悪魔の王子と吸血鬼
網膜が明るい光に刺激され、ディデアは目を覚ました。
ふかふかの布団から上体を起こすと、一瞬ぐらりとめまいがした。頭がぼーっとして重たく、どうやら自分は長いこと眠っていたようだと察する。
ここはどこだろう。リーズレット伯爵邸のディデアの部屋ではない。このやたらと豪華な内装は……。
――まさか、王宮……?
なぜ自分はこんなところで寝ていたのだろう? たしかエングスハイム侯爵家でサージェと闘い、ディデアたちが勝利したはずだった。
そこから先の記憶が、ディデアにはない。頭の奥が霞がかっていて、よく思い出せない。
ふと自分の身体を見ると、ディデアは知らない衣服を着ていた。シンプルだが生地がなめらかで、とても着心地のいい寝間着。その襟ぐりから、真っ白な包帯が見え隠れしている。
サージェにつけられた傷を誰かが手当てして、着替えさせてくれたのだろうか。
寝間着をずらし包帯をとってみると、傷はすっかり跡形もなく癒えていた。
ディデアが着ていた使用人用のお仕着せは、綺麗に畳まれてサイドテーブルの上に置かれている。その横には母の形見のイヤリングもあった。
寝台を降り、お仕着せを手に取る。洗濯されているのか、ふんわりとしていていい香りがする。けがをしたときについた血の汚れも綺麗に拭われており、左肩部分の破れも元通りに繕われていた。
ディデアはそれに着替え、イヤリングを大切にポケットに入れる。髪もひとつにまとめたかったが、リボンがないのでしかたがない。
栗色の髪を背中に垂らしたまま、ディデアは部屋を抜け出した。
―――――――――――
夕陽に照らされた街路樹の道を、ディデアはとぼとぼと歩く。
誰にも見つからないように王宮を抜け出したときは、太陽はまだ高い位置にあったというのに。今ではすっかり地平線の彼方に沈みかけていた。
とくに目的もなく彷徨い歩いているうちに、王都の小さな公園にたどり着く。時間帯のせいか、人の姿はまばらだった。
ディデアはこれからどうするべきか悩んでいた。最初はリーズレット伯爵家に戻るつもりで王宮を抜け出したが、果たして戻っていいのかと思いとどまったのだ。伯爵家の皆に迷惑がかからないか、と。
だってディデアの正体がスカイにばれてしまった。ディデアが吸血鬼だと知って、スカイがどうするつもりなのかがわからない。国を護る王太子として、人間の敵である魔物を排除するために行動するかもしれない。王宮を抜け出したディデアを捕らえるために、伯爵家へ出向く可能性がある。
そのときディデアが屋敷にいれば、きっとフィアンは匿ってくれるだろう。ディデアを庇い、屋敷にディデアは戻ってきていないとスカイに嘘をつくかもしれない。
でもだからこそ、ディデアは屋敷に戻れない。敬愛する主人に自分のために嘘をつかせるわけにはいかない。しかも相手はこの国の王太子だ。王太子を欺いたとなれば、どんな罰が下されるかわからない。
ディデアはふと考える。気を失った自分を王宮まで運んだのは誰なのかと。
ウィリアムだろうか。サージェが死んで、妖力の呪縛から解き放たれたウィリアムがディデアを王宮まで運び、傷の手当てをしてくれたのだろうか。……さすがに服を着替えさせたのは、王宮の女官だと思いたい。
ディデアは噴水の前で立ち止まった。
――外国へ、行くべきかしら……。
リーズレット伯爵家にはもう戻れない。ならば、ディデアがこの国に無理に留まる理由はない。外国へ行けば、さすがにスカイも追っては来ないだろう。
そこまで考えて、ディデアはポケットの中からイヤリングを取り出した。
そもそも、逃げる必要があるのだろうか?
夕陽に照らされた海のように、赤と青が混じりながら輝くサファイアを見つめる。
母親の仇は死んだ。復讐は果たされたのだ。ならばもう、いいのではないか。フィアンの元にもいられないのならば、生き続けていてもしかたがない。今ここでスカイの手にかかって死んだとしても、後悔は……。
「おい」
突然背後から声が聞こえて、ディデアははっとした。
砂を踏みしめる音とともに誰かがこちらへ近付いて来る。振り返らずともその声で、ディデアは誰なのかわかってしまった。
「ようやく見つけたぞ。三日も眠りこけていたかと思えば急に姿を消しやがって。一瞬お前も灰になったんじゃないかと疑ってしまったではないか」
とてつもなく不機嫌そうな声だ。
――私、三日も眠り続けていたのね。
ディデアはうつむく。
「……殿下、私を退治しに来たのですか?」
「退治?」
「人間に仇なす魔物を、排除しに来たのでしょう? 王太子の責務として。あなたは国民にとってはとても理想的な王子だもの」
一瞬押し黙ったスカイは、間をあけてまた口を開く。
「……そうだ、俺は王太子として責務を果たしに来た」
予想していたこととはいえ、直接本人にそう言われると胸に刺さるものがあった。
ディデアはぎゅっとイヤリングを握りしめる。
――やっぱり、私は滅ぼされるべき魔物。悲しいけれど、でも……。
「殿下、私は満足しています。だって、母の仇を討つことができたんだもの。いつ死んでも後悔はありません。大人しく殿下に、殺されます」
「後悔はない?」
「はい」
「本気で言っているのか」
「はい」
「……ならばこちらを向け、ディデア・エーデン!」
肩を強く掴まれ、ディデアは強引に方向転換させられる。
「っ……」
振り向いた先に間近にスカイの顔があって、思わず息を呑んだ。彼は真剣な表情でディデアを見下ろしている。
「いいかよく聞け、俺はお前を殺しに来たのではない」
「え……? ですがさっき、王太子として責務を果たしに来たと……」
「そうだ、俺の責務はこのアルカディア王国民を護ること――つまり、お前を護ることだ」
「私を……護る? 吸血鬼である私を? …………殿下、サージェとの戦闘で頭を強くぶつけたのですか?」
「……お前それ、自分の主人のことも馬鹿にしている発言だと気付いているか?」
だって信じられない。あのスカイが、吸血鬼であるディデアを護ると言うなんて。
「お前と話をしに来たんだ。……手が届かなくなってからでは遅いのだろう?」
ディデアは目を見張る。その言葉は、スカイが国王との関係について話したとき、ディデアがスカイに言った言葉だ。
「……相手が違います。話をするなら、国王陛下としてください」
「陛下とも近いうちにきちんと話をするつもりだ」
「え……そうなんですか?」
「ああ。だが、まずはお前だ。――王宮を抜け出してから、どこで何をしていた? てっきりリーズレットの屋敷に戻っているかと思えば、お前は帰ってきていないと言われたし。そんな病み上がりの身体で……」
スカイはそこで言葉を切ると、はっとしたようにディデアの両肩から手を離した。
「わ、悪い、怪我のところを強く掴んでしまった。お前が誰にも何も言わず姿を消したものだから、つい頭に血が昇って……。本当にすまない。痛むか?」
ディデアはぽかんとスカイを見上げる。
こんなに狼狽した様子の彼は初めて見た。いつでも不遜で堂々としている彼が、本当に申し訳なさそうにディデアに謝っている。
こんなスカイが見られるのなら、怪我をしてちょっと得した気分だ。ディデアはひそかに微笑んだ。
「大丈夫です。起きたときには、傷はすっかり治っていましたから」
「本当か? ……跡とか残っていないか?」
「はい」
「そうか……」
ほっとしたようにスカイは息をついた。
――どうしてあなたが、ほっとするの?
まさかディデアのことを心配していたとでもいうのか。……そんなはずはない。だってスカイにとってディデアは、ただの都合のいい駒でしかなかったはず。それに彼がディデアの正体を知った今、多少ディデアが怪我を負おうが、心配なんてするはずがない。
「……殿下、私は今日ずっと考えていました。これからどうすればいいのか……と。外国へ行くことも考えましたが、そこまでして生き続ける必要はないと悟りました。だって私の生きがいは、フィアン様に仕えること。母を亡くしフィアン様に拾われてから、フィアン様を護りフィアン様の役に立つことだけが、私の生きる意味のすべて。それができないのなら、生きていたってしかたがないのです。ですから殿下……私のためを思うなら、潔く私を殺してください。先程も言ったように、私は満足しています。母の仇をとり、母の大切な物を取り戻すことができたのですから。……最後にひとつ我儘を言うなら、私が死んだ後、このイヤリングは母に返してあげてください。母のお墓は……」
「待て」
スカイに遮られて、ディデアは口をつぐむ。彼は不可解そうにこちらを見ていた。
「なぜお前がリーズレット伯爵家にいられないという話になっている? 主人に解雇宣告でもされたのか?」
「違います。私が傍にいると、フィアン様の迷惑になるからです」
「なぜ?」
「なぜって……それは私の正体が、あなたにばれたから……」
「俺に正体を知られたことと伯爵家にいられないことに、いったい何の関係がある? 解雇されたのでなければ、かまわずにフィアン・リーズレットの侍女を続ければいいではないか」
まさかスカイからそんなことを言われるとは思っておらず、ディデアは驚いた。
「王太子であるあなたが、吸血鬼である私を野放しにしていいの? いつか血に飢えて、人を襲うかもしれないのに!?」
「野放しにはしない。お前にはこれからも俺の婚約者役を続けてもらう」
「なっ!?」
目を剥くディデアに、すっかりいつもの偉そうな態度に戻ったスカイが続けた。
「お前もよく知っているだろう、俺には縁談を断る為の偽の婚約者が必要だ。そしてその役の適任は、お前しかいない」
「適任ですって? 冗談でしょう? 私の正体を知る以前ならともかく、王太子が吸血鬼を傍に置くなんて……。やっぱりあなた、頭をどこかにぶつけたんじゃ……」
「王太子の婚約者が吸血鬼で何が悪い? それを言うなら、俺だって陛下の血を引いていない紛い物の王太子だ。結局のところ婚約者だろうが王太子だろうが、その『役』を演じられるのなら誰だっていいんだ。……悪魔の王子に吸血鬼の婚約者なんて、お似合いではないか。――だから何も問題はない」
いや問題大アリだと思うが。ディデアはわなわなと口を震わせる。
「どうして私じゃなきゃいけないんですか? 婚約者役なら、フレデリカ・モーラン様にでも頼めばいいじゃないですかっ」
「フレデリカ・モーラン? なぜ彼女の名前が突然でてくる?」
「仲がいいんでしょう? あの日……私がサージェに攫われた日、王宮で二人仲良く話していたじゃないですか……!」
スカイは記憶を巡らすような間をおいた後、「見ていたのか……」とぽつりと漏らした。そしてばつが悪そうに後頭部をガシガシとかく。
「別に彼女とは仲が良いわけではない」
「嘘です。だってあのとき殿下は笑っていました、しかも楽しそうに! 私の前では笑わない、もしくは笑ったとしても人を見下すような、驕り高ぶった嫌な感じの笑みしか見せない、あの殿下が! 私、殿下って生きていて楽しいと思うことあるのかな、ってひそかに心配していたくらいだったのに」
「お前は人を何だと思っているんだ……。俺だって普通に笑うことくらいある。まあ人前ではあまり笑わないようにしているが。……あれは、お前の話をしていたんだ」
「私?」
「たまたますれ違った彼女が俺の婚約に対する祝言を述べてきて、その話の流れで婚約者がどんな人物なのかと訊いてきたから……」
「……それで、殿下はなんと答えたのですか?」
「面白くて行動の予測がつかず、見ていて飽きない奴だと答えておいた」
「…………なんですかそれは」
完全に馬鹿にされている。
「本当のことだろう? ……とにかく、婚約者役の適任者はお前しかいないんだ。だから死ぬことも外国へ行くことも許さん。これは命令だ」
「私はフィアン様の命令以外聞かないわ」
「……そうだったな。だが、そんなお前だからこそ信頼できる]
まっすぐにこちらを見つめてくるアイスブルーの瞳を直視できなくて、ディデアはうつむいた。
本当にいいのだろうか。吸血鬼である自分が、これからも王太子の婚約者役を続けて。
スカイはさらにディデアを揺さぶる言葉を投げかけてくる。
「ウィリアムたちも心配していたぞ。とくにフィアン・リーズレットのほうは、お前が重傷を負って寝込んでいると伝えたら、泣きそうな顔になっていたな。……お前、先程はいつ死んでも後悔はないと言っていたが、それは本当に本心からの言葉か? お前は自分を心配してくれる者たちを、あっさりと置き去りにするのか? ――お前の忠誠心は、そんなに軽いものだったのか?」
「そんなわけありません!」
軽いわけがない。フィアンは家族以外で初めて、吸血鬼であるディデアを受け入れ認めてくれた人だ。
一度は復讐心と絶望感に心が真っ黒に染まってしまったが、フィアンのおかげで浄化され、ディデアは今までそれなりに幸せに生きてこられた。
与えてくれたものがたくさんある。ディデアはまだそれを返し切れていない……いや、きっと一生かかっても返しきれない。それほどの恩がある。
思わず叫んでしまってから、ディデアは気付いた。
――私、こんなところでいったい何をしているの?
フィアンの傍を離れて、独りよがりに思い悩んで。
迷惑になるから主人の傍にいられない? 主人の傍にいられないなら死んだほうがまし?
違うだろう。ディデアがフィアンの傍にいたのは、彼女がそう望んでくれたからだ。彼女が望んでくれる限り自分は彼女の傍にいると、侍女として護り続けると、心に誓ったはずなのに。
スカイに正体がばれたことで、弱気になって忘れていた。
たとえ迷惑になるかもしれなくても、フィアンがディデアに傍にいてほしいと願う限り、ディデアは彼女の傍にいなくてはならない。主人の願いを叶えることが、侍女の役目だ。彼女には多大な恩があるから。御恩には奉公で報いるべきだから。いいやなにより――。
「――私は、フィアン様の傍にいたい……」
ディデアの瞳から、涙が一粒零れ落ちる。
フィアンのあたたかい笑顔が、無性に恋しかった。
スカイがふっと口の両端を上げた。
「ならば、そうすればいいではないか」
ディデアは涙を手の平で拭う。
「……はい。殿下、私フィアン様の元に戻ります。そして、殿下の婚約者役を続けます。一度交わした契約を破るのは、フィアン様の侍女としての沽券に関わりますから」
スカイは満足そうに「そうか」とだけ言った。うつむいていたディデアは、そんな彼の人差し指に目が行く。
「……その指、どうしたんですか?」
スカイの人差し指の先には、白い包帯が小さく巻かれていた。
「ああこれか。これは…………いや、なんでもない」
何かを言いかけて、気まずそうに目をそらしたスカイに、ディデアは首を傾げる。
疑問に思ったが、きっとサージェとの戦闘のときに怪我をしたのだろうと思い至り、追及はしないでおいた。
「殿下、そういえばサージェのことはその後、社交界でどうなっていますか? ……とくに、エングスハイム侯爵などは……?」
「俺も気になって調べてみたんだが、奴の妖力にかかっていた侯爵やその使用人たちは、奴のことを覚えていなかった。侯爵は他の貴族たちに養子の息子のことを訊かれる度に、心底困っている様子だったな。侯爵にとっては養子など、まったく身に覚えがないことだから当然だろう。俺にはどうすることもできないから、ご愁傷様としか言えん。……ともあれ、他の誰もサージェが吸血鬼だとは気付いていない様子だな」
「……では、吸血鬼事件の犯人が本当の吸血鬼だったとは、公表しなかったんですね」
「そんなこと公表できるわけがないだろう。……少なくとも今の段階では、な。吸血鬼が実在したと国中に広まれば、お前の正体を疑う者も出て来るかもしれん。王太子としてお前を護ると決めたからには、そのために全力で配慮する」
「え……私を護るって、あれ本気だったんですか?」
「本気じゃなければ何だと思っていたんだ」
「頭を強くぶつけたが故に出た、ただの妄言かと……」
「お前なあ……」
スカイの片頬がひくりと引きつる。
てっきり怒るのかと思ったが彼はそうせず、あきらめたようにため息を吐いた。
「リーズレット家の連中は、揃いも揃ってどうしてこうも俺を恐れないんだ。まったく……怪我が早く治ったのはいったい誰のおかげだと……」
彼の台詞の後半がよく聞き取れず、ディデアは訊き返した。
「なんですか?」
「なんでもない」
しかしはぐらかされ、スカイは包帯を巻いたほうの手をさっと後ろに隠す。
沈黙が数秒続いた後、ふと真剣な顔つきになったスカイが口を開いた。
「……ディデア、もしまた人間に仇なす吸血鬼が現れたときは、一緒に闘ってくれるか?」
ぱちくりと瞬きをするディデアに、スカイが続ける。
「お前やサージェが現れたことで、この世に吸血鬼がいないという前提は覆された。……これでも反省しているんだ、王太子として思慮に欠けていたと。どんなときでもあらゆる可能性を視野にいれておかねばならなかったのに、俺は吸血鬼など存在しないと鼻から決めつけて対策を練らなかった。その結果、お前に人間なら瀕死の重傷を負わせてしまった。本当なら、王太子失格だ」
「そんな……殿下は悪くありません。当たり前の反応です。今時吸血鬼を信じている人なんて、ほとんどいないのですから」
「だが真実、吸血鬼は存在していたんだ。俺の過失には違いない。こうしている今もこの国のどこかで、人間に仇なす吸血鬼が息をひそめて得物を狙っているかもしれん。そんな吸血鬼がまた現れれば、正直なところ俺では国民を護りきれない。悔しいが、ただの人間の俺の手には余る。だが……吸血鬼の力を持つお前が共に闘ってくれるならば、今回のように勝てるかもしれない。いや、必ず勝てる。もちろんまたお前が重傷を負ったりしないように、これからは吸血鬼に対する対策も十二分に練るつもりだ。――だから……頼む、力を貸してくれ。俺にはお前の力が必要だ」
軽く頭を下げたスカイに、ディデアは目を見張った。
頼むと言った――あのスカイが。命令口調でも上から目線でもなく、ディデアを対等な相手と認め、頭を下げて頼んでいる。
――この人は国民のためなら、王族でも何でもない私なんかにも頭を下げられる人なんだわ。
失格どころか、とても立派な王太子ではないか。
ディデアは自然と笑った。
「もちろんです。私でお役に立てるなら、よろこんで」
スカイは息を呑んだようにディデアの瞳をじっと見つめてきた。
なんだろう、他にも何か言いたいことがあるのだろうか? そう思って、ディデアも見つめ返す。
やがて彼が、ふっと目を細めた。
「……やはり、綺麗だな」
「何がですか?」
「お前の瞳だ。燦然とした陽光や神秘的な月光に照らされた紅の瞳もよかったが、夕陽に照らされると燃えるように輝いて美しい。お前の瞳が、俺は好きだ」
「……っ!」
ディデアは反射的に顔をそらす。
今が夕暮れ時でよかった。もし顔が赤くなっていたとしても、それは夕陽のせいだとごまかせるから。
全身が急に熱くなったのは、きっとディデアがほめられ慣れていないからだ。そうに違いない。それにお世辞でも何でもなく、真顔で綺麗だの好きだの面と向かって言われれば、誰だって顔のひとつやふたつ赤くなる。
「おい、なぜ顔を背ける? せっかくほめてやっているのに」
「な、なんとなくです」
「お前は自分の瞳が嫌いらしいが、せっかく綺麗なんだ、顔を上げて堂々としていろ」
「……私、殿下にそんな話しましたっけ? この瞳が嫌いだとか……」
「お前が寝込んでいる最中、途中で少し目を覚まして自分で語っていたではないか。他にも自分が吸血鬼だと気付いたきっかけや、フィアン・リーズレットとの出会いなど……俺が訊ねなくとも、いろいろと事細かに説明してくれたというのに、まさか全部覚えていないのか? ……まあ、あのときのお前はどこか夢うつつな感じだったから、無理もないか」
「!」
スカイに言われて、ぼんやりと思い出す。
そういえばたしかに夢の中でスカイが現れて、彼にいろいろと話した気がする。
しかしそれは、夢の中の話ではないのか。
――まさか、私が勝手に夢の中だと思い込んでいただけで、実際は現実だったの!?
ディデアの顔がますます赤くなる。
現実のスカイに、自分の今までの人生を赤裸々に語っていたなんて。恥ずかしすぎる。
しばらくは彼の顔を直視できそうになかった。
真横を向いているディデアの髪を、スカイがするりと一房持ち上げた。
「そういえば、今日はドレス姿でもないのに髪を結んでいないんだな」
「……サージェとの戦闘で、リボンが切れてどこかへ飛んでいってしまったので」
「そうだったか……。しかし、お仕着せに髪を結んでいない姿というのも悪くないな。お前の髪は艶やかだから、結んでいるよりも下ろしているほうが俺は好きだ」
「で、殿下は私をどうしたいんですか!?」
「どう、とは?」
スカイは首を傾げる。そんな彼から髪を奪い返したディデアは、ぷるぷると震えた。
さっきから綺麗だの好きだの、彼はディデアをほめ殺すつもりなのか。そもそも彼はそんなキャラだっただろうか。まさかディデアが寝込んでいるうちに、冷徹な王子から人たらし王子に方向転換したのか!?
「私をほめたって何もでないし、いいこともありませんよ!?」
「別に見返りが欲しくてほめているんじゃない。思ったことをそのまま述べただけだ」
「わかりましたから! もう十分ですから、それ以上私について何も言わないでくださいっ」
ディデアが怒ったように叫べば、スカイは釈然としない様子ながらも口をつぐむ。
長く伸びていた二人の影がだんだんと薄れていき、辺りが暗くなってきた。
「……逢魔が刻だな。この時間帯は馬車が捕まりにくいだろう、リーズレットの屋敷まで送って行ってやる。来い」
屋敷がある方向へスカイが歩き出す。ディデアは母の形見のイヤリングを慌ててポケットにしまうと、彼を追いかけた。
「殿下にわざわざ送ってもらうなんて申し訳ないです。子供じゃないんですから、ひとりで歩いて帰れます」
「病み上がりの身体で何を言う。三日も寝込んでいたんだ、いくらお前でも身体がなまっているだろう。ごろつきに襲われでもしたらどうする」
ディデアがいくら大丈夫だと言っても、スカイは歩みを止めなかった。ディデアはあきらめて、彼に送ってもらうことにする。
王都の石畳を、スカイから半歩離れて歩く。しばらくはどちらも話さず、無言の時間が続いた。
しかしお店が連なる街区に近付いたとき、スカイがぽつりと口を開いた。
「……あのときは、悪かったな」
「え?」
突然謝罪の言葉をかけられて、ディデアは顔を上げる。しかしスカイのほうが先を歩いているので、彼の表情はわからない。
「エングスハイム侯爵家の夜会で、俺がお前に無理やりしたことだ。あのときも頭に血が昇っていて……どうかしていたんだ。決してお前を傷付けようとしてやったわけじゃない。それだけは信じてくれ」
少し考え、ようやく何についての謝罪かわかったディデアは、またしても動揺しなければならなかった。
――いろいろあって、せっかく忘れていたのに……!
必死に冷静になれと自分に言い聞かせる。
「あ、あのことはもういいです。私だって殿下にいろいろ投げつけちゃいましたし、それに殿下が忠告のためにやったことだって、理解しましたから」
「忠告?」
スカイが足を止めて振り返った。
「あれは、王太子の婚約者が不用意に男性とふたりきりになるなという忠告だったんですよね? 婚約者によくない噂が流れれば、殿下の名誉にも関わるから」
「……少し違うが、たしかにあのとき、そういうことも頭によぎらなかったわけではないから……まあそれでいいか」
「殿下?」
「本当に悪かったと思っているから、お詫びをさせてくれ。ちょうどここにオーダーメイドでドレスを作ってくれる服飾店がある。婚約者役を続けるなら、これから何着もドレスが必要になるだろう。今ここで好きなように何着でも注文をするといい、支払いは俺がするから」
「ちょ、殿下! そんなのいらないですから!」
迷いもなく店に入って行こうとするスカイを、ディデアは全力で止めた。
オーダーメイドのドレスを何着もなんて、身の丈に合わなさすぎる。しかもその服飾店は、いかにも値が張りそうな高級店だった。きっとドレス一着ですら、目が飛び出るような金額に違いない。
上流階級の女性ならこういうところでドレスをしつらえるのが普通だが、今のディデアは使用人の格好をしている。自分のドレスを作ってほしいなんて言えば、店員に変な目で見られるだろう。
婚約者役でドレスが必要なときは同じ背格好のフィアンがドレスを貸してくれるから、わざわざディデアのドレスを仕立てる必要はないのだ。
腕を引っ張って止めるディデアに、スカイが片眉を上げる。
「ドレスくらいでは割に合わないか? ……では、王都から北の涼しい土地にある別荘でもやろうか? もちろん土地の権利書付きで」
「冗談と思えない冗談はやめてください!」
一国の王太子であるスカイなら、本当にやりかねなくて怖い。
青ざめたディデアは道の先にちょうどいいものを発見して、ぱっと顔を上げた。
「あっ、殿下、あそこにリボンを売っている露店が出てますよ! ちょうどリボンが欲しいと思っていたところですし、あそこでリボンを買ってください。それでこの件は一件落着ということにしましょう!」
「露店のリボンなんかでいいのか? せっかくなんだし、もっとちゃんとした店で繊細なレースとかが付いたものを買うほうが……」
「わぁい、私露店のリボンだぁいすき~」
棒読みで言いながら、露店までスカイを引きずっていく。
問答無用で露店まで引きずられたスカイは、真剣にリボンを物色するディデアを眺めながら思った。
――やはり『殿下』呼び、か。一度は名前で呼んでもらったが、それが通常となるにはまだまだ時間がかかりそうだ。
だが、今はそれでいい。彼女はこうしてスカイの近くにいる。これからも婚約者役を続けると約束もしてくれた。
名前で呼ばせるための時間はたっぷりあるのだから、急ぐ必要はない。
――彼女とは、なぜか一緒にいるだけで楽しいしな。手を煩わされることも多々あるが、それすらも面白いと思える。
王太子としての立場に追われる日々のなかで、ディデアと話している間だけは、肩の荷が下りるような気がする。
それはきっと彼女が『殿下』と呼びながらも、スカイに王太子としての役割をまったく求めていないからだ。おそらく彼女がスカイに忠誠を誓うことも一生ないだろう。彼女の主は他にいるから。
忠誠を誓われることは誇りであり、同時に枷でもある。その忠誠心を裏切るような行動は許されないからだ。
その枷の重みからスカイを一時だけでも救ってくれるディデアは、とても貴重な存在だ。
スカイは包帯を巻いた自分の指を見つめる。
――俺が血を飲ませたことについては、気付いてなさそうだったな……。当たり前か、あいつは生死の狭間を彷徨っている状態だったのだから。……動物の血と比べて味はどうだと少し訊いて見たかったが、しかたがない。
その手をぎゅっと握って、スカイはもう一度ディデアを見た。
――ディデア・エーデン。一時の安らぎを与えてくれるお前を、俺は必ず護ろう。血に飢えるときがあれば、俺の首に噛みつかせてやる。なに、一度は眠っているお前に血を分け与えてやった身だ。今さら血を直接吸われたとしても、さしたる抵抗はない。
スカイは誰にも見られることなく、頬をほころばせたのだった。




