第2部 血まみれの愛 20
午後五時を過ぎたので、妙子はいつもの通り、塚原へ業務終了の連絡を入れた。
「診療日誌を見ますと、館野がたびたび受診しているようですが、彼の様子はいかがですか」
「下痢気味なだけで心配ありませんよ。あの子もちょっと調子が悪いだけでここに来るんですから。まあ、忙しくないですからいいんですけどね」
「大桑さんは何か問題がありますか」
「特にありませんけど、強いて言えば、森山君の義眼をあらかじめ注文させていただけたらと思いますが。この間のように、破損してから注文してからだと時間がかかりすぎますし」
「了解しました。メーカーに注文書を送って下さい」
「ありがとうございます」
受話器を置き、室内を一回りして設備のスイッチを切った。狭い部屋なので、戸締まりも簡単だ。ICカードを認証機にかざしてセキュリティーを作動させ、外へ出て鍵をかけるだけだ。見た目は一般の警備業者のシステムと同じだが、この室内はJS保護法で規定されている指定施設になっているため、セキュリティーが警告を発すると、警視庁から三分以内に警官が駆けつけるようになっている。
掲げている看板は〈東京安全検査所〉
妙子はこれを見るたびに苦笑いを浮かべてしまう。これだけでは一体何をやっているのか皆目見当もつかないが、それが保護庁の意図だった。こんな看板を掲げれば、事情を知らない人が訪れることは皆無だろうと考えたのだ。しかし、何を間違えたのか、調子の悪いドライヤーを持ち込んで、発火しないか見てくれと言ってきた女性がいた。これだけなら笑い話だが、その後、彼女の身辺調査が行われたのを聞くと、複雑な気持ちになってしまう。
バッグに鍵とICカードを仕舞い、エレベーターを使って下へ降りた。昼間は日差しが強くて汗ばむような陽気だったが、日が少し傾いてきたせいか、今着ている夏物のスーツでちょうどいい気温だった。
帰宅ラッシュ直前の時間帯のせいか、地下鉄のホームは空いていた。いつもなら自宅のある代々木方面へ行くのだが、今日は綾瀬方面の電車へ乗り込み、湯島で降りた。霞ヶ関と比べればかなり泥臭い町並みを、御徒町へ向かって歩く。まだ日は高かったが、パチンコ屋や居酒屋の照明が点灯され、騒々しい雰囲気を盛り上げている。
大通りから路地に入り、古ぼけた雑居ビルの前に立った。くすんだ金メッキの文字で〈アートシネマ湯島〉と書いてある。今日の上映は〈鉄道員〉。高倉健主演の邦画ではなく、モノクロのイタリア映画だ。妙子は腕時計を見て時間を確認し、映画館へ入った。
狭くてややかび臭い匂いのするホールには、客が三人しかいなかった。全員妙子より年上で、年金だけで食べているようなくたびれた雰囲気だった。一番後ろにある、所々パイルが剥げたベロアの椅子に座る。
しばらくすると、スピーカーから流れていたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が途切れ、控えめなブザーが鳴った。照明が消え、スクリーンが明るく光り出した。そっと立ち上がり、後ろの壁にあるドアノブを引く。暗い通路を抜け、映写室に出た。
中にいた白髪頭でチェックのシャツを着た男は、妙子が存在しないかのように、振り向くことなく映写機を見続けていた。この人は、いつからこんな企みに加わるようになったのだろうか。もっとも、問いかける勇気はないし、相手も答えることはないだろう。妙子も同様に男を無視したまま、外へ通じるドアを開けた。
蛍光灯が光る廊下を歩いて行くと、左手にスチール製のドアがある。ためらいなくノブを引いた。
ドアの向こうは畳六畳ほどの小部屋になっていて、安っぽい艶のある応接セットが置いてあった。そこには細身のスーツを、ノーネクタイで着た男が座っている。
「急な呼び出しにもかかわらず、ご足労いただきましてありがとうございます」
ドアが閉まるのを見届けると、矢阪は中腰で立ち上がり、深くお辞儀をした。妙子は何も言わず向かいに座る。
「〈鉄道員〉は以前、ご覧になっていますか」
「三十年ほど前ですが」
「それでは忘れてしまっている場面もあるでしょうから、復習しておいてください。これに全編納められています」
妙子は頷き、矢阪が差し出したUSBメモリをバッグの中へ仕舞った。
「先日、堀田さんが亡くなられたのはご存じですね」
「土曜日に御通夜へ行きましたから。今日はその件で?」
「はい」
矢阪は充血した目を向けた。頬はやつれ、肌の色も悪い。二週間前に見たときよりも、一回り年を取ったような顔をしていた。
「堀田さんは他殺だと我々は考えています。司法解剖もしましたが、毒物は検出されませんでしたし、外傷も見つかりませんでした。しかし、JSだったら外傷を残さず殺す方法はいくらでもある。山原さんならご存じでしょう」
「堀田さんの死に、JSが関与していると思っているのですね」
矢阪は頷いた。
「実は堀田さんが亡くなる前、別の二人が同様な死に方をしているのです。一人は原口勝人。以前JS研究所で警備を担当していた警官です」
「美佐子さんの事件で辞めた方ですか」
「実はあの人、警視庁は辞めていなかったんですよ。非番を使って独自にあの事件について調べていたようですね。周囲の人からの話ですと、取り憑かれたようにのめり込んでいたそうです。あれだけ被害を出しましたから、周囲からは白眼視されていたようですけど。責任感の強い人だそうですから、納得がいかなかったんでしょうね。結局それが元で離婚もしまして、最近では一人住まいだったそうです。
原口さんの死体が見つかったのは、堀田さんが死ぬ五時間前です。無断欠勤して連絡も取れない原口さんを、上司が自宅アパートへ訪ねて発見しました。布団の中で眠っていて、堀田さんと同じようにきれいな体でした。
ただ、一つ不審な点がありました。中指の爪の間に、ワックスが検出されていたんです。成分を調べると、台所のフローリングに使われていた物と同じでした。
台所の床には、新しい一本の傷跡がありました。原口さんは死ぬ前、台所の床を爪でかじっていたことになる。
堀田さんが亡くなった日、宅配便が送られていました。差出人はでたらめでしたが、筆記は原口さんのものでした。小さな封筒ですから、何らかのメモリが入っていたと推測しています。でも、机周りからはそれらしき物は発見されませんでした。
これらの状況と、後で述べるもう一人の被害者、そしてJSを関連づければ一つの結論が出てくる。
原口さんは美佐子さん拉致事件について、重要な手がかりを掴んだ。それが犯人側に伝わったのだと思います。
原口さんは死ぬ前に拷問を受け、すべてを告白したんですよ。
床の傷は、苦しくて、たまらずかじったものでしょう。
堀田さんは死ぬ直前、後ろの窓を開けて身を乗り出していたそうでした。恐らく窓の外にいたJSに脅されて、メモリを渡したのだと思います」
矢阪は「すみません」と断り、机の上に置いてあったペットボトルを一口飲んだ。
心臓を止められて味わう死の恐怖。内蔵をつつかれて起きる激痛。
そんな悪夢が、矢阪の疲れた体から、じわりと伝染してきた。
「堀田さんの職場での通信記録の中に、原口さんの携帯電話番号がありました。二人が死ぬ前、コンタクトを取っていたのは間違いありません。
堀田さんは異動から日が浅く、まだ警護対象から外れていませんでした。もし犯人が保護庁、あるいは警察関連に関わっているとしたら、記録の入手は可能です。恐らく、そこから情報が漏れたのでしょう。
原口さんがどのような情報を得たのかはわかりません。彼のアパートを調べ上げましたが、捜査資料は一切ありませんでした。何年もかけて調べたのですから、何もないというのはどう考えても不自然です。彼を拷問した者が持ち去ったと考えるのが妥当です。
ただ、手がかりはあります。原口さんの死亡推定時刻は午前四時ですが、その三時間後、もう一人、原口さんや堀田さんと同じように、突然死したした人が都内に一人いたのです。
片倉一也さんという方です。彼は三年前まで、〈征新の国〉新宿支部近くにある宅配ピザ屋でバイトをしていました。当時の店長の話だと、〈征新の国〉新宿支部はお得意様で、片倉さんは何度もそこへピザを配達していたそうなんですね。つまり、彼は〈征新の国〉の信者を知っている。
片倉さんが〈征新の国〉の信者と、犯人が会っているところを、どこかで目撃していたとしたらどうでしょう。
警察の資料にも当たりましたが、さすがに彼までは捜査範囲から漏れていたようです。我々の推測が正しかったとしたら、原口さんの執念が実ったと言うことでしょうか。ただ、その努力も悲惨な結果に終わってしまいましたが」
「そんなお話をされて、矢阪さんは一体私に何をしろというのですか」
「そこですよ」
薄笑いを浮かべている印象しかない矢阪が、このときはぎらぎらしたものを内に秘めているような目で、心持ち身を乗り出した。
ほんのり香るコロンの香りの中に、ムッとするような獣の匂いを感じた。
「我々は、堀田さんたちを殺したJSが、脱走JSでないと考えています。堀田さんの職場は皇居の近くですから、顔認証システムと繋がっている防犯カメラが至る所に設置されていますし、検問も年中行われている。そんな中、彼らが死の危険を冒してまで行動するとは思えない。もちろん、研究所内のJSは外に出られませんから除外します。
すると、結論は一つしかない。堀田さんたちを殺したJSは保護庁内にいるはずです。大桑さんには犯人を突き止めていただきたい」
「でも、どうやって……」
「焚きつけるんですよ。焚きつけて、犯人をあぶり出すんです」
矢阪に薄笑いが戻ってきた。しかしそれはいつものようにスマートではなく、もっと泥臭く、脂ぎっていた。
「森山邦克を使うんです。彼に一連の疑惑を話し、塚原が犯行に関与しているか探らせるのです。そこで森山が決定的な証拠を掴めばいい。掴めなくても、危険を感じた犯人が動けば、しっぽをつかめる可能性が出てくる」
「でも、どうしてあの子を」
「森山は美佐子を好きだった。あのとき遊園地へ行くことを提案したのも彼だし、大けがも負っている。彼が事件に関わっている可能性はあり得ないし、誰よりも事件の真相を知りたがっているはずだ。あなたが話せば、彼は絶対食いついてくると思います」
「でも、それは森山君を危険にさらすんじゃないですか? これ以上彼を巻き込みたくありません」
「大桑さん、森山はJSでジェネレータを埋め込まれて、規格外JSを殺すよための兵器となっている。もう、我々以上に巻き込まれているんですよ」
「けれど……」
言いよどむ妙子に、矢阪は更に身を乗り出した。
「この際ですからはっきり言わせていただきますが、あなたはもう、私たちの指示に従っていく以外、選択肢がないんですよ。もしも私たちの指示を拒否したとしたら、あなたは不適格者として保護対象から外れる。私も相応のペナルティを受けなくてはならない。これが何を意味するのかわかりますね」
「私を……。脅迫するのですか」
「そう取っても構いません」
矢阪は触れ合いそうなほど前のめりになっていた体を起こし、傍らに置いてあった黒のショルダーバッグを掴んだ。中に手を入れて、箸箱のような物を取り出す。
つや消しのシルバーで、楕円形の断面をしたその棒を矢阪は両手で掴み、引き抜いた。
蛍光灯の光に、刃が禍々しく反射した。幅一がセンチがほどしかない、細長い諸刃のナイフだった。
「対JS用に開発したものです。JSの力場を切り裂けるよう、断面が細くなっています。何かあったときのために持っていて下さい」
矢阪はナイフを鞘に収め、妙子の前に置いた。
「ご存じかと思いますが、これを使えるのは不意打ちの時だけです」
夏祭り、息子が襲われた日を思い出した。警察の死体安置所に置かれ、血の気のない肌をして、冷たい物となってしまった息子。右脇腹に付いていた小さくて深い傷。
「受け取って下さい」
「こんな物……。吐き気がしてきます」
「それでもあなたはこれを持っていなければいけない。我々にとって、あなたは貴重な戦力の一つだ。後戻りはできないのですよ。
それに、亡くなった旦那さんの敵を討てるかもしれない。福池君がストロンチウム剤を飲まなかったのを見過ごした経緯も、わからないままですよね。担当の看護師を福池君が殺してしまったから真偽は不明ですが、あれも一連の犯人が関与している可能性がある」
山原を失ったときのやるせない無力感と悲しみを思い出す。そして、中に潜む憎しみと怒りの存在を意識した。
矢阪は何も言わず、ただ顔をじっと見続けた。彼女が心の底に抱えている、じゅくじゅくと膿が涌いている傷口を、のぞき込まれているような気がした。
妙子は目の前に置かれたナイフをおもむろに掴み、バッグの中へ仕舞った。
「ご協力、ありがとうございます」
矢阪は安堵の笑みを浮かべ、妙子に向かって頭を下げた。
二人は上映終了時間が迫るまで、細かい打ち合わせを行った。




