その21(最終話)
本日、20話・21話(最終話)を同時に投稿いたしております。
ほぼ二カ月ぶりとなる屋敷に戻ったエルシアはほっと息を吐き出す。
恋人と別れ、たった一人嫁いできた辺境の地。慣れない立場に戸惑いながらも日々を過ごした。それほど前の出来事ではないのに、それが今となっては懐かしい事のように感じる。ギスターナの砦に囚われ救い出されて、ようやく戻って来たと息を吐き出した後で、エルシアはこの地が自分にとっての生きる場所になっているのだと実感した。
少々無骨な面もあるが優しい夫はエルシアの見知らぬ面も持っている。砦から逃げて再会したアルベルトはそこにいるだけで竦み上がる様な雰囲気を纏っていたが、エルシアにとっては怖くて近付けない存在ではなく、背中に庇われると安心できる愛するべき人に変わっていた。二人で並んで手をつなぎ、甘い情景に溶けていくのではないけれど、包み込むように優しく抱きしめられるととても安心して身を任せる事の適う人だ。ギスターナとの問題があるせいで同行できないのを謝られたが、アルベルト自身がエルシアと離れたくないと無言で語ってくれていたのはとても嬉しい出来事だった。エルシア自身も共にいたいと願ったし、アルベルトが居る場所が何処よりも安心できるのだと解っている。けれどようやく宿し許された命を抱いている以上、エルシアは母親として宿した子を守らねばならない。男子であれば辺境伯家の後継ぎとなるのだが、それ以上にアルベルトの子を無事に産み落としたいとの願いが勝っていた。
砦を離れるエルシアに十人余りもの護衛が付いた。当然レディスも同行する。仰々しく感じたが身重では騎乗できず馬車の中にいたのでそれほど気にならない。ただ馬車よりも馬の背に跨る方が楽しいと感じるようになっており、これはエルシアがセルガンの女になった証明だろう。マーガレットもそうだが、セルガンの女たちは身分問わず馬を操れるものが多い土地柄だ。足を広げて馬に跨るなど淑女としては顔を顰められる行為もここでは当たり前で、馬上からの景色は心が躍らされるのだとエルシアは知ってしまった。
軍医の言った通り、妊娠の判定を受ける検査は体のいたる所に触れられるものだった。けれど直接触れて診察するのは産婆の方で、医師は指示を出したり結果を訊ねたりといった具合だ。妊娠も間違いなく、最終月経から判断するとエルシアが攫われる前には子を宿していたことになるとのことだった。当然である。アルベルトの子供であるのには違いないが、ギスターナに攫われた事実がある以上その証明はとても重要となるために必要な言葉でもあった。妊娠特有の体調の悪さが全くないのが不安だったが、そのうち悩まされるかも知れないしこのまま悪阻もなく出産に至るやも知れない。すっかり細くなってしまったエルシアには栄養が必要なので、悪阻でこれ以上食べられなくなっては子供に危険が及ぶ。運がいいのだと産婆と医師は笑っていた。
診察を終えたエルシアは身綺麗にして一日体を休めると、レディスに案内され療養中のオルウェンがいる宿舎へと向かった。中年を過ぎた彼は独身のままで、動けるようになるまでは主にマーガレットが面倒を見ていたらしい。
「マーガレットだって怪我をしていたのに。ありがとう。」
「そんな奥様。わたし達―――奥様を守れなくて本当に辛かったんです。」
「マーガレットやトマスはともかく、堅物のオルウェンにはアルベルトも手を焼いてるよ。奥方に一任したのもそのせいだ。丸投げともいうけどね。」
侍女という立場のマーガレットがエルシアを守れなかったのは仕方がないが、騎士である二人は異なる。しかもオルウェンは何かがおかしいと感じていただけに、己の不手際を恥じるだけでなく厳罰を願い出ていた。領主の妻を守り切れず敵に奪われたとなっては手打ちにされても文句は言えない。だがアルベルトはオルウェンとトマスの実力を正確に把握していたし、その二人で守り切れなかったのなら仕方がないとその面については納得しているのだ。他者を責めるよりも読みが甘かったと己を責める、アルベルトはそういう人だ。
早々に元気になり騎士として復帰し仕えているトマスはともかく、オルウェンは生死の境を彷徨っただけでなく今も歩くのがやっとの状態だ。このまま騎士として復帰できるかも危うい。しつこく罰を望むオルウェンに、ならばエルシアからの沙汰を待てとアルベルトは処罰を放置した。アルベルト自身に罰を下すつもりはなく、あっても謹慎程度で十分と思っている。だが納得できないオルウェンの気持ちもわかるだけに、護衛対象であったエルシアから受ける罰を素直に飲むよう命じたのだ。それを聞いたエルシアはいったいどんな罰を下せばいいのかと思い悩む。本当なら怪我をさせてごめんなさいとこちらが謝りだおしたい所なのに、辺境伯夫人という立場上そうもいかなくて、結局何をどうするか決められないままオルウェンを見舞う事となったのだが。
「お願いだから顔を上げてちょうだい。」
無理をして外を歩いていたオルウェンはエルシアの姿を認めるなり、杖を放り投げ両手両膝をつき頭を地面に擦り付けてしまったのだ。
「私が折れれば奥方様がどのような目に合うのか分かっておりました。無事にお戻りになられたのは喜ばしいが、私が犯した失態は拭えないし消えません。本来なら御前に侍る事も叶わぬ身。何卒厳罰に処して下さい。」
「オルウェン、あなた……」
これをどうしろというのだろう。レディスを振り返れば肩を竦められ、マーガレットを振り返れば両手を硬く握り締め涙ぐんでいる。エルシアははぁと息を吐いてからオルウェンの前で両膝を付くと、同じように掌を地面に乗せ、これでもかと頭を低くしたオルウェンの顔を横から覗き込んだ。
「お願いよオルウェン。顔を上げてくれないかしら?」
「―――?!」
耳元で話しかけられ、至近距離に迫った美しい顔に驚いたオルウェンが身を弾かせるようにして半身を持ち上げると、エルシアも「よかった」と微笑んで体を起こした。
「あなたの罪を許すわ。」
「それでは筋が通りませんっ。」
顔を赤くしたままオルウェンはまともにエルシアが見れない。けれど動揺しているのは伝わってきて、エルシアは何だが嬉しいような申し訳ないような妙な気持ちにさせられた。
「ごめんなさい、わたしはそういう筋がわからないの。だからこれからも旦那様に尽くしてくれるなら全てを許します。」
「ですがっ、私は騎士に戻れるかもわからぬ身ゆえ―――」
「オルウェンは旦那様にお仕えするのが嫌なの?」
「そんな事は絶対にありませんっ!」
「それなら決定ね。」
「いやしかし―――!」
なおも続けようとしたオルウェンの前にエルシアは人差し指を差し出して制止させる。
「わたしお腹に子供がいるの。」
エルシアの告白にオルウェンは言葉を詰まらせ真っ青になって悲壮な顔をした。何を勘違いしているのか、凌辱されて望まぬ相手の子を宿しておいて微笑んでいられる程エルシアは図太くない。だがオルウェンは囚われた女がどうなるか解っているし、エルシア程の美女をギスターナの人間が放っておくとも思えなかったのだ。
「勘違いしないで。この子は間違いなく旦那様の、セルガン辺境伯アルベルト様のお子だから。」
とんでもない考えをと平身低頭して詫びるオルウェンに、疑われても当然だからとエルシアは諭す。ようやく顔を上げてくれたのに再度地面に頭を擦り付けたオルウェンを上に向かせるのは大変だった。
「あなたやトマス、そしてマーガレットが酷い目にあった事でわたしが立ち止まってしまったのは事実よ。でもそのお蔭でこの子は無事でいられたの。」
オルウェンと同じように膝を付いて下腹部に手を寄せるエルシアは、容姿の美しさも相まってまるで絵画に描かれる聖女の様に慈悲深く微笑んでいる。オルウェンはその優しさに溢れた美しさに思わず見惚れてしまう。そんなオルウェンにエルシアは小さく微笑んで見せるものだから余計に魂を抜かれた気分にさせられてしまったが、反してエルシアが紡ぐ話の内容は当時の光景を鮮明に思い出させるものとなった。
「あの時馬を走らせて逃げたとしてもきっと追いつかれて囚われていたわ。暴れて抵抗して殴られでもしていたらどうなったと思う? ちょっとしたことで子供は流れてしまうわ。マーガレットが暴行されて、オルウェンやトマスまでもが傷つけられて、死んでしまうんじゃないかって慄いたの。それを見て怖かったから無駄な抵抗をしなかったのよ。だからこうしてこの子は宿り続けてくれている。わたしはそう思うわ。だからそんなあなたたちに罰なんて与えられない。どうしてもと望むなら、騎士に戻れなくても何らかの形で旦那様にお仕えして。長くセルガン辺境の為に尽くしてくれているあなたに罰を下すなんて、お願いだからそんな辛いことさせないで。」
ね? と首を傾け土を握るオルウェンの汚れた手に、エルシアの柔らかく小さな手がそっと重ねられる。間近で神々しいまでの美しさと慈悲に中てられたオルウェンが頷かない筈がない。それを後ろで見ていたレディスとマーガレットは、何の策略もなくこれをやってのけるエルシアを恐ろしいと感じつつ、だからこそアルベルトの心も捉えたのだろうと感心していたのだった。
*****
時が過ぎギスターナとの国境開放に向けた最終的な取り決めが行われ、特に改めるべき問題もなく調印が終了する。ギスターナは好戦的な国だが、次代の王となる王太子はこれ以上の国土拡大が何を招くのかを冷静に判断し、彼の時代がくれば無暗矢鱈に他国への侵攻はしなくなるだろうというのがアイフィールドの見解だ。それまで友好的な関係を続けられればいいがと願うのは、平和を愛する故の心情だろう。
両国間の友好を築くに辺り王女が互いの王子へと嫁ぐことが決定されていた。ギスターナからはアイフィールドの第一王子の元へ王女が一人贈られ、アイフィールドからはミレイユ王女がギスターナの王太子へと嫁ぐと決まる。それをウルリックより直接聞かされたエルシアは驚きに声をなくした。
ミレイユはエルシアが仕えた王女だ。まだ十歳と幼く嫁ぐ年齢ではない。けれど王女としてはあり得ない話でもなかった。こんな事になるなんてと悲痛な表情を浮かべたエルシアを前にウルリックが先に口を開く。
「お前のせいではないぞ。確かにアルベルトに頼まれたが、国境開放はお前を助け出す方便の様なものだったのだからな。だが意外にも相手が乗り気で国の為になると私が判断し、陛下のお許しを頂いて交渉をまとめたのだ。」
「ですがミレイユ様は―――」
まだ十と幼い。エルシアと一緒に庭を駆け回り淑女らしからぬと注意を受けるような子供なのだ。相手の王太子は既に成人し妻もいると心配するエルシアに、当の本人は何も悲観していないぞとウルリックは明るく告げた。
「王族なら政略結婚は当然のものと理解しミレイユも受け入れている。それに多少の年齢差はあるが正妃として迎え入れられるのだ。降嫁先に悩むよりは早々に決まって何よりだと陛下も安堵している。」
王女の嫁ぎ先と言えば政略的な意味合いが強く、臣下に嫁にやる場合も権力の集中を招く恐れがある為によく考えて嫁ぎ先を決めねばならない。年齢的な事を言うならミレイユと釣り合う年頃で相応しい地位にある存在はあまり多くはなく、嫁ぎ先の問題はもともと悩み所ではあったのだ。それがギスターナという大国の未来の王妃となる。国にとっては喜ばしいのだろうが、エルシアは見も知らぬ相手に、しかも他国へと嫁ぐ王女を案じて目を伏せた。そんなエルシアにウルリックはミレイユから預かって来た手紙を渡す。
「開封してみるといい。」
促され封を切れば、別れた当時よりも上達し綺麗になった文字が目に飛び込んで来た。手紙の内容は政略結婚については冒頭にほんの少し触れただけで、あとは嫁ぐ時にセルガンを通る、エルシアに会えるのを楽しみにしていると、一緒にやりたいことがこれでもかと書き連ねられ子供らしい内容となっていた。
「王女様は、よく解っていらっしゃらないのだわ。」
嫁ぐという事が、慣れ親しんだ場所を離れて不安になるというものがまだ解っていないのだ。自分のせいでこうなったという思いのあるエルシアは眉を寄せ俯き、ウルリックはそんなエルシアの頤を持ち上げると面白そうに笑って見せる。
「確かにミレイユは解っていないのだろう、このような幸せが待っているかも知れないという事を。」
エルシアの目が見開かれ、違うのか? とウルリックが片方の眉を器用に上げた。
「愛され、母親となるのは幸せな事ではないのか?」
ウルリックの碧眼が真正面よりエルシアを見据える。芯の通った強い眼差しに色恋につながる熱はなく、ただ一つの答えを待ち望んでくれていた。
「はい、とても幸せな事です。」
「ならばミレイユに教えてやれ。」
ウルリックがエルシアの後方に視線を移したのでつられる様に振り返れば、開け放たれた扉の向こうに大きな体を持つ辺境伯アルベルトの佇む姿があった。
「お前の幸せはそこにあるのだろう?」
エルシアから手を離したウルリックが優しく促し、促されるままエルシアも深く頷く。そして腰を落とし優雅な礼をとるとアルベルトに向かって踏み出した。アルベルトは迷うことなく妻を腕に囲い込むと、人目も気にせず身を屈め妻に口付けを落とす。夫に優しく名を呼ばれたエルシアは、ただ一人の人に向ける微笑みをもってアルベルトを受け入れた。
*おしまい*
最後までお付き合いありがとうございました。
読んで下さった皆様、評価や感想を下さったすべての方々に感謝申し上げます。
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登場人物紹介
・アルベルト=セルガン 辺境伯31歳。茶髪・灰を帯びた緑目・戦いでは容赦ないが普段はわりと温厚・とても大きな人
・エルシア=コーリン 17歳。紫の目・薄い金髪蜂蜜色・運動神経がいい。末娘・小さい。活発
・レディス=ウッドワルド 22歳。茶髪・灰を帯びた緑目・前辺境伯の妹の子・女性が好きだけど溺れない・エルシアを気に入っている。
・マーガレット 20歳。侍女・レディスの顔に初恋したが、女癖の悪さに辟易。
・ウルリック=アイフィールド 20歳。第三王子。金髪碧眼。王国騎士団。現在は副団長位に在籍しながら多方面に顔を出して勉強中。エルシアが好き。
・ミレイユ=アイフィールド 10歳。第二王女。おしゃまな感じ?
・イージス=ロペス 20歳・元カレ
・サミュエル アルベルトの子。9歳で死亡
・コーリン=パーシバル 27歳。ウルリックのお付き兼指導係のような人。
・オルウェン 中年。強い。
・トマス 22歳
・ピエネ 執事初老。
・デルク=オルガ 33歳.庶子。国境責任者。細身中背。女嫌いな男色家。
・アダム 27歳。エルシアに惚れてしまう。
・初老の小さな男。 足を引きずる。マーガレットのおじいちゃん。先代に多大な恩がある。
・アイフィールド王国 国境はギスターナと接しているだけ。豊かな国・海洋進出凄まじい?
・ギスターナ王国・好戦的軍事国家。大きくなりすぎて困ったことも起きている。




