少女は毎日流れ星を数えながら眠りについて、毎夜のように星の夢を見る
イキシアの住んでいた村から砂漠の国に向かう船の出る港町に行くには、一年もの時間が必要なんだ。彼の住んでいた村は、その大陸の中でも最果ての土地にあった。
港に近づくに連れて、イキシアは羊達の言葉がわからなくなっていく。
あと山を一つ超えれば港にたどり着くというころには、アイリスとライラックとの会話さえ怪しくなったんだ。
戦火を逃れるには山道を通る他なかったから、彼らは苦労しながらその山を登っていく。
その日の山は嵐の中にあったんだ。イキシアは風に飛ばされないように体を低くしながら山を登っていく。
もし羊達の言葉が理解できたなら
イキシアは後悔した。
強風に足をすくわれて谷底に落ちていく子羊もいたし、蹲ったまま一歩も動こうとしない老羊もいた。
そのたびにイキシアは群れを守るため、彼らを見捨てる決断を下さなければならなかった。
長い時間を共にしてきたから、言葉はわからなくても、死にゆく彼らがイキシアに何を伝えようとしているのは理解できた。
母親が去ったあの日から一度も涙を流すことのなかったイキシアも、今回ばかりは涙を堪えることが出来なかったんだ。
おいおいと泣く自分の声さえも聞こえない強風の中で、それでも彼は山を登って行く。
登り始めて丸二日経ち、山の頂上付近までたどり着いたときだった。幸運なことに彼らの向かう先に洞穴が見えた。
喜び勇んでその中に駆けてゆき、濡れた衣服を全部脱いで岩肌にかける。
彼らはそこで嵐をやり過ごすことに決めたんだ。
イキシアは一頭、二頭と生き残った羊の数を数えていく。全部で二百六十頭だった。
アイリスとライラックは?
とサキが尋ねる。
生きてる
と私が答える。
よかった
そうでもないんだ
そうなの?
うん
何日経っても嵐は止みそうになかった。
彼が持っている干し肉やチーズ、パンといった食料は次第になくなっていく。
羊たちは洞窟内に生える苔のようなものを食べて飢えをしのいでいたのだけど、やがてそれもなくなる。
彼らは腹をすかして悲しげに泣くんだ。そして程なくして彼の食料も底をつく。
羊乳と言って、牛乳のように羊からも乳がとれるんだけど、イキシアにはどうしてもそれができなかった。
どうして?
羊から体力を奪うことになるから。彼はこれ以上悲しみたくなかったんだ
それでどうなったの?
イキシアはやがて意識を失う。
洞窟の外では大地が引き裂かれるような雷の音がして、暴風が山をゆっさゆっさと揺らすんだ。そして雨は滝のように降り続いている。けれど、どんなことにだって終わりは必ずやってくる。
眠りから目覚めたイキシアは花が咲き誇る草原の中にいた。
ここはどこだろう。イキシアはそう思って周囲を見渡した。
すると、彼の目覚めに気づいた羊たちが彼の元へと駆けてきて、顔中を舐め回した。
その時になってようやく、彼は自分が生き続けていると実感できたんだ。
イキシアはつい昔の癖でアイリスに尋ねる。
ここはどこなの?
私達の故郷よ、みんな助かったの
と彼女は答えた。
イキシアは膝をついてアイリスを抱きしめる。強く、強く抱きしめる。彼には彼女が話すその言葉が理解できたんだ。彼のもとに羊達が帰ってきてくれた。彼は嬉しくて嬉しくて、思わず抱きしめてしまったんだ。
そしてアイリスもそれを受け入れるように彼の体を支えるんだ。
イキシアが空腹も忘れて羊達とじゃれあっていると、彼のもとに一人の少女が近づいてくるのが見えた。
どんな?
とサキが尋ねる。
年はイキシアと同じ九歳
サキとおんなじだ
と言って彼女は目を輝かせる。
髪はそうだな、セミロングのサキより短いショートヘア。
彼女は頭に赤いサルビアで作られた花飾りを載せている。涼しげな顔、太陽をよく通す白いワンピース、足の甲にストラップの着いた白いパンプスを履いている。
彼女は花咲く草原を悠然と歩いてこちらにやってくる。
嵐は去ったはずなのにイキシアは雷に打たれたみたいに心臓がびりびりして立ち尽くすことしかできなかったんだ。
イキシアは少女に連れられて、彼女の家にやってくる。
少女は風車小屋に住んでいた。それは長く旅をしてきたイキシアでさえ見たことがないくらい不思議な家だった。
どんな?
とサキが言う。
一階建ての家にそれと同じくらいの風車小屋、サキ、風車小屋分かる?
ううん
風車小屋っていうのは、風車の力で小麦を潰して粉にする建物のことなんだ。建物の形はそうだな、大きな水筒みたいな形、水筒の蓋に風車がついているんだ。風車小屋に一階建ての家がひっついている、そんな形の家なんだ。
建物の屋根は南国の海みたいな透明の青色で、壁は牛乳のように、暖かな白色なんだ。
あと風車小屋の二階には、彼女のベッドがある。真っ白なシーツの下にはたくさん太陽を浴びた小麦の殻が敷き詰められているから、とてもふかふかなんだ。そこに横たわると大きな窓から星空が見える。少女は毎日、流れ星を数えながら眠りについて、毎夜のように星の夢を見るんだ。
そして家を取り囲むようにしてベランダが伸びている。
どこまでも草原が見渡せるそのベランダにはテーブルセットが置いてあって、よく晴れた日に朝食を食べたり、風の気持ちいい午後にコーヒーや紅茶を楽しむこともできそうだった。
なんだ、結構普通じゃん
とサキが言う。
イキシアが通されたのは草原が見渡せるベランダだった。
彼が名前を尋ねると、少女はリナリアと名乗った。
いい名前だね
彼がそう言うと、リナリアは水溜りに映る朝顔のように微笑んだ。
リナリア、彼女は涼しげな顔立ちだけど、イキシアはその微笑みの中に彼女の優しさを見つけたんだ。
そしてリナリアは意識を失ったイキシアをライラックの背に乗せて、彼らをここまで導いて来たのだと言った。
本当にありがとう
イキシアは帽子をとり、これまでの人生でしたことがないくらい深く頭を下げて礼を言った。
ところで、ここはどこなの?
イキシアは周囲を見渡しながらそう尋ねる。
ここは私達の故郷なの
と、リナリアは答える。
私達の故郷?
と、イキシアはもう一度確認するように尋ねる。
ええ、私達の故郷
と、リナリアは答えた。
答えになっていないと彼は思ったけれど、それは口にしないことにした。その代わりに、
僕達は砂漠の国に向かう船の出る港に行く途中なんだ
と、イキシアは言った。
どうして港に行くの?
と、リナリアは尋ねる。今度はイキシアが質問に答える番だった。
僕の母さんが砂漠の国にいるんだ
イキシアがそう答えると、リナリアの表情が曇った。
それは困ったな
どうして?
ねえ、イキシア。ずっとここで私と暮らすのはどうかな?
あまりの出来事にイキシアは言葉を失う。
彼はずっと羊達と生活を共にしてきたんだ、言い換えればそれは、羊以外の生き物にとって彼は死んでいるも同然の存在だったんだ。
イキシアは羊達に囲まれているにも関わらず孤独だった。彼は羊以外の生き物が近づいてくるのを拒みながらも、心のどこかで、誰かとの巡り合いを望んでいた。だから母親のことさえなければ、彼にとってそれは悪くない提案だった。
しかしイキシアはどうしても母親に会いたかった。母親に優しい言葉をかけてもらいたかった。だから彼は、
駄目だよ
そう言う代わりに尋ねてみることにした。
どうして?
それより、お腹空いてるでしょ? 何か作るよ
リナリアはそう言ってキッチンに駆けていった。
ホットミルクとクルトンの入った野菜のスープ、それに柔らかなパン。ベランダのテーブルに並んだのは温かな食事だった。それは祖母が死んで以来、初めて食べる人の手料理でもあった。
私は口を閉じ、そっと起き上がってサキの様子を伺う。
彼女は眠りの中にいた。そして私はラグマットの上に寝転がる。考えなければならないことが沢山あった。
まず私がしなければならないのは、明日のサキに話す物語の内容を考えておくことだった。
リナリアはどうして、「私達の故郷」と呼ばれる場所に一人でいるのか。そこにだって彼女なりの理由があるはずだ。私は考える。
そしてこの物語は私とサキの物語であるから、私達自身が幾らかは物語の中に存在しなければならない。私は考える。
つまるところ、イキシアはサキでもあり、私でもあるのだ。次第に眠たくなってくる。
私はもう一度だけ立ち上がって、サキの様子を見る。彼女の隣に例の幽霊の姿はなかった。このまま眠りに落ちるまで、私はその幽霊について考える。
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