羊飼いの少年 彼の母親は空に星を浮かべる
昔々あるところに羊飼いの少年がいたんだ。
少年に両親がいなかった。
それどころか頼れる人も彼にはいなかったんだ。
けれど、少年は孤独じゃなかった。
彼は羊たちと会話することができるからね
そうなの?
うん。
と私は短く答える。
少年は牧草地を求めて羊たちと旅をしている。
羊たちは彼より鼻が利くから、嵐がやってくるのを知らせてくれる。
かわりに少年は羊たちを狼の群れから守ってあげるんだ。
時に少年は羊たちにありがとうと言って、時に羊たちは少年にありがとうと言う。
持ちつ持たれつ、彼らはお互いを必要としあっているんだ
名前は?
とサキが尋ねる。
そうだね、少年の名前はイキシア。
彼は祖母に育てられたんだ。
祖母の家は太陽の近くにあって、太陽が燦々と降り注いでいる。
けれど夜になると、もこもこの服が必要になるくらい肌寒くなる。
自然が豊かで、家々は厚い土壁でつくられていて、どの家も真っ白塗られている。
そんな土地だった。
けれど、彼の住む祖母の家は少し違った。
その家は村のはずれにあって村に行くにはまっすぐに伸びたオリーブの並木道を歩いていかなくちゃいけない。
それに、その家は他の家とは違ってスイスの家みたいな、木造の家なんだ。
イキシアが外に出て遊びに行くことはなかった。
彼は一日の殆どを家の前で過ごすそんな子供だった。彼はいつだって目の前をどこまでも伸びるオリーブの並木道のその先を見つめていた。
オリーブの並木道。
それはイキシアが母親を見た最後の風景でもあり、唯一の希望でもあるんだ。
イキシアは母親に手を引かれて祖母の家にやってきた。
ここで待ってさえいれば、いつか母親が迎えにやってきてくれると、彼はそう信じていたんだ。
太陽が傾くにつれて足元の影が伸びていく。
そしてまた夜がやってくる。
けれど、母親はやって来なかった。
そして祖母が死んで彼は羊飼いとなるんだ
どうして羊を飼うことにしたの?
とサキは尋ねる。
それはだな
と私は言う。
祖母が死ぬ間際、秘密にしていたことをイキシアに伝えるんだ。
母親はまだ生きているかもしれない。
祖母はそう言った。
イキシアの母親は海を渡って砂漠の国に行ってしまったんだ。
どうして?
母親にはある力があったんだ。彼女は星を空に浮かべることができる、ちょっと変わった人間だったんだ。それは誰にでもできることじゃないだろ?
そうだね
とサキは言った。
イキシアがまだ幼かった頃に砂漠の国で星が落ちた。
その世界の人間にとってそれはとても困ることだったんだ。
このまま星が全部落ちてしまったら、暦、カレンダーも作れないし、時計も狂っていく。
それにもし次に落ちる星が太陽だったら、世界は暗闇と氷原に閉ざされてしまうことになるだろう。
そこで砂漠の王は母親のもとに密使を遣わしたんだ。
そして彼らは彼女を説得しようとする。
世界の一大事なんです!
密使はそう言った。
母親は頭がいいから、そのお願いは拒絶できないと知っていた
どうして?
これは世界の一大事だからね。
もし彼女が嫌だと言ったところで、
引きずってでも連れていくんだぜ
密使たちの瞳は雄弁にそう語っていたんだ
それでどうなったの?
とサキは尋ねる。
最初に抵抗したのはイキシアの父親だった。
どちらかと言うと、父は密使と母親の押し問答を仲裁しに、つまり仲直りさせようと二人の間に入ったんだけれど、興奮した他の密使にズバッと切られて死んでしまったんだ。
だめじゃん
サキはそう言った。
彼女はそれだけを言うために、仰向けの状態からわざわざ顔をくるりとこちらに向けてきたのだ。
ひとときの間、すまし顔の彼女を見つめ合っていると思わずため息が漏れた。
どうやら彼女に眠る気はないらしい。
この上、愛するイキシアまでも失うわけにはいかない彼女は、ついに決断を下す。
砂の王国へ行くためには航海に耐えなければならなかった。
その世界で船に乗るということはとても危険なことなんだ。
密使たちは彼女の航海の安全は保証したのだけど、そこにイキシアは含まれていなかった。
だからイキシアの母親はわが子を祖母に預けることにしたんだ。
真っ直ぐに伸びるオリーブの並木道。
二人は祖母の家を目指した。
迎えに来るからね
母親は別れ際にそう言った
でも迎えに来なかったんだよね?
とサキが尋ねる。
うん
と私は答える。
祖母が死ぬとイキシアは彼女が残してくれたもの全てを売り払って、羊を買ったんだ。
彼は羊たちと会話ができるから、どこにいけば良い牧草が生えているのかを、彼らに尋ねることができた。
だからイキシアの羊たちの毛は業界内ですぐに評判になった
業界?
とサキは尋ねる。
うん
と私は答える。
牧羊者、つまりイキシアが羊を育てるだろ?
うん
でもそれだけだったらご飯が食べれない、その毛を刈る人、毛を種類ごとに分ける人っていうのが別にいて、彼はその人達に毛を売ることによって、お金を稼いでいるんだ。
そしてそういう人達の間でイキシアの羊たちの毛が評判になったんだ
ふうん
とサキは曖昧な返事をする。
どうやらこの話には、それほど興味がないようだった。
やがてそれなりにお金が貯まると、彼らは砂漠の国を目指して旅を始める。
イキシアはどうしても母親に会いたかったんだ
ねえ有?
どうした?
羊には名前、ないの?
羊は全部で三百頭もいるから、全部に名前があるわけじゃないんだ
そうなの?
とサキが尋ねる。
うん
と私は言う。
三百頭もいるからいろんな奴がいる。
大体の羊は利口で大人しいんだが、中には喧嘩っ早いのもいるし底抜けに馬鹿なのもいる
名前は?
とサキが尋ねる。
そうだね、雌羊にアイリスっていうのがいる。アイリスは頭が良くて美人さんなんだ。
そして何より彼女はイキシアを愛しているんだ
他には?
とサキが尋ねる。
雄羊のライラック。
彼は群れの親分で、イキシアが羊飼いになった時からの相棒なんだ。
群れのなかでもひときわ大きな羊だから、喧嘩が始まると彼が真っ先に飛んでいって仲裁に入る。
彼に刃向かえる羊はいないから、ライラックはすぐに彼らを仲直りさせることができる。
そして何よりライラックはアイリスを愛しているんだ
どこまでも空を覆う一面の曇天が不意に途切れて、その隙間から草原に手を伸ばす光の束。
雪が音もなく降る一面の銀世界。
海のように雄大な川。
彩りに溢れた秋の山々。
イキシアは旅の中でいろいろな風景に触れた。
けれど、彼が見たのは美しいものだけではなかったんだ。
戦火に焼かれた村から立ち上る煙の筋だったり、道で行き倒れになった人もたくさん見たんだ。
そういう風景を見るたびにイキシアは自分と羊たちの距離が離れていくような気がしたんだ。
どうしてだかは彼にも分からない。
けれど、彼はできるだけそういう風景に出会わないですむ道を選んで歩くようになった。
私は口を閉じて彼女の方を見た。
彼女の胸の上で夏用の掛け布団は規則正しく上下している。
どうして私はここで、こんなことをしているのだろうと考える。
それはとても大切な問いかけだった。
それ以外の生活などどうでもいいと思えるくらいに、私の中でサキの重要性がどんどん増していっているのだ。
大学やバイト先にだって友達はいた。
けれど彼らとの語らいが以前ほど楽しくない、むしろ苦痛に感じるようになった。
それはどうしてだろうと考える。
サキと出会ったから楽しく感じられなくなってしまったのか、それとも彼女との出会いによって、そもそも私が彼らとの会話を求めてさえいなかったという事実を知らされたのかもしれない。
そもそも、その二つは同じことを意味しているのでは、とも思う。
そして自分が疲れていることを知る。
疲労はどうして人を悲観的にするのだろうと考える。
私が何も考えられなくなるまでその答えは出そうになかった。
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