もう1人
十夜から、無事に現地に着いてなんの滞りもなく仕事をしているとメッセージが届いていた。
「とりあえず一安心、かな」
野菜ジュースを飲み干して、ジャージに着替える。最小限の荷物だけ持って、足早に家を出た。時刻は午前8時40分。たった1日しか特訓はしていない、いや、そもそも特訓なんてものでもなく、一方的な蹂躙だったが、それでもカイシは何やら掴んでくれたらしい。
今の八夜に必要なもの、足りないもの。
「そればっかりだとは思うけど……」
人目を避けながら、足に力を込め、超スピードで廃墟まで向かう。休日の朝だからだろうか、人通りは思ったより少なかった。だからと言って油断はできない、うっかり人に見られて騒ぎになって、対策局への通報、というのも厄介だが、もっと最悪の場合は他の怪異宿しに目をつけられる可能性だ。竹水つぐみがいい例だろう。
「……虎、今どこで何やってるんだろう」
『結構ダメージ入ってたし、しばらくは大人しくしてるんじゃないかな』
「……だと、いいんだけど」
今、彼が再び暴れたら、カイシはどういう反応をするんだろう。圧倒的に八夜より強い『完全体』の方に興味を持っていかれるんじゃないだろうか。自分を殺しうる強い存在を探している彼にとって、虎はピッタリの人材に思う。もし、鞍替えされて、虎が今よりも更に強化されるなんて事になれば、もう本当に対抗する術が無くなる気がする。
「私が折れるのは色んなリスクがある、のかな……自惚れなら私が恥かくだけで済むんだけど……」
『残念ながら事実かなぁ。強くなるならあのバケモノは上手く利用していく他ないね』
利用する、あくまで自分の目的の為だけに。と思ったが、そもそもカイシの目的はなんなのだろう。知らず知らずのうちに彼の野望に加担している可能性が無きにしも非ず、だが。
「そういう感じはしないんだよね……」
『何考えてるかは分かんないし、嫌な感じはずっとするけどね』
「嫌な感じ……するかな? 怖い時がほとんどだけど、でも不思議と、悪い感じはしないよ?」
『この短期間で何回か殺されかけてよくそんな事言えるね? 恐怖で感覚ぶっ壊れちゃったんじゃないの』
「いやそうじゃなくてさ」
「そこの2人、少し良いかな?」
軽い男の声が、2人の会話を遮った。反射的に言葉を止めてしまうが、一瞬遅れてその異常事態に気付く。確かにアサと会話していたが、彼女は八夜の中から髪の毛一本出していない。出していたのは声だけだ、聞こえたとしても、スピーカーをオンにして電話をしていると思われるだけだろう。
だから、声をかけられるとしても、呼び止められるのは八夜だけが自然だろう。明らかに、2人を呼び止めるのは不自然だ。
あっという間に起こってしまった避けたかった『最悪のパターン』だ。
(この人……怪異だ)
恐る恐る振り返ると、柔和な笑みを浮かべたスーツ姿の男が立っていた。スラリとした長身に、シワひとつないピンと張ったスーツ姿がよく似合う。
「ああ、すまないね、驚かせてしまったね」
思わず写真でも撮りたくなってしまうような、清々しい笑顔を浮かべて彼は言う。
「君たち、『こっち側』だろう? 安心していい、危害を加えるつもりは無いんだ」
「……こっち側? なんのことですか」
「ははは、そうだよね、大事な時期だ、僕はもう『完成』しているから焦る事は無いけれど、そうだよね、今は色々とナイーブだよね、分かるよ」
最悪だ。この物言い、そして『同種』を前にしている事を分かっていてもこの余裕。恐らくは、『完全体』だろう。
虎との戦いがフラッシュバックする。アレと同等の力と能力を持っているかもしれない相手。
「そういえばまだ名乗って無かったね。僕はシャルル・セフポ、親しい友人からはシャルと呼ばれているよ」
勝手に名乗って、シャルは掌を差し出す。まるで、君の番、と言っているようだった。
「……ヨルです」
カイシの時と同様、本名など名乗るわけが無い。どれだけ友好的に接して来ても、その裏で何を企んでいるか分からない。アサが例外なだけで、基本的に怪異は敵対的な存在だと認識している。
「ヨル、シンプルだけど素敵な響きの名前だ、いいね、ご友人の方は?」
「も、目的はなんですか? あの、私達、急いでるんですけど」
本当は要件なんか聞かず今すぐに逃げ出してしまいたい。流れというか、勢いというか、どさくさに紛れてアサの事まで探られそうになった。良い人悪い人の範疇じゃない、目の前にいるのは人間じゃない。
申し訳ないが、警戒心しかない。
八夜の焦った様子に、シャルは一瞬ポカンとし、すぐに元の笑みを浮かべながら言う。
「そうだね、初対面の男を前にしたら年頃の少女は警戒もするものだよね、確かに踏み込みすぎた、ごめんね。いや、大した事じゃないんだ、ただ、少し情報提供に協力してほしくてね」
「情報……?」
「この近くに隣町に通じる山道があるだろう? 先日どうやらあそこで激しめの戦闘が行われていたらしくてね」
背筋が凍る感覚がした。
「……戦闘? 自動車の事故とかじゃないんですか?」
「はははっ、あんなの分かる人が見たら誰だって戦闘の痕跡だと分かるさ! まぁ、随分と一方的だったみたいなんだけど、驚くべき事に死体は一つもない」
シャルの笑みが、だんだんと歪んでいく。何か我慢しているような、堪えた含み笑いのようになっていく。
「勝者が死体を持って帰った可能性もあるけれど、僕の勘だと、両者生きてると思うのさ。戦闘痕はとてもシンプルなものだったからね、戦いを楽しむような相手ならあんな単純な痕跡にはならない……だとすれば、僕にもまだチャンスがあるんだ」
「チャンス……なんの」
「飲み込むチャンスさ!」
少年のように目を輝かせ、シャルは言う。
「君、あそこであった戦闘の事、何か知らないかな? 誰がどんな風に戦っていたか、そもそも誰だか知っているとか……なんでもいいんだ、あの日あの場には女性がいたはずなんだ、特にそっちだね、顔も名前も知らない彼女を、僕は探してる」
「し、知りませんっ」
思わず駆け出した。あまりの恐怖に、あまりの嫌悪感に、耐えられなくなった。
しかし、その逃走は一瞬にして阻止される。腕を掴まれ止められた。
「なっ、は、離して!」
「ああ、ごめんね、すぐに離すよ、ただ念の為に血の味を確認しておきたくてね」
シャルの口が、耳まで裂けて大きく開く。更に上顎の奥から2本の鋭く長い牙が出現し、掴んだ八夜の腕に突き立てられようとしていた。
「〜〜〜〜っ! 黄が」
しかし、変身の言葉は止まる。同時にシャルの行動も止まった。両者の動きを止めたのは、圧倒的な殺気だった。八夜はこの感覚を知っている、この、巨大な何かに握り潰されそうになる感覚を。
「え、カイシさん……?」
「なんだこの悍ましい感覚は……どこから」
姿は見えない。しかし、今この瞬間にも首を掴まれるかもしれないという感覚だけがある。まさかとは思うが、あの廃墟からここまで殺気を飛ばしているというのか。
「虎の尾を踏んだのか……なるほど、君には手を出さない方が良さそうだ」
シャルはそう言って手を離す。危ない事をした、と言うわりには、その顔にはものすごい笑みを浮かべていた。
「随分と頼り甲斐のある彼に守られているんだね、君は……つまり、君にはそれだけの価値があるという事か」
さっき手を出さない方が良いと判断したばかりのくせに、その鋭い眼光は全く八夜を逃す気は無い。さっさと逃げてしまいたいが、しかし、背中を向けるのが怖い。
対面したまま膠着状態。しかし意外にも、先に背を向けたのはシャルの方だった。
「うん、ここは大人しく引き下がるとしよう。それじゃあヨル、またどこかで」
彼はそう言って、普通に歩いてどこかに行ってしまった。あんな風に、社会に溶け込んでいるのかと、少し遅れてゾッとする。
「あの人、完全体だよね」
『だね。気配を隠そうともしてない、堂々としてた、多分恐ろしく強いよ』
嫌な予感がする。またどこかで、彼の言葉が、近い将来で現実のものになる気がする。
「急ごう」
ようやく背を向けて、廃墟まで走り出す。カイシの殺気は、いまだ消えていない。
─────────────────────
「難儀だな」
廃墟につくなり、玄関で出迎えてくれたカイシが言う。
「あの、ありがとうございます。助けていただいて……でも、あの、失礼は承知でお聞きしたいんですけど……ど、どうやって私がピンチって分かったんですか? 目視はもちろんできない距離でしたし、声だってそんなに上げてないんですけど」
「変な殺気を感じた、あとは勘だ」
「か、勘?」
「襲われてるのはお前だろ、という勘」
分かっていたわけでは無いのか。運が良かった、のだろうか。しかし、殺気だけで完全体を撃退出来るなんて、身をもって分かっていたけど、とんでもなくヤバいなこの人。
「どんな奴だった」
地下の修練場に向かいながら、カイシが言う。
「背の高い男でした。口が大きく開いて、鋭い牙が2本、まるで蛇みたいでした。確か名前はシャルル……だった気がします」
「蛇か、知らん奴だな」
カイシは静かに首を横に振る。そのままこちらを向かずに続けた。
「他に何か特徴は」
「多分、完全体です。そして、その……どうやら、私を狙ってるみたいで」
「……心当たりは?」
「その、カイシさんとバトった痕跡を見て、何故か戦っていた女性を喰べたい……と」
「…………」
「そういえば、なんで性別まで分かったんでしょう? 破壊痕からそんなの特定できるわけ」
「その蛇、近いうちにお前を襲いにくるぞ」
カイシがとても怖い事を言う。でもそういえば、またどこかで、なんて言って去って行ったような。いやでも、あそこで戦っていたのが自分だなんて言っていない、特定するのは不可能な気がする。
「でも、私何も言ってませんし」
「お前襲われそうになった時なんて言われたんだよ」
「襲われそうに……あ」
血の味を確認する、と、そう言っていた。つまりあの男は、現場に残った血痕を摂取して性別を判断した。その能力がどこまでの範囲を特定可能なのかは分からないが、もし匂いでも判別可能なのだとしたら。
現状、怪我無しで修行をやり遂げるなど不可能。流血は免れない。
「こ、これはまずい……」
実力は未知数。だが確実に言える事は、虎相手にあのザマなのだから、今のままで完全体に単騎で勝利する事はほぼ不可能だろう。待っているのは彼の望みを叶える結果だ。
「いい機会だな。死ぬ気で治癒能力を鍛えろ」
「ば、万全のイメージ……ですよね。でも、やっぱり単純に戦闘能力も高めないと、その為には、まず私の弱点っていうのを」
あわあわする八夜の様子に、カイシは小さくため息を吐く。
「思考を散らかすな、結局何も出来なくなる」
修練場の扉を開け、彼は言う。
「心配するな。お前の課題を全部同時にクリアできるように作った」
「作った……なにを」
照明がつき、広い修練場が照らされる。しかし、八夜の目に最初に映ったのは、修練場では無かった。扉を開けたすぐ先で、誰かポツンと立っている。俯いていて顔は良く見えないが、背格好的に女の子だろうか。
「あの、えと、どなたですか」
まさかカイシの仲間で、今日から彼女が教えてくれるのだろうか。随分と小柄だが、ここにいるという事はきっと相当の手練れなのだろう。
「今日からアイツがお前の相手をする」
やっぱり、実力に合わせて人を変えていくという事だろう。確かに、自分がレベル1だとして、いきなりレベル100と戦っても、経験値なんて得られるわけが無い。負けて終わり、それじゃ何も得られない。
カイシが彼女に近づいて、肩を叩く。
「コイツを倒す事がお前の当分の課題だ、しっかりやれよ」
「は、はい。あの、よろしくお願いしま……す」
彼女が俯いていた顔を上げた瞬間、八夜は絶句した。
虚ろな目でこちらを見つめるその顔は、自分と瓜二つだった。
似ている、どころじゃない。そこに立っていたのは、もう1人の自分だった。




