92 災厄の足音。幸せな時間。
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なぜか、アレス殿下に強引に乗せられた、馬車の中は沈黙が支配していた。
怒っているのだろうか、顔色が悪いままのアレス殿下は、押し黙っている。
――――それとも、調子が悪いのかしら。
私は、心配になって、胸の前で組まれた腕にそっと手を添えた。
「――――あの」
「ルル……。もしもだけど」
「アレス殿下?」
怒っているのではなかったらしい、真剣な表情のままアレス殿下は私のことを見つめてきた。
その青い瞳が、何かを決めかねているようにゆらゆら揺れている。
「災厄を未然に防げなかった時には」
あまり想像したくない話だ。
小説の中では、災厄の原因は自然現象のように描かれていたけれど、実際は違う可能性が高いという。
でも、王国だけではない、世界中で犠牲者が出るのだ。
その災厄は、もう起こり始めている。そんな予感で胸が締め付けられる。
そして、次に続く言葉なんて、私は聞きたくなかった。
アレス殿下が言いそうな言葉なんて、もう想像がついている。
そんなときに、保身のために目を瞑るタイプではない。
「いいですよ。今度こそ最後まで一緒に抗いましょう。前回みたいに、途中であきらめたりしないので……。全力で」
「そう、全力で……ね」
多分その時に、なんだかんだ言ってもアレス殿下は、私のことを守ろうとする気がした。
それは、今までの出来事すべてが証明してしまっている。
前の人生で知らなかった私は、ある意味幸せだったと思う。
でも、それではいけない。
「まあ、災厄なんて起こらないほうがいいに決まっている。未然に防ぐために、全力を注ぐべきだな。……弱気になった」
でも、結局のところ、世界にとっては最悪の結末だとしても、私個人という枠組みであれば、幸せなのかもしれない。
「アレス殿下と、最後の瞬間まで一緒にいられたことは、実は人生最高の幸せだったんじゃないかと思うんです。だから、そばにいてください。そうすれば、私はどんな結末でも幸せだと思うので」
「うん……最後に見るのが、ルルの笑顔だとしたら、俺も最高に幸せだ」
それでも、それは私たちが、おじいちゃんとおばあちゃんに、なってからがいい。
たくさんの家族に囲まれて、アレス殿下のことをもっと幸せに……。
たくさんの……家族。
笑顔のアレス殿下と、ほほ笑む私。
たぶん、幸せそうに、愛しそうに撫でたおなかの中には……。
「今、何を想像したの? 俺に教えてほしいな、ルル」
「なっ、何も考えていません。白昼夢も見てません! アレス殿下と結婚した後の生活なんてっ」
――――ん? ポロリと思ったことが、零れ落ちてしまった。
とたんに私の頬は、真っ赤なリンゴに負けないくらいになっただろう。
いたたまれなくて、ぎゅっと目を閉じる。
静かなところを見ると、アレス殿下は、余裕の表情で私のことを、見ているに違いない。
「あ、アレス殿下?」
それなのに、いつまでたっても、私の言葉に対する返答はない。
私は、次の瞬間にはパチリと開いた瞳を瞬いていた。
大きく見開かれた、海よりも青い瞳。
わなわなと震える、形の良い唇。
悪かった顔色が嘘みたいに、赤く染まった耳元。
――――なにそれ。
あまりに可愛らしい無防備な表情が、私の目の前にさらけ出されていた。
「そ……だね。それは楽しみだな」
次の瞬間、私の上にはアレス殿下がのしかかってきていた。
馬車の揺れの中、しゃべることもなく、お互いを見つめあう。
その瞬間、微かに地響きが聞こえた気がした。
「死神に今が、人生の最高に幸せな瞬間だ。後は下るしかないと言われても、幸福の中で納得してしまいそうだ」
「えっ、さすがにもっと上はありますよ」
災厄の足音は、すぐ近くまで近づいている。
そのことはわかるけれど、明日の心配ばかりしていても、私たちは生きていけない。
「私、もっとがんばりますから」
「そう? じゃあ、俺もうかうかしてはいられないな」
アレス殿下が、うかうかしていたことは、一度もないのに。
忙しすぎるし、努力家だ。努力する天才の隣に立つために、私はどれほど頑張ればいいのだろう。
不思議なことに、それはとっても難しいことに思えるのに、絶望的にも思えなくてとても楽しいことみたいに感じてしまう。そのことがおかしくなって、いつのまにか私は笑ってしまっていた。
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