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完璧な令嬢は泣けない ~冷酷な旦那様、どうして私の涙に気づくのですか~  作者: 凪乃


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7/12

冷酷公爵が失ったもの

 あの日以来、クラウス様との距離が変わった。


 変わった、といっても劇的なものではない。朝食の席でほんの少し言葉が増えた。廊下ですれ違うとき、微かに頷いてくれるようになった。書斎の扉が、いつからか少しだけ開いている。


 それだけのことだ。


 でも私にとっては——大きな変化だった。


  ◇


 ある午後、書斎を訪ねた。


 クラウス様は机に向かっていたが、書類ではなく古い手帳を見ていた。革の表紙が擦り切れている。ずいぶん昔のものだろう。


「お邪魔してもよろしいですか」


「……ああ」


 手帳を閉じ、引き出しにしまう仕草が少しだけ慌てていた。


 暖炉の前の椅子に座った。リーゼが紅茶を持ってきてくれて、静かに去っていく。


「クラウス様。先日、お母様のことを少しだけ聞きました」


「……ああ」


「もし——差し支えなければ、もう少し聞いてもいいですか」


 クラウス様は暖炉の火を見ていた。長い沈黙の後、口を開いた。


「母は——マルガレーテといった。元は男爵家の娘で、政略結婚でこの家に来た」


「政略結婚……」


「父は社交界で名を馳せることにしか興味がなかった。母はこの領地で、領民のためにできることを一人でやっていた」


 一人で。


 その言葉の重さが、胸に沈んだ。


「水路の整備も、冬の備蓄計画も、全て母が始めたものだ。父は金を湯水のように使い、母が節約して領地を守った。領民は母を慕った。父は——母の功績を、自分のものとして社交界で語った」


「……」


「母は怒らなかった。不満も口にしなかった。ただ——少しずつ体を壊していった」


 怒らなかった。不満も言わなかった。


 それは——私に似ている、と思った。


「十五のとき、母が倒れた。医者を呼んだが手遅れだった。長年の過労だと言われた。父は——葬儀にも出なかった。社交の予定があると言って」


 クラウス様の声は平坦だった。感情を押さえ込んでいるのではない。何度も思い返して、もう平坦にしか語れなくなったのだ。


「母が最後に言ったことを覚えている。『この土地を頼みます』と。私にではなく——窓の外の、凍った庭に向かって」


「……庭に」


「母はこの庭に花を植えたかった。毎年春になれば花が咲く庭を。けれど領地の魔力が歪み、霜が消えなくなっていた。父の無関心が土地を凍らせた。母の願いは——叶わなかった」


 だから、クラウス様は庭に花を咲かせたいのだ。


 お母様の願いを、引き継いで。


「クラウス様が領主を継いでから、領地は良くなったのですね」


「少しずつは。だが、霜はまだ残っている。領主一人の努力では、土地の魔力は完全には癒えない」


「それでも——ヨハンが言っていました。領民は皆、クラウス様を慕っていると」


「……」


「私も、そう思います」


 クラウス様が私を見た。いつもの鋭い目。でも、その奥に——揺れるものがあった。


「あなたに似ている、と思ったことがある」


「私に?」


「母に——ではなく。あなたに。母は我慢して壊れた。あなたは我慢していることにすら気づいていなかった。似ているが、違う」


「……違いますか」


「母は選択肢があったのに我慢した。あなたは——選択肢があることを教えてもらえなかった。だからこそ——」


 クラウス様が言葉を切った。


「あなたが怒ったとき、安心した」


「安心?」


「選択肢を見つけたのだと思った。怒ることは——自分の意思で動くことだから」


 自分の意思。


 家族の命令ではなく。完璧の規範ではなく。私自身の感情で、私自身が決めること。


 怒りは——自分の意思の発露だった。


「私は——もう少し、色々なことを感じてみたいです」


「……そうか」


「クラウス様のおかげです。この場所に来なかったら、怒ることも、悲しむことも、笑うことも——知らないままでした」


 クラウス様は何も言わなかった。ただ、暖炉の火を見ていた。


 その横顔は、少しだけ穏やかだった。


  ◇


 夜、部屋に戻ると、窓の外に月が出ていた。


 この屋敷に来て初めて、月を見た気がする。いつもは霧に隠れているのに。


 クラウス様が失ったもの。お母様という人。領地への願い。孤独な十年。


 私が失ったもの——いや、最初から持っていなかったもの。感情。自分の意思。「好き」という言葉。


 似ている、とクラウス様は言った。


 私もそう思う。


 傷の形は違うけれど、凍えていたことは同じだ。


 そして今、二人とも——少しずつ、溶け始めている。


 月の光が庭を照らしていた。泉の氷に、昨日より多くのひびが入っている。


 春は、まだ遠い。


 でも——近づいている気がした。


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