第2部 血まみれの愛 27
「大桑さん、おくつろぎの所申し訳ありません。ちょっとよろしいですか?」
妙子は診療所近くにあるレストランで、遅いランチを食べていた。混み合う時間を避けるため、午後一時過ぎに来ていたので、客はまばらだ。
塚原の言葉遣いは丁寧だったものの、その鋭い眼光を見れば、敵対心を抱いているのは明白だった。彼は同意を得る前に、向かいの椅子へ座った。
「こんなところでどうかしましたか?」
手に持っていたコーヒーをテーブルに置き、塚原が話し出すのを待った。緊張で、食べたばかりのペペロンチーノを吐き出しそうになるのをこらえた。
「診療所の中だと、いろいろ聞き耳を立てている人がいるかも知れませんからね。用心のためですよ」
「で、どのようなご用件でしょうか」
「他でもない、森山君の件ですよ」
「あなたが殺した?」
「あれは不可抗力だった」塚原は皮肉にも表情を崩すことはない。「今、彼が反乱を起こした原因を探っているところです。その中で、あなたの存在が浮上してきている」
「まあ、どういうわけでしょうか」
眉を顰める妙子に、塚原は初めてわずかな笑みを浮かべた。
「現在、彼が死ぬ前の行動を調査しているのはご存じですね」
「ええ。私も事情聴取は受けましたわ。あの子は義眼の様子を確認するため、月に一度診察していますから」
「彼が死ぬ一ヶ月前会っていた人物は、取締官のメンバー、警備課の林原と私、それにあなただ」
「その中で、私が一番怪しいとでも言うのですか? 森山君には自由な時間があったはずです。どこかで情報提供者と接触したんでしょう」
言いながら、矢阪から聞いた管理局内部での議論を思い出す。その中で妙子は既にシロの判定を受けており、現在、他に森山と接触を受けた人物がいないか、捜査をしているはずだった。つまり、塚原は独断で行動しているのだ。盗聴器のある診療所内でなく、ここで接触してきたのも、そんな理由からだろう。
「単刀直入に申しましょう。森山にあのようなデマを吹き込んだのは、あなたじゃないかと考えています」
「その根拠が何か教えて下さい」
「それを教えていただきに、今回ここへ伺ったのですが」
「事情聴取の時に話したことがすべてですから、記録を確認してください」
「そうですか」
塚原は小さくため息をつく。
「お話しはそれだけですか?」
「ええ。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」
塚原は軽く会釈をして立ち上がった。
「それにしても、森山はかわいそうでしたよ。情報を信じたばかりに、あんなことになってしまって。情報を提供した者の罪は重いですね」
弾けそうになる感情をどうにか飲み込んだ。
「その通りです。ぜひ犯人を捕まえていただきたいものですわ」
「必ず捕まえますよ」
塚原は妙子の心の奥底を探るように、じっと目を見つめた後、笑みを浮かべ、去っていった。店のドアから塚原が出て行くのを見届け、大きく息を吐く。自分では感情を抑え込んだつもりだが、実際どう見えたかは確信が持てなかった。
――森山に情報提供した者の罪は重い――
その言葉は、妙子の弱い部分へ深々と突き刺さっていた。確かにそうなのだ。あのような結果になるのは想定できたのに、私は森山君へ話してしまった。
いくら犯人をあぶり出す意図があったとして、また、発言した当人が森山を殺害したのだとしても、自分にのしかかる罪の大きさは変わらない。
心を落ち着かせようと、飲みかけのコーヒーを手に取ろうとしたが、うまくつかめなかった。いつの間にか体全体が震えていた。
こみ上げる感情を抑えきれない。妙子はトイレへ駆け込んだ。個室へ入り、鍵を掛けて便座へ座る。そして、口に手を当てて漏れてくる嗚咽を抑えながら、ぼろぼろと涙を流し始めた。
足下には目に見えない深淵がぽっかりと口を開けている。それは暗くて深いが、ほんの少し暖かくも感じる。中へ足を踏み入れれば、楽になるのだろう。
しかし、ここで落ちていけば、苦しみながら死んでいった多くのJS患者、夫、そして息子の無念に対して、どうして顔向けができるのだろうか。
どんなに罪にまみれ、苦しくとも、生きなければならないと思う。
しばらく泣き続けたのち、嗚咽が収まってきた。ハンカチで涙をぬぐい、水を流して個室から出る。鏡に向かって落ちた化粧を入念に直し、トイレから出た。
何事もなかったようにレジへ行き、会計を済ませた。笑顔で見送る若い店員に微笑みを返し、店を出る。
その日の夜、妙子は夫の書斎だった部屋で本を読んでいた。時刻は午前二時。一度はベッドに入ったものの、しばらくして起きてしまった。相変わらず眠れない日々が続いている。
目をつぶると、今の自分が本当に正しいのか、森山に対してどう罪を償っていけばいいのか自問する自分が現れ、睡眠を阻害した。
ねえ昌広さん、私は正しいんでしょうか――
死んだ夫に問いかけるが、答えは返ってこない。
当たり前だ。死んだ人に問いかけたって答えてくれるわけなんか亡いじゃないの。自分が情けなくなる。
あと三十分本を読んだら、もう一度ベッドに入ってみよう。そう思いながら本のページをめくった。都内とは言え、武蔵野の外れにある住宅街は車の往来もなく、しんと静まりかえっていた。時折ページをめくる音だけが、室内に響いている。
十分ほどした頃だ。文字を追っていた視線を上げ、室内を見回した。どこかで、物音がした気がしたのだ。
気のせいかと考えたが、昼間塚原が浮かべた笑みを思い出し、不安な気持ちになった。JS患者が忍び込んで来たなら、妙子だけでは防ぎようがない。机の上に置いてあった警報機を手に取った。これを押せば、警備会社へ警報を送ることができる。
萩谷のすすめもあり、診療所に勤め始めてから警備会社とセキュリティ契約を結んでいた。ドアと窓にはセンサーが取り付けてあるので、開ければすぐに警備会社へ連絡が飛ぶようになっている。
二階にある書斎から、一階のリビングへ移動して電気を点け、防犯カメラのスイッチを入れた。赤外線で映し出された映像には何の異状もない。いつも通り、玄関や、狭い庭に生えているキンモクセイが映し出されていく。もっとも、JSだったらこんなカメラがカバーできる領域など、易々と飛び越えてしまうのだから、意味がないかもしれないが。
もし今の物音が、JSが屋根に飛び乗ったときの音だとしたら……。
不安と恐怖が急速にふくれあがっていく。
いくら心配しても、自分にできることなんて限られているでしょ。そんな理性の声も感情に抗えず、心臓が激しく鼓動し始め、警報機を持つ手のひらが、じわりと汗ばんできた。
――原口さんは死ぬ前に拷問を受けた――
矢阪の言葉が甦ってくる。
だめだ、寝てしまおう。そう思いながら、防犯カメラのモニターを消した。正直、意識は更に冴え冴えとして、とても眠れるような気分ではなかった。だからといって、本を読む集中力は失せていた。体は疲れているのだから、目をつぶっていれば、少なくとも休息にはなる。
その時だ。体が動かなくなっていた。
全身に力を込めても、びくともしない。
アグノーだ。
心臓が爆発するように激しく鼓動する。息は喘ぐように、荒くなっていく。
背後にある、庭に面した窓を意識した。
そこにJSがいる。カーテンの隙間から、あたしを見ているんだ。
左手が無理矢理開かれ、警報機が床へ落ちた。
右手はモニターの横に設置されている、防犯システムの制御パネルへ向かう。
解除ボタンを押した。
――警備を解除しました――女性の合成音が室内に響き渡る。
背後で、カチャリと解錠する音がした。
誰かが入ってくる。
そう思った時。固まっていた体が、不意に動くようになった。
思わずバランスを崩した妙子は、よろけて倒れる。
次の瞬間、背後で爆発音が響いた。
右耳に風圧を感じ、頭上にあった制御パネルが粉々に砕けた。
続けて二回、爆発音が響き渡る。
何が起きたのかわからず、頭を抱えてうずくまる。振り絞るような悲鳴が、口から漏れていく。
爆発音がやんだ後も、恐怖で全身がふるえていた。既にアグノーは感じなかったが、力が入らず、起き上がれなかった。
「大桑さん、大丈夫ですか」
聞き覚えのある声が聞こえた。それが矢阪だとようやく認識できると、少し落ち着き、顔を上げることができた。
矢阪はいつものように細身のスーツとノーネクタイ姿で、傍らにしゃがみ込み、無表情で妙子を見下ろしていた。
「どうして……」
かすれた声でつぶやきながら、破壊された制御パネルと矢阪、それにわずかな風で揺れている破れたカーテンを見た。
ようやく、自分が置かれていた状況を理解し始める。
「惜しかった。もう少しで仕留められたんですが。あいつ、お宅の周りにこんな物を撒いていたんです」
手に、ピンポン球ぐらいのスポンジボールを持っていた。
「中にセンサーが仕込まれていて、誰かが近づけば反応する仕組みです。背後を取ったまではよかったのですが、ぎりぎりで気づかれてしまった」
「ずっとあたしを監視していたんですか?」
「ええ。二十四時間態勢でね」
「要するに、私は犯人をおびき寄せるための餌だったわけですね」
「まあ、そんなところですかね」
睨みつける妙子に対し、矢阪は悪びれることもなく微笑みを浮かべていた。
「私はあなたたちが放った銃で、殺されるところでした」
「その点は申し訳なく思いますよ。ですが、私たちがいなければ、あなたはもっと悲惨な死に方をしていたはずです」
「あなたって人は――」
食ってかかろうとする妙子を、矢阪は手で制す。
「不毛な議論はやめましょう。あなたは既に深くこの件に深く関わりすぎている。今更嫌だとか言える立場じゃない。もしも生きていたければ、私たちに協力してもらうしかないのですよ。わかりますね」
矢阪は頬に貼りついた絵笑みを消し去り、奥に秘めていたぎらぎらとしたものを目に覗かせた。それは妙子に逃げ場のない自らの立場を意識させた。
妙子は渋々頷いた。
「ご理解いただき、ありがとうございます」矢阪は再び笑みの仮面を顔に貼り付け、白々しいお辞儀をした。「これから来る警官には、JS政策に反対する活動家の嫌がらせことで話を進めていきましょう。一週間前から、今の仕事を辞めるよう脅迫電話が来ていたとしておけばいい。
弾はニトロエクスプレスで少々大げさですが、自衛のために密輸入している素人もいるくらいですから、あながち突飛もありません。もちろん、細かい点を調べれば矛盾点はいくらでも出てきますけど、上から圧力を掛けてもらいますので心配ないかと思います。捜査は早々に打ち切りになるはずですよ。何かご質問は?」
「いいえ」
「よかった。それでは我々はこれで失礼させていただきます」
殴りつけたくなる衝動を抑え、出て行く矢阪を見送った。彼がカーテンの向こうに消えると、怒りは次第に無力感となり、体へ重くのしかかっていく。全身が痺れたように感じていた。
遠くから、パトカーのサイレンが響いてきた。




