七日目
「やはり私が悪かったんだな。君の笑顔を一度も見ることが出来なかったね。きっと美しい君は美しい星となって空から見ているのだろう?」
私が目を覚ました時辺りは暗いままでした。眠ってからそれ程時間もたっていないようですね。
それに、今にも泣き出しそうな悲痛な声がバルコニーの方から聞こえます。旦那様のこんな弱々しい声初めて聞きました。
屋根から降りて、いつか月を見たあのバルコニーまで行きました。
そこには本当に泣き出しそうな憂いを帯びた表情で月を見上げる旦那様がいました。
今すぐにでも抱き締めてあげたいと思うのに幽霊の私には何も出来ません。
「ねぇ、旦那様私は星になれなくてよ?今もこうして幽霊になってみっともなくこの世をさまよっているのですよ。」
ロマンチックなこと言う旦那様に悪戯っぽくそう言いました。
「何故幽霊に?それにこの世をさ迷っているのか?」
「はい。恐らく旦那様に愛されなかったことが未練だと思いますよ。」
「そうか、やはり私が悪かったのだな。」
「いえ、それでも私は………………?」
うん?今旦那様と私、話していませんでしたか?え、気のせいですよね。
「…………」
旦那様が急に何かを考え始めました。
「まさか、ここに居るのか?」
私の方を向いた旦那様と目が合いました。
「はい。私はここに。」
「もう、夢だろうと何でもいい。君に伝えなければならないことがあるんだ。」
私のことが見えているのですね。今まで見えていませんでしたよね?神様のいたずらでしょうか。それなら随分と優しいいたずらですね。
「何でしょうか?新しい奥様だったら娶って構いませんよ。」
「は?何を言っているんだ。君以外に私の妻は居ない。それは死んだ今も変わらない。あの時も言っただろう。」
こんな時に思わず口走ってしまった言葉に返ってきた言葉は想像以上に真っ直ぐなものでした。
「本当だったのですか?私の事嫌っていましたのに?」
「私が君を嫌い?そんな馬鹿なことがあるか。私は君を愛していた。」
当然のようにそう言い退ける旦那様に信じられない気持ちが大きくなりなんと言っていいのか分かりませんでした。
「愛していたなら何故……なぜ冷たかったのですか?」
「君を巻き込みたくなかった。私の闇に。」
「……旦那様の闇ですか?」
何を言っているのか分かりません。しかし、嘘を言っている訳では無いことだけはその瞳から感じ取る事ができました。
「君も知っていたかもしれないが私の家は敵が多い。この家の中にも裏切り者がいる状態だった。そんな中、私が君を愛していると知られたら君が酷い目にあうと思い距離を置いた。」
「そ、そんな……。では私はそんなことも知らずに貴方に怒っていたというのね」
なんて滑稽。それに無知なのかしら。そんな彼を呪う為に幽霊になった私はどうしたら良いのでしょうか?
「すまなかった。」
「いえ、しかし私は貴方に頼って欲しかった……妻として貴方を支えたかったの。頼りない妻でごめんなさい。」
ただ謝るだけの旦那様に私もただ謝ることしか出来ませんでした。今、私は困惑しています。私に冷たい旦那様が本当は愛していた事への喜びとそれに気が付かなかった私の鈍感さ。それに、あそこまで無関心な対応をしていた旦那様を責めたい気持ち。
全てがぐちゃぐちゃに混ざりあって実体のない涙が夜の闇に消えていくだけです。
「全て話せば良かった。君を守る対象としてしか見ていなかった。私が冷たく当たっても離れないでくれたそんな君に何より酷い仕打ちをしてしまった。」
カミル様が私の頬に手を伸ばすが勿論私に触れることはできません。私はここに居ないのですから。
「もう謝らないで下さい。私は死んだ、それだけが事実です。私の事など早く忘れてしまって下さいね。覚えていても仕方ないでしょう。」
愛しい彼を悲しませているのは私の存在。死んだせいで重みが増した罪悪感にきっと耐えきれないわ。だから、こんな無茶な生活を続けているのね。最後に私が彼にできること。
それは……
「忘れるわけないだろう!忘れられるわけ……ないんだ。」
いつも大きな声を出さない旦那様が珍しく声を荒らげました。そんな周りが知らない旦那様を見れた事が嬉しく思えてしまう私はなんと愚かで情けないのでしょう。
「しかし、当主が……いつまでも死んだ妻に気を取られているわけにはいかないでしょう。」
それ以上旦那様の悲痛な顔を見ていられなくなり月を見上げました。
あら?
満月ね。今日は満月ではなかったはずよ。
あぁ、分かったわ。私が寝ている間に一日経ってしまったのね。最期の一日無駄にしてしまったわ。今日でこの世ともおさらば、何故でしょうね?そんな事は分かるのに旦那様の愛には気付けなかったなんて。
「君はまた私の前から居なくなるのか……?」
「私の愛した旦那様はそんな、弱々しくなくってよ!いつも、凛として落ち着いていて誰よりも頼りになる方だったはずよ。」
こんな事言うの烏滸がましいわ。けれど私に残された時間はもう少ない。それまでに旦那様の足枷になっている私の存在が消せたらいいのに。
「そうか……幻滅させてしまったか。これ以上君に嫌われたくないな。」
「幻滅などしていません。ただ私のせいで弱る旦那様を見ていたくないだけ……私のエゴです。」
そう、これは私のエゴ。死んでまで迷惑をかけることしか出来ない自分に悲しくなるわ。
「そうだ。あの日渡せなかったものを受け取ってくれるかい?」
顔を逸らした旦那様はふと思い出した様にそう言うと何かを取り出しました。
「それは……ネックレス」
「いつか君が笑って暮らせる日が来る時に渡そうと思っていた。だが、渡せなかった。」
ネックレスについた石が月の光に当てられて淡くぼんやりと光っています。
私が笑って暮らせる日が来れば良かったのに……でも、私は決して不幸ではなかったのね。
こんなにも愛してくれる人がいたのに何も知らないまま死ぬなんてね。
私が幽霊になったのは彼を呪う為ではなかったようです。彼の心を知るため……そして、お別れをするためだったのでしょう。
月の光が強くなった気がします。そろそろですね。
「私の首に掛けてください。……なんて言ったら困りますよね。」
最期に旦那様の手で私に……と思いましたが残念ですがそこまで欲張ったはいけないわね。
俯いた私に触れようとするカミル様の手。
感じるはずの無い温もりに思わず目を見張ってしまいました。
私は幽霊。もう何も感じることは出来ないはずよ。
何故、私の首には美しいネックレスが輝いているのでしょうか?
「困らないさ。君が受け取ってくれればな。」
儚げな笑顔に思わず見蕩れてしまいました。幽霊の私よりもよっぽど旦那様の方が消えてしまいそうで……抱き締めたくなってしまいました。
分かっていましたよ。抱きしめたからといって体温が感じられるわけでも心音を重ねることが出来るわけでもないことくらい。
「ありがとう……ありがとうございました。図々しい事だとは承知の上です、最後に私の名前を呼んでくれませんか?」
それが叶った時が本当のお別れね。
きっと呼んでくださると思います。いつまでも幽霊がこの世界に居ては良くないでしょうしね。
「それは…………無理だ。」
儚げな表情で悲しげな瞳は私を捉えたまま。僅かに動いた唇から発せられた言葉は私の願いには背いていました。
旦那様が愛していたと知って思い上がり過ぎましたね。
「……そうですか。今の事は忘れて下さい。」
「君は名前を呼んだら私の前からまた居なくなってしまうのだろう?」
私も旦那様ともう少し一緒に居たかったですよ。しかし、月が陰ってきました。きっとお別れの合図ですよ。
出来れば一度だけでも呼んで欲しかったわ……私の名前を。
「消えませんよ……貴方の中で私は生き続けます。迷惑かもしれませんが私はきっと消えません。」
私の愛おしい旦那様。私は星になろうとなるまいと貴方だけをこれからも……
「そうか……。私は君が居なくなってから何かを見失っていたようだ。遠くからそして私の傍で行く末を見守ってくれ。」
「紫蘭の花言葉、ご存じですか?」
突然の言葉に旦那様は少し驚いた顔をしました。
「……」
考え込んだ旦那様にこの言葉が届きますようにと祈りながら言葉を紡ぎました。
「『変わらぬ愛』ですよ。私はいつまでも貴方を想っています。紫蘭が美しく咲いている間はきっと……。」
「ミレナ!やはり君には消えないで欲しい!幽霊でいいから傍に居てくれ。」
「カミル様……私の名を呼んでくださるなんて」
溢れ出した涙は僅かな月の光に照らされて消えていきました。
そして、そろそろお別れのようですね。
淡い月の光に包まれてだんだん消えていく感覚がじわりと私の体を蝕みます。
でも、来世があるならばもっと素直に想いを伝えられたら良かったと思います。それと旦那様もしっかり伝えて下さいねと思っているのですよ?
「さようなら…また何時か出会えたら美味しい紅茶淹れますよ。」
そう言った私の言葉は聞こえていたのでしょうか?お別れがしっかり出来て良かったです。最期に旦那様に向けた顔は笑顔だったのか涙でぐちゃぐちゃの顔だったのかは分かりませんが私は幸せでした。
「紫蘭のもう一つの花言葉『君を忘れない』だったな。そう、だから忘れたくなくて君が大好きな花を枯らさないようにしていたんだ。」
カミルは先程まで愛しい妻が居たはずの場所を茫然と見詰めたままそう呟いた。
幻だったのか、それでもいいか。
だが、消えたネックレスが確かに彼女がそこに居た事を物語っていた。
月は雲に隠れ全てを消し去った。一人の男は再び月が出ることを願った。