番外編1 幸せな日 後編
階段を登り、静かに子供部屋のドアを開ける。
すると、寝着姿のカテリーナ様が目の前に飛び出してきた。
「ソフィア! お父様! お帰りなさいっ!」
カテリーナ様は、じっと私の手を見つめる。
私は普段の癖で、両手を体の前で重ねていた。
カテリーナ様の視線の意味に気づき、慌てて隠れた左手を露わにする。
薬指の指輪を目にした途端、カテリーナ様が弾けるような笑みを浮かべた。
「うまくいったのね……! よかったわ。どうなることかと思っていたの」
「カテリーナ様もご存知だったのですね。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「いいのよ! うまくいったのなら、なんでも」
カテリーナ様は、私に腕を回して抱きしめてくれた。私の顔を見上げ、嬉しそうに瞳を輝かせる。
しかし、次の瞬間。
カテリーナ様の顔から、笑みが消える。
そして観察するかのように、私の顔をじっと覗き込んだ。
「お父様。今日、帰りが遅くなった理由は何?」
「挨拶を済ませてきた。国王陛下と、小評議会の面々と、職場と」
「もう王宮中に報告をしてきたということ? 今日プロポーズしたばかりなのに?」
「ああ。こういうことは早い方がいい」
レオナルド様の返答を聞き、カテリーナ様は目をまん丸に見開いた。そしてぎゅっと顔をしかめる。
「お父様。ちょっとソフィアと二人きりにしてくれないかしら? 話したいことがあるの」
「……ん? 俺がここにいてはまずい話なのか?」
「ええ。申し訳ないのだけれど」
レオナルド様は怪訝な顔をしながらも、部屋から出て行った。
私はカテリーナ様と二人きりになり、並んでソファに座る。
「お父様はね、今日のために念入りに準備をしていたの。周りから隙なく囲って行くのがいつものルチアーニ家のやり方だわ。お父様がソフィアを絶対に逃がしたくないっていう気持ちはわかるのだけれど……でも、ソフィアは大丈夫? なんだか今、あまり嬉しそうには見えなくて。私、心配なの」
「え……そう、ですか?」
カテリーナ様の言葉に、私はどきりとした。
カテリーナ様はまだ8歳だというのに、驚くほど洞察力の優れたご令嬢だ。周りをよく見ていて、些細な変化にもすぐに気づく。
そんなカテリーナ様の言葉とはいえ、私は頷くことができなかった。
「……私は嬉しいと思っています。これ以上嬉しいことなんて、ないと思うくらいに」
「本当に?」
カテリーナ様のエメラルドグリーンの瞳が、私を見つめる。
澄んだ眼差しを向けられて、私は心の中を見透かされているような気持ちになった。
確かに、突然のプロポーズにひどく驚いたけれど……。
それと同時にこれ以上ないほど嬉しく思ったのは本当だ。
けれど今日、様々な人に会い、次々に現実が迫ってくるにつれて。
私はこの結婚を、手放しに喜ぶことができなくなっていた。
今日ご挨拶した、国王陛下をはじめとした王侯貴族の皆様。
その誰もが、レオナルド様と出会わなければ声を交わすことのできなかった雲の上の存在。
何より裕福なルチアーニ家は、もともと私とは住む世界が違う。
だから使用人としてお仕えすることしか考えていなかったのに。
想像もしていなかった現実に、心が怯む。
そんな気持ちを隠すために、普段通りの笑顔を浮かべていたつもりだった。
けれど、隠しきることはできなかったのだ。
私の怯えは見透かされて。
心優しいカテリーナ様を心配させてしまっている。
黙り込んでしまった私に向けて、カテリーナ様が口を開いた。
「私ね、絶対絶対、ソフィアにはお父様と結婚して欲しかったの。だって女性は結婚するとみんな仕事を辞めてしまうんだもの。でもお父様と結婚したらソフィアはずっとここにいてくれるって思って、私もお父様に協力していたわ……でも、こんなに強引じゃ困るわよね? まだこの家で過ごす『お試し』期間中だったのに……」
カテリーナ様は言葉を詰まらせ、金色の睫毛を伏せた。
その寂しげな様子を見て。
私は胸が締め付けられる。
――カテリーナ様を悲しませてしまうなんて。
ルチアーニ家で、私が何よりも大切にしていたのは、カテリーナ様に「笑顔で過ごしていただくこと」だった。
それなのに、今私がやっていることは真逆のことだ。
心配させて。悲しませて。
私の戸惑いは、聡明なカテリーナ様にそのまま伝わってしまうのに。
「申し訳ありません、カテリーナ様。私は、一番大切なことをお伝えできておりませんでした」
「一番、大切なこと?」
私は深く息を吸い、背筋を伸ばした。
そして、不安げなカテリーナ様を見つめる。
「私は、ルチアーニ家の皆様が大好きなんです。皆様に望んでいただける限り、これからもずっとお仕えしていこうと決めていました。ですので、誠に勝手ながら……『お試し』はもうやめていたんです」
「……そうなの?」
カテリーナ様が、目を見開く。
驚いた表情のカテリーナ様の手を、私はそっと握りしめた。
「だから私にとって、この結婚が嬉しくないわけがないんです。だって、こんなに素晴らしいご令嬢の――カテリーナ様の、母親にならせていただけるのですから」
カテリーナ様の家庭教師になってから。
これまでの私には考えられないくらい、幸せな日々を過ごしてきた。
無邪気に甘えていただけることが、嬉しくて。
カテリーナ様のお傍にいられることは、この上ない喜びだった。
そんなカテリーナ様に――家族として求めていただけるなんて。
私にとって、これ以上に嬉しいことがあるだろうか?
「私は使用人です。なのに、カテリーナ様の母親にしていただいても、よろしいのでしょうか?」
「当たり前じゃない。私はずっと前から、ソフィアしかいないって決めていたんだから」
まっすぐな笑顔を向けてくれたカテリーナ様を、私は思わず抱きしめた。
カテリーナ様からもぎゅっと抱きしめ返されて、幸せな気持ちが広がっていく。
「夢みたいです。まさか私に、こんなにかわいい娘ができるなんて」
「ふふふ。大袈裟ね」
「本当のことです」
しばらく抱きしめ合った後、カテリーナ様は少し身体を離した。もじもじしながら、上目遣いで私を見上げる。
「……お母様って、呼んでもいいかしら?」
「まあ……カテリーナ様にそんなふうに呼んでいただけるなんて、感激してしまいます」
私が胸を押さえると、カテリーナ様が声を上げて笑った。
「ふふふ! では私のことも、カテリーナ、と呼び捨てにしていただかなくてはね?」
「え? そういえば、そうでしたね……でも、できるでしょうか……なるべく早く慣れることができるよう、努力を」
「では、少し練習してみない?」
私たちは「お母様」「カテリーナ」と新しい名で呼び合った。
何だか胸の内側をくすぐられるような、ふわふわとした感覚が込み上げる。
どうやらカテリーナ様も同じだったようで、二人して顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。
それから二人で、いろいろな話をした。
結婚式やドレス。料理や招待客に旅行。
そして教会の図録を眺めているうちに……。
カテリーナ様はいつの間にか、眠ってしまっていた。
私の肩にもたれたカテリーナ様の小さな頭を、そっと撫でる。
「戻ってくるのが随分遅いと思えば……」
静かにドアが開かれ、レオナルド様が入ってきた。
眠りこんだカテリーナ様を見て、愛おしげに表情を緩ませる。そしてふわりと抱き上げて、軽々とベッドへと運んだ。
敷布に下ろされたカテリーナ様の肩の上まで、私はそっと上掛けを引き上げる。
カテリーナ様の穏やかな寝顔を眺めながら、瞼にかかる金の巻き毛を、そっと耳にかけた。
「ふふ。かわいいですね。普段あんなに大人びていらっしゃるのに、寝顔はまだあどけなくて」
「ああ。全くだ」
カテリーナ様が深く眠られているのを見届けると、私はレオナルド様と部屋を出た。
しんと静まり返った薄暗い廊下を並んで歩く。
「聞いていいのかわからないが……カテリーナとどんな話をしていたんだ?」
「ええと……今日のために、旦那様がとても頑張られていたと聞きました。力を尽くしてくださりありがとうございます。いろいろ、お手数をおかけしてしまったようで」
「いや……むしろ、今日は俺の一存で連れ回して申し訳なかった。ああでも、やはりその話か。ソフィアにばれてしまったな…… 」
レオナルド様は、気まずそうに頭を掻いた。
いつも余裕たっぷりなレオナルド様が狼狽える様子が、なんだかおかしい。
私が思わず吹き出すと、レオナルド様が気恥ずかしそうに顔をしかめた。
「すまない……必死だったんだ。もしも失敗したらソフィアを失うことになるかもしれない。ソフィアは意外と行動力があるからな。そう考えたら、念には念をと……」
「まあ……そんなふうに思っていらしたんですか? 私はもう、自分からどこかに行ったりはしませんのに」
レオナルド様の秘めた想いを垣間見た気がして、思わず頬が熱くなる。
隣を歩いていたレオナルド様が、ふいに立ち止まった。
かすかに熱を帯びた表情で、私を見つめる。
「それは……本当だな?」
「はい。お伝えできておらず、申し訳ありませんでした。これからも、お傍にいさせていただけたらと……」
私がにっこりと笑いかけると、レオナルド様は優しい笑みを浮かべる。
するとレオナルド様は、そっと私の手をとった。
薄闇の中、窓から漏れた月明かりが作る、2つの影が重なる。
そして私たちは、すぐ傍に互いのぬくもりを感じながら、ゆっくりと歩き始めたのだった。




