第12話 英雄の片鱗
「さて、二人とも。私の紋術はしっかり見ていたね?」
「はい!」
「うん。いい返事だ。じゃあ、紋もしっかりと刻んでもらったことだし、紋術を使ってみようか。まずは…シャーリエ君。君からだ。一番低いところにぶら下がっているあの小さい金属球を動かすから、あれの軌道を変えてみようか」
「はい。」
シャーリエは少しぎこちなく、金属球に焦点を当てるように手を前に伸ばした。ゆっくりと深呼吸をして紋へと原素を流す。シャーリエの紋がはっきりと光ると同時に、金属球はわずかに進路を変えたものの、受け箱の縁に当たって床へ落ち転がった。
シャーリエはその結果を見届けると肩をすとんと落とした。
「少し発動が遅かったでしょうか?」
「確かに遅かったかもしれないね。でも、初めての紋を使って現象を引き起こせただけでも上出来だよ!次は球の動きをよく見て、どこに力がかかっているのかをよく考えてみるといい」
シャーリエは頷き、もう一度同じように紋術を発動した。今度は球の動きを追い、わずかに早く原素を流す。球は先ほどより滑らかに軌道を変え、受け箱の中央へ収まった。
「できた…!」
「すごいよ!シャーリエ君!まだ小さな球だからとはいえ、しっかりとコントロールできている。重さが変われば、もう少し複雑になるけど、今の感覚さえ忘れなければ大丈夫だよ!」
「ありがとうございます!」
シャーリエは指で少し長い髪をくるくると巻きながらお礼を言った。
―シャルのやつ、珍しく照れてる。僕にも同じことができるだろうか。
ハルヒコは右腕に刻まれた自身の紋を指先で軽く触れた。
「次はハルヒコ君!君の番だ」
ヴァレンに呼ばれたそのとき、装置の上部から、カチッというかすかな乾いた金属音がした。
ハルヒコが顔を上げる。天井から伸びた枠を固定する金具が震えていた。ハルヒコが目を凝らしよく見ると、金属の表面には古い補修跡があり、その周囲に細い亀裂のような線が走っている。
「先生。あそこの留め具……」
ハルヒコの視線を追ったシャーリエも気づき、指を向けた。
ヴァレンの表情が変わった。
「おかしい。昨日見たときはあんな傷、なかったはずだけど…。二人とも、一旦装置を止めるから離れてて!」
彼が装置を止めようとした直後だった。
実験室に耳を裂くような甲高い音が響いたと同時に、留め具が弾け飛び、金属枠の片側が大きく傾いた。支柱は床を叩き、金属枠の重さに耐えかねて固定具や金属片が四方と飛び散る。ドミノのように装置が崩れていき、無数の金属片が雨のように降り注いだ。
「伏せて!」
ヴァレンの声と同時に、空気が震えた。二人はヴァレンの指示に従い咄嗟に床に身を伏せた。このときハルヒコはなぜ自分でもそうしたのかはわからないが、顔上げた。そこで見た光景は凄まじいものだった。
巨大な実験装置から飛び散る無数の金属片は確かに二人に降り注いでいた。しかし、ただの一つとしてハルヒコとシャーリエの体に傷をつけることはなかった。
ハルヒコが見たのは飛来する金属片が空中で次々と進路を変える様子だった。ハルヒコの顔へ向かっていた鋭い金属片は頭上をかすめ、シャーリエの肩を狙う小さな留め具は床へ叩き落とされた。二人の周囲に迫ったどんな細かい破片も、二人の体に触れる前に弾かれた。
「先生…」
ヴァレンを見ると、彼は指先を細かく動かし、ハルヒコとシャーリエに飛来する破片を絶え間なく操っているようだった。
―くそっ、数が多すぎる!
ヴァレンでもすべてを操作しきることはできなかった。細い金属片がヴァレンの前腕をかすめ、白衣に赤い筋が滲む。彼は顔をしかめたが、手を止めなかった。彼は自身に飛んでくる金属片のうち、致命傷になるものだけを操り、それ以外はハルヒコとシャーリエの元へ飛来する金属片に集中していた。
最後の一片が床に落ちるまで、二人には一片たりとも届かず制服にすら汚れを付けなかった。ヴァレンは崩れるように床に倒れた。
「先生!」
「ごめんね。かっこ悪いところ見せちゃったかな。でも、これくらい、どうということはないよ」
ヴァレンは流血した腕を抑えながら、二人に笑顔を向けた。わずかに息が上がっていた。
「もう大丈…」
ヴァレンが二人を安心させようと体を起こそうとしたとき、部屋の奥で重い音がした。
装置の土台に固定されていた巨大な金属球が、崩れた枠に押されて転がり始めていた。倒れた支柱を乗り越え、勢いを増して巨大な金属球が三人の方へ向かってくる。
「下がって!」
もはや余力も残っていないのは明らかなのに、ヴァレンは二人をかばいながら金属球に向けて手をかざす。金属球の進路がほんの少しだけ逸れた。だが、勢いはほとんど衰えない。球は床の溝に乗り、再びこちらへ向きを変えた。
ヴァレンの指が震えている。先ほどまで無数の破片を操っていた手に、もう紋術を発動する余裕は残っていないようだった。
「先生、僕が…!」
シャーリエがヴァレンの横に並び紋術を発動させ、球の進路を変えよとするが、あまりにも対象が巨大すぎるのか、ほとんど進路を変えない。
「くっ」
シャーリエは筋肉がミシミシと音を立てるのを聞いた。
「シャーリエ君!やめるんだ!無理に原素を流し続ければ、紋が壊れてしまう!」
シャーリエは歯を食いしばり、いったん原素の流れを切った。右腕から力が抜け、だらりと体にぶら下がる。
依然として、金属球は床を削りながら迫る。
二人の背中に隠れながら、ハルヒコは頭を抱え身を丸めて震えていた。
鼓動が痛いほど胸を打ち付け、手足は縫いつけられたように地面から離れない。耳に膜が張っているように音はこもって聞こえるのに、金属球が迫る轟音だけが膜を貫きはっきりと聞こえる。今すぐにでも家に帰りたかった。
それでも。
―英雄になると誓ったのに、誰も守れていない。
―シャーリエも先生も僕を守ろうとしてくれたのに。
―二人を守れるのは…。
―僕しか、いない…!
ハルヒコの脳裏に、ヴァレンが見せてくれた実験がよぎった。
動いている物体にはたらく力の向きを変える。そして、進む先をずらす。
昨日から何度も思い出していた動きだ。
―ぶつかるはずだった未来を変える力。
はっきりとイメージできている。紋へと少し原素を流してみる。紋の周りがじんわりと温かくなるのを感じる。原素もしっかりと流れている。
―大丈夫!できない理由がない。
ハルヒコは地面から体を無理やり引き離し、震える足で二人の前に立つ。重たい右腕を前にかざし紋に原素を流し込み紋術を発動させようとする。
「ハル、危ないよ!」
「そうだ!私のことはいいから二人だけでも逃げるんだ!」
ハルヒコを心配し、シャーリエとヴァレンが叫ぶ。しかし、ハルヒコにその声は届かない。
ハルヒコの紋が淡い光を発する。右腕燃えてしまうのではないかと思うほど、紋が熱を帯びる。それでもハルヒコは原素を流し続けた。
―英雄になるんだ!
一度教に負けそうになった自分を鼓舞しながらハルヒコは手をかざす。
「止まれ。止まれ!止まれぇぇぇぇ!」
ハルヒコの紋がはっきりとした光を放った瞬間、金属球から動きが奪われた。轟音を立てて転がっていた巨球は、床からわずかに浮いたまま静止してる。金属球に巻き込まれ周囲に飛び散っていた小さな金属片も、落下の途中でぴたりと静止した。まるで世界から動きだけが切り取られたかのように、すべてが空中に縫い留められている。
そして、静寂。鼓動の音がはっきり聞こえるほどの静けさがその場を支配する。
「…ハルヒコ君?」
ヴァレンの声が遠く聞こえた。
ハルヒコ自身も目の前の光景が信じられなかった。何が起きたのか分からない。腕の奥から何かを引き抜かれていくような感覚がある。指先が震え、膝に力が入らなくなった。
「止まって…お願いだから、止まって!」
ハルヒコは混乱しているのか、未だに紋術の発動を続けていた。シャーリエはハルヒコの腕をつかんだ。
「ハル、もういいよ!止まってるよ!」
その声が届いたのか、ハルヒコの指から少しずつ力が抜けていく。熱を帯びた右腕からも熱が冷めていく。
三人がゆっくりと安全な位置へ退き、装置から十分に離れた。
そして、金属球は床へと落ちた。
床に激突した球は、緩衝材を押し潰してようやく完全に止まる。遅れて、空中に留まっていた金属片がばらばらと床へ降り注いだ。
静寂が戻る。
「ハル、大丈夫?」
シャーリエが肩を支えた。
「うん、僕は大丈夫。シャルも大丈夫?」
ハルヒコにボロボロの笑みを向けられたシャーリエはハルヒコに抱き着く。
ヴァレンはすぐに二人の怪我を確かめた。シャーリエに目立った傷はない。ハルヒコも紋の周囲が赤くなっていたが、出血はなかった。ただ…。
―ハルヒコ君の紋、こんな形だったか?
「先生、大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だよ。」
ヴァレンは自分の前腕を見て、白衣の袖を少しまくる。浅い切り傷から血が滲んでいた。
「先生、腕が……」
「かすっただけだよ。君たちが無事で本当によかった。そして、危険な目に合わせてしまって本当に済まない」
二人は激しく首を振る。
「先生の紋術、すごかったです!本当に、本当に…」
ハルヒコはあの感動を伝えきれないもどかしさに言葉を詰まらせながら言った。
「ありがとう」
ヴァレンは床に横たわる金属球へ視線を向け、次にハルヒコの右腕を見た。
「ハルヒコ君、さっきのは球の軌道を変えたわけじゃないね」
「え?」
「いや、なんでもない。とにかく二人とも無事でよかった」
ヴァレンに抱きしめられながらハルヒコはヴァレンの言葉の意味を考えた。ハルヒコはヴァレンと同じ現象を引き起こしたつもりだった。しかし、実際に起きたのはヴァレンの紋術とは異なる現象だったのだろうか。
ハルヒコは床に横たわる巨大な金属球を見た。自分は紋術を発動したという感覚が、右腕にかすかに残る熱から伝わってくる。それでもこの力が何なのか、全く分からなかった。
「先生。僕の紋は、何なんですか?」
ヴァレンはすぐには答えなかった。ヴァレンは一瞬、研究者の顔を覗かせたがすぐに引っ込め、まずハルヒコの顔色を確かめた。
「今は、何も考えなくていい。とにかく、今日は体を休めてそれから一緒に考えよう」
「…はい」
研究室を出るころには、窓の外の光が少し傾いていた。シャーリエはハルヒコの歩幅に合わせて歩いている。ハルヒコは何度も右腕を見下ろしたが、紋はいつもと変わらない姿でそこにあった。
その日の夕方。ヴァレンは研究室に残り、実地調査に持っていく器具を机の上に並べていた。予備の測定針、記録板、簡易の固定具。必要なものを一つずつ確認し、鞄へ収めていく。
「あの装置の留め具の傷、あれは自然にできたものじゃない…」
昼間の事故を思い出し、ヴァレンは小さく息を吐いた。確かに古い装置だったがメンテナンスは定期的に行っており、昨日も異常はなかったはずだ。
―それにしても…。
ヴァレンは少年の紋のことを思い出した。彼の紋が変わったように見えたのは気のせいだったのだろうか。
ヴァレンは机の端に置いたハルヒコの適性検査の結果を引き寄せた。測定不能と記された少年の欄。そこに添えられた観察メモをめくる。
―紋の一部に、形状変化らしき反応あり。
「……もう一度、見せてもらう必要がありそうだね」
ヴァレンは記録帳を閉じ、実地調査用の鞄にそっと入れた。




