第2部 血まみれの愛 24
日々の業務は平穏だった。俊と香織が生き埋めになって、福岡へ飛んだときには慌てたが、それは例外で、何かと言えば薬をもらいたがる館野と、戦うたびに義眼を破損する森山を除けば、普段はほとんどすることもない。
妙子は昔から好きで何度も読み返している宮沢賢治の詩集を手に取り、ぱらぱらとめくっていた。しかし、いつもと違って集中できず、すぐに机の上に置いてしまった。たっぷり水を吸った服を着ているように、体が重い。
森山に情報を伝えてから、眠れない日々が続いていた。眠りへ就こうとすると、彼へ堀田の話をしたのは、本当に正しかったのか。そんな思いがよぎってしまい、眠りを妨げていく。
私が森山君へ話したことで、彼が死へと導かれていくとしたら……そんな思いが彼女を苦しくした。机に手をついて、重く感じる体を支えながら起き上がり、ウォーターサーバーから水を一杯飲んだ。
ドアのチャイムが鳴った。また館野が、腹の調子が悪いとかいって来たんだろうと思い、インターホンのカメラを見た。
「あら」
そこにいたのは藤村香織だった。彼女を診察したのは、生き埋め後の精密検査のときぐらいだ。どこか具合が悪くなったのだろうか。入り口の鍵を開ける。
香織はジーンズとチェックのシャツに、リュックサックを背負っていた。顔色はよく足取りもしっかりしていた。特に怪我や病気をしているようには見えない。
「香織さん、今日はどうしたの?」
「ちょっと体がだるい感じなのよ」
香織はリュックサックを降ろし、診察室の椅子へ座った。妙子も向かい合う形で座る。
「それじゃあまず、体温を測って下さい」
体温計を差し出す妙子を手で制した。リュックサックからノートとペンを取り出し、書いて妙子に手渡す。
――ここ、監視カメラは付いているの?――
妙子は差し出されたノートへ書き付ける。
――ないはずだわ。盗聴器はあるかもしれないけど――
矢阪のチェックによると、盗聴器の電波は出ているらしいので、室内での会話には気をつけるよう言われていた。
香織は頷き、リュックサックから金属製の箱を取り出した。銀色で、取っ手の根元にダイヤルロックが付いている。これを妙子の足下へ置き、再びノートへ書き付ける。
――これを預かって欲しいの。もしあたしが死んだら、中を開けてちょうだい。鍵の番号は余裕があったら伝えるけど、だめだったらこじ開けていいわ。
だけど、あたしが死ぬ前に開けちゃいけない。もし勝手に開けたら殺してやるから。もちろん誰にも言わないで――
――どうしてあたしに託すの?――
――他にいないのよ――
香織を見る。そこには〈勝手に開けたら殺してやる〉といった、強面な文面から連想されるような、攻撃的な表情はなかった。
目は悲しげで、奥からは、言葉にできないような熱がにじみ出ていた。それは妙子が研究所の食堂にいた頃、香織が時折見せた顔を思い出させた。
あのときの瞳が甦っている。そう思った瞬間、反射的に頷いていた。
――わかったわ。これは預かっとく。でも、理由は教えてくれないの――
――だめ、絶対に――
香織は悲しげな顔で頷いた。
ふと思う。最近の香織の攻撃的な態度は、本心でなく、鎧みたいなものではないかと。
じゃあ、一体なぜそんな鎧を着ているの? 足下に置かれたこの箱の中に、秘密が隠されているの。もう一度香織の顔を見たが、彼女は既に酷薄な鎧を身に付け、冷たい視線を投げかけていた。
香織はリュックサックから板紙を取り出し、箱状に折り曲げて戻した。リュックサックは、金属の箱が入っていたときと同じように膨れた。
「ねえ先生、診察なんていいから、風邪薬の処方箋だけ出してちょうだい」
「無理なこと言わないで。しっかり診なけりゃ、どんな薬を出していいかもわからないでしょ」
「じゃあいいわ。ドラッグストアで適当に買って飲むから」
香織は乱暴に立ち上がり、大股で出て行った。力任せにドアを閉める音が聞こえる。
妙子は残された箱を持ち上げた。重量は五キロほどだろうか。何が入っているのかわからないが、ともかく預かっておく以外ないだろう。スチールキャビネットを開け、ファイルの横に空いているスペースへ箱を入れた。




