にも未練はない。
ソフィア・ヴェルディ
二度と名乗ることのない名をしたためた直後、次の書類が机に置かれる。
「これは?」
「契約書だ。早くサインしろ」
ジェラルド様は、冷たく私に言い放つ。
その契約書には、私が「今後ヴェルディ家との関係の一切を断つこと」が書かれていた。
通常は離婚の際、有責側に賠償金の支払いの義務がある。それを受け取る当然の権利すら、私に放棄するように強制する内容だった。
明らかに違法な内容だった。
その気になれば拒否することは可能なはず。
しかし私はもう、ジェラルド様を心から軽蔑していた。実の父親に対する冷たい仕打ち。その死を悼む態度すら見せない薄情さ。
ジェラルド様と一刻も早く関係を断ちたい一心で、私はサインをした。
私が書き終えたのを見届けると、ジェラルド様はニヤリと笑う。
「これでもうお前はヴェルディ家の人間ではない。このまま外に出ろ。ヴェルディ家の金で買ったものを泥棒のように持ち出されてはたまらないからな。この家にある物は全て俺のものだ。今すぐ屋敷を出て行け」
「このまま? 無理です。せめて自分の荷物だけでも――」
「ごちゃごちゃ言うな! お前はもう赤の他人だ!」
私は外套1枚羽織ることも許されぬまま、乱暴に屋敷から追い出された。
目の前でバタンと閉ざされた扉を見上げ、呆然とする。
2階の窓の向こうから、家令のパオロやメイドたちが悲しげに見つめていた。
(みんな……ごめんね)
私は侯爵家で家庭教師として過ごす中で、使用人に思いやりを持って接する大切さを学んだ。
こうなることを見越して、家令のパオロにはこの後のことを任せてある。
月末に使用人に渡す給金も前もって預けてあった。
今月分はそれでなんとかなるはずだが……。
来月以降は、今まで全く家にお金を入れていなかったジェラルド様がうまくやりくりしてくれることを祈ることしかできない。
(みんな元気でね……仮初の妻の私に、よくしてくれてありがとう)
2階の窓の向こうの使用人たちに、聞こえることのない礼を言う。
そして私は伯爵邸を後にした。
「これから、やらなければいけないことがたくさんある……」
離縁された私には、今まで以上に酷い噂が飛び交うだろう。ジェラルド様はきっと、離婚を私のせいにするに違いない。
そのような使用人を、ルチアーニ侯爵家で雇い続けてもらうわけにはいかない。
離縁されたら、すぐに仕事を辞める。
私はそう決めていた。
けれど想像していたより、その日はずっと早く来てしまった。
退職する可能性を、ルチアーニ家の人たちに伝えられていない。
道を早足で歩いていると、後ろから見られている気配がした。ゴロツキのような男が、一定の距離をあけ尾行してくる。ジェラルド様が私を見張るために人をよこしたのかもしれない。貴族には見えなかった。娼館の人間だろうか。
ーーこれでは、侯爵家に行くことができないわ。
直接のお別れを言うことはできない。
どうにか手紙だけでも書かなければ……。
街の伝令所に向かう。私は服の裏に、非常用のお金を入れた袋を縫い付けていた。手紙を書くのに必要な道具を購入し、ペンを手に取る。
手紙で退職を伝えるという非礼を詫びなければならなかった。
雇っていただいた奥様に心からの感謝を。
レオナルド様には優しいお言葉をかけていただいたお礼を。
そしてカテリーナ様には、最高の生徒であった賛辞を。
そしてルチアーニ家の皆様の、この先の人生がこの上なく幸せであるようにと。
(なんて、勝手な手紙……)
お世話になった侯爵家に、こんな無礼極まりない別れしかできないなんて。
私はあまりの申し訳なさに涙がにじんだ。
――でもこれが、侯爵家にとっては一番いいのだわ。
私に関われば、きっとろくなことにならない。
手紙には「私のことは決して探さないでほしい」と願い出た。善良な侯爵家の皆様に、これ以上迷惑をかけたくないと思ったからだ。
実家にも戻れないと思った。
父はひどくがっかりするだろう。高額な持参金を渡したにも関わらず、短期間で夫に離縁された役立たずの娘。外聞が悪いと、すぐに追い出されることは目に見えていた。
私は結婚してから、離縁された後の生活についてずっと考えていた。これまでの経験を活かして王都で働くことも最初は考えた。
けれど侯爵家で家庭教師をはじめてから、その可能性は捨て去った。
侯爵家では家名を伏せて働いていた。しかし他の使用人たちに、顔と「ソフィア」という名は知られている。
もしもどこかでばったり会って、私が侯爵家で働いていたことがバレたら――離縁された女が家庭教師だったと知れたら……。
私の王都での痕跡は、跡形もなく消し去らねばならない。
だから行き先は決めていた。
私はなるべく顔のわからぬよう俯いて歩いた。残りのお金を握りしめ、路肩で客待ちをしていた辻馬車の御者に伝える。
「この金額で、行けるところまで行ってほしいの」
私は王都を後にするため、馬車に乗り込んだのだった。




