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第2部 血まみれの愛 19

 堀田はおざなりに書類を確認してして判子を押し、決済の箱に入れた。周りを見たが、やることが思い浮かばない。朝一でチェックしたメールも新たな受信はないし、机の整理を行うにしても、書類自体がたいしてないので、整理のしようがない。何かやることがないかと尋ねたい気分だったが、昨日のように、プロパーの職員から胡散臭げな視線を投げかけられるのがわかっていたので、黙るほかなかった。仕方なく、雑誌棚から週刊誌を持ってきて読み始めた。

 こういうときに限ってJS関連の記事はない。雑誌を取り替えようと思い、腰を浮かし掛けたがやめた。どのみちこの部屋の中で、自分が何を読もうと気にしている者など誰もいないのだ。

 彼らはそれより、着任一ヶ月になる新理事が、今まで順調にまわっていた仕事にケチをつけ、流れを変えてしまうのをひどく恐れていた。逆に言えば、彼らの仕事に口出しせず、承認印を押してさえいれば、波風が立つことはない。堀田は人気俳優の覚醒剤使用疑惑の記事で顔を隠し、小さく息を吐いた。

 JS保護庁が創設されて一年になろうとする直前、堀田は保護局長の任を解かれ、ここ〈公益法人ヤフノスキ症候群啓発協会〉の理事へ出向となった。厚労省時代から足かけ七年携わってきたJS患者保護の仕事から引退するのに、辞令一枚というのも正直寂しいものがあった。しかし所詮公務員なんてものはそんなものだ。国の方針に従い、与えられた仕事を粛々とこなすのが、公僕たる自分の務めだ。

 しかし、前職と比べて今の職場ははっきり言って暇すぎる。一足先に同様の団体へ出向となっていた同期は、すぐに馴れると言っていたが、まだどうにも落ち着かない。

 ここでの仕事は名称の通り、ヤフノスキ症候群についての正しい知識を国民に普及させることにある。その内容は役所に配布するパンフレットを作ったり、小中学校で講習会を開いたりするのが主な仕事だ。あまり派手に活動すれば民業圧迫の批判を受けるし、デマをまき散らすサイトや雑誌を告発する権限もない。不満だったが、要は自分のようなロートルの受け皿となる団体なのだ。不用意に騒ぐと、自分の首を絞めかねない。

 長い午前が終わり、昼休みを挟んで更に長い午後が始まった矢先だ。電話を受けた女性職員が堀田を見た。

「理事、原口様からお電話です」

「原口?」

 思わずオウム返しになる。

「はい、男性で、間違いなく原口様とおっしゃっておりました」

 原口なんて苗字の男は、仕事でもプライベートでも関わった記憶がない。不動産投資の勧誘かと思いつつ、受話器を取った。

「堀田さん、ご無沙汰しております。前に〈ヤフノフスキ症候群研究センター〉で警備を担当していた原口です」

「ああ」そう聞いて、ようやく思い出す。「お久しぶりですねえ」

 いかつい顔と体つき。柔道をやっていたせいで耳が変形していたのを思い出す。確か、遊園地での襲撃事件にショックをうけて、体調を崩したと聞いたが。以来、噂も耳にしていないので、すっかり失念していた。

「突然のお電話で申し訳ありません。実はご相談したいことがありまして、お時間をいただけるとありがたいのですが」

「はあ……。電話ではいけませんか」

「重要な話なんです。直接お会いしていただけないですか」

「そうですか。では日にちの調整をしてみますので、一旦電話を切らせてもらいますよ」

 堀田は原口の電話番号を聞き、受話器を置いた。すぐにアドレス帳を開き、警視庁にいる知り合いの電話番号を探した。

「原口警部ですか。例の事件後、休職してたのはご存じでしょ。実はあの後復職しましてね、今は庶務課にいるはずです。あれだけでかい事件の責任者でしたからね、当然辞めるだろうと思ってましたから意外でしたよ」

 電話に出た男は、東京都公安委員会の事務局にいた。原口の復職の際にはいろいろあったようで、堀田の質問には記憶を辿る様子もなく、すぐに答えてくれた。

「上からも相当プレッシャーがかかったんじゃないですか」

「ふふふ。その辺りはご想像にお任せします。ともかく復職したんですが、正直扱いに困りましてね。前線に出すわけにも行かないですから、事務仕事をやってもらうことになったんですよ。あの人も、ずっと現場でやってきたたたき上げの警官ですから、今の状況は不本意じゃないでしょうかねえ」

「周囲から白い目で見られて、仕事も閑職。そこまでして、どうしてあの人は警察官にこだわっているんでしょうか」

 巨体をまるめ、一日中机でパソコンを叩いている姿を想像しても、違和感しか生まれてこなかった。

「どうも、独自で例の事件を調べていたようなんです」

「ああ……。そういうことですか」

「責任感の強い人でしたから、死んだ部下や拉致された患者のために、なんとしても解決したいと思っていたんでしょう。頻繁に休みを取っていたようですが、ほとんどを関係者の聞き取りに費やしていたようです」

 礼を言って電話を切り、しばし原口について思いをめぐらした。

 私への面会の申し込みも、捜査の一環なのだろうか。しかし、彼ははっきりと相談したいと言っていた。事件に関わることなら、警視庁内に相談する者はいくらでもいるはずなのに。

 あることを思い出し、心臓が大きく高鳴りだした。

 警察内に内通者がいる。

 JS患者たちの外出予定や警備状況が襲撃者へ事前に漏れていたのは明らかだった。当時、執拗に犯人捜しが行われたが、結局特定できず、今に至っている。

 原口が内通者を特定したとしても、話す相手を間違えたとしたら命取りになってしまう。私が原口だったら、警察以外で、なおかつ一定の影響力を持っている者に話そうと思うだろう。

 買いかぶりすぎだ。

 一公務員の私になんの力があるというのだろうか。

――仕事が忙しいんでね、済まないが時間を取っていられないんだ――

 それで終わるはずだ。電話番号を書いたメモを取り、受話器を持った。

 しかし……。再び受話器を戻し、しばし考えた。

 もしも俺が原口と会うのを拒否して、彼の持っている情報が闇に葬られてしまったとしたら。

 不意に長い間眠っていた正義感が頭をもたげてくる。

 軽く首を振った。やめておこう。今まで俺は厚労省職員として最大限働いてきたし、退職するまでそれは変わらない。しかしこれは、明らかに厚労省職員としての領分を越えている。堀田は受話器を取り、原口の番号をプッシュした。

「誠に申し訳ないですが、異動になったばかりで引き継ぎが終わらないんですよ。今日も遅くまで残業しなければ間に合わない状態でして」

 職員たちは、自分のあからさまな嘘を聞いているだろう。後ろめたい気持ちで見てしまうが、彼らは一切無関心で自分の仕事を進めていた。

「そこを何とかお願いできないでしょうか。時間は何時でもかまいませんから」

「でも、私も年でしてねえ、深夜に仕事を終えるとくたくたなんですわ」

「そうですか、それは残念です」落胆したのか、電話口の声はひどく弱々しかった。「他に相談する人がいないんです」

「あの事件ですか?」

「ええ。その通りなんですよ」

 急に声が勢いづく。つい言葉にしてしまったのを、堀田は後悔した。

「重要な証言者が見つかったんです」

「だったら私なんかでなく、原口さんの上司に話せばいいはずでしょ」

「けれど……。お恥ずかしい話、誰に話してよいのやら、私も計りかねているんです」

 やっぱりそうか。「でも、私に話しても、告発できるわけでもないし」

「堀田さんなら、マスコミで信頼できる人を知っているんじゃないかと思いまして」

「申し訳ないけど、そんな人はいませんよ」

 口ではそう言いながらも、頭の中に何人かの記者の名前が浮かぶ。

「捜査資料をファイルしたUSBメモリーを送りますから、なんとか時間のあるときに見てもらえないでしょうか」

 原口の熱を帯びた言葉に感染してしまったのか、内容次第で誰かに渡してもいいと思っている自分に気づいた。

「いいでしょう、内容はチェックします。ただ、それ以上のことは期待しないでください」

「ありがとうございます。情報を誰か別の方が持っていてくれるだけでも落ちきます」

 原口が、自分の身に危険を感じているのだと悟り、堀田は改めて不安になった。やはり断ろうかと思い、口を開きかけたが、原口は礼を言って一方的に電話を切ってしまった。

 再び電話を掛けて断るという道もあったが、結局そのままにしてしまった。原口の強い声に気圧された面もあるし、正直わざわざかけ直すのも面倒だった。公務から外れた行為なのは少し気になるが、まあいいだろう。JS政策から一線を引いた身でもあるし、自分が原口とコンタクトを取っているとは誰も思わないはずだ。

 翌日の昼近く、堀田の元に宅配便が届いた。定形の封筒で、差出人欄には聞いたこともない名前が書いてあった。原口が送った物なのは間違いないだろう。中から、USBメモリが出てきた。

 これをどうしようか。一旦見てしまえば後戻りできないような気がして、机の上に放置しておいた。冷静に考えれば、宅配便を受け取った時点でルビコン川は渡っているのだから、中身を見ても同じなのだが。純粋に気分の問題だった。

 読まなくても問題にならない回覧文書をいつもより真剣に読み、メモリの閲覧を先延ばしにした。

 午後になると、読む文書もなくなり、机の上にあるUSBメモリの存在感がどんどん増してきた。俺をチェックしてみろと言われているような気がして、居心地が悪くなっていく。

 しかたがない。ちょっと見てやろうとUSBメモリを手に取り、ノートパソコンを見た。

「おや?」

 モニターに、いつの間にかワープロソフトが立ち上がっていた。チェックしたメールにワープロ文書が添付されていた記憶はないし、自分からソフトを立ち上げるなんてこともない。

 文が一行書いてあった。

 思わずメモリを取り落とす。

 心臓が、激しく鼓動し始めた。


〈振り向くな、後ろにいる。了解したら入力しろ〉


 背後には窓があり、隣のビルとの間に五十センチほど隙間があった。

 JSだったら貼りつくのは可能だし、昼間であってもビルの五階の隙間を見上げる者などいない。

 ブラインドの隙間を空けて、窓越しに誰かが見ている姿を想像し、体が凍り付いた。

 手が震え、何度か間違えながら入力する。

〈了解した〉

 誰も触れていないキーボードがタイプされていく。

〈モニターが見えにくい、パソコンを左に動かせ〉

 慎重にノートパソコンを動かすと、再びタイプされていく。

〈それでいい。ところで、原口から何か送られているだろ〉

 正直に告白するか逡巡し、タイプする手がキーボードの上で止まった。

 体の中に違和感を感じた。

 内臓に何かが侵入している。

 緊張で呼吸が浅くなり、全身から脂汗がにじみ出てくる。

 それは、泥の中で蠢くミミズのように、下腹からそろりと上へ這い上がり、首の付け根まで行って、再び下っていった。

〈そんなに心臓が激しく鼓動すると体に悪いぞ。私の言うとおりにすれば危害は加えない。もう少し落ち着け〉

〈USBメモリが届いている〉

〈内容は見たか?〉

〈まだだ〉

〈バックアップは取っているか?〉

〈いや、パソコンに繋げてもいない〉

〈それが嘘だったら、お前の命はない。お前の妻と娘も同様だ〉

〈本当だ。間違いない〉

 再び、体内にある何かが蠢き出す。

〈いくらでも調べてくれ。メモリは見えるだろ。ここに置いたままだ〉

〈信じよう。では、この画面を消した後、後ろの窓を開け、メモリを外へ出すんだ〉

〈了解した〉

 指示通り、ワープロ画面を消した。

 周囲を見る。他の職員は変化に何も気づいていないようで、いつも通り黙々と自分の仕事を進めている。叫びたくなる衝動を抑えながら、立ち上がり、USBメモリを震える指でつまんだ。後ろを向き、壁際のスチールキャビネットの上にメモリを置いて、ブラインドを引き上げた。

 水垢でくすんだ隣のビルの壁が見えてくる。窓の鍵を解除し、引き開けた。埃っぽい風が吹き込んできた。

 外へ身を乗り出しながら、メモリを持った右手を窓の外へ出した。

――いいか……。俺はお前を見ないぞ――

 心の中で言い聞かせながら、心持ち上を向き、ゆっくりと右手を下ろしていく。

 自分の荒い息づかいと、遠くで鳴っているクラクションが、別世界から響いてくるように思えてくる。

 メモリを指先から引っ張っていく感覚が伝わる。

「ありがとう」

 聞き覚えのある声に驚き、反射的に下を向いた。

 真下で、にやりと笑っている目があった。

――あっ――

 声を上げようとした刹那、胸の中に違和感を感じた。

 視界が暗転する。

 堀田はキャビネットにぶつかるようにして突っ伏した後、床へ崩れ落ちていった。骨がぶつかる鈍い音がして、初めて異変を察知した部下が駆け寄った。

「理事、どうしました」

 部下たちの必死で呼びかける声に、堀田が反応することはない。体を仰向けにさせると、瞳孔の開ききった目と、何かを言おうとしたのか、半開きになった口が現れた。

 女性職員の悲鳴や、救急車を呼べと怒鳴る声が室内に響き渡り、事務所は騒然となった。

 ぽっかりと開いた窓の上で、引き上げ残したブラインドが、風に揺れていた。


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