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第2部 血まみれの愛 28

「あいつ、いい女だよなあ」

「調査官。それ、昨日も聞きましたよ」

 福城の問いかけに、飯岡はあくび混じりの答えを返しながら、タバコに火を付けた。それを見て、福城も無性にニコチンを摂取したくなり、机の上にあったタバコへ手を伸ばす。箱には二本しか残っていなかった。吸い過ぎたと思うが、欲望は抑えられない。

 カーテンを閉め切ったワンルームマンションの室内は、二人が吸い続けたタバコのせいで、突き当たりに見えるドアが、うっすらと霞んで見えた。もちろん換気をしているのだが、それだけでは追いつかないらしい。

「お前がヘビースモーカーでよかったよ。こんなところで相手がタバコを吸わないなんて言ったら、鬱にでもなっちまう」

「自分だって昔はたいして吸わなかったんですよ。こんな所へ一年半もいれば、タバコでも吸ってる以外、やることないですからね」

「そうだよなあ。気分転換に外に出られるわけでもないし」

「メシだって、朝に買ったコンビニ弁当だし」

「いい女がすぐ近くにいるのに、声も掛けられない。その上目の前にいるのはデブのハゲチャビンだし」

「やめて下さいよ、パワハラ上司なんだから」飯岡は子供のような笑顔を見せた。「ハゲは体質ですけど、ここにいれば一年後、調査官も確実にデブですよ」

「だろうなあ。朝の九時から夕方の六時までこんな所でカンヅメで、しかもコンビニ弁当じゃあ太るのもわけないか」

「前任の能島さんだってそうだったでしょ。結局あの人、異動までに十二キロ太ったそうですからね」

「やれやれだ」

 福城は、モニターに映っている女の様子を力なく見つめる。マンションのベランダに取り付けてあるカメラは、向かいのビルで仕事をしている栗平奈美の姿を映し出していた。

 奈美はいつものように黒縁の眼鏡を掛け、パソコンに向かって請求書の入力を行っていた。制服せいでわかりにくいが、ボディラインを強調した服を着れば、そのスタイルの良さが一目瞭然だった。背も高く、切れ長で少々気の強さげな瞳が魅力的だ。声を掛けたくなってしまうのも、仕方がないなと自分で納得してしまう。

 奈美にはJS患者脱走事件が起きて以来、二十四時間態勢で監視が付いていた。彼女はJSの認定を解除され、付き合っていたジューケイと離ればなれになっていた。しかし別れたわけではなく、たびたびジューケイと面会していたのが確認されている。

 脱走事件が起きたとき、真っ先に幇助したのではないかと疑われたが、それらしい証拠はつかめなかった。それでも捜査本部では、彼女が脱走を手助けした組織との連絡係ではなかったかと見ており、引き続き、捜査対象となっている。

 時計は午後二時を指していた。ちょうど昼に食べた唐揚げが消化されている頃だ。タバコを吸っていても、眠気が断続的に襲ってくる。部下のいる手前、さすがに寝るわけにはいかないので、伸びをして眠気を散らす。

「あれ?」

 モニターに視線を戻すと、机に奈美の姿がなかった。

「トイレですよ」

 飯岡が、口にしかけた疑問を先回りして答えた。モニターを社内の位置情報に切り替える。女子トイレで信号が点滅していた。わずかに緊張しかけた心が、再び弛緩する。

 奈美の勤める会社の社員証はRFタグが仕込まれ、天井にアンテナが張り巡らされている。これで社内での位置情報が把握できる。

 フィルター近くまで火が近づいたタバコを、灰皿に押しつけて消した。それを見計らって、飯岡が吸い殻で溢れそうになった灰皿を台所へ持って行った。

「調査官、コーヒーを淹れますか」

「ああ。頼むよ」

 飯岡が右手に二人分のインスタントコーヒーが入ったマグカップ、左手に空の灰皿を持って戻ってきた。

「よっこらしょ」

 一つの手で取っ手を二つ持っているので、バランスの悪いマグカップを倒さないよう、飯岡は慎重に置く。福城は礼を言ってマグカップに口を付けた。熱くて苦い味が舌を刺激し、眠気が少しだけ収まる。

「しかし遅いな」

「ああ、彼女ですか。どうせ便秘とかじゃないですか?」

「最初にトイレへ入ったのは何時だ」

「ええっと」飯岡はめんどくさそうに、ややしかめ面でパソコンを操作する。「十四時二分二十六秒です」

 あれから八分が経過していた。腹の調子が悪ければ、充分あり得る時間だが。不安が頭をもたげる。

 一応モニターを玄関前の監視カメラに切り替え、八分前に遡ってチェックした。

 一分後の映像。頬を緩ませ、自分のIDでドアを開けている男の姿が映る。その横を、女が素通りしていった。

 女は間違いなく奈美だった。

「飯岡、対象が失踪した。本部へ連絡を入れろっ」

 大きく目を見開いている飯岡を横目に、福城は無線を取った。奈美がいるオフィスビルの前に、車へ乗った調査官が見張っているはずだ。

「対象が失跡した。そちらは把握しているか」

「それ、本当か」

「酔狂で言うわけないだろ、あいつ、社員証をトイレに置いてきやがったんだ。誰か社内へ確認に向かわせろ」

 福城は無線を叩きつけるように置き、靴を履いて部屋から出た。一階から上がってくるエレベーターを待つのももどかしく、階段を駆け下りる。

「ちょ、調査官、どうしていきなり消えたんですかね」

「知るかっ」

 背後から喘ぎながら問いかける飯岡を怒鳴りつけ、階段を一気に駆け下りた。頭が真っ白になり、何度かつんのめりそうになるところを、手すりに掴まって態勢を立て直す。

 まだ強い秋の日差しが、LEDの人工的な光に慣れた目を刺激して、一瞬遠近感がわからなくなった。足が地に着いている感覚がなくなり、水の中でもがくようにして道路を横切り、向かいのビルへ飛び込んだ。

 一階のエントランスホールの正面にエレベーターが設置されている。そこへ転がるように駆け込み、ボタンを押す。ドアが開くのを待つ間、わずかに思考する余裕が生まれた。

「飯岡、トイレを調べるぞ」

 はいっ、と叫ぶ飯岡の声も聞かず、福城はホール隅にある女性トイレへ駆け込んだ。すべての個室を開けて中を確認する。

 次に階段を駆け上って、二階の女性用トイレに入った。

「何ですか」

 どこかの制服を着た女性が、突然侵入してきたいかつい男二人へ恐怖の表情を露わにし、悲鳴のような声を上げた。

「すいません、捜査なんです」

 申し訳ないと思い、大きな体を縮込ませながらも、個室を開けてチェックする。

「あった」

 蓋をした便座の上に、青い制服が乱雑に積まれていた。黒縁の眼鏡と靴は床に転がっていた。

「対象の制服が見つかったぞ。奴は着替えてビルの外へ逃走した」

 携帯無線にがなり立てる声が、トイレ内に響き渡った。


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