冷酷公爵が失ったもの
あの日以来、クラウス様との距離が変わった。
変わった、といっても劇的なものではない。朝食の席でほんの少し言葉が増えた。廊下ですれ違うとき、微かに頷いてくれるようになった。書斎の扉が、いつからか少しだけ開いている。
それだけのことだ。
でも私にとっては——大きな変化だった。
◇
ある午後、書斎を訪ねた。
クラウス様は机に向かっていたが、書類ではなく古い手帳を見ていた。革の表紙が擦り切れている。ずいぶん昔のものだろう。
「お邪魔してもよろしいですか」
「……ああ」
手帳を閉じ、引き出しにしまう仕草が少しだけ慌てていた。
暖炉の前の椅子に座った。リーゼが紅茶を持ってきてくれて、静かに去っていく。
「クラウス様。先日、お母様のことを少しだけ聞きました」
「……ああ」
「もし——差し支えなければ、もう少し聞いてもいいですか」
クラウス様は暖炉の火を見ていた。長い沈黙の後、口を開いた。
「母は——マルガレーテといった。元は男爵家の娘で、政略結婚でこの家に来た」
「政略結婚……」
「父は社交界で名を馳せることにしか興味がなかった。母はこの領地で、領民のためにできることを一人でやっていた」
一人で。
その言葉の重さが、胸に沈んだ。
「水路の整備も、冬の備蓄計画も、全て母が始めたものだ。父は金を湯水のように使い、母が節約して領地を守った。領民は母を慕った。父は——母の功績を、自分のものとして社交界で語った」
「……」
「母は怒らなかった。不満も口にしなかった。ただ——少しずつ体を壊していった」
怒らなかった。不満も言わなかった。
それは——私に似ている、と思った。
「十五のとき、母が倒れた。医者を呼んだが手遅れだった。長年の過労だと言われた。父は——葬儀にも出なかった。社交の予定があると言って」
クラウス様の声は平坦だった。感情を押さえ込んでいるのではない。何度も思い返して、もう平坦にしか語れなくなったのだ。
「母が最後に言ったことを覚えている。『この土地を頼みます』と。私にではなく——窓の外の、凍った庭に向かって」
「……庭に」
「母はこの庭に花を植えたかった。毎年春になれば花が咲く庭を。けれど領地の魔力が歪み、霜が消えなくなっていた。父の無関心が土地を凍らせた。母の願いは——叶わなかった」
だから、クラウス様は庭に花を咲かせたいのだ。
お母様の願いを、引き継いで。
「クラウス様が領主を継いでから、領地は良くなったのですね」
「少しずつは。だが、霜はまだ残っている。領主一人の努力では、土地の魔力は完全には癒えない」
「それでも——ヨハンが言っていました。領民は皆、クラウス様を慕っていると」
「……」
「私も、そう思います」
クラウス様が私を見た。いつもの鋭い目。でも、その奥に——揺れるものがあった。
「あなたに似ている、と思ったことがある」
「私に?」
「母に——ではなく。あなたに。母は我慢して壊れた。あなたは我慢していることにすら気づいていなかった。似ているが、違う」
「……違いますか」
「母は選択肢があったのに我慢した。あなたは——選択肢があることを教えてもらえなかった。だからこそ——」
クラウス様が言葉を切った。
「あなたが怒ったとき、安心した」
「安心?」
「選択肢を見つけたのだと思った。怒ることは——自分の意思で動くことだから」
自分の意思。
家族の命令ではなく。完璧の規範ではなく。私自身の感情で、私自身が決めること。
怒りは——自分の意思の発露だった。
「私は——もう少し、色々なことを感じてみたいです」
「……そうか」
「クラウス様のおかげです。この場所に来なかったら、怒ることも、悲しむことも、笑うことも——知らないままでした」
クラウス様は何も言わなかった。ただ、暖炉の火を見ていた。
その横顔は、少しだけ穏やかだった。
◇
夜、部屋に戻ると、窓の外に月が出ていた。
この屋敷に来て初めて、月を見た気がする。いつもは霧に隠れているのに。
クラウス様が失ったもの。お母様という人。領地への願い。孤独な十年。
私が失ったもの——いや、最初から持っていなかったもの。感情。自分の意思。「好き」という言葉。
似ている、とクラウス様は言った。
私もそう思う。
傷の形は違うけれど、凍えていたことは同じだ。
そして今、二人とも——少しずつ、溶け始めている。
月の光が庭を照らしていた。泉の氷に、昨日より多くのひびが入っている。
春は、まだ遠い。
でも——近づいている気がした。




