妻と嫁と母
大晦日の一幕です。
「やっぱりな」
珍しく不機嫌なその人の顔を見上げて誤魔化すようにヘラリと笑ってみせたら、余計に険しい表情を返された。
「いつからだ」
その大きな手には体温計が握られている。
「いや、その、今朝から……」
「何で早く言わないんだよ、それを」
答えに詰まって、私はもぞもぞと足を動かした。ただでさえ背が高いというのに、私がベッドに寝転んで彼が仁王立ちをしているこの状況では押し潰されそうなほどの威圧感だ。
「ハルカ」
ため息混じりに言われ、何だか情けなくなった。新年を目前に、やらなければならないことは山ほどある。それなのに私はひとりベッドの中。
今朝から少し体がだるいとは思ってはいたけど、まぁこれくらいならとあまり気にせずにいたところを昼過ぎに真吾さんに取っ捕まったのだ。
「ハルカ、お前具合悪いんだろ」と。
そして有無を言わさず寝かされ、体温を計られ、今に至るというわけだ。
入籍をしたのが一昨年の年末で、今年の春にようやく結婚式が終わった。そして今、私のお腹には新しい命が宿っている。来年の春に生まれてくる予定の命を大切に育んでいるところだから、微熱でもつい神経質になってしまう。
「やっぱり嘉喜の方に行くべきだったな。その方がゆっくりできたろ」
真吾さんは険しい顔のまま言う。
階下からは賑やかな笑い声が聞こえ、申し訳なさで胸がちくりと痛んだ。
年末の忙しいときだというのに、真吾さんが昔使っていた倉持家の部屋でひとりぬくぬくと寝ているなんて。
妊婦として迎えるお正月、せっかくだから皆で集まろうと一昨日から倉持の実家にお泊まり。真吾さんは妊娠中の私を気遣って私の実家で過ごしてもいいと言ってくれたけど、私が倉持の実家で新年を迎えようと言ったのだ。
美咲と貴俊さんももちろん一緒で、おせちを用意してわいわい楽しく過ごすはずだった。
ただ――
「気ぃ遣いすぎたんだろ。だから疲れが出たんだよ」
真吾さんの言う通りなのかもしれない。
倉持の義母さんも義父さんもみんな暖かな人たちだけど、やはり嫁としてきちんとしなければと気を張る場面はあるから。
「ハルカ」
真吾さんの口調が厳しいのは私の体を心配してのことだとわかっているけど、責められているような気がしてたまらなくなって羽布団の下に顔を潜らせ、目から上だけを出した。
「体調、きついか」
「ううん、ちょっとだるいだけ。全然平気だよ」
「じゃあ、どうした」
「……なにが?」
「何が、じゃねぇだろ」
真吾さんが目をすっと細めた。
こ、こわい。
熱を出したくらいでそんなに怒るかなってくらい怖い顔をしている。
「ここんとこずっとだろ」
思わず羽布団から顔を全部出した。
仁王立ちだった真吾さんがすっとベッドの横に屈み込む。
「今日という今日は逃がさない。言え」
真吾さんが屈み込んだまま私の目をまっすぐに見つめてきた。
「最近どうした」
なんだ、気づかれてたんだ。
何も言ってこないから、気づかれてないと思ってたのに。
「なんでも……」
「なんでもなくないのはわかってる」
あっさりと遮られてしまい、追い詰められた獲物のような心持ちになった。
真吾さんはしばらく私の顔を観察したあと、「ちょい寄って」と言って私の隣に体を横たえた。小さなベッドがきしりと軋む。
「ちょっ……」
何をするつもりだと焦ったけど、真吾さんはただ添い寝をするようにごろりと横になり、片腕で頭を支えて私の顔を覗き込み、まあるく笑った。
「っ……ずるいっ」
さっきまであんなに怖い顔をしてたのに、突然そんな風に笑うなんて。追い詰められて張りつめていた糸がぷつんと切れてしまって。
「泣いとけ、泣いとけ」
気が付いたら涙があふれていた。
「頑張りすぎたか」
大きな手に頭を撫でられて、子供みたいに泣いてしまう。
夏に妊娠がわかってから、生活の中心がお腹の子供のことになった。
夜更かしをしない、
健康的な食事をする、
もちろん禁酒、
清潔な生活をする、
イライラしない、
体重制限に胎教に……
子供のためと思えばちっとも苦じゃないよと先輩ママさんに言われ、たしかに苦ではなかったけど、環境の変化に戸惑いはあった。
少しずつお腹が膨らんできたとはいえ、まだまだ母親になるという覚悟が整ったとは言えなくて。
真吾さんは仕事柄出張が多く、平日の帰宅は大抵夜中の1時を回ってから。そんな忙しい日々だから、リラックスして心地よく過ごせる家をと思うのに。
産休に入る前に仕事の引き継ぎもしなければならないし、もともと低い家事能力も相俟って、私の心はパンク寸前だった。
「そんなになるほど溜め込んで。バカだな。いや、バカは俺か。気づいてやれなくて悪かったな」
ぽんぽん、と宥めるように肩を叩かれる。
「いつからそんなになってたんだ」
いつから、だろう。
少しぽっこりしたお腹に手をあて、ゆっくりと撫でながら考えてみると、答えは意外と簡単に見つかった。
妊娠がわかった直後に真吾さんと出掛けたお店で出会った女性。
『倉持?』
そう声を掛けられて振り返ると、ドえらい美人が立っていた。すらりと背が高く、さらりと持ったセリーヌのラゲージがものすごくよく似合っていた。
『おお、澤井。久しぶりだな。ハルカ、元同級生の澤井……だ』
『あんた、私の下の名前忘れたでしょ』
『あ、バレた?』
『ほんっとに相変わらずな奴』
フンッと鼻で笑うその感じがちょっと意外だった。真吾さんのお友だちの女性の圧倒的多数はもっと妖艶な感じだから。
『澤井、こちら俺の奥さん』
『はじめまして。澤井かずさです』
ああそんな名前だったな、と呟く真吾さんをまた意外な思いで見つめる。この人が女性の名前を忘れるなんて。
『しっかし、あんたが結婚するとはねぇ』
かずさ女史はにやりと笑った。
その笑い方は美人なのに本当にさっぱりしていて、思わずぼーっと見惚れた。
『ハルカ、お前見すぎ』
『あっごめんなさい、お綺麗なのでつい』
『それは光栄。趣味のいい奥さんだね』
『お前は相変わらずの自信家だな』
『お陰さまで。あんたほどじゃないけど。結婚したって噂では聞いてたけど、本当に幸せそうで何より。おめでと』
『おう、さんきゅ』
そんな短い会話が終わって別れ、『あの人も元カノ?』と聞いてみたら、真吾さんは笑って首を振った。
『あいつは俺なんか相手にしないよ。ものすごいやり手の恐ろしい奴だ。あれで5ヶ国語もしゃべれんだぞ』
衝撃を受けた。
5ヶ国語を話せることに、ではない。
真吾さんに認められているその感じに。
たぶんあの頃からだ。
もやもやが始まったのは。
「ハルカ、全部吐き出せ。ちゃんと聞くから」
大きな手で頬を包まれ、観念して口を開いた。
「澤井さん」
「澤井? あいつがどうした」
「うらやましかった」
真吾さんの眉間に深いシワが寄った。
「うらやましい? あいつが? なんで?」
本当にわからないって感じの顔で、真吾さんは言った。
それに。
「美咲も」
一昨年の秋に結婚式を挙げ、今年の夏に母になった美咲は楽しそうなマタニティライフを送っていた。家事が得意で働き者の美咲は、妊娠中もちゃんと家事をこなし、お姑さんである貴俊さんのお母さんを感心させたほど。
その名前を出した途端、長い腕が伸びてきて頭を抱き込まれた。
いい妻で、いい会社員で、いい嫁で、いい母でいたい。そう思うのに。
「美咲ちゃんがうらやましい?」
呆れたようでいて優しい声が、抱き込まれた胸から直接に響く。
「澤井さんが美人だとか、何ヶ国語も話せるとか、美咲は家事ができるとか、そんなのもうらやましいけど」
「うん」
「それよりも」
「うん」
「だって」
「うん」
どうしても続きを口にできない。子供っぽすぎて。
泊まりの出張から帰ってくると、いつも真吾さんは真っ先に部屋の片付けをする。「たった数日でよくこんなに汚せるな」と笑いながら。
洋服こそハンガーに掛けるようになったけど、油断するとすぐにストッキングの脱け殻をソファに放置してしまったり、読んだ新聞をついついサイドテーブルの上に積み重ねたりと、汚部屋製造業はいまだに現役。
料理だっておいしいものが出来上がることは稀で、真吾さんは笑いながら「そのうちメシマズ嫁blogでも開設するか」なんて言う。
そんな妻で、そんな嫁で、もうじきそんな母になる。
「肩を並べて歩きたいのに」
真吾さんはその一言で理解したらしかった。隣でごろんと仰向けになり、天井を見上げて言う。
「なるほど。だから澤井か」
そしてひとつ、ため息をついた。
「ハルカ。俺はハルカと結婚したんだ。澤井でも美咲ちゃんでもなく。結婚する前から料理の味も部屋のカオスっぷりも知ってる。俺はハルカがよくて結婚したんだ」
「でも、真吾さんは」
一緒に暮らしてみてわかったけど、真吾さんは本当にすごい。
1時を回って帰ってきても翌日は必ず6時に起き、朝食とコーヒーを準備して私が起きるのを待っていてくれる。仕事でのイライラを家に持ち込むこともなく、わたしの失敗もほとんど笑ってくれる。喧嘩をしても、必ず翌日には機嫌がなおる。
出張もお付き合いの飲み会も多いけど週末はあちこちに連れていってくれて、記念日や行事は大切にしてくれるし、妊娠してからはわたしの体のことも常に気遣ってくれる。
妊婦さんの勉強会でも、よく「素敵な旦那さんね」とうらやましがられた。
「どう考えても、割りに合わないでしょう」
この人はきっとどんな人と結婚してもうまくやれるのだろうと思う度、私もそれに見合う妻になろうと頑張って。
「あってるんだよ。俺は世話するのが好きなんだ。からかうのもな。すぐに子供みたいにムキになるハルカを見てるのが好きだし、それで癒されてるんだよ」
まるで信じてないっていうのが伝わったのだろう。真吾さんは考え込んでいる空気だった。そして唐突にむくりと起き上がり、「ちょっと待ってろ」と言ってベッドを抜け出して静かに部屋を出て行った。
そして連れてきたのは天使もとい茜ちゃん。貴俊さんの妹だ。
「茜が一番詳しい」
「何に?」
「俺の生活ぶりに」
「へ?」
「な、茜」
「うん。真兄の昔の話でしょ。真兄の家、すごく便利な場所にあったからときどき泊まらせてもらってたんだよね」
「その頃のことハルカに言ってやって」
「うん。まず、滅多に家に帰らない」
茜ちゃんは事も無げに言った。
「たまに家に帰る日は『今日は来るな』って日で」
つまりそれは茜ちゃんが来ると都合の悪いシーンが繰り広げられていたってことですね。
「普段は会社に泊まるか外泊するかでほとんど家に帰らなくて、まともな食事も摂らなくて、家はいつ行ってもジメッとしてて、お手伝いさんの斉木さんを呼び出して片付けてもらうこともよくあって、休日は二日酔いで寝潰して、いつ会っても充血した目で」
「待って待って、誰のこと?」
「ハルカに出会った頃の俺のこと」
嘘だ。
出会った頃からこの人は隙のない男だった。チャラいオーラはあったけど、そんな乱れた生活をしているようにはとても見えなかった。
「真兄は器用で隠すのが上手だからね」
茜ちゃんが笑った。
「ハルカさん、知らなかったの? 知ってると思ってた。家族は真兄がものすごく荒れてた時期を知ってるから、叔母ちゃんも叔父ちゃんもお父さんもお母さんもお兄ちゃんも私もお祖父ちゃんもお祖母ちゃんもハルカさんに感謝してるし、大好きなんだよ」
「俺もな」
そう真吾さんが笑った。
「夜中になっても家にちゃんと帰ろうと思うのはハルカがいるからだし、出張帰りには家の惨状を思い浮かべて早く帰って片付けないとと思う。朝が弱いハルカのためにコーヒー淹れるために先に起きようって思うし、休日も家で好きな映画見たり買い物行ったり走りに行ったりしようって思えるんだ。澤井とは5分も一緒にいたら喧嘩になるし、美咲ちゃんは俺がからかったらたぶん泣く」
「真兄は頑固だしね」
「おう。だから気が強すぎて弁のたつ人も、萎縮しちゃう人とも合わない。」
「真吾さんは誰とでもうまくやれる人だと思ってた」
「そんなわけねぇだろ。ハルカがそう思うのは、ハルカと俺の相性がいいからだ」
そして、誰とでもうまくやれるこの人には、もっと優秀で、もっと家庭的な奥さんがふさわしいと――
「だって、私じゃ相殺しちゃう」
しめっぽいのは嫌いだというのに、ついついまた涙がこぼれ、茜ちゃんが目を丸くする。
「そうさい?」
「子ども、私に似てバカだったらどうしよう。類い稀な短足遺伝子が受け継がれたら」
澤井さんみたいな奥さんなら、どっちに似ても美しくて優秀な子が生まれるだろう。美咲みたいないい奥さんなら、暖かい家庭でいい子に育つだろう。子どもが私にそっくりだったらどうしよう。
そう言った途端、真吾さんと茜ちゃんが顔を見合わせて噴き出した。
「ハルカさん、相殺されないと困るよ」
「え?」
「こんなちゃらんぽらんナルシストがまた生まれたら家族はみんなやきもきしちゃうねって、こないだも話してたんだよ。真兄のこと、叔母ちゃんも叔父ちゃんもすんごく心配してたんだよ。だから真面目なお嫁さんでよかったねって。頑固なところも、押しに弱いハルカさんならきっと中和されるだろうって話してて。ハルカさんに似てる子が生まれたら真兄が溺愛してやばいことになりそうだねとも」
そんなことを。
そんな風に思ってくれてたなんて。
「入籍してもう2年も経つのに、今さらそんなことで悩むなんて」
そう言った真吾さんの肩を、茜ちゃんがばしんと叩いた。
「ちがうよ、真兄。妊娠中はホルモンバランスとか気持ちの変化とか色々あるんだから。旦那さんがしっかりしないといけないんだよ。ハルカさんが不安になっちゃったのは真兄のせい」
「そうか。ハルカ、ごめん」
「ううん、私こそ。子どもみたいなこと言って」
不思議なほど、気持ちがすっきりしていた。
そして微笑んだ瞬間、体の中で動きがあった。
「あ」
「どうしたハルカ」
「動いた」
「え?」
「胎動」
それははじめての胎動だった。
真吾さんがうれしそうに私のお腹に手をあてたけど、すでに動きはおさまっていた。
「このタイミングか。すごいな」
「ハルカさんが安心したのが伝わったんだね、きっと」
「うん、そうかも」
へへ、と笑いながら真吾さんと顔を見合わせ、ふたりでお腹を撫でていると、茜ちゃんが「じゃあ、私はお邪魔なのでそろそろ下に行きまーす」とニコニコしながら部屋を出て行った。
明るくて気遣いのできる可愛い妹分だ。
「さて」
ドアが閉まるなり、真吾さんの目が光った。
「な、なに」
「俺がしっかり愛を伝えてなかったのが原因らしいからな」
「いや、そんなことは誰も」
そうこう言っているうちに、真吾さんが覆い被さってくる。
「壁ドンてのが流行ってるらしいな。床ドンも。試してみる?」
「いや、それ、もう廃れ気味だと……んむっっっ」
もごもご。
真吾さんが少し顔を離し、にやりと笑った。
「で? どうよ? 初ドンは」
「うーん。去年課長にやられたときの方がドキドキしたかな」
今のも少し赤ちゃんが動いたけど。
「……ほぉ?」
比べちゃあかん。
比べたらあかんかった。
そのことを思い知るまであと10秒。
息継ぎもできないほどの――
そんな感じで、新年まであと少し。
本年もありがとうございました。
来年もよろしくお願い致します。