539.よろしく頼む
タカコさんが披露した、最高速で複雑なピアノ演奏は、人類の限界を超えているみたいなもので、強烈な驚きを私たちに与えた。
ミサキさんとヤエさんが歌い出した、熱狂的な故郷の歌は、侯爵家で『新たな文化の夜明け』として受け入れられちゃった!
奴隷として始まったタカコさんにとっての『第二の人生』が、侯爵令嬢の家庭教師という確固たる地位を得たことに安堵しつつ今に至る。
タカコさんの心を揺さぶるような、魂のこもったピアノ演奏会が幕を閉じた後。
館内は温かい余韻に包まれていた。
興奮冷めやらぬ私たち、特にグランベル家の面々が……だったけれど、時刻はすでに夕闇が濃くなる頃。
私たちはグランベル侯爵家の豪奢なダイニングルームへと移動し、改めて夕食の席に着くことになった。
その前に一つ、小さな騒動があった。
吟遊詩人イシュカーさんについて、だ。
元暗殺者という特異な経歴を持つイシュカーさんをどうするか、という問題である。
タカコさんは、イシュカーさんの力強い歌声と、どこか憂いを帯びた旋律に魅了されたのか、はたまた、言葉を教えてもらっているうちに……と、とにかく!
なんと、アルステット侯爵に「イシュカーさんもここにいてほしいのですが」と、本人に何の相談もなしに、直談判しはじめたのだ!
なんで『本人に何の相談もなしに』と思ったかといえば、当のイシュカーさんが目を丸くし、一瞬言葉を失っていたからだ。
普段のポーカーフェイスが崩れるほど驚いていた様子から、イシュカーさんにとっても全くの予想外だったことが窺える。
元暗殺者、そして今の本職は吟遊詩人。
その身元は非常に曖昧で、どこの馬の骨かも分からないような人物になるイシュカーさん。
由緒正しきグランベル侯爵家に、しかも『置く』というのは、常識的に考えて非常に難しい話。
侯爵様が難色を示すのは当然かな……と誰もが思った、思っていたのだけど!
事態は、私の予想を遥かに超える方向に転がった。
恐るべきことに、アナスタシア大皇女殿下が、側近から受け取った一通の書類を「参考として、我が帝国の諜報部隊が調べた資料だ」なんて言いながら、アルステット侯爵に差し出したのだ!
その書類、どうやら『吟遊詩人ルーエン』、つまりイシュカーさんについての徹底した調査結果らしい!
大皇女殿下は、イシュカーさんの存在を最初から把握し、その身辺を極秘裏に調べていたのか。
もはやその情報収集能力と手回しの速さには、脱帽です……
この重大な情報交換が行われる夕食前のひととき。
ダイニングルームは一旦、完全に人払いされちゃった。
場の空気が一気に張り詰めるのを感じたルナティスちゃんとフィデリアちゃんは、ミサキさんに手を引かれ、別室へと退室することになった。
幼いながらも、さすがは貴族家の子供である。
二人はちゃーんと大人の空気を読み取り、文句の一つも言わずに、静かに、そして行儀よくミサキさんに連れられ、部屋の外へと姿を消した。
その賢明な振る舞いに、私は改めて感心しちゃった。
「ふむ……『大陸全土の伝承歌謡に精通』『失われた古楽曲の復元に多数貢献』『その知識量は、帝立図書館の賢者にも匹敵する』……ここまでは、誰もが認める、素晴らしい文化人としての顔だ」
アルステット侯爵は、手元の報告書から顔を上げることなく、静かに、だけど有無を言わせないような響きのある声で読み上げながら、さらに視線を下へと走らせた。
その声は、一国の主要貴族としての重みを伴っていた。
ミサキさんとの出会いの場では、とんでもないポンコツだったけれど、やっぱり侯爵家の嫡男として、ちゃんと立派な人だったんだね……
隣に移動してきたローデリヒ前侯爵も、その様子を心配そうに見守りながら、横から報告書を覗き込んでいる。
一言では言い表せないような複雑な情報なんだろうけど、少なからず興味を抱いているみたい。
アルステット侯爵が、少し驚愕したように眉を上げた!
どうやら報告書に記された内容が、アルステット侯爵の予測を大きく超えていたみたいだ。
「しかし……『戦闘技能においては、単独での隠密・制圧行動に極めて長けている。その手際は、熟練の諜報員や暗殺者すら凌駕するレベル』とある。貴殿の旅路がいかに危険に満ちていたとしても……ふむ、これは常軌を逸している記述だな。……続けて、『ただし、無益な殺生や裏切りの経歴は確認されず』と……?」
アルステット侯爵は、手元の書類から目を離し、まじまじと、目の前のイシュカーさんを見た。
吟遊詩人というにはあまりにも整いすぎた、だけど、その奥にどこか底知れない深みを湛えた瞳をまっすぐに見据える。
ちなみに、今は偽りの姿である、エルフ族の姿で過ごしている。
「ルーエン殿」
「置いていただくかどうかがかかっていますから、私のことはイシュカーと、どうぞ気兼ねなくお呼びください」
イシュカーさんは、柔らかな笑みを浮かべつつも、その態度は崩さずに答えた。
「ふむ、では改めてイシュカー殿。貴殿は、ただの吟遊詩人などではない。むしろ、その吟遊詩人という表の顔は、あまりにも優秀すぎる裏の能力を隠すための、見事な偽装に過ぎないのではないのですか?」
その鋭い問いかけに対し、イシュカーさんは、困ったように頭を掻いた。
その仕草は、まるで、子供が秘密を暴かれたときのような、少しおどけた様子だ。
やっぱり、圧倒的強者っていうのは、心にゆとりがあるんだね……
あれ?おかしいな、私も『圧倒的強者』に部類されても良いはずなんだけど……
「……やれやれ。まさか、ここまで調べられ、丸裸にされているとは思いませんでした。武芸は、おっしゃる通り、長く危険な旅路で、私自身と、時には護るべきものを守るための、言わば『命の保険』程度の嗜みですよ。普通に暮らしている分には、好んで人を傷つけるような、無益な殺生なんてしませんとも」
そんな弁明にアナスタシア大皇女が、呆れたような顔をしつつも、楽しそうに笑いながら口を挟んだ。
「ふふ、よく言う。ただの皇族と違って、私の目と、そして我が帝国の用意した報告書は、そんなまやかしには誤魔化されんぞ?貴殿がただの吟遊詩人ではないことは、私もよく承知している。その点については、同業者からの、一切の遠慮のない、『忌憚のない意見』が、この報告書にもしっかりと書かれているからな?」
アナスタシア大皇女の言葉は、イシュカーさんが『ただの旅人』なんかじゃなく、専門的な裏の社会に属していますよね?って言っているようなもんだ。
やっぱバレてる……
「ははは……参りましたね。あの『妖精姫様』にそう言われては、これ以上、白々しく否定のしようもありません」
イシュカーさんは観念したように肩をすくめた。
そのままイシュカーさんは、テーブルに置かれた精巧な銀のスプーンを、何気ない仕草でヒョイと手に取った。
その指先がスプーンの柄を弄ぶ様子。
楽器の弦を撫でているかのように優雅にも見えるし、どこか研ぎ澄まされた刃のような鋭さも感じさせる動きだ。
「ワイマンズ帝国が滅亡した、あの時。私は、復讐や、失われた祖国の復権といった大義名分よりも、むしろ『これは、こういう裏の仕事から足を洗うのに、いい機会なのではないか』と、不謹慎ながら思ってしまったのです。一度、そう思ってしまうと、それまで私が歩んできた道が、酷くつまらなくて……こうも呆気なく、脆く滅んでしまうような、儚いモノに身を捧げることが、ひどく馬鹿馬鹿しい、無意味なことのように思えてしまいました。主に仕え、忠誠を尽くすことで、自分は一体何を残してきたのだろうか?結局、祖国の滅亡とともに、忠誠も、労苦も、何もかもが、あっけなく失われてしまった」
イシュカーさんはチラッとフローラの方に視線を送った。
フローラもペルルも、素知らぬ顔で耳を傾けているだけだ。
イシュカーさんはそのまま言葉を続ける。
「そこからは、とりあえず傭兵として活動しまして……はは、今でも憶えていますよ。とても不思議な感覚でした。風に吹かれる雲のように、何に縛られることもなく、自由気ままに旅をする。護衛の馬車の荷台でね、日がな一日、空を眺めているだけでも飽きなかったんです。『ああ、自由とはこういうものだったのか』と」
イシュカーさんの表情は、遠い過去を懐かしむような、穏やかなものだ。
かつて背負っていた重い使命や、常に向けられていた冷たい視線から解き放たれ、自分の足で大地を踏みしめ、風を感じるだけの生活に、心からの安らぎを見出してしまった。
一度、そんなことを見出してしまえば、もう元の生活に戻りたいなんて思えないのは、なんとなく理解できる。
イシュカーさんは、カップの縁で軽く遊ばせていたスプーンを、静かにテーブルの元の位置に戻した。
「ある時、偶然泊まった宿屋の酒場で、とある吟遊詩人と出会いました。年老いたラットマンサ族の男で、私と同じように旅の空の下で生きることを選んだ者でした。初めて会った瞬間から、私は彼に『同業者』の匂い、つまりは、世間の常識や定石から外れた、しかし確かな信念を持って生きる者の気配を感じました。……まぁ、そこから彼と接触し、色々と話を聞き、彼もまた私と同じような、あるいはそれ以上に波乱に満ちた人生を送っていて、彼は私のように傭兵ではなく、歌と物語を携える吟遊詩人の道を選んだ。謀略と血にまみれた人生とは対極にある、自由で、人々に喜びを与える彼の生き方に、私は強く惹かれました。彼が楽しそうに語る吟遊詩人としての旅路や、各地での人々の温かい反応、そして歌に込めた想いの数々。私は彼を心底羨ましいと思い、そして、彼のような生き方も存在するのだと知ったとき、迷うことなく彼に師事することに決めたのです。剣を楽器に持ち替えるような、大きな転換点でした」
「ふむ、なるほどな。歌の道へ、か」
アナスタシア大皇女は、身を乗り出すようにしてイシュカーさんの話に耳を傾けている。
その瞳はキラキラと輝いていて、まるで自分がその冒険の旅に参加しているかのように、どこかワクワクした表情をしてる。
そう、アナスタシア大皇女は、誰かから冒険の話や、こういった類の話を聞くのが大好きな人だもんね。
その顔には「もっと聞かせて」という好奇心が満ち溢れている。
「長く生きていれば、私が『その筋』の者、つまりは裏社会や各国の情報機関にとって『価値ある駒』であるとを感じ取った者が、常にアチコチで嗅ぎ回っているのは百も承知です。実際に、『その筋』の者から、私の過去の経歴や特異な技能を見込んで、様々な『仕事』の話を切り出されることだってあります。それも、表沙汰にはできないような、後ろ暗い依頼ばかりです」
「そんな、裏社会が絡むような危険な話を持ちかけられて、それを断ることなど出来るのか……?口封じなど、なにかこう……命の危険に関わるのではないか?」
アルステット侯爵が不思議そうにそう尋ねると、その問いに対する答えには、ローデリヒ前侯爵が、落ち着いた口調で口を開いた。
「それくらい、つまり『その筋』からの直接の誘いを撥ねつけられる実力があるからこそ、彼は彼自身の自由を保っていられるのだ。下手に受け入れると、雁字搦めになり、再び追われる身となる。それを理解し、かつ実行できる実力があるからこそ、『その筋』から無下にはできない存在として、声をかけられる、というわけだ」
「ですね。そういうことです。おかげで、私の素性がある程度知られようと、警戒はされていますが、実質的に私に害はありません。そしてもし、私の良心に反するような後ろ暗い依頼をされるようであれば、その時はまた、一瞬で姿行方をくらませるだけの話です。どこかの国に、永遠に縛られるつもりはありません。一度、日の下で自由に生きることを知ってしまうと、再び、影に潜む気にはなれません」
自分が嗅ぎ回られていることに気づきながら、害がないからと放置していた余裕。
そして、同業者であるフローラにも認められる実力。
それが、レグモンド帝国のお墨付きとして証明された形だ。
アルステット侯爵の目の色が、尊敬に加えて、頼もしさを見る目に変わった!
目の前にいる人物が、自分の想像を遥かに超える価値と能力を持っていることを理解したんだ。
「素晴らしい……!これほどの博識と高い教養に加え、万が一の際にはタカコ殿や、ひいては我々家族をも守り抜ける武力までお持ちとは。タカコ殿の音楽の師としてだけでなく、我がグランベル家の『最高顧問』として、これ以上の適任者はいないでしょう!」
そうだね、イシュカーさんの芸術面の知識と武力の両立は、グランベル家にとっては、計り知れない財産になるよ。
欲しいからって雇えるような類の人材じゃない。
「うむ!屋敷の警備体制への具体的な助言も、ぜひとも頂きたいくらいだ!」
横で聞いていたローデリヒ前侯爵も、深く頷いて大賛成した。
その視線には、イシュカーさんに対する期待と信頼が明確に宿っている。
なるほどね……「元暗殺者」という経歴も、書き方ひとつで「最強のボディーガード」になるんだ!
レグモンド帝国の報告書、いい仕事してるなぁ。
疑念を抱かせるどころか、むしろ積極的な採用を促す力を持っているんだから、やっぱ大国ともなると仕事が違うんだねえ……
そういやフローラもよく分からない裏稼業で稼いでるって言ってたけど、フローラはイシュカーさんの『その筋からの依頼を受けちゃうバージョン』なんだ。
そんなことを考えていると、イシュカーさんが、やや表情を曇らせて口を開いた。
「しかし、私から申し上げるのも大変恐縮ですが、私のような『脛に傷を持つ者』を、このような名門の屋敷に置いてしまっても、本当に良いとお考えですか?」
「ふふ、その良し悪しについての判断を誤るほど、私は耄碌はしていないぞ」
すかさずアナスタシア大皇女がピシャリと返答を返した!
はは、さすがアナスタシア大皇女、楽しそうな顔をしてるなぁ。
まるで、すべてアナスタシア大皇女の描いた筋書き通りに進んでいるみたいだ。
「ははは、責任重大ですね」
「だぞ?私の顔に泥を塗るか否か、だ」
ニヤリと意味深な笑みを浮かべたアナスタシア大皇女に、イシュカーさんは再び深々と苦笑いを浮かべて応じた。
このやり取りは、単なる会話じゃない。
アナスタシア大皇女がイシュカーさんに与える信頼と、それに対するイシュカーさんの覚悟を試す儀式みたい。
アルステット侯爵は、改めてイシュカーさんに向き直った。
「イシュカー殿。我が家は、貴殿を『客員学士』兼『音楽教師』……そして、有事の際の『特別警護役』として歓迎する。タカコ殿と共に、この屋敷で末永く暮らしていただきたい」
「タカコさんからは、まだまだ学ぶべきことが山のようにあります。私にとって、これは実に良い機会です。今後、どうぞ末永く、よろしくお願い申し上げます」
イシュカーさんは、アルステット侯爵たち、グランベル家の面々に頭を下げた後、アナスタシア大皇女の方を見て、苦笑いを浮かべながら頭を下げた。
アナスタシア大皇女は肩をすくめて、笑みを浮かべながら口を開いた。
「タカコの音楽を、また聴きたいからな。くれぐれもタカコをよろしく頼む」
アナスタシア大皇女の要望はシンプル。
だけど、そこに込められた意味は重いよね。
タカコさんの安全確保こそが、イシュカーさんに課せられた最大の使命だもん。
「承知いたしました」
イシュカーさんは、その重責を理解したようで、きっぱりと応じた。
大皇女は、「礼には及ばん」といった風に、涼しい顔でグラスを傾けている。
やっぱり恐ろしい人だ……全部お見通しで、タカコさんの身の安全と、イシュカーさんの「居場所」を完璧に整えちゃったんだ。
面白かったという方はブックマークや☆を頂けますと幸いです。





