537.バラード第一番
サルハナさんの強かな手腕や、ヤエさんとタカコさんとミサキさんが念願の邂逅を果たし、懐かしい『ニホン語』で盛り上がる様子を微笑ましく見守った。
上級貴族のアーデルハイド様が地位を気にせず娘のようにミサキの幸せを心から喜び、側近たちが当主の奇行をユーモアで語るという、温かい様子を目の当たりにした。
ミサキさんがこの世界で安息の地と本当の家族を見つけたことに深い安堵と感動を覚え、大人の女として涙を堪えようと奮闘しつつ今に至る。
サンルームで、ミサキさんたち『ニホン人』トリオが賑やかに故郷の話題で盛り上がっていると、ようやく別室での会談を終えた人々が合流してきた。
「失礼する。大皇女殿下、こちらへどうぞ」
アルステット様の落ち着いた声が響き、続いてローデリヒ前侯爵、そしてアナスタシア大皇女と、厳粛な面々がサンルームに入ってきた。
「ふむ、これは見事なサンルームだ。職人の意匠が感じられるな」
アナスタシア大皇女は感心したように頷きながらサンルームを見渡している。
「ミサキ。無事、会談はまとまった。タカコ殿の保護も、正式に受け入れた」
アルステット様が、妻に優しく声をかける。
「アルステット様、ありがとうございます!私、本当に嬉しゅうございます!」
ミサキさんは、瞬間的に完璧な侯爵夫人の顔に戻り、深々と一礼した。
だけど、その喜びは隠しきれていない。
ミサキさんは、落ち着いた様子で口を開いた。
「大皇女殿下。アルステット様。その、タカコ様のことでございますが……」
ミサキさんは、ヤエさんとタカコさんにチラっと視線を送った。
「タカコ様は、例の『ピアノ』という鍵盤楽器を、元の世界で得意とされていたようですわ」
『嬉しゅうございます』だとか『ですわ』なんて言って……ミサキさん、すっかり侯爵夫人だね。
ローデリヒ前侯爵が、そんなミサキさんの言葉に興味深そうに顎を撫でた。
「ふむ、かの古代ワービット王朝時代の楽器、ピアノのことか?ミサキの世界ではピアノと呼んでいたとか……」
「ええ、そのピアノですわ」
「鍵盤を押す指の力で、雷鳴から囁きまでを操るという、音色の奇跡。我がグランベル家と王家が至宝として守り継ぎながらも、奏法と楽譜は既に失われて久しい。それが、タカコ殿の元の世界の知識によって、再びこの世に真の響きを取り戻すというのか?」
「そうだな。我が帝国で実際にチェンバロの演奏を見たが、この私でも初めて聴くような曲の数々だったな。是非とも聴いてみたいものだ」
アナスタシア大皇女はそう言って、静かに頷いた。
「では、タカコ殿には、その技を披露してもらうとしよう。さあ、こちらへ」
アルステット様は、優雅に私たちを先導し始めた。
「はいっ!」
元気よく返事をしたタカコさんは、緊張と喜びで、顔を輝かせている。
アルステット様の言葉を受け、私たちはサンルームを後にすることに。
いよいよだ!タカコさんの本来、一番得意な楽器、ピアノが見れる!!
アルステット様の案内で、私たちは屋敷のさらに奥深くへと進んでいく。
廊下の雰囲気も、先ほどまでの華やかなものとは少し変わり、どこか静謐で、歴史の重みを感じさせるような空気に変わってきた。
これはグランベル家において、ピアノが如何に大切なものかを物語っているんだ。
槍を持った私兵まで見かけるし、この先にとんでもないお宝が眠っているかのような荘厳さだ。
そして、突き当たりにある、重厚な黒檀の観音開きの扉の前で、侯爵が足を止めた。
案の定、扉の前には二人の私兵が、槍を持ったまま無表情で立っている。
が、楽器だよね?さすがに大げさ過ぎないか?
「ここだ」
短く告げると、侯爵は自らの手で、ゆっくりとその重い扉を押し開いた。
ギィィ……という低い音と共に、扉が開かれる。 そこから溢れ出してきたのは、冷たく澄んだ空気と、形容しがたい威圧感だった。
「わぁ……」
思わず、息を呑んでしまった。
その部屋は、広い。
ちょっとしたパーティーくらいはできそうな広大な空間。
高い天井には、宗教画のような美しいフレスコ画が描かれている。
高い位置にあるステンドグラスからは、計算し尽くされた一条の光が、部屋の中央へと降り注いでいる。
家具は、一切ない。
絵画も、彫刻も、飾り棚も、何もない。
ただ、部屋の中央。
光が降り注ぐその場所に、『それ』だけが鎮座している。
「あれが……ピアノ?」
フレヤさんがポツリと呟いた。
漆黒の、巨大な翼を広げたような形をした楽器。
艶やかな光沢を放ち、見る者を圧倒する存在感。
鍵盤の白と黒が、薄暗い部屋の中で、まるで宝石のように輝いている。
あれが……私が元々生きていた時代、ワービット族が作っていたものを蘇らせたという、ピアノ。
この部屋は、これだけで良いんだ。
このピアノさえあれば、それで十分なんだ。
「……す、すごい」
私の口から、ため息のような言葉が漏れる。
楽器というよりは、祭壇に祀られた神様の像みたい。
この部屋全体が、この一台のためだけに存在しているんだってことが、痛いほど伝わってくる。
そして、やっぱり私はピアノを知っている。
ちゃんと習ったことはないけど、あれ……知ってる。
そうだ……バイオリン、そうだ!バイオリンを習ってた!!
私、バイオリンを習ってたんだ!!
でも、まだ……この『第二の人生』が始まってから、バイオリンは見たことがない。
ひょっとすると、このピアノとは違って、歴史の表舞台から姿を消したのかもしれない。
リュートとかはあるのに、探し方が悪いのかな。
私の前にいたタカコさんが、ふらりと一歩、前に出た。
「タカコさん?」
イシュカーさんが声をかけても、聞こえていないみたい。
タカコさんは、まるで何かに操られているかのように、長年離れ離れになっていた恋人に再会したかのように、吸い寄せられるようにして、その黒い巨体へと歩み寄っていく。
カツ、カツ、カツ……
タカコさんの足音だけが、静寂に包まれた部屋に響く。
誰も、言葉を発しない。 アナスタシア大皇女も、サルハナさんも、そしてミサキさんも、誰しもが固唾を呑んでその様子を見守っている。
ピアノの前に立ったタカコさん。
震える手で、そっとその黒い塗装に触れた。
その感触を確かめるように、愛おしそうに撫でる。
「……これは、グランド……ピアノですね」
静寂の中に、タカコさんの震える声が響いた。
それは確認というよりは、確信と、そして深い安堵が入り混じったような響きだった。
「鍵盤の数、ペダルの形、そしてこの弦の張り方……信じられない、こんな異世界で……間違いありません。私の知っている、グランドピアノそのものです……!」
タカコさんが振り返った。
その瞳には、大粒の涙が溜まっている。
異世界に来て、言葉も通じず、能力もなく、ただ絶望していたタカコさんが、ようやく『自分の半身』とも呼べる存在に巡り会えたんだ。
その様子を見ていたアルステット様が、静かに、しかし熱のこもった声で口を開いた。
「タカコ殿」
アルステット様は、ピアノの傍らまで歩み寄ると、まるで我が子を紹介するかのように、ピアノに手を添えた。
「この子の再現は、我がグランベル家の悲願であり、あらゆる分野の職人たちの執念の結晶だ。だが……数百年前に完成してからというもの、誰もこの子を真に歌わせることができずにいる」
侯爵は、悔しそうに、そしてどこか愛おしそうに鍵盤を見つめた。
ああ、アルステット様も……先代夫妻も、グランベル家の人たちは、心から芸術を愛しているんだ。
この言葉は、心からのものだ。
「構造は再現できた。音も出る。だが、我々には分からないのだ。この子が、本当はどのような声を出し、どのような感情を表現できるのかが。この子の本当の力を、我々、今の人類では分かってあげられないのだ。ただ弾くだけでは駄目なんだ……」
そして、侯爵は真っ直ぐにタカコさんを見据えた。
「だからどうか……この子に、命を吹き込んでほしい」
「……命を、ですか?」
「ああ。この子は、この時代に生まれ落ちたが、まだ己の持つ力を知らないでいる。退屈な音楽しか奏でられず、ただの美しい箱で終わるのか、それとも、この時代の、数多の人々の魂を震わせる楽器となるのか……それは、奏者である貴女にかかっている」
アルステット様は、深々と頭を下げた。
一国の侯爵が、異邦人の女の子に対して。
「タカコ殿。どうかその子に、本来あるべき『本当の力』を教えてあげてほしい。そして、長年グランベル家が叶えることの出来なかった、その子の『本当の力』を教えてほしい」
その言葉は、依頼というよりも、祈りに近かった。
芸術を愛する一族の長としての、切実な願い。
タカコさんは、ポロポロと涙をこぼしながら、それでも力強く、大きく頷いた。
「はい……!私でよければ、全身全霊で……!」
タカコさんは、涙を拭うこともせず、グランドピアノの前に置かれた椅子に腰掛けた。
その背中は、さっきまでの不安げな少女のものではない。
一人の、誇り高き音楽家の背中だった。
「私が……人生の殆どを捧げてきたピアノを……魂を燃やしながら演奏します」
タカコさんが、鍵盤の上にそっと手を置く。
その瞬間、部屋の空気が、張り詰めたように変わった気がした。
頑張れ、タカコさん……!
私は、胸の前で手を組み、祈るようにその瞬間を待った。
これから、この静寂の部屋で、音楽の歴史が動く音がするんだ。
タカコさんは、一度深く息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じた。
鍵盤の上に置かれた指先が、わずかに震えているのが見える。
それは恐怖ではなく、溢れ出しそうな情熱を抑え込んでいる震えだ。
静寂が、痛いほどに耳に刺さる。
そして。
ドォーン……!
重く、低く、そして地響きのような和音が、部屋の空気を一変させた。
「っ!?」
私は思わず身をすくませた。
チェンバロの繊細な音とはまるで違う。
まるで……巨大な鐘を叩いたかのような、腹の底に響く重厚な音。
タカコさんの指が、ゆっくりと、重々しく動き始める。
最初は、嵐の前の静けさのような、低く不気味な旋律。
それが、徐々に熱を帯び、音の粒が増えていく。
そして、次の瞬間。
ダダダダダダッ!
タカコさんの両手が、鍵盤の上を疾走した!
まるで雷が落ちたかのような、激しく、鋭い高音の連打!
「こ、これは……!」
アルステット様が、目を見開いて呻いた。
そう、音が……音が違うんだ!
さっきまでの囁くような小さな音が、一瞬にして、屋根を突き破るような轟音に変わる。
指の力だけで、これほどまでに音の大きさを自在に操れるなんて……!
タカコさんは間違いなく、超一流の音楽家だ……!!
「これが……ピアノの、本当の声……!」
ローデリヒ前侯爵が、震える手で口元を覆っている。
タカコさんの演奏は、激しさを増していく。
タカコさんの体は、椅子から浮き上がるほどに揺れ動き、長い髪が振り乱される。
その姿は、優雅な令嬢なんかじゃない。
戦場で剣を振るう戦士のように、鬼気迫るものすらある。
音の波が、押し寄せては引き、引いては押し寄せる。
悲しみ、怒り、絶望、そして祈り。
言葉を持たないはずの音が、雄弁に物語を語りかけてくる。
すごい……これが、タカコさんの本気……!
私は、瞬きをするのも忘れていた。
異界での戦いとは違う、魂が削られるような衝撃。
タカコさんの指先から放たれるのは、ただの音符じゃない。
きっと、タカコさんが元の世界で積み重ねてきた、血の滲むような努力と、この世界での孤独、そして今、居場所を見つけた喜び、その全てだ。
アーデルハイド様は、両手を胸の前で組み、涙を流しながらその背中を見つめている。
アナスタシア大皇女も、玉座にいる時のような威厳を忘れ、ただ一人の聴衆として、その音に飲み込まれている。
フローラとペルルでさえも、タカコさんの演奏に引き込まれるように、呆然とタカコさんが戦う姿を見つめている。
曲調が変わった。
激しい嵐が去り、天から光が差し込むような、美しく、切ない旋律へ。
タカコさんの指が、今度は鍵盤を慈しむように優しく撫でる。
その音色は、消え入りそうで、でも決して消えない、希望の灯火みたい。
私の記憶の底から浮かび上がってきた、バイオリンの音色。
あんな風に、私も誰かの心を震わせることができていたのかな?
いつか、タカコさんと一緒に、音を重ねることができる日が来るのかな……?
そんな淡い想像をしてしまうほど、その音は優しく、私の心に染み渡った。
そして、最後の音が、長い余韻を残して消えていく。
タカコさんの手が、鍵盤から離れた。
彼女は、肩で息をしながら、しばらく動かなかった。
静寂。
さっきまでの轟音が嘘のような、深い静寂。
「……素晴らしい」
誰かが、掠れた声で呟いた。
それが誰の声だったのか分からないくらい、全員が同じ想いだったと思う。
次の瞬間、アルステット様が、割れんばかりの拍手をした。
それに続いて、ローデリヒ前侯爵、アーデルハイド様、ミサキさん、そして私たち全員が、手が痛くなるほどの拍手を送る。
タカコさんが、ゆっくりと振り返った。
その顔は、涙と汗でぐしゃぐしゃだったけれど、私が今まで見た中で、一番美しく、誇らしげな笑顔だった。
「……この子が、ちゃんと応えてくれました。ちゃんと……愛されている子が放つ音です」
タカコさんのその言葉に、アルステット様は、涙を拭うことも忘れ、何度も何度も頷いていた。
この瞬間、タカコさんは「異邦人の奴隷」ではなく、グランベル侯爵家にとってなくてはならない「至高の音楽家」になったんだ……!
私は、フレヤさんと顔を見合わせ、小さくガッツポーズをした。
私たちの任務は、これ以上ない形で、完了したんだね。
おめでとう、タカコさん。
何も貰えないまま異世界に落とされたタカコさんには幸せになって貰いたくて用意したエピソードです。
本作中でベスト3に入るお気に入りのエピソードです。
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