ep.14【月下の白紙】
午前零時。壁時計の針の音だけが、鼓動のように鳴り続ける、夜。
その少女は、窓から差し込む月明かりに背を向け、目の前のスケッチブックに向かっていた。
「・・・困ったな。全然巧く行かない」
その黒髪を、今は寝巻の背中にゆるりと垂らし、少女・・・野村優香は呟く。
ベッドに腰かけた彼女の周りには、散乱する幾枚もの写真。
この写真というのは勿論、黒沢カヅキのあられもない姿が収められているアレである。
家族が寝静まったのを確認し、起き上がり。憧れの先輩の輪郭を辿るために握った鉛筆。
尖った芯の先で追いかけたのは、自分の描きたいイメージ。その筈だったのに。
どうしてだろう、すっかり鉛筆の芯が丸くなった今になっても、思い通りのモノが描けない。
止めるタイミングを見失った優香の手元からは、幾重もの線が乱れ飛んでいた。
――やっぱり、人物は苦手だわ。
優香は時折、ため息をつく。
「これじゃ・・・まるで私じゃない」
描き終えた一枚の絵を、握るように破り捨て、優香は一思いにその背をベッドに預けた。
先程まで必死で模写していた写真を、やる気無く自身の前に掲げ、またため息。
「なんで私・・・先輩の笑った顔、一枚も撮れなかったんだろう?」
人物画は苦手だ。鮮やかな表情が、生気に満ちた肉体が、素敵過ぎて手が震える。
でも描きたい。それを描き終えたら、きっと何か、変われる気がして。だから勇気を出して、一番輝いている人にモデルを頼んだ。
・・・なのになんということだろう。
折角手に入れたモデルの写真はどれも、陰鬱な表情を収めたものばかり。
「確かに・・・この先輩も素敵。神秘的で、格好よくて・・・」
でも、これは自分の憧れた黒沢カヅキの姿ではないような、そんな気がしてならない。
「先輩の・・・笑った顔が描きたかったな・・・」
もう一度、写真を撮らせてくれと頼んでも、先輩は許してくれるだろうか。
・・・否、あの優しい先輩のことだ、きっと許してくれるに違いない。
それでも、優香には解っていた。自分が今回、黒沢カヅキと接触して無事でいられたことは、一つの奇跡だったのだと。
ずっと日陰で生きていた。人前に出ることすらままならない、影のような存在。
そんな自分が、沢山の友人に囲まれて、太陽の下で輝くあの人に、触れることが許される筈がないのだ。
痛む胸を抑え、優香は瞳を閉じる。
「先輩が・・・描きたいよ」
息をするのも忘れるほど、夢中に、その思いに焦がれる。
――・・・なのに。
今、ベッドの下に散らかっているであろう、破り捨てたスケッチブックの破片を思い出し、優香はため息をつく。
人物を描くのは苦手だ。特に、暗く沈んだ顔を描くのが苦手。
優香がその手の顔を描くと、いつの間にか、自分にとても似た顔になってしまうのだ。
――・・・先輩の、笑った顔が描きたい
自分にはとてもできないような、明るい笑顔の先輩。
――それだったらきっと、今よりも巧く、先輩の姿が描けるから。
そこまで考え、優香の意識は途切れる。
本来医者に定められていた就寝時間は、もうとうに過ぎていたのだ。
彼女の薄い身体は、今静かな寝息に揺れ始め・・・そして夜は更けて行く。
弱気な少女は、月明かりに蹲る。
日の光に憧れる一人の少女の世界は今、闇に満ちていた。