1話
「それで、協をこのような目に遭わせたのは、誰だ」
少し冷えた声色で、弁は俺を抱きながら、頭を床につける面々を問い詰める。
劉弁というこの青年は、俺の、いや、劉協の義理の兄であり、この広い中国の最高権力者だ。
つまり、皇帝である。
こんな優しさ溢れる青年が、この国の全ての権限を、一手に担っていた。
ただ、悲しいかな。
その優しさは、汚い大人達からすれば、使い勝手のいい便利な道具でしかない。
こうして頭を下げてるジジイ共も、内心では俺らをナメきっているのがよーく分かる。
「張譲、そなたに聞いておる」
「我々が勝手に酒宴を開いたばかりに」
「違う、協に酒を強要した者が居るだろう。朕は、皇帝ぞ? 何故答えぬ」
「それは、我々が」
「……母上だな」
張譲。先ほどからそう呼ばれていたジジイは、そこから口を噤んだ。
すると劉弁は眉をしかめて、思いっきり溜息を吐く。
「母上は、近くに居るのだな」
「……」
「母上からの頼みであれば、協とて断れん。いらっしゃるのでしょう! 母上!!」
弁が声高に叫び始めると、奥の方から、一人の若い女性が姿を現した。
俺の全身に、電撃が走る。
すらりと伸びた長身。細くスレンダーな姿は、まるでモデルの様な美女である。
勝ち気で、我の強そうな顔も、正直、俺の好みのドンピシャ真ん中。
スリーストライク! バッターアウト! ゲームセット!
心の中の審判が、飛んで跳ねて踊っているぜ。
三国志の歴史では、彼女の事をこう記していたはずだ。
劉弁の母親であり、劉協の母を毒殺した悪女「何皇后」と。
本当にこれで一児の母親なのか?
美人過ぎやしないかい?
ただの肉屋から皇后まで上り詰めたその美貌は、流石に目を見張るものがあった。
「皇帝ともなろう御方が、何をそんなに大声を出して。どうしたのかしら?」
「母上。まだ、父帝が崩御されて間もない内に酒宴などと、お止め下さい。それに、協はまだ八つ。酒を無理に飲ませてはなりません。協は、朕の大切な弟です」
「貴方のその地位を、命を、危ぶむ存在がその弟だとは考えないの?」
「お止め下さい」
「はぁ……まぁ、良いわ。可愛い息子には、逆らえないわね。あ、それと、酒宴を開くように勧めてきたのは、張譲よ?」
急に話を振られ、ジジイは驚きと戸惑いをその顔に浮かべた。
対して何皇太后ママは、なんとも意地悪そうな表情をしている。
完全に自分の地位を利用して、責任を押し付けようとしているらしい。
こういうところあるから、女の子って怖い。
でも、嫌いじゃないよ。そういうの。
「た、確かに、私めが皇太后様へお勧めいたしました」
「父帝の喪中に、か? 半端な事を言えば、例えお主であろうと、朕は処罰を加えなければならんぞ」
「申し上げます。古来より、酒は神事に扱われる物に御座いました。
酒を飲んだ者には神が宿るとされていた為です。
そこでその故事に倣い、酒宴を設ける事で、恐れ多くも先帝の御霊を慰めんと考えた次第なのです。
しかしこのような事態を起こしてしまったのもまた事実。どうか私めをお裁き下さいませ」
詭弁だな。
確かに昔は「酔っている」状態の事を、過度に神仙的なものと結び付けていただろう。
でもさ、この時代には「酒毒」として、アルコールの存在は分かっていたはず。
ジジイを始めとして、ひれ伏した面々がまるで餌に群がる雛鳥の様に、お裁き下さいと、涙ながらに喚き散らす。
当然これに、優しき青年は困ってしまった。
本当に、政治というか、人の上に立つ様なタイプじゃないな。
何か罰を与えるだけでいいのに、それができないのだ。ヤツらもそれが分かった上で、処罰してくれと言い喚く。
腹は立つが、とりあえず今は何も言わず、流れに身を任せよう。
俺には、事態の把握の方が先だった。
「──協や! おぉ、協や!!」
おいおいとこだまする宴席に、突如、雷を落としたかのような声が響く。
一人の老婆と、その傍らには、いかつい大男が一人。
男は張譲やその他大勢と同じく、髭も眉も無い。ただ、彼らとは一線を画すような、強情な目つきをしていた。
老婆はひれ伏すやつらを蹴飛ばし、大慌てでここへたどり着くと、俺の体を抱いて確かめる様に何度も撫でた。
ひぃ。俺はもっと、若いお姉さんがタイプなんです。そういう趣味は無いんですっ!
「協や! 無事でよかった! あの肉屋の女狐は、毒で人殺しをするような奴だから、本当に心配したんだよ!」
「あら、太皇太后様、お元気そうで何よりです。ただ、皇太后である私に向かってその発言は、些か、許せないものがありますわ」
「フン、何一つ嘘はついておらんぞ? 肉屋如きの下賤な身分で、協の母を毒殺した悪鬼め。更には先帝の遺言に背き、外戚の力を使って、息子を即位させおって。その全てが周知の事実じゃ」
「弁は先帝の長子です。皇位継承に何の問題が? それに先帝が遺言を残した証拠はありません。老いて記憶が曖昧な貴方が、勝手にそう言っているだけでしょう?」
一触即発。最悪の雰囲気。
とすると、この老婆は「董太后」だな。
俺と劉弁の父で、先帝である「霊帝」の実母。
そして、母を亡くした劉協の養母でもある。
婆さんは、身分に重きを置く性格らしく、名門出身である劉協の母の「王美人」を気に入り、肉屋出身の何皇太后を嫌っていたとか。
なるほど、まさにその通りだ。
嫁姑問題は、いつの時代も同じだな。
「ケン碩!」
「はっ」
「協を抱えなさい。こんな場所に居たら、こっちが豚臭くなるわい」
ケン碩と呼ばれた大男は、俺の小柄な体を易々と抱え上げる。
近くで見れば見る程よく分かるが、本当に岩の様な腕だ。
俺の首なんて、易々とねじり切りそうだな。こっわ。
「お、おばあ様。協のことを、よろしくお願いします」
「……フン」
深々と頭を下げる弁に、不快そうに鼻を鳴らす婆さん。
俺はそのまま大男に抱えられたまま、宴席場を後にした。
・何皇后
異母兄は大将軍の何進、息子は少帝の劉弁。妹は張譲の養子の妻。
生まれは肉屋を営む屠殺業の出身だったが、その美貌に目を付けた宦官が後宮へと入れた事で、一気に皇后へ上り詰める。
劉協を産んだ王美人を毒殺するなど、野心が強い女性。後に董卓によって毒殺された。
・董太后
霊帝の実母で、劉協の養母。
王美人が毒殺されたことで何皇后を憎むようになり、霊帝の真意を汲み取り劉協の擁立を目指した。
しかし政争で何皇后に敗れて流罪となり、暗殺を恐れた為に精神を壊し、衰弱の後に亡くなる。
・ケン碩
霊帝に寵愛された宦官の一人。体格が優れていた為、西園軍の統括を任じられる。
霊帝の遺志を果たす為に劉協の擁立を図り、何進の暗殺計画を立てるが、それが漏れて処刑された。
叔父が法を犯した為に、曹操に捕らわれて棒叩きに処され、刑死している。