11 役所で
11 役所で
翌日、マリサは町の役所を訪れた。
朝早い時間にもかかわらず、建物の中は多くの人で混み合っていた。出生届や結婚の届け出、商売の許可申請など、それぞれの用事を抱えた人々が長椅子に並んでいる。
マリサは受付まで進むと、周囲によく聞こえる声で告げた。
「婚約を破棄するための用紙をください」
窓口に座っていた中年の係員が顔を上げた。
「破棄でいいのかい? 婚約解消の用紙もあるけど」
「破棄と解消では、なにか違いがあるのですか?」
マリサが何も知らない風を装って尋ねると、係員たちはちらりと顔を見合わせた。その口元に浮かんだ笑みを、マリサは見なかったことにした。
「大した違いはないけどね。ところで、誰と誰の婚約の話だい?」
「私と婚約者です」
「お嬢さん本人の婚約なのかい!」
係員は驚きのあまり、遠慮なく大声を上げた。
待合所にいた人々の視線が、一斉にマリサへ向く。
よく聞こえる場所へ、さりげなく椅子を移動させる者までいた。
「はい、私自身の婚約です。それで、破棄と解消では用紙が違うのでしょうか?」
「ああ、書かれている文面が違う。婚約解消は、お互いに話し合って円満に別れる場合だね」
係員の説明を聞いていた隣の窓口の女性が、身を乗り出した。
「婚約破棄なら、相手に慰謝料を請求できるわ。相手に明確な非がある場合だけだけどね。もし支払いを拒否されたら裁判になるけれど、証拠が揃っていれば負けることはまずないわよ」
「慰謝料は、どれくらい請求するのですか?」
「決まりはないわ。金額は少なくてもいいの。大切なのは、どちらに非があって婚約が壊れたのかを、公的な記録に残すことだから」
「なるほど」
マリサは納得したようにうなずいた。
「では、婚約者が別の女性と関係を持ち、その女性のお腹に子供がいる場合は、婚約破棄にして慰謝料をいただけるということですね?」
役所の中が、しんと静まり返った。
次の瞬間、最初の係員が机をたたく勢いで身を乗り出した。
「もらえるとも! それなら間違いなく婚約破棄だ。裁判になっても楽勝だよ!」
「なんてひどい男なの!」
「お嬢さん、そんな男と結婚しなくてよかったじゃないか」
「だが、子供ができた相手も貧乏くじを引いたな。そんな男が夫になるんだろう?」
「慰謝料はきちんともらわなきゃ駄目だ。反省してもらわないとな!」
係員だけでなく、待合所にいた見物人たちからも、次々と意見が飛んでくる。
いつの間にか、マリサの婚約破棄は役所中の関心事になっていた。
「しかし、もう腹に子供がいるのなら、二人には早く結婚してもらったほうがいいだろう」
年配の男性がそう言うと、周囲の人々が一斉にうなずいた。
「そうだ、そうだ」
「子供に罪はないものね」
「婚約者には慰謝料を払わせて、さっさと責任を取らせるべきだ」
マリサも神妙な顔で、その輪に加わった。
「本当に、そのとおりですわ」
当事者でありながら、まるで見物人の一人になった気分で、彼女は皆と一緒に力強くうなずいた。
――そうだ。腹に子供がいるのなら、一日も早く結婚したほうがいい。
できれば盛大な結婚式を挙げて、町中の人々に祝福されるといい。
誰もが二人の名前と顔を覚えるほど、華々しく。
そうすれば、最後に爆弾が破裂したとき、誰一人として見逃さないだろうから。
「婚約を破棄したら、すぐに結婚式を挙げることになるのでしょうか?」
マリサは、いかにも分からないというように小首をかしげた。
「そうでしょうね。あまり遅くなると、おなかが目立ってしまって、用意したドレスが着られなくなるかもしれませんから」
窓口の係員は何度かうなずくと、書類を保管している棚へ向かった。
「それなら、婚約破棄の書類はこちらで作ってあげましょう。こういうものは、事情を知らない方が作ると抜けが出やすいですからね。かといって、本職の代書人に頼めばお金もかかる」
係員は必要な用紙を選び、窓口の上に並べた。
「ついでに、婚姻届も用意しておいたほうがよいでしょう。これから結婚式の準備で忙しくなるでしょうから、何度も役所まで取りに来るのは大変です」
「ですが、お忙しいのに……悪いです」
マリサが申し訳なさそうに言うと、係員は穏やかに微笑んだ。
「そんなことはありません。生まれてくる新しい命に罪はありませんからね。きちんと両親に結婚してもらわなければ」
その言葉を聞いた見物人たちから、感心したような声が上がった。
「今日、役所に来てよかったなあ。こんなにおもしろ……いや、ひどい出来事に立ち会えるなんて」
「まったく、なんてひどい話だ」
「それで、どこのどいつなんだ?」
「静かにしろ。もうすぐ分かるだろう」
誰もがマリサの味方をしてくれている――ように見えるが、半分ほどは完全に野次馬だった。
係員は婚約破棄の書類に必要事項を書き込むと、それを掲げて周囲を見回した。
「どなたか、証人として署名してくださる方はいらっしゃいませんか?」
「僭越ながら、私が」
一人の紳士が胸に手を当てて進み出た。
「よろしければ、私も署名いたしましょう」
今度は品のよい年配の女性が名乗り出る。二人はマリサに同情を示しながら、迷うことなく書類に署名してくれた。
「ありがとうございます」
マリサが深々と頭を下げると、係員は二人の署名を確認し、満足そうにうなずいた。
「はい、マリサさん。これで大丈夫です。あとは婚約者の方が署名すれば、あなたは自由になれます」
「自由に……」
「ええ。そして、こちらが婚姻届です。お二人に署名してもらってください。これで、彼らも晴れて夫婦になれます。式より先に届け出をすませたほうが赤ちゃんのためにも安心ですよ」
係員は婚約破棄の書類と婚姻届をそれぞれ封筒に入れ、マリサに手渡した。
「ありがとうございます。本当に、ご親切にしていただいて……」
二つの封筒を胸に抱き、マリサは証人になってくれた二人に頭を下げた。それから、周囲で見守っていた人々にも礼を告げる。
「皆様も、ありがとうございました」
「しっかりするんだよ」
「こんな男のために泣くことはない」
「新しい人生を幸せにね」
温かな言葉をかけられた途端、マリサの目から涙がこぼれた。
さきほど、署名をしてくれた婦人がやさしく肩を抱いてくれた。
マリサは役所を出たところで足を止め、空を見上げた。
もうすぐ自由になれるという喜びが沸いてきた。




