彼女は傘もささずに嵐の中にいる
玄関扉の開く音がして、私は目覚めた。ベッドにもたれかかったまま眠ったせいか腰に痛みがあった。
左手を後ろに回し、腰をさすっていると、この部屋の前を足音が通りすぎていくのが聞こえた。
未希子さんが帰ってきたのだろう。
私は口に入り込んだ髪をそろそろと引っ張りだし、髪を整えながら壁時計を見る。時刻は三時を回っていた。
私は大切なことを思い出して、サキのベッドを覗きこむ。
サキは今日もあの女性を抱きしめていた。
音を立てないようにそっと二人に近づく。
誰に切ってもらったのだろう、その女性の髪型は母親に切られた子供みたいにちぐはぐなショートカットだった。
もしかすると美容師に頼んで、あえてそのように切ってもらったのかもしれない。その髪型は幾分前衛的であるが様になっている。
顔を幼くみせるその髪型のせいでサキが二人いるように見えてきて、寝起きの頭がずきずきと疼いた。
眠りに落ちる直前の私は、今度あの女性の幽霊を見たら起こしてみようと決めていたけれど、こうして実際に眺めていると、実行できそうになかった。
おかしな話なのだが、この女性を起こしてしまうと、サキが遠くに行くような気がしてならないのだ。
かと言って、まさか未希子さんに尋ねるわけにもいかない。
私だって頭のおかしい人だとは思われたくはない。だったらどうする、私は何を選ぶのか。答えは明白だった。
私は荷物をまとめて部屋を後にすることにした。
そして、未希子さんと挨拶を交わす為に、リビングへと向かう。
扉を開く、テーブルにもたれ掛かる未希子さんの顔がこちらを向く。
おかえりなさい
と私は言う。
ただいま
と言って未希子さんが微笑む。
麦茶入れようか?
と未希子さんが尋ねる。
お願いします
と私が答える。
晩御飯美味しかったです、ありがとう
どういたしまして
未希子さんが答える。
有君はまだ若いからわからないでしょうけど、誰かのためにご飯を作れるっていうのは、とっても幸せなことなんだから
お茶を注ぎ終えると未希子さんは私を見つめながらそう言った。
ありがとう
と私は答える。
天井に吊るされた照明を背にした未希子さんは、昨朝よりいくらか疲れているように見えた。
ところで羊飼いの少年はどこまで行ったの?
私達の故郷です
と私は言った。どう考えてもそれに続く説明が必要だった。
砂漠の国に向かう船が出る港へ行くためには、山を越えなければならないんです。その山越えの最中に嵐にあってしまって、イキシアは意識を失う。やがて彼は目覚め、知らない土地に彷徨い込んでしまったことに気づくんです。そこでリナリアと言う名の少女と出会い、ここが「私達の故郷」と呼ばれる場所であると知らされるんです
リナリアはどんな女の子なの?
リナリアは九歳で
サキと同い年なんだ
未希子さんの言葉が私の言葉を乗り越える。そして私は静かに頷く。
リナリアはサキであり、私なんです。その肌は透き通るように白く、太くも細くもない眉は目頭からきりりと伸びて、鼻筋は通っている。目は奥二重なんだけどくるりと丸い。その目が彼女にどこか牧歌的な印象を与える。そして彼女は些細な事できゅっと口角があがるような女の子なんです
細かいところまで考えてるのね
と、未希子さんは感心するように言った。
ねえ、有君の目から見て、私とサキはどう映ってる?
似ているかどうかですか?
ええ
それは顔ですか? それとも性格ですか?
どちらでも
と未希子さんは答える。そして彼女はテーブルに肘を立ててその上に顔を乗せる。細められるまぶたに従うようにまつげがその頬に淡い影を写した。
似ている箇所は、そうですね、何か考えごとをするときに人差し指をこめかみに当てるところとか、先天的に似ているところと聞かれたら分からない、けれど後天的に似ているところだったらたくさんあると思います
ふうん
と未希子さんは言った。
ねえ、有君はサキのこと、好きなの?
未希子さんの瞳が私の瞳を捉える。四十六億後年も向こうにある観測所から光学赤外線望遠鏡で補足された惑星の気持ちが、今だったら少しだけ理解できる気がした。
好きです。友達、というか妹のような存在としてですが
そう
私からも質問していいですか?
ええ
やっぱりいいです
どうして?
もしかしたら未希子さんを傷つけてしまうかもしれない
そこまで言ったんだから言いな
だったら言いますよ?
ええ
未希子さんはどうして、サキの我儘を許すんですか?
未希子さんが私の言葉を理解した時、彼女の眉が僅かに波打つのを私は見逃さなかった。
彼女には申し訳ないのだが、とてもすっきりした。
言い切ったあとに気づいたのだが、その答えが知りたかったのではなく、どうやら私はその言葉を彼女にぶつけたかっただけだったらしい。
それはねえ
と未希子さんは言う。
人志さんが死んだのは私と結婚して三週間後のことだったの。そう、サキは私の子供じゃないの。でも
ね愛している、もちろんよ、そうじゃなかったら結婚なんてするもんですか
未希子さんは自分に言い聞かせるようにそう言った。
でもね、だからといってサキから人志さんを奪った事実は変わらないの
わからないな
と私は言った。
サキを傷つけたかもしれない、けれど我儘を許すのは本当に彼女の為ですか?
私がそう言うと未希子さんはテーブルを見つめた。そして垂れてくる前髪を無意識のうちにかき分けながら、無心に言葉を探している。
意外に思うかもしれないが、夏の晴れ渡る空を入道雲が悠々と流れていくのを眺めているときのような清々しさを感じながら、私は彼女が次に口を開くのを待っていた。
そうかも知れないわね
と未希子さんは言った。
もう一つだけ質問いいですか?
ええ、いくらでも
どうして未希子さんは、サキが傷ついていると思うのですか?
私が人志さんと結婚して、サキは取られたと感じたんだと思うの。私とサキが初めて会ったその日から、彼女は人志さんと口を効かなくなった。人志さんは「大丈夫、そのうちわかってくれるよ。」そう言っていたけれど、そんなに単純じゃなかった。
二人はそれまでに口喧嘩すらしたことがなかったみたいなの、だからお互いに仲直りの仕方がわからなかった。
よく考えるとね、私は人志さんの言葉を信じるばかりでサキのことを考えてなどいなかったし、人志さんは、それまでのサキの従順さに甘えていたんだと思う。
あの事故の日は、人志さんにとってはようやくとれた二連休で、家族にとっては仲直りする絶好の機会だったはずなの。
何よりも、私がもう少しサキの気持ちを考えていれば、二人を最悪な形で引き裂かずに済んだはずなの。叱ることも大事だってことぐらいわかってる。でもね、叱るってことは相手に対して愛を求める行為なの。全てを奪った私がサキに愛を求めるなんて出来ない、私にはサキを叱ることなんて出来ないの
未希子さんはそう言った。言葉の最後は嗚咽に滲み、よく聞き取れなかったが、その嵐は彼女の心に激しい雨をもたらした。そして私は口を固く結び自分自身の浅薄さを恥じることしかできなかった。果たして、そこまで深く相手の気持を考えることなど、私達にできるのだろうか。
ごめんなさい
と、嗚咽の中で未希子さんはそう言った。
私は黙ったまま首を振る。
彼女は傘もささずに嵐の中にいる。そんな彼女のために差し出せるものなど私の持ち合わせの中には存在しなかった。私にできるのは彼女の隣で雨が止むのを待つこと、それだけだった。こんなにも自分自身にがっかりしたのは初めての経験だった。私は強くなりたいと思った。
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