ep.12【ゲノムと僕】
さて、一体僕は今、どういう状況にいるのだろうか。
全ての元凶に違いない存在、ゲノムは記憶喪失だというし、
意味深な発言をした巨大な化け物も、僕に恐怖心のみを植え付け、消え去ってしまった。
・・・キボウツキだの・・・ゲノムの手に墜ちただの。さっぱり意味がわからない。
ただ、僕が何やら危なっかしい事件に巻き込まれようとしていることだけは確かなようである。
「わしは、自分がなぜここに存在しているのかがわからぬ。
何も覚えておらぬのじゃ。気が付けばあの学校の・・・屋上に倒れておった」
家に帰る道すがら、ぽつりぽつりと語ってくれたゲノムの話はこうだ。
昨日の朝、校舎の屋上で目を覚ましたゲノムには、自分の名前以外の全ての記憶がなかった。
手掛かりを探して、校舎中を歩いてみたが、どこにも人気がない。
・・・そりゃそうだ。昨日は運動会の翌日、つまり振り替え休日だったわけで、学校に来る生徒などいなかった筈である。
誰もいない建物内を放浪し、ゲノムは途方に暮れた。
「とにかく腹も減っておった。何か食べ物はないかとそこらじゅうを探しておったら、
教室の棚の中から、ポテトチップスなるものを拾った」
どうも、どこかの誰かが先生に内緒で、学校にお菓子を持ちこんでいたらしい。
ゲノムはそれでなんとか空腹を満たし、一息ついたその時、
「やつが・・・あの影のような奇妙な化け物が現れたのだ」
それは本当に突然の出来事。
なんとなしに天井を振り仰いだゲノムは、自分の足元から伸びる黒い影が、天井を覆い、白い眼球を剥いてこちらを見下ろしていることに気づいた。
悲鳴すらあげず、ゲノムは本能的に駆けだす。教室を抜け出したゲノムを、暗い二つの瞳はじっと見つめていたという。
「殺意・・・とでもいうのじゃろうか。あれはわしを殺したいのじゃ。それがわかったから、わしは逃げた」
ゲノムは逃げた。校舎を、校庭を、人目につかない道を探し、路地裏を縫うようにして走り続けた。
「なのに、やつは気が付けばわしの間近にいる。やつの攻撃を死ぬ気で避けながら、わしは走り続けなければならなかった。
・・・ただ、太陽の光だけは苦手みたいでの、日差しの強い場所にだけは、近づいてこようとしなかったのじゃ」
走りながらゲノムは考える。
奴に太陽の光を浴びせることができたら、この途方もない追いかけっこに終止符を打てるかもしれない。
ゲノムは自身の唯一の持ち物である双眼鏡に目を落とす。
一見頑丈なそれは、ゲノムが少し力を入れて掴んだだけで、簡単に割れた。この怪力もまた、ゲノムが神がかりであるが故である。
「中のレンズを使って、太陽の光を集めるのじゃ。我ながら、賢いアイデアじゃろ?」
そうしてレンズ越しに集まった日差しは、化け物の肌を焼き・・・
「確かに一度、やつは死んだ」
聞こえたのはくぐもった悲鳴。肉が焦げるような異臭が、ほんの数瞬だけ辺りを漂い、そして消えた。
ゲノムが瞬きをする暇すらなかった。気が付けばもう、そこに化け物の姿はなくなっていた。
「死んだと思っていたのじゃ・・・」
完全に気を抜いていたゲノムは、日暮れと共に再び姿を現したその姿に、驚愕したという。
『ワタシはキサマの"アシアト"なのだ。キサマがソンザイするカギり、ワタシもまた、ここにアる』
恐怖に立ちすくむゲノムの前で、影のような化け物は、紅い口を歪めて笑った。
「・・・それで、その後に起きたのがあのトイレ爆破なわけですかい」
そう呟き、僕は脳みそをフル回転させ、これまでに聞いたゲノムの話を整理する。
やはり当初の予想通り、ゲノムは学校のトイレ爆破に深く関わっていたらしい。
膨張する化け物、破裂するトイレ。そしてその化け物に対抗する、ゲノムの不思議な力。
一命を取り留め、今僕の隣に存在しているこの謎の美幼女の口から出てくるのは、にわかには信じられない、衝撃的な真相だった。
あまりにも非現実的な展開に頭痛すら感じるが、自分が巻き込まれている以上、現実として直視するしかないだろう。
「うむ。今度こそはやつを仕留めたと思っていたのじゃがの。
今日の再来を見る限り、やはり無駄じゃったらしい。」
ため息をつき、ゲノムはずずっとお茶を啜る。静岡産の高級煎茶である。
僕の家にあるこれを見つけた途端、「飲みたい!」と騒ぎだしたので、煎れてあげたのだ。
「・・・ちなみに、牛乳とか、オレンジジュースとかも用意してますが」
「そんな子供くさい物、わしが飲むわけないじゃろう」
ゲノムという名前のこのお子様は、見た目に似合わず大人びた嗜好をお持ちのようで、
僕の気の効いた提案も、御覧の通り一蹴りである。
・・・そう、ゲノムは今、湯のみ片手に僕の部屋にいる。その隣に転がっているテディベア、白貴族アルフィーも一緒だ。
記憶喪失で帰る場所もないというこの幼女を、あのまま路上に放置するには、僕という人間はあまりにも良識的すぎたのだ。
ちなみに、僕は現在、学校指定のジャージから、普段着のジーパンスタイルに着替え済み。自分の着替えが終わると今度は、目の前の幼女の服もどうにかせねばと考えを巡らせ始める。
「まぁとにかく。まず服をどうにかしようか。僕のジャージじゃ、いくらなんでもおかしすぎるもんね」
そう言って僕は立ちあがり、クローゼットに向かう。
掛けられた衣装にさっと目を通し、ゲノムに着せられる服はないか探してみる。
「んー・・・一応これ、僕が小学生の時に着てたやつなんだけど。ゲノムにはやっぱり大きすぎるか」
手に取ったのは、パールピンクのサロペット。裾と胸元に小花模様があしらってあるタイプで、少女趣味な叔母からの誕生日プレゼントだったりもする。
「・・・」
テコテコと、背後で足音が聞こえた。
クローゼットを開けた様子に興味を持ったらしく、ゲノムが近寄って来たのだ。
「こっちの服も・・・ああ、やっぱり大きすぎる」
幼い頃から発育の良かった自分が恨めしい。
クローゼット内に保存してあった過去の衣類はどれも、ゲノムのサイズに見合わない代物だった。
「・・・仕方ない。陽一の服を借りてくるから、ゲノムはしばらくここで待ってて・・・・」
そう言って振り返った僕は、大口を開けて呆けている美幼女の姿を見た。
その視線はクローゼットの中身と、壁に掛けられた僕の学生服の間を行ったり来たり、定まらない様子だ。
――・・・まさか。沢山の服が珍しいのか?
素裸で往来をうろちょろしていた姿を思い出すと、どうしても疑わずにはいられない。
この幼女、もしかして、きちんとした服を持っていないのではないだろうか。
不意に、僕の胸に同情の念が押し寄せる。
記憶喪失で、服もなく、身の寄せどころすらわからないという幼女、なんてかわいそうなんだろう。
・・・そう思い、思わず涙ぐんだその時、我に返ったゲノムが、ようやく言葉を発した。
「カヅキ殿・・・まさかとは思うが、おぬし・・・おなごかっ!?」
その衝撃のあまり、頭両サイドのバネはピンと高く跳ねあがり、目は潤んでいる。
「・・・うるせぇよ。今気づいてるんじゃねぇよ・・・」
がっくし項垂れ、僕は返す。
・・・いや、慣れてるんだけどさ。こういう反応。それでも痛いわ。乙女心がチクチク痛いわ。
「いやっ!すまなかった。わしはぬしが男であるとばかり!」
「・・・いいよいいよ。慣れてるよ。どーせ僕なんか女に見えませんよ」
心なし卑屈になりつつ、僕はゲノムに背を向けた。
とにかく、陽一の部屋から、適当な服を持ってきてあげよう。
この様子じゃ、ゲノムはしばらくうちに住ませたほうが良いだろうから、叔母さんにも紹介しないとな・・・
僕はそんなことを考えながら、部屋のドアを開ける。
「・・・いやっ!女に見えないどころか、ぬしは外見も心も、昨今稀に見る真の男ぞ!」
――・・・うるせぇよ。
背後で聞こえるゲノムの(おそらくは)称賛に、より一層頭を痛めながら。
僕はトボトボと、廊下を歩いて行ったのだった。